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〈短期集中連載〉「女性宮家」創設賛否両論の不明 第3回──月刊「正論」25年2月号掲載拙文の転載 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年2月3日)からの転載です


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〈短期集中連載〉「女性宮家」創設賛否両論の不明 第3回
──月刊「正論」25年2月号掲載拙文の転載
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 月刊「正論」平成25年2月号に掲載された拙文を転載します。なお、若干の加筆修正があります。

 ところで、敬愛する百地章日大教授が、先日発売された同誌3月号に、拙文への反論を寄せてくださいました。たいへんありがたいことです。

 では、本文です。


〈短期集中連載〉「女性宮家」創設賛否両論の不明

第3回 論争より共同研究の進展を──反対派・八木秀次教授の場合


▽1 火種はくすぶり続ける

 この原稿が読者の手元に届くころ(平成24年暮れ)には、新政権が生まれていることでしょう。女性皇族が結婚後も皇室にとどまる、いわゆる「女性宮家」を創設する皇室制度改革は、3年半近くに及んだ民主党政権下で、皇室典範改正案が平成25年の通常国会に提出される勢いでしたが、政権交替で「棚上げ」になるとも予想されています。

 すでに24年10月に有識者ヒアリングの「論点整理」がまとめられた段階で、「政府は改正を断念」「法案化を見送る」と伝えるメディアもありました。「ヒアリングで異論が相次ぎ、与野党内に慎重論が根強い」というのが理由でした。

 だとすると、「女性宮家」問題はいよいよ終止符が打たれるのか、といえば、違うでしょう。制度改革は一時的に下火になったとしても、火種は今後も必ずくすぶり続けるでしょう。

 なぜなら、「女性宮家」論議はもともと、民主党政権下で、政治家レベルで開始されたのではないからです。23年秋に羽毛田信吾宮内庁長官が野田佳彦首相に「要請」したことが議論の始まりであるかのように一般には理解されていますが、「要請」の事実を長官自身が否定しているばかりでなく、10年以上も前から官僚たちによって、女性天皇・女系継承容認論と一体のかたちで、周到に進められてきたことが知られています。

 であればこそ、悠仁(ひさひと)親王殿下の御誕生で立ち消えになるどころか、皇位継承論から皇室制度改革論に姿を変えて、しぶとく蘇ったのです。「皇位継承問題とは切り離して」と念押しされつつ、皇位継承法を定める皇室典範の改正が進められたのです。10年も途切れることがなかった議論が、一時の政治状況の変化で、やすやすと終息するはずはありません。

 歴史にない女系継承をも容認する制度改革を目論む官僚たちは、声高らかに凱歌を上げています。「論点整理」という公文書に、「象徴天皇制度の下で、皇族数の減少にも一定の歯止めをかけ、皇室の御活動の維持を確かなものとするためには、女性皇族が一般男性と婚姻後も皇族の身分を保持しうることとする制度改正について検討を進めるべきであると考える」と明記させたのですから。

 だとすれば、新政権成立で「女性宮家」創設論が「棚上げ」になる可能性に満足するのではなく、男系男子によって継承されてきた歴史的天皇のあり方を再確認するとともに、男統の絶えない制度を模索する慎重な議論を、むしろ活性化させることが求められているものと思われます。そのためには何が必要なのか?


▽2 園部参与との丁々発止

 さて、この連載も最終回を迎えました。

 第1回は「女性宮家」創設論のパイオニア所功京都産業大学名誉教授(モラロジー研究所教授。日本法制史)、第2回は反対派の百地(ももち)章日本大学教授(憲法学)を取り上げました。

 政府の「皇室制度改革ありき」の発想と論理がおかしいこと、所教授の歴史論に矛盾と曖昧さがあること、百地教授の憲法論には戦後皇室行政史の重要事実が抜け落ちていること、などを指摘してきました。所教授の「女性宮家」創設論は説得力が十分とはいえず、百地教授の反対論は「なぜいま創設論が浮上してきたのか」が見えません。

 続いて今回、取り上げるのは、百地教授と同様に「女性宮家」反対派で、所教授と同じ24年7月5日のヒアリングに登場した八木秀次高崎経済大学教授(憲法学)です。

 議事録などによると、八木教授の意見発表は、ほかの有識者と大きく異なり、ひときわ異彩を放っています。皇室制度改革最大のキーパーソンである園部逸夫内閣官房参与(元最高裁判事)との丁々発止が激しく火花を散らしたからです。

