憲法理論は法廷闘争の方便か──百地章日大教授の拙文批判を読む その7 [百地章天皇論]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です
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憲法理論は法廷闘争の方便か
──百地章日大教授の拙文批判を読む その7
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月刊「正論」3月号に掲載された百地先生の拙文批判を読み続けています。前回に引き続き、先生が専門とする政教分離について考えます。
突然ですが、私は学生のころ、しょっちゅう風邪をひきました。きまって扁桃腺炎を併発し、高熱に悩まされ、ぜんそく症状を引き起こしました。ほとほと困り果てました。
20年以上、お付き合いした主治医は名医中の名医でした。ふつうの医者なら、解熱剤や気管支拡張剤などを処方してすませるでしょうが、主治医は違っていました。
主治医が投薬のほかに、私にくれたのは、自分も長年愛用しているというタワシでした。「皮膚を摩擦して鍛え、風邪にかからない体質を作りなさい」というのです。
おかげで、いつの間にか滅多に風邪をひかなくなりました。実の息子以上に可愛がっていただき、海外旅行もご一緒した、いまは亡き主治医に、感謝の言葉もありません。
熱が出たから解熱剤、風邪には抗生物質という対症療法は、持続可能な医療ビジネスという観点からは好ましいでしょう。タワシでは医者は一文の得にもなりません。けれども安易なモグラたたきは、患者になんら根本的解決を与えず、国民医療費を増大させ、抗生物質の効かない耐性菌の恐怖を招きます。
「闘い」の人である百地先生の憲法論にも、そのような側面がないでしょうか?
▽1 モグラたたきの政教分離論
先生の著書の1つに、一般読書向けに書かれた『憲法の常識 常識の憲法』があります。「第1章 国家と憲法」「第2章 占領下に作られた日本国憲法」「第3章 象徴天皇制と国民主権」と続き、第7章で「政教分離について」が取り上げられています。
書き出しは「政教分離とは何か?」で、「『政教分離』をめぐる混乱」という小見出しのあとに、以下のような文章がつづられています。
「政教分離とは、一般に、国家と宗教の結合を禁止し、信教の自由を保障するための制度であるといわれる。しかしながら、具体的に何が政教分離であり、いかなる場合に政教分離違反が生ずるかという問題になると、なかなか意見は一致しない」
政教分離の定義をめぐるこの文章は、百地先生らしさがにじみ出ているように思います。
まず憲法に定められた政教分離規定がある。制度の目的は、信教の自由を保障することにある。しかし現実には、定義が一致していないために、混乱が生じている、というのです。
つまり、議論の出発点として憲法があり、社会的混乱はそのあとに存在します。その逆ではありません。最初に社会的混乱があって、そのために政教分離という憲法上の制度が生まれた、という説明ではないのです。
この一節の最後を、百地先生は
「このような混乱を解決するためにも、政教分離とはいったい何なのか、改めて考えてみる必要があると思われる(詳しくは拙著『政教分離とは何か─争点の解明─』)。」
と締めくくっていますが、当メルマガでしばしば取り上げてきた、この参考資料についても同様です。
先生の『政教分離とは何か』は、いみじくもサブタイトルが「争点の解明」とされているように、政教分離制度の成り立ちの背景ではなくて、政教分離をめぐる対立・論争・訴訟問題をテーマにしています。著書の大部分は靖国訴訟、大嘗祭訴訟に割かれています。
なぜ「国家と宗教の結合を禁止し、信教の自由を保障するための制度」が必要なのか、必要とされるようになったのか、という意味での「政教分離とは何か」の説明は、先生の著書には見当たりません。
そのため、先生の政教分離論は「争点」の「解明」となり、憲法解釈をめぐる法律論争が主たるテーマとなります。「闘い」の人を自任する先生ならでは、です。激しい調子で拙文を批判するのとも通じるものがあります。
目の前に現れたモグラを叩きのめす対症療法が、先生の政教分離論なのでしょう。
▽2 異なる価値観を激しく排除する矛盾
しかしこれは大きな矛盾です。
政教分離は「信教の自由を保障するための制度である」というからには、憲法以前の問題として、信教の自由が脅かされかねない社会的な現実があるということです。
1つの神、1つの信仰だけがあるというのではなくて、複数の神と複数の信仰が社会に存在するということです。
それら複数の信仰のそれぞれの価値を同等に認め、すべての人々が平安な精神生活を送れるように、国家は特定の宗教との結びつくのではなくて、国民の信教の自由を保障しなければならない、ということになります。
百地先生は「信教の自由の保障するための制度」という定義を否定しているわけではありません。だとすれば、社会にはいろんな考えがあり、人それぞれ価値観が異なることを認めるということに、反対ではないはずです。
けれども、もしそうであるなら、前回、申し上げたように、なぜ横田耕一九大名誉教授などを「一部学者」と突き放さなければならないのか、なぜ私を「粗雑な頭脳」と切り捨てるのでしょうか?
