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百地先生の反論こそ何よりの証明である──歴史的に考えるということ 2 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年4月7日)からの転載です


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百地先生の反論こそ何よりの証明である
──歴史的に考えるということ 2
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 久しぶりに、月刊「正論」3月号に掲載された百地先生の拙文批判について書きます。

 つい先日のこと、人生の大半を民族派の国民運動に捧げている、人生の大先輩がいつものよう穏やかに、しかし毅然として、こう語られました。

「百地先生といえども神仏にあらず。斎藤さんといえども神仏にあらず」

 仰せの通り、まったく同感です。人はみな長所もあれば、短所もある。完全無欠な人間など、この世にいるはずもありません。よほどうぬぼれの強い人間でない限り、そんなことは他人から言われるまでもありません。人はみな足りないところがある。それが人間の魅力でもある。足りないところがあれば、お互いに補えばいいのです。

 だからこそ、私は共同研究を呼びかけています。目の前のさまざまな混乱を解決し、そしてやがて来る次の御代替わりに向けて、総合的な天皇研究がいまこそ必要なときはありません。けれども1人でできることは限られています。

 百地先生は、何を間違ったのか、私に欠落を指摘されて、逆ギレし、闘犬のようにわめき散らしています。まったくの期待外れでした。しかしいまからでも遅くはありません。感情的ではない、まともな反論を、当メルマガではつねに門戸を開き、お待ちしています。


▽1 「女性宮家」肯定論者に仕立て上げられた私

 さて、3月18日号に続き、歴史的に考えるということについて、書きます。

 少しおさらいをすると、私の指摘は、第1に、「(いわゆる「女性宮家」創設をめぐる)問題の発端は、羽毛田信吾宮内庁長官(当時)が野田(佳彦)首相(当時)に対して、陛下のご公務の負担軽減のためとして、『女性宮家』の創設を要請したことにある」と先生は断定しているが、確証があるのか、それとも事実の追究もしくは追及の甘さなのか、ということでした。

 しかしこれには、少なくとも3月号の拙文批判には回答がありませんでした。図星だったのだろうと私は考えています。

 いわゆる「女性宮家」創設問題は、私が知るところ10数年前に、女性天皇・女系継承容認論と一体のかたちで生まれました。小泉内閣時代の皇室典範有識者会議報告書にも、その内容は盛り込まれています。今回の創設論は議論のぶり返しであって、ご在位20年を契機に渡邉允前侍従長によって提唱されたことが資料から読み取れます。

 けれども、百地先生は歴史的にものごとを考えるということがお得意ではないのでしょう。部分を見て、全体を見渡そうとしない、「闘い」の人にはうってつけの性格も禍しているようで、不正確な新聞の「スクープ」にすっかり目を奪われ、羽毛田長官「主犯」説に固まっています。

 歴史を振り返り、全体を見渡す目をお持ちならば、いわゆる「女性宮家」創設論はもっと広い視点で読み直す必要があることに気づくはずですが、先生はあくまで「女性宮家」問題として論じています。

「いくら『戦後皇室行政史』とやらを勉強しても、『なぜ女性宮家が問題なのか』『どこに女性宮家論の危険が潜んでいるか』という『女性宮家問題の本質』についての回答は得られない」という具合です。

 それどころか、あきれたことに、私は先生によって、「女性宮家」肯定論者に仕立て上げられています。先生、冗談はおやめください。


▽2 皇室の伝統を破壊した「1・5代」論者

 歴史的にものごとを考えようとなさらないのは、「女性宮家」創設問題に限りません。

 第2に指摘したのは、依命通牒についてで、私は、「百地教授の研究に欠落している最たるものは、昭和22年5月3日の宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が、50年8月15日の宮内庁長官室会議で廃棄されたことによる宮中祭祀の歴史の一大転換です」と指摘したのですが、これには猛反発されました。

 けれども、先生はじつのところ、依命通牒について、ほとんどご存じないのでした。「ちなみに、依命通牒が『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない」と正直に告白しています。

 これでは戦後の皇室の歴史など論じようがありません。

 戦後、日本国憲法の施行に伴い、皇室祭祀令など旧皇室令は廃止されました。皇室伝統の祭祀は、依命通牒第3項「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」によって、辛うじて守られたのです。

 ところが、昭和40年代になり、入江相政侍従長は依命通牒を無視し、祭祀改変に取り掛かりました。50年8月15日には宮内庁長官室会議を経て、たとえば平安期からの伝統を引き継ぐ毎朝御代拝が大きく変更されたことが入江日記などから読み取れます。

 祭祀の命綱であった依命通牒が反故にされたことは明らかで、その背景には新興宗教めいた厳格な政教分離主義、つまり皇室の伝統より憲法の規定を優先させる考え方が行政全体を席巻し、富田朝彦次長(のちの長官)ら側近中の側近にまで浸透した結果であることが職員OBの証言で明らかにされています。