 園部参与を「女性宮家」創設問題の最大の標的と見定めているらしい八木教授は、本人を目の前にして、これでもかというほど鋭く斬り込んでいます。その最初の一太刀(ひとたち)は、「女性宮家は女系天皇につながる」とする園部参与の雑誌コメントに対して、でした。

 園部参与は「週刊朝日」23年12月30日号に掲載された、岩井克己朝日新聞記者による記事「『内親王家』創設を提案する」で、以下のように語っていました。

「夫、 子が民間にとどまるというわけにはいかないから、歴史上初めて皇統に属さない男子が皇族になる。問題はどういう男性が入ってくるか。また、その子が天皇になるとしたら男系皇統は終わる。女性宮家は将来の女系天皇につながる可能性があるのは明らか。たくさんの地雷原を避けながら条文化し着地できるか」

 八木教授は、ヒアリングで与えられた30分間の発表時間をほとんど皇位継承論で終始しています。「今回の検討は緊急性の高い皇室の御活動の維持と女性皇族の問題に絞り、皇位継承問題とは切り離して行う」というのが政府の基本姿勢でしたが、「果たして本当に切り離せるのか」という「懸念」があるからでしょう。そのように考える根拠のひとつとして提示されたのが、園部参与の「分析」でした。

 第1回目に書いたように、「女性宮家」創設論がテーマとして最初に取り上げられたのは、「文藝春秋」2003年3月号に掲載された森暢平元毎日新聞記者(元CNN日本語サイト編集長)による、「女性天皇容認! 内閣法制局が極秘に進める。これが『皇室典範』改正草案──女帝を認め、女性宮家をつくるための検討作業」と題する記事でした。

 森氏の記事によると、当時、内閣法制局は皇位継承制度を安定的に継続させることを目的に、皇室典範改正の極秘プロジェクトを進めていました。基本方針は女性天皇容認と「女性宮家」創設容認が「二つの柱」であり、「『二つの柱』は、突き詰めると一つ」でした。「女性天皇を認めた場合、一般の女性皇族にも皇位継承権があり、基本的には結婚しても皇室に残ることになる。つまり、必然的に女性宮家が認められる」からです。

 したがって、「女性宮家は女系天皇につながる」とする園部参与の「分析」は、至極まっとうな見方といえます。

 であればこそ、八木教授も「極めて論理的」と高く評価しています。というより、むしろ挑発的でした。挑発はさらに続きました。


▽3 憲法と広辞苑が根拠

 園部参与に浴びせられた二の太刀は、日本国憲法と広辞苑が、女系継承容認論の根拠とされている、という指摘でした。

 八木教授は、憲法第2条「皇位は世襲のものであって」に関する、園部参与の著書『皇室法概論』の解説を紹介しています。

「『世襲』の意味内容をも、男女両方の血統を含むと考えられる一般的な世襲概念を離れ、男系による継承と解さなければならないとまでは考えない。

 むしろ、旧憲法第2条が『皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス』と定め、旧制度は男子による皇位の継承が憲法上の制度であったのに対し、現行憲法第2条は男子が継承する旨を定めていないことからも、憲法は皇位継承資格を男系男子に限定せず、皇室典範第一条によって皇位継承資格は男系男子に限られたものと考える方が無理がないと思われる」

 憲法は皇位の女系継承を否定していないというわけです。八木教授は、園部参与の見解は「皇室を日本国憲法の枠内に閉じ込められる発想であろうか」と指摘します。

 さらに、園部参与の論は皇室典範を誤読している、と三の太刀が浴びせられています。つまり、こうです。

「伊藤博文『皇室典範義解』に『皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり』とあるが、これは男女両系を含み得る観念である皇統の中から旧皇室典範は制度として男系を選択したということを述べているものと考えられ、同じく伊藤博文の『大日本帝国憲法義解』には『皇男子孫とは祖宗の皇統に於ける男系の男子を謂ふ』とあり、ここでも男系を皇統として選択したことを前提とした説明をしている」

 ここでは、皇統には男女両系が含まれ、その中から男系を選択し、さらに男子を選択するという「三重構造」をしているけれども、皇室典範はそのような認識に立っていないというのが八木教授の指摘です。

 明治21年5月に枢密院で、「皇統にして男系の男子」(旧皇室典範)の「男系」の削除が提案されたとき、伊藤博文が「将来において、わが皇位の継承法に女系をも取るべきにいたり、上代祖先の常憲に背くことを免ず」と反対したことが知られているからです。