憲法とは、国家、社会の基本的あり方を定めるものであり、国民の生活のありようを律するものでしょうが、先生の憲法理論は、憲法をめぐる訴訟に勝つための便法であって、先生ご自身の生き方とは別の次元にあるのではないでしょうか?
少なくとも千年以上の歴史を持つ、日本の天皇のあり方とは異質のように思います。
▽3 昭和天皇のご下問「双方に死者は出たか?」
大学時代のサークルの先輩に、危機管理の専門家として知られる佐々淳行初代内閣安全保障室長がいます。
佐々さんは昭和44年の東大安田講堂事件の警備を指揮し、そのときの体験を『東大落城』に記録しています。
私が興味を持ったのは、昭和天皇のエピソードです。
──安田講堂の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊員の士気昂揚につながると期待されたが、帰庁した秦野氏はけげんそうな表情を浮かべていた。
「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。……『双方に死者は出たか?』と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それは何よりであった』と仰せなんだ」
加藤雅信名古屋大学教授(当時。民法)は『天皇-昭和から平成へ。歴史の舞台はめぐる(日本社会入門1)』のなかで、昭和天皇はすべての国民を赤子ととらえ、機動隊と学生の攻防をまるで自分の息子の兄弟ゲンカのように見ておられた、というように解説していますが、同感です。
すべての民のために、公正かつ無私なる祈りを捧げてこられたのが、天皇です。たとえ刃向かうものであろうと、一様に祈りを捧げるのが天皇です。敵も味方もありません。
日本列島には古来、さまざまな民がおり、さまざまな暮らしがあります。さまざまな神がいます。天皇は、稲作民の米と畑作民の粟を、皇祖神のみならず天神地祇に捧げ、「国中平らかに安らけく」と祈られます。古代においては仏教の守護者となり、近代以降はキリスト教の社会事業を支援する最大のパトロンでした。
天皇の祭祀こそ、古来、信教の自由を保障する要であり、天皇の存在があればこそ、日本では深刻な宗教対立を経験することなく、宗教的共存が図られてきたのだと思います。
異端を弾圧し、魔女裁判を行い、異教徒を殺害し、異教世界を侵略し、異教文化を破壊してきた一神教世界の政教分離論と一律に論ずるべきではありません。
宮中祭祀=「皇室の私事」、大嘗祭=宗教的儀礼とするような百地先生流の政教分離論を克服していく必要があるのだと思います。そのためには学問研究の深化が求められます。
つづく。
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憲法理論は法廷闘争の方便か
──百地章日大教授の拙文批判を読む その7
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月刊「正論」3月号に掲載された百地先生の拙文批判を読み続けています。前回に引き続き、先生が専門とする政教分離について考えます。
突然ですが、私は学生のころ、しょっちゅう風邪をひきました。きまって扁桃腺炎を併発し、高熱に悩まされ、ぜんそく症状を引き起こしました。ほとほと困り果てました。
20年以上、お付き合いした主治医は名医中の名医でした。ふつうの医者なら、解熱剤や気管支拡張剤などを処方してすませるでしょうが、主治医は違っていました。
主治医が投薬のほかに、私にくれたのは、自分も長年愛用しているというタワシでした。「皮膚を摩擦して鍛え、風邪にかからない体質を作りなさい」というのです。
おかげで、いつの間にか滅多に風邪をひかなくなりました。実の息子以上に可愛がっていただき、海外旅行もご一緒した、いまは亡き主治医に、感謝の言葉もありません。
熱が出たから解熱剤、風邪には抗生物質という対症療法は、持続可能な医療ビジネスという観点からは好ましいでしょう。タワシでは医者は一文の得にもなりません。けれども安易なモグラたたきは、患者になんら根本的解決を与えず、国民医療費を増大させ、抗生物質の効かない耐性菌の恐怖を招きます。
「闘い」の人である百地先生の憲法論にも、そのような側面がないでしょうか?
