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依命通牒の「廃止」をご存じない──百地章日大教授の拙文批判を読む その2 [百地章]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年2月11日)からの転載です

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 依命通牒の「廃止」をご存じない
 ──百地章日大教授の拙文批判を読む その2
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 今日は建国記念の日です。

 一般全国紙の朝日新聞も読売新聞も、少なくとも電子版では、関連記事が見当たりません。毎日新聞が「懐かしのニュース」で制定当時の各地の風景を伝えている程度です。
http://mainichi.jp/feature/nostalgicnews/news/20130131dog00m040056000c.html

 これに対して、産経新聞は異色なことに、「主張」(社説)で取り上げ、政府主催の式典開催を求めています。

 戦前の紀元節は国民の一致団結を呼びかける意味があったが、敗戦後、GHQによって廃止された。昭和42年に「建国記念の日」として復活したが、市民活動家らはいまも「国家主義の復活」などと訴えている。理解に苦しむ。いまこそ建国の歴史を学び、誇りを取り戻すときだ、というのです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130211/plc13021103400004-n1.htm

 訴えたいことはきわめてよく理解できますが、なぜ占領軍は紀元節を廃止することになったのでしょうか? その視点が抜けています。

 昭和20年暮れにいわゆる神道指令が発せられ、駅の門松や注連縄が撤去されました。「国家神道」の中心施設とされた靖国神社の爆破計画さえありました。日本語のローマ字化も考えられました。「国家神道」の教義とされる教育勅語は廃止されました。歌舞伎の忠臣蔵も上演できなくなりました。日本の戦争は侵略とされました。

 なぜなのか? アメリカが考えていた「国家神道」とは何だったのか、が解明されなければなりません。

 アカデミズムもジャーナリズムも歴史的事実の追究が不十分です。保守派も左派も同様です。学問的な研究が浅く、目の前の現象ばかりを追いかける。観念的な政治運動が幅を利かせることになり、一方、マスメディアは政治的に黙殺しています。

 であるなら、産経が「主張」する政府主催の式典開催は国を一致させるどころか、分裂を招きかねません。確かに国が1つにまとまることは必要です。国民の誇りも必要です。そのためには、学問研究の発展が必要です。

 さて、本文です。


▽1 全体が見渡せない

 前回から、なぜ百地章先生は逆上したのか、を考えていますが、「建国記念の日」と同じことがいえると思います。

 高校時代、幾何学の得意な同級生がいました。冴えない風貌で、いつもは目立たないのですが、難問に苦しむ私たち凡才たちを前にして、彼が一本の補助線を引くと、教室にどよめきが走りました。天才だと私は思いました。

 たった1本の補助線で問題の核心が瞬時に明らかになる、というのは数学の世界だけではありません。

 私が月刊「正論」の連載で恩義ある3人の先生方を取り上げ、あえて批判したのは、いわゆる「女性宮家」論議の混乱ぶりを憂え、解決への方向性を著名な先生たちの研究者としての良心に期待したからです。

 けれども、私の意図は完全に裏切られました。百地先生はすさまじい剣幕で、私を「粗雑な頭脳」と罵っています。

 なぜ先生は逆上したのか、を解明する補助線は、前回、書いたように、先生自身がカミング・アウトしているように、「闘い」の人だということです。学問研究より、政治運動が優先されているということです。

 格闘技では、リングに現れた目の前の敵を倒すことが、レスラーにとっての王者の印です。しかし相撲の世界でいえば、幕下力士ならいざ知らず、横綱ともなれば、目の前の敵と戦うことより、相撲道を志し、角界全体を考えるようになります。

 百地先生の逆上は完全な読み違い、思い違いによるものだ、と私は確信しますが、その原因は、連載全体を読まずに第2回しか読まない、民主党政権下での皇室制度改革が「女性宮家」創設問題としてしか理解できない、つまり問題の全体ではなく、目前の敵しか見ない、目に映らない、という近視眼的な政治運動家の性癖に由来するのかと思われます。

 いままではそれですんでいたのでしょう。いみじくも先生は「闘い」の成果を誇っています。

 成功体験があればなおのこと、私が訴えたような戦後皇室行政史の全体を見渡すことなど、先生には思い浮かばないのかもしれません。

 依命通牒に関する先生の反応には、そのことが余すところなく示されているように私には見えます。

▽2 「依命通牒」と「女性宮家」は無関係か?

 百地先生はこう書いています。

「氏によれば、『依命通牒の廃棄』(?)という事実を知らなければ、女性宮家問題の本質は分からない、ということらしい。しかし、『依命通牒』と『女性宮家』とは無関係である」

 私の連載は、戦後の皇室関係行政史全体の流れを追い、「女性宮家」創設論誕生の経緯を追っています。つまり、ポイントはこうです。

(1)昭和22年5月の日本国憲法施行に伴い、皇室祭祀令など皇室令が廃止されたものの、同時に宮内府長官官房文書課長の「従前の例に準じて」とする依命通牒によって、天皇の祭祀の伝統は辛うじて守られた。

(2)しかし40年代以降、皇室の伝統より憲法を優先する考えが行政全体に蔓延し、宮中祭祀の伝統が破壊されていった。

(3)一大転換をもたらしたのは、50年8月15日の長官室会議であり、依命通牒の破棄であった。

(4)宮中行事の明文的根拠が失われたことで、御代替わりの諸行事は大きな影響を受けた。

(5)125代続く皇室の伝統を二の次にする考えは、女性天皇・女系継承を容認する皇室典範改正へと引き継がれ、女性天皇容認と一体のかたちで「女性宮家」創設論は生まれた。