 さらなる四の太刀は、園部参与が24年5月に行われた5回目のヒアリングで、旧皇族の復帰は難しい旨を述べたことについてで、八木教授は「賛同しかねる」「最近の世論調査では、国民も半数近くが好意的になっている」と批判しています。


▽4 かみ合いかけた議論

 八木教授の挑発に乗せられたかのように、園部参与は意見聴取後の10分間の質問タイムで、激しく反応し、興奮気味に反問を加えています。

 たとえば、1点目の「週刊朝日」の記事のコメントについては、「『選択』4月号の岩井記者の記事にあるように、論点を申し上げたのにすぎない。私は女系天皇論者ではない。ターゲットにされてははなはだ迷惑」というのです。

 園部参与は、女系継承容認論者といわれていることについて、よほど腹に据えかねているのでしょう、まったく無関係のほかの有識者のヒアリングでも、「私は最初から女性宮家という言葉は使っていない」「私は今回の改正の問題については、女性天皇、女系天皇ということはまったく念頭にない」と反発しています。

 また、自書に対する八木教授の言及についても、「皇位継承制度に関する議論に関連したご紹介である」と弁明しています。

 反論にしては、幾分、腰が引けている点も見えるのですが、そのうえで、「ヒアリングの場であって、議論の場ではない」として、園部参与が以下の3点を質問していることは注目されます。

(1)現行憲法が定める象徴天皇制度について、皇室制度の長い歴史のなかでどう受け止めているのか?
(2)象徴天皇制度は天皇が国家国民のためにさまざまなご活動をなさることで維持されている、という考え方についてどうお考えか?
(3)女性皇族が臣籍降嫁したのち、尊称をお持ちいただく場合、その範囲は内親王、女王、どの範囲までがふさわしいとお考えか?

(1)(2)の質問は非常に重要で、政府が進める、「皇室のご活動」維持を目的とする「女性宮家」創設の核心部分かと思われます。

 八木教授がいみじくも指摘したように、まさに日本国憲法と広辞苑が女系継承容認論の、そして「女性宮家」創設論の根拠です。戦後の憲法と戦後の常識が皇室制度改革の出発点なのです。それこそが、昭和天皇の在位の途中から始まる「1・5代」象徴天皇制度です。125代にわたる歴史的天皇制度でも、明治維新以来の近代皇室制度論でもありません。

 一方、八木教授は今回のヒアリングで、いみじくも光格天皇の事例を紹介し、伊藤博文の『皇室典範義解』を引き、旧皇室典範を引用し、意見を述べていますから、歴史的な天皇制度を基本に置く立場から、園部参与の質問にまっ向から答えるかと思いきや、意外にも、そうではありませんでした。

(1)の質問については、現行憲法の定める象徴天皇制度がイギリスのウォルター・バジョットの著書がルーツであることを説明し、「イギリスの立憲君主制のあり方が、図らずも天皇の制度のあり方をよく表現したものになっている」と指摘するにとどまっています。

(2)については、八木教授は「趣旨がよく理解できない」と答え、議論がかみ合いません。園部参与は「象徴天皇制度は天皇陛下がさまざまなお仕事をなさることで 維持されている」という今回の「女性宮家」創設論の基本的考えを示したのに対して、八木教授は天皇の機能の部分だ」という理解を示します。

 すかさず園部参与は「機能であり、天皇陛下のご意思の問題である」とはじめて論戦めいた言葉を発し、八木教授は「前提は世襲だ」と応じていますが、激論になりかけた討論は残念ながら、ここで時間切れとなりました。


▽5 園部参与が提唱者ではない

 指摘したいのは、4点です。つまり、(1)なぜ園部参与が論争の標的にされなければならないのか、(2)八木教授の立脚点は歴史的天皇論なのか否か、(3)「皇室の御活動」とは何をさすのか、(4)鋭く批判することが問題の解決に結びつくのか、です。

 まず、第一の点ですが、園部参与を批判の標的にすることは適切ではありません。同じ法律家として、園部参与の憲法論・皇室論が気になるだろうことは理解できますが、園部参与が「女性宮家」創設の提唱者と見ることは躊躇(ちゅうちょ)されます。みずから提唱者を名乗る関係者がほかにいるからです。

 いまから15年以上前の7年9月、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎議員(のちの首相)は公開討論で、「女性が天皇になるのは悪くない。皇室典範はいつ改正してもいい。必ずしも男子直系にはこだわらない」と発言し、典範改正の引き金を引きました。