▽1 モグラたたきの政教分離論
先生の著書の1つに、一般読書向けに書かれた『憲法の常識 常識の憲法』があります。「第1章 国家と憲法」「第2章 占領下に作られた日本国憲法」「第3章 象徴天皇制と国民主権」と続き、第7章で「政教分離について」が取り上げられています。
書き出しは「政教分離とは何か?」で、「『政教分離』をめぐる混乱」という小見出しのあとに、以下のような文章がつづられています。
「政教分離とは、一般に、国家と宗教の結合を禁止し、信教の自由を保障するための制度であるといわれる。しかしながら、具体的に何が政教分離であり、いかなる場合に政教分離違反が生ずるかという問題になると、なかなか意見は一致しない」
政教分離の定義をめぐるこの文章は、百地先生らしさがにじみ出ているように思います。
まず憲法に定められた政教分離規定がある。制度の目的は、信教の自由を保障することにある。しかし現実には、定義が一致していないために、混乱が生じている、というのです。
つまり、議論の出発点として憲法があり、社会的混乱はそのあとに存在します。その逆ではありません。最初に社会的混乱があって、そのために政教分離という憲法上の制度が生まれた、という説明ではないのです。
この一節の最後を、百地先生は
「このような混乱を解決するためにも、政教分離とはいったい何なのか、改めて考えてみる必要があると思われる(詳しくは拙著『政教分離とは何か─争点の解明─』)。」
と締めくくっていますが、当メルマガでしばしば取り上げてきた、この参考資料についても同様です。
先生の『政教分離とは何か』は、いみじくもサブタイトルが「争点の解明」とされているように、政教分離制度の成り立ちの背景ではなくて、政教分離をめぐる対立・論争・訴訟問題をテーマにしています。著書の大部分は靖国訴訟、大嘗祭訴訟に割かれています。
なぜ「国家と宗教の結合を禁止し、信教の自由を保障するための制度」が必要なのか、必要とされるようになったのか、という意味での「政教分離とは何か」の説明は、先生の著書には見当たりません。
そのため、先生の政教分離論は「争点」の「解明」となり、憲法解釈をめぐる法律論争が主たるテーマとなります。「闘い」の人を自任する先生ならでは、です。激しい調子で拙文を批判するのとも通じるものがあります。
目の前に現れたモグラを叩きのめす対症療法が、先生の政教分離論なのでしょう。
▽2 異なる価値観を激しく排除する矛盾
しかしこれは大きな矛盾です。
政教分離は「信教の自由を保障するための制度である」というからには、憲法以前の問題として、信教の自由が脅かされかねない社会的な現実があるということです。
1つの神、1つの信仰だけがあるというのではなくて、複数の神と複数の信仰が社会に存在するということです。
それら複数の信仰のそれぞれの価値を同等に認め、すべての人々が平安な精神生活を送れるように、国家は特定の宗教との結びつくのではなくて、国民の信教の自由を保障しなければならない、ということになります。
百地先生は「信教の自由の保障するための制度」という定義を否定しているわけではありません。だとすれば、社会にはいろんな考えがあり、人それぞれ価値観が異なることを認めるということに、反対ではないはずです。
けれども、もしそうであるなら、前回、申し上げたように、なぜ横田耕一九大名誉教授などを「一部学者」と突き放さなければならないのか、なぜ私を「粗雑な頭脳」と切り捨てるのでしょうか?
憲法とは、国家、社会の基本的あり方を定めるものであり、国民の生活のありようを律するものでしょうが、先生の憲法理論は、憲法をめぐる訴訟に勝つための便法であって、先生ご自身の生き方とは別の次元にあるのではないでしょうか?
少なくとも千年以上の歴史を持つ、日本の天皇のあり方とは異質のように思います。
▽3 昭和天皇のご下問「双方に死者は出たか?」
大学時代のサークルの先輩に、危機管理の専門家として知られる佐々淳行初代内閣安全保障室長がいます。
佐々さんは昭和44年の東大安田講堂事件の警備を指揮し、そのときの体験を『東大落城』に記録しています。
私が興味を持ったのは、昭和天皇のエピソードです。
──安田講堂の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊員の士気昂揚につながると期待されたが、帰庁した秦野氏はけげんそうな表情を浮かべていた。
「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。……『双方に死者は出たか?』と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それは何よりであった』と仰せなんだ」
加藤雅信名古屋大学教授(当時。民法)は『天皇-昭和から平成へ。歴史の舞台はめぐる(日本社会入門1)』のなかで、昭和天皇はすべての国民を赤子ととらえ、機動隊と学生の攻防をまるで自分の息子の兄弟ゲンカのように見ておられた、というように解説していますが、同感です。
すべての民のために、公正かつ無私なる祈りを捧げてこられたのが、天皇です。たとえ刃向かうものであろうと、一様に祈りを捧げるのが天皇です。敵も味方もありません。
日本列島には古来、さまざまな民がおり、さまざまな暮らしがあります。さまざまな神がいます。天皇は、稲作民の米と畑作民の粟を、皇祖神のみならず天神地祇に捧げ、「国中平らかに安らけく」と祈られます。古代においては仏教の守護者となり、近代以降はキリスト教の社会事業を支援する最大のパトロンでした。
天皇の祭祀こそ、古来、信教の自由を保障する要であり、天皇の存在があればこそ、日本では深刻な宗教対立を経験することなく、宗教的共存が図られてきたのだと思います。
異端を弾圧し、魔女裁判を行い、異教徒を殺害し、異教世界を侵略し、異教文化を破壊してきた一神教世界の政教分離論と一律に論ずるべきではありません。
宮中祭祀=「皇室の私事」、大嘗祭=宗教的儀礼とするような百地先生流の政教分離論を克服していく必要があるのだと思います。そのためには学問研究の深化が求められます。
つづく。
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