 戦後の官僚たちは、憲法の規定、とりわけ政教分離の厳格主義を金科玉条とし、祭祀王としての天皇を否定し、祭祀を簡略化し、天皇を名目上の国家機関である「象徴」とする道を求めてきた。その中に「女性宮家」創設は位置づけることができるし、依命通牒の廃棄こそ、皇室行政史上の画期です。

 百地先生はなんでも断定することがお好きのようですが、「『依命通牒』と『女性宮家』とは無関係である」と断定すべきではありません。

 先生は第2回しか読んでいないために、そのように反応するほかなかったのかもしれません。(5)は「文藝春秋」2002年3月号の森暢平元毎日新聞記者の記事が基礎になっていますが、そのことは第1回に書きました。


▽3 依命通牒不掲載の通知が回った

 百地先生の反論に、じつは私は期待していました。依命通牒について新しい情報が得られるかもしれない、と思ったのです。

 しかしこれも完全に裏切られました。先生はこう書いています。

「ちなみに、依命通牒が『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない。また仮に『宮内庁法令集』から『消えた』というだけで法令が『失効』するのなら、現行憲法についても、『法令集』から取り除いてしまえばそれだけで『失効』させることができるのだろうか」

 要するに、詳細はなにもご存じないのでしょう。関心もないのでしょうか。

 渦中にあった宮内庁OBの証言によれば、昭和50年8月15日の長官会議室以後、『宮内庁関係法規集』に依命通牒を掲載しないとする通知が庁内に回りました。このためとくに祭祀を担当する掌典職では、大きな話題になりました。いまでこそ会議のことは入江相政侍従長など側近の日記で知られますが、当時の職員には寝耳のことでした。

 依命通牒の第1項は「新法令ができているものは、当然夫々の条規によること」です。たとえば、皇室典範、宮内府法、皇室経済法などがそれに当たります。法律が改正されれば、新法に従うのはごく当たり前のことです。

 問題は第3項です。「従前の条規が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とあります。宮中祭祀がこれに当たります。祭祀令は廃止されたけれども、新法はない。皇室の伝統をどう守ればいいのか。依命通牒は「従前の例に準じて」とし、各部局長官に通達したのです。

 ところが、40年代になり、入江侍従長は昭和天皇の御健康問題を口実にして、祭祀の改変に手をつけました。そして50年8月、依命通牒が廃棄されます。

 とくに掌典職の職員たちの間に、大きな動揺が走りました。「たいへんなことになった。これからどうなるのか。伝統の祭祀に素人が口を出すようになったら困る」。祭祀の明文的根拠を失ったことで、「陛下のご意向」を根拠に、何でもできることになってしまうのではないか、という恐れもありました。

 そこで自発的な勉強会が庁内で始まりました。外部の神道学者との連携も模索されました。そうした努力は御代替わりまで続いたのでした。

 実際、御代替わりでは、践祚(皇位継承)と即位との区別が失われるなど、さまざまな変更が起こりました。根拠は政教分離規定です。平成の祭祀簡略化は、昭和の先例と今上陛下のご意向を根拠として行われています。「女性宮家」創設もまた同様のニュアンスが繰り返されました。


▽4 百年の計に耐えうる運動を

 じつは、1月16日のメルマガ〈http://melma.com/backnumber_170937_5747606/〉に書いたように、宮内庁次長は「廃止の手続きは取っていない」と平成3年4月25日の国会で答弁しています。同時に、「宮内府内部における当面の事務処理についてのいわゆる考え方を示したもの」という考えも示されました。

 旧皇室典範ではなく、新皇室典範に従うというのが第1項です。依命通牒全体の「廃止」などあるはずもありません。問題はあくまで第3項です。そして、第3項は行政の手続きによらずに「廃止」されたのです。

 同じ日に、法制局第2部長が「現行憲法及びこれに基づく法令に違反しない範囲内において従前の例によるべしという趣旨であります」と答弁しています。

 昭和50年8月の長官室会議は、「政教分離規定に違反しない範囲内において、皇室祭祀令の例によるべし」と決定したのでしょう。依命通牒(通達)ですから、もともと官報には載りません。公表されません。しかし各部長官宛の依命通牒ですから、けっして内部文書ではありません。けれども内部文書的なものとされ、人知れず「廃止」されたのです。

 その結果、依命通牒は『宮内庁関係法規集』に記載されなくなり、宮中祭祀の祭式は改変されていったのでした。皇室の伝統より憲法の規定を優先させる一大画期です。

 10年以上前に始まった、女系継承容認=「女性宮家」創設論は戦後の歴史全体を見渡す必要があるし、依命通牒の破棄は大きなポイントです。「無関係」(百地先生)のはずはありません。

 なぜ「無関係」と言い切れるのか、それは百地先生が運動家だからでしょう。私は戦後皇室行政史全体を視野にしていますが、そのときそのときの政治テーマがターゲットなのでしょう。各局面の運動とその成果を誇ります。「女性宮家」創設問題という見方しかなさらないのです。

 もちろん私は、運動家がいけないと申し上げているのではありません。左翼運動家が大学で教鞭を執っている例など、枚挙に暇がないはずです。

 問題は同じ運動なら、百年の計に耐えうる運動を起こしてほしいということです。それには少なくとも百年の歴史を見定めなければなりません。そのような視点があるなら、拙論を「自己宣伝」「自慢」「的外れ」などと、決めつけたりしないでしょう。

 つづく。
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