 阿比留瑠比産経新聞記者によると、鎌倉節(さだめ)宮内庁長官の指示で、宮内庁内で皇位継承に関する基礎資料の整理・作成が開始されたのは、翌8年のことでした(18年2月17日づけ産経新聞)。

 翌9年4月には内閣官房の協力を得て、工藤敦夫・元内閣法制局長官を中心に、古川貞二郎内閣官房副長官、大森政輔内閣法制局長官らが研究会、懇話会を設置しましたが、11年3月まで続いた、この第1期の皇室制度に関する非公式研究会には、園部氏は参加していないようです。

 余談ですが、この間、10年6月に発行された総合情報誌「選択」6月号に、「『皇室典範』改定のすすめ──女帝や養子を可能にするために」が掲載されました。

「皇族女子は結婚すれば皇族の身分から離れるが、これを改め天皇家の長女紀宮が結婚して宮家を立てるのはどうか。そこに男子が誕生すれば、男系男子は保たれることになる」

 皇太子殿下の次の代の皇位継承資格者の候補がおられないという「皇統の危機」を問題提起する、私が知るところ、もっとも先駆的な記事で、皇室典範第12条を改正し、皇族女子が婚姻後も皇室にとどまれるようにする「女性宮家」創設をも提案していましたが、「男系」と「女系」を混同する致命的な誤りを犯しています。最良のジャーナリズムでさえ、当時はこのレベルでした。

 園部氏が政府部内の非公式検討に加わったのは、この翌年11年4月でした。皇室法をテーマとする第2期研究会が始まったのです。園部氏は約10年にわたる最高裁判事の職から離れたばかりでした。もともと行政法が専門だったらしい園部氏が、畑違いとも思える「皇室法」に挑戦し、この分野ではほとんど唯一の学術書といえる『皇室法概論』を著したのは、14年のことです。16年12月に発足した皇室典範有識者会議では座長代理となり、24年1月、「女性宮家」検討担当内閣官房参与に就任したのでした。

 つまり、園部氏は、女性天皇・女系継承容認=「女性宮家」創設の提唱者なのではなくて、法的整合性を確保するためにあとから駆り出された側なのでしょう。

 17年11月、ちょうど紀宮(のりのみや)清子(さやこ)内親王殿下が帝国ホテルで結婚式をあげ、皇籍を離脱された月に、皇室典範有識者会議は女性天皇・女系継承容認の報告書を提出しました。報告書には「女性宮家」という表現はありませんが、「女子が皇位継承資格を有することとした場合には、婚姻後も、皇位継承資格者として、皇族の身分にとどまり、その配偶者や子孫も皇族となることとする必要がある」と、その中味は文章化されました。

 繰り返しになりますが、「女性宮家」創設論はここ1年余りで急浮上したのではありません。女帝のみならず、女系継承を容認する皇室典範改正と一体のかたちで、10年以上も前から、政府部内で、ほとんど同じ顔ぶれで、公式、非公式に議論されてきたのでした。

 逆に、「女性宮家」創設論の浮上は女性天皇・女系継承容認論の復活を意味しています。有識者ヒアリングでは、「皇室のご活動」の安定的維持と両陛下の御負担軽減が「緊急性の高い課題」と説明されましたが、表向きの理屈に過ぎないことが分かるでしょう。

 しかし、この「女性宮家」創設論の中心的提唱者は園部参与ではありません。


▽6 提唱者は渡邉前侍従長

 翌18年1月、小泉純一郎首相は施政方針演説で皇室典範改正案の提出を明言し、議論は政治の舞台へと移りました。同時に、羽毛田宮内庁長官による典範改正工作がヒートアップします。

 寛仁(ともひと)親王殿下が「文藝春秋」2月号のインタビューで、「女系天皇容認という方向は、日本という国の終わりの始まりではないか」と強い懸念を示されたのに対して、羽毛田長官は「皇室の方々は発言を控えていただくのが妥当」と口封じに及びました。

 2月に秋篠宮妃殿下の御懐妊が発表され、政府は典範改正案の国会提出を断念、9月に悠仁親王殿下が御誕生になっても、長官は「皇位継承の安定は図れない」と水を差します。けれども、女系継承をも容認する典範改正論議は表舞台から消えました。

 状況が変わるのは御在位20年です。陛下は75歳をお迎えになりました。

 20年2月、3月、宮内庁は陛下の御健康問題を理由として、「昭和の先例」を踏襲する、御公務御負担軽減について発表し、その後、同年11月の御不例で軽減策は前倒しされます。