 けれども、百地先生はこうした歴史に関心を持とうともしません。政教分離問題の専門家であるはずなのに、です。

 皇室の伝統より憲法を優先させる考えこそ、まさに「1・5代」象徴天皇制度論であり、祭祀を簡略化させ、御代替わりの諸行事を改変させたのです。百地先生は「荒唐無稽な理屈」「的外れの批判」などと切り捨てていますが、まごう事なき現実なのです。

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』などには、御代替わり当時、政府が「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが現行憲法の趣旨に反すると考え、実際、国の行事と皇室行事とを二分し、挙行したことが記録されています。

「1・5代」象徴天皇制度論が依命通牒を駆逐し、皇室の伝統を破壊したのです。百地先生ともあろうものが、なぜそれに気づかないのでしょうか? まさか、政府の公式記録をお読みになったことはないのでしょうか?


▽3 皇太子殿下の御成婚までしか例示できない

 第3に、私が「百地教授は政府の憲法解釈の歴史を停滞的に見ています。そこに重大な欠陥があるのではないでしょうか」という指摘したことに、先生は「いわれない批判」と強く反発しています。

 たとえば、私が、政府解釈が変更された事例として、貞明皇后の御大喪、皇太子殿下(今上陛下)の御成婚を挙げていることについて、先生は「すでに拙著『憲法と政教分離』で紹介済み」「わざわざ教えてもらう必要はない」などと突き放し、占領下の変化についても著書で紹介しているから、「『政府の憲法解釈を停滞的に見ている』などといった誹りを受ける理由はない」というのです。

 けれども、皇太子殿下の御成婚までしか例示できない、先生のこの反論こそ、「停滞的に見ている」と理解される、何よりの証拠なのです。

 先生が書いているように、「政府や宮内庁当局が神道指令下にあって、皇室祭祀をお守りすべく必死の努力をしてきた」のです。その現れが依命通牒であり、貞明皇后の御大喪であり、「努力」の延長線上にあるのが皇太子殿下の御結婚でした。

 昭和30年代まではこうした「努力」が積み重ねられました。ところが40年代に入り、ガラっと様変わりした。その歴史理解が先生には完全に欠けています。つまり、それこそが、依命通牒の破棄なのです。

「停滞的に見ている」という表現はその意味です。「停滞的」が相応しくないとすれば、「直線的」「単線的」と書くべきだったかも知れません。

 先生は、関係者が「必死の努力」をしてきたなかで、御代替わりを迎えた、と書いていますが、そうではありません。「1・5代」象徴天皇論者が宮内庁中枢にまで入り込み、先人たちの「必死の努力」が破られ、命綱の依命通牒第3項が破棄され、皇室の伝統が蹂躙されたなかで、御代替わりを迎えることとなったのです。

 戦後初の侍従長・大金益次郎が、神道指令下で「宮中祭祀は皇室の私事」とされたことについて、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したのと、渡邉允前侍従長が「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」と雑誌インタビューで語っているのは意味がまるで異なります。

 依命通牒第3項が生きていたなら、御代替わり当時、大掛かりな検討など必要がなかったのではありませんか? 破棄されたからこそ、先生の建言も参考にされることになったのでしょう。


▽4 「本能寺の敵」を利するオウンゴール

 けっして直線的には理解できない皇室の戦後史をまったく知らないままに、先生は御代替わりに関わってしまったということが、先生の拙文批判からはっきりと読み取れます。まったく残念というほかはありません。

 以前にも申し上げましたように、先生は「大嘗祭は皇位継承のために不可欠な重儀、つまり『皇室の公事』であって、皇位の世襲を定めた憲法の容認するところである。それゆえ、大嘗祭と皇室祭祀一般とは分けて考えるべきである」との理論を政府に建言し、「幸い政府もこの理論を採用し、大嘗祭はほぼ伝統通りに斎行することができた」と誇らしげです。

 しかし実態は、「幸い政府も採用した」ではなく、「これ幸いと『1・5代』象徴天皇論者が飛びついた」のでしょう。

 その結果、何が起きたのか? たとえば践祚(せんそ。皇位の継承)の一連の儀式は「国の行事」と「皇室行事」とに無惨にも二分され、しかも一部は「即位の礼」の一環として行われました。平安以来の践祚と即位の区別が失われたのです。

「大嘗祭はほぼ伝統通りに斎行することができた」などと評価できるでしょうか? 先生の理論は「本能寺の敵」=「1・5代」論者たちを利するオウンゴールなのです。

 慎んで先生に申し上げます。運動に走る前に、謙虚に研究をし直すべきではありませんか?

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