 軽減策にもかかわらず、御公務は少なくとも日数において、逆に増えました。文字通り激減したのは、「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇「禁秘抄」)と、歴代天皇が第一のお務めと信じ、実践してこられた宮中祭祀でした。

 祭祀簡略化を陛下に進言したのは、渡邉允(まこと)前侍従長(19年6月まで侍従長。24年4月まで侍従職御用掛。現在は宮内庁参与)ら側近でした。

 渡邉前侍従長は「私も在任中、両陛下のお体にさわることがあってはならないと、ご負担の軽減を何度もお勧めしました」(雑誌「諸君!」20年7月号掲載インタビュー)と語っています。そして陛下が「在位20年の来年になったら、何か考えてもよい」とおっしゃったので、見直しが行われたとされます(渡邉『天皇家の執事──侍従長の十年半』)。

 一方、羽毛田長官は皇室典範改正になおも執念を燃やします。

 20年暮れ、陛下の御不例について、医師は「急性胃粘膜病変」と診断しますが、長官は「急性」と矛盾する「所見」を発表しました。

「天皇陛下には、かねて、国の内外にわたって、いろいろと厳しい状況が続いていることを深くご案じになっておられ、また、これに加えて、ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子を拝しており……」

 身心のストレスによって急激に生じる急性病変が、「何年かにわたる問題」で起きるはずはありません。

 さらに翌21年9月には、政権交代で発足した鳩山新内閣に、典範改正を要請する意向を会見で表明しました。民主党は16年の参院選のマニフェストに女性天皇容認の方針を掲げていました。

 けれども「女性宮家」創設論を積極的にリードしたのは、羽毛田長官ではありません。むろん園部参与でもなく、祭祀簡略化を進言した渡邉前侍従長でした。女系継承容認論と「女性宮家」創設論が一体なら、祭祀簡略化もまた表裏の関係といえます。天皇の聖域に干渉し、祭祀を「私事」に貶めて天皇を非宗教化したうえで、名目上の国家機関とし、現行憲法的な象徴天皇制度の安定を図るという構図が浮かんできます。


▽7 御在位20年式典を前に

 21年11月12日、政府主催の天皇陛下御在位20年記念式典が挙行されました。それを前にして、日経新聞は「平成の天皇 即位20年の姿」を連載します。第5回「皇統の重み『女系』巡り割れる議論」に載ったのが、「女性宮家」創設を提案する渡邉前侍従長のコメントでした。

「宮内庁には『このままでは宮家がゼロになる』との危機感から女性皇族を残すため女性宮家設立を望む声が強い。しかし、『女系天皇への道筋』として反発を招くとの意見もある。渡邉允前侍従長は『皇統論議は将来の世代に委ね、今は論議しないという前提で女性宮家設立に合意できないものか。女系ありきではなく、様々な可能性が残る』と話す」

 いったん消えたはずの「女性宮家」が名実ともに復活しました。私が知るところでは、このコメントが、「皇室のご活動」維持を目的とし、一方で、皇位継承論議を「棚上げ」する前侍従長の提案がメディアに取り上げられた最初かと思います。

 渡邉前侍従長は、「週刊朝日」翌22年12月31日号に掲載された、岩井朝日新聞記者との対談でも、女性皇族が婚姻後、臣籍降嫁する制度の改革を提唱しています。

「悠仁さまが天皇になられるころには、典範の規定によって、女性皇族が皇室を離れられ、悠仁さまお一人だけ残られるということになりかねない。国と国民のための皇室のご活動が十分になされなくなる恐れがあります。その事態を避けるために、私は、女性皇族に結婚後も皇族として残っていただき、悠仁さまを支えていただくようにする必要があると考えています」

 そして、23年末に出版された『天皇家の執事──侍従長の十年半』文庫版の「後書き」で、前侍従長は「女性宮家」創設をあらためて明確に提案しています。

「現在、それ(皇位継承をめぐる問題)とは別の次元の問題として、急いで検討しなければならない課題があります。

 それは、現行の皇室典範で、『皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる』(第12条)と規定されている問題です。

 紀宮さまが黒田慶樹さんと結婚なさった時、皇族の身分を離れて黒田清子さまとなられたように、現在の皇室典範では、内親王さま、女王さま方が結婚なさると、皇室を離れられることになっています。もし、現行の皇室典範をそのままにして、やがて、すべての女性皇族が結婚なさるとなると、皇室には悠仁さまお一人しか残らないということになってしまいます。

 皇室は国民との関係で成り立つものです。天皇皇后両陛下を中心に、何人かの皇族の方が、両陛下をお助けする形で手分けして国民との接点を持たれ、国民のために働いてもらう必要があります。そうでなければ、皇室が国民とは遠く離れた存在となってしまうことが恐れられます。

 そこで、たとえば、内親王様が結婚されても、新しい宮家を立てて皇室に残られることが可能になるように、皇室典範の手直しをする必要があると思います。それに付随して、いろいろな問題がありますが、まず仕組みを変えなければ、将来どうにもならない状況になってしまいます。秋篠宮家のご長女の眞子さまが今年 (平成23年)10月に成年になられたことを考えると、これは一日も早く解決すべき課題ではないでしょうか」

 この「後書き」が書かれたのは、ちょうど読売新聞が「『女性宮家』の創設検討 宮内庁が首相に要請」と「スクープ」した時期と符合します。これを機に、「女性宮家」創設論は一気に熱を帯びます。

「週刊朝日」同年12月30日号の岩井記者による記事には、「女性宮家創設案は渡邉氏が数年前から『私案』として度々公言して」きたとあります。創設の提唱者は羽毛田長官ではなく、まして園部内閣参与でもなく、渡邉前侍従長であることが分かります。

 狙いを定めて論争を挑むとすれば、相手は園部参与ではありません。


▽8 批判は両刃の刃

 八木教授は早くもヒアリングの数カ月前、「正論」24年4月号掲載のエッセイで、園部参与を「皇室のことを慮っていると見せながら、じつのところ歴史的存在としての皇室を否定し、別物に仕立て上げようというのである」と名指ししています。

 八木教授の文章には、「文藝春秋」24年2月号に掲載された拙文「宮中祭祀を『法匪(ほうひ)』から救え」が引用されています。拙文は同じ号に掲載されている、「昭和天皇の忠臣」とも呼ばれた永田忠興元掌典補へのインタビュー(聞き手は私)とともに、皇室の歴史と伝統にそぐわない不都合がさまざまに生じた平成の御代替わりの問題点と今後の課題について、検証を試みたものでした。

 元掌典補はインタビューで、敗戦後、GHQは「宗教を国家から分離すること」を目的とする過酷な神道指令を発し、日本国憲法の施行に伴って皇室令が廃止されて、宮中祭祀の法的根拠が失われたけれども、「従前の例に準じて事務を処理すること」とする宮内府長官官房文書課長の依命通牒(いめいつうちょう)によって辛うじて祭祀の伝統は引き継がれたこと、ところが、昭和40年代ごろ、職員の世代交代が起こり、皇室の伝統より憲法の規定を重んじる考え方が蔓延し、祭祀が敬遠されるようになったこと、などを証言しています。

 かつて占領期の職員は皇室伝統の祭祀を守るために必死の努力を尽くしたが、戦後20年で高級官僚たちは血の滲むような先人たちの努力を踏みにじっている、その姿が「法匪」と表現され、インタビューについての私の解説記事に、編集部は「宮中祭祀を『法匪』から救え」という見出しをつけたのでした。

 八木教授は拙文を引用し、祭祀の激変と皇位継承問題とを対比させ、「斎藤氏は『天皇より憲法に忠成を誓う「国家公務員」たちによって、皇室の伝統が断絶させられ、天皇の祭祀が激変した』と述べているが、皇位継承の問題でも皇室の伝統よりも憲法に忠成を誓う園部氏のような『法匪』によって『世襲』の意味が大きく変えられようとしている」と述べています。

 八木教授の論考のタイトルである「憲法で皇室解体を謀る『法匪』園部逸夫」は、明らかに拙文が下敷きになっています。

 拙文が著名な憲法学者から注目されるのはありがたいことですが、園部参与を、祭祀の伝統を断絶させ、天皇を非宗教的な名目上の国家機関化とし、皇位継承の大原則をも激変させようとする、天皇より現行憲法に忠実な「法匪」の中心的存在と見定めることは、適切とはいえません。

 さらにいえば、です。言論は自由であり、批判も自由ですが、八木教授の舌鋒鋭い批判は、両刃の刃ともなり得ます。「皇室の存続こそ第一」と口走る園部参与の「皇室」とはもはや歴史や伝統から切り離された存在でしかない、という参与への批判は、そのまま教授自身に向けられているように私には見えます。


▽9 園部参与と立脚点が同じ?

 つまり、2点目として指摘されるのは、八木教授の「女性宮家」反対論は、皇室の歴史と伝統を重視するようでいて、じつのところ、園部参与と同じ「御活動」なさる近代的天皇・皇室論の立場に立っているように見えることです。

 歴代天皇は「御活動」なさるのではなく、国と民のために無私なる祈りを捧げることを、第1のお務めとして継承してこられました。祭祀王こそが天皇の本義です。125代続く歴史的天皇の視点ならば、つねに行動し、社会的に「御活動」なさる天皇・皇室論は生まれてこないはずです。天皇・皇族がとくに社会的活動に励まれるようになったのは、すぐれて近代的な現象といえます。

 政府サイドの園部参与が、「御活動」なさる近代的天皇論の立場から、「女性宮家」創設にコミットするのは何の不思議もありませんが、歴史に前例のない女系継承容認=「女性宮家」創設に反対を唱えているはずの八木教授自身がヒアリングの意見発表で、「女性宮家」を創設しなくても、内親王・女王の称号の継続と予算措置によって、「皇室の御活動」をサポートしていただくようにすればよい、と結論していることには、違和感を覚えずにはいられません。

 天皇の歴史と伝統を重んずるという立場なら、「皇室の御活動を安定的に維持する」という「女性宮家」創設の目的論に批判の矛先が向けられるべきなのに、八木教授は問題性をまったく感じないかのように、最初から「皇室の御活動」維持論に与(くみ)しています。

「御活動」なさる近代的天皇論の立場に立つのなら、立脚点は「女性宮家」創設論者と変わりません。論理の一貫性を欠くことになります。

 近代以前の天皇は文字通りの祭祀王でしたが、近代の天皇は祭祀王の側面と欧米列強に対抗できる立憲君主としての側面を併せ持っていました。現行憲法下の天皇にも両面があります。けれども、今日、政府が進める「女性宮家」創設は、いずれをも否定した非宗教的な名目的君主制度への変質を促しているように見えます。同時並行的に宮中祭祀が改変され、陛下のお出ましが激減していることからも明らかです。

 これに対して、八木教授の反対論は十分な抵抗力を持ち得ていないようです。「右手に憲法、左手に広辞苑」というジャーナリスティックな指摘では足りません。

 3点目は、これに関連して、「女性宮家」創設の目的が、「皇室の御活動」維持論から、天皇の「御公務」論に、政府関係者によって、しばしば言い換えられていることです。政府が手をつけたいのは天皇の「御公務」を制度化し、その一環として「女性宮家」を創設するということなのでしょうか?

 前回も申し上げたことですが、憲法は天皇の国事行為については規定しています。けれども、「御公務」と呼ばれる陛下の公的な御活動は憲法には規定がないどころか、「国事行為のみを行う」と明記されています。まして皇族方の「御活動」は法的に定められているわけではありません。

 それでいながら、たとえば、陛下御不例中の24年2、3月、臣籍出身で、歴史的には「みなし皇族」というお立場の皇后陛下に、政府・宮内庁は、外国に赴任する日本大使夫妻との「お茶」、離任する外国大使の「ご引見」を設定しています。

「お茶」や「ご引見」は本来、天皇陛下が皇后陛下を伴ってなさる「御公務」であって、両陛下が共同でなさる「御公務」ではないはずですが、宮内庁のHPでは「両陛下のご活動」とされています。

 つまり、「上御一人」の「御公務」が、八木教授が指摘するように、戦後の憲法と戦後の常識とに立脚して、実態面においてすでに、「男女平等」「一夫一婦制」天皇制度に変質しています。皇室という王朝の支配に対する挑戦ともいえます。

 それなら、皇室の基本法である皇室典範を改正し、歴史的に存在しない「女性宮家」なるものを創設してまで、維持しなければならない「皇室の御活動」とは、具体的に何でしょうか?


▽10 「神学論争」を超えて

 かねて宮内庁が陛下の御公務御負担軽減で注目していたのは、「ご引見」「拝謁(はいえつ)」の多いことでしたが、宮内庁の公表データによると、外国大使との「お茶」「午餐」は減っていません。1カ国ごとに行われる離任大使の「ご引見」は驚くほど日程がたて込んでいます。叙勲に伴う「拝謁」もほとんど変わりません。

 皇室の基本法に手をつけるまえに、皇太子殿下をご名代に立てるなど、陛下の御負担軽減のためにできることは少なくありません。

 事実、23年11月の陛下の御入院の際、国事行為は皇太子殿下が臨時代行され、秋篠宮殿下が御公務を代行されました。御不例時に、皇太子殿下と弟宮殿下とで、御公務を「御分担」できるのなら、もっと以前から陛下の御負担削減は可能だったはずです。

 ところが、「御分担」が実現されません。陛下はほとんど夏休みもないご日程なのに、皇太子殿下は、妃殿下のご病気のこともあるでしょうが、夏場の御公務などは逆に減っています。弟宮殿下の御公務日数も陛下には及びません。

 つまり、婚姻後の女性皇族にまで陛下の御公務を「御分担」いただくというアイデアは、まったくの画餅(がべい)にすぎません。

 女性皇族が婚姻後、皇籍離脱する制度だから、皇室の御活動が安定的に維持されない、陛下の御負担が軽減できない、というのが政府の官僚たちの言い分です。

 宮内庁は数年前、ご高齢となった陛下のご健康に配慮し、御公務御負担軽減に着手しました。そこまでは評価されますが、結局のところ、皇室伝統の祭祀を改変させただけで、御負担軽減には失敗し、それでいて失敗の原因を追究することもなく、責任も負わず、あまつさえ「皇室制度」に責任を転嫁して、歴史にない「女性宮家」創設に突き進んでいます。

 官僚たちの暴走といわずして、何でしょうか?

「制度改革ありき」の政府の姿勢こそが問われるべきなのに、八木教授は、皇位継承論に目を奪われ、より重要な議論を避けているように私には見えます。

 最後に4点目です。

 八木教授が園部参与に狙いを定めた鋭い批判は、何をもたらしたでしょうか? 女帝容認=「女性宮家」創設推進派に一撃を与えたことは確かでしょうが、辛辣(しんらつ)な批判は官僚たちの暴走を食い止められたでしょうか? 推進論を反対論に転換させることができたでしょうか?

 痛罵(つうば)は友情を生まず、敵対関係を深めます。感情的な対立は問題解決をもたらしません。

 たとえ天皇に刃向かう者とて、天皇の赤子(せきし)です。天皇はすべての民のため、「安かれ」と祈ります。「天皇無敵」。とすれば、敵を作る天皇・皇室論は自己矛盾です。

 八木教授は、園部参与が「(皇位継承に関する)いわゆる男系女系論争はもはや神学論争の域に達しており」と「選択」24年1月号の巻頭インタビューで述べていることに対して、「揶揄(やゆ)」と批判しています。

 しかし、たとえば、連載の第1回で指摘したように、女系継承容認派が古代律令制の時代、皇族の身分や継承法を定めた「継嗣令(けいしりょう)」に「女帝子亦同(女帝の子、また同じ)」という規定があることに着目し、「女帝の子」も親王・内親王とされ、女系継承が認められていたと主張するのに対して、対極にあるはずの女系容認反対派もまた同様の読みと解釈を加え、「例外」規定だと苦しい説明をしています。

 一方、「女(ひめみこ)も帝の子、また同じ」と読むべきだという指摘もあります。つまり、天皇の兄弟、皇子と同様に、女子も(内)親王とする、と解釈すべきで、「女帝子亦同」は女性天皇の子孫についての規定ではないし、古代に女系継承が認められていた根拠とはならないというのです。同様の理解は古代史の専門家たちにもあるようです。

 園部参与がいう「神学論争」とは浮き世離れした、堂々巡りの論争という意味でしょうが、学問の未熟というべきでしょう。歴史論しかり、法律論しかりです。

 学問研究の一層の深まりこそ、緊急に求められていると思います。「女性宮家」賛成派も反対派も、対立を超え、天皇・皇室論の学問的発展をともに目指すべきでしょう。皇室の弥栄(いやさか)を願うことについて変わりはないのです。天皇のお立場では、けっして敵ではありません。

 共同研究の実現に必要なのは、まず大局を見据えられる名プロデューサーの存在でしょうか? かつて「戦後唯一の神道思想家」と呼ばれた葦津珍彦(うずひこ)氏は、「学問は一人でするものではない」という考えから、意見の異なる左翼研究者たちとの交わりをみずから進んで求め、天皇研究、歴史研究をみがき、親密な友誼(ゆうぎ)を結びました。総合的な天皇・皇室論の深化には、学際的な協力が不可欠です。第2、第3の葦津珍彦が必要です。

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