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朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 日中戦争期  第1回 師弟関係にあった緒方竹虎と葦津珍彦 [戦争の時代]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 日中戦争期
 第1回 師弟関係にあった緒方竹虎と葦津珍彦◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ずいぶん前の8月15日、靖国神社の境内で高齢の女性と出会いました。
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 大空襲で焼けだされ、焼け野原をさまよい歩いたこと、家まで失ったこと、最近まで昭和天皇を恨んでいたことなどを話してくださいました。自分は戦争の被害者だというわけです。

 私が興味を持ったのは、その続きでした。女学校を出て、ある財閥の中心企業に勤めていたその女性は、家が焼けたことで会社から100円という大金を見舞金としてもらったというのです。

「お母さん、あなたは被害者ではなくて、その逆ではないのですか?」

 一瞬の沈黙のあと、女性は「難しいことは分からないけど」と言葉を濁し、それ以上、戦争の話をするのをやめました。

 被害者か加害者か、に分けること自体、無理があると思うのですが、世の中には自分を被害者に仕立て上げ、加害者としての自分に向き合おうとしない人たちもいます。

 その典型が日本のマスメディアです。

 というわけで、月刊「正論」平成10年2月号に掲載された拙文を転載します。なお一部に加筆修正があります。

 蛇足ながら、私が一般の雑誌に署名入りで書いた最初の記事です。その意味で思い出深い、記念すべき論考です。



▽はじめに

 愛媛県が靖国神社の例大祭に玉串料(たまぐしりょう)を公費から支出したことなどが憲法の政教分離原則に違反するかどうか、が争われた「愛媛玉串料訴訟」の上告審で、最高裁は平成9年4月、違憲判決を言い渡しました。

「公費の支出は特定の宗教団体と特別の関わりを持ったことが否定できない」などとした大法廷による判決は大きな社会的反響を呼びましたが、私が注目したいのはこの判決そのものより、むしろこれに関連して説明されている、次のような近代史についての裁判所の理解です。

「わが国では、国家神道に対し、事実上、国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し、きびしい迫害が加えられた」

「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、右のような種々の弊害を生じたことに鑑み、政教分離規定を設けるにいたった」

 多数意見のほかに、3人の裁判官の「補足意見」ならびに「意見」にも同工異曲の「国家神道」批判が繰り返されています。

 いわゆる靖国問題の根底には、戦前の宗教史や先の大戦をどうとらえるか、という歴史理解の問題が横たわっています。そして国家と神道とが結びついた「国家神道」が神社参拝の強制や宗教迫害を招き、「侵略戦争」の元凶となったという考え方は、とりわけ「反ヤスクニ闘争」を中心的に展開してきたキリスト者や知識人のあいだでは“歴史の常識”ともなっています。

 そして、裁判所も同様の理解を示していることをこの判決は示しています。

 戦後のジャーナリズムもまた同じ歴史理解を示してきたことは、朝日新聞が判決の翌日の社説に、「厳格な政教分離規定が設けられた原点は、戦前から戦中にかけて、『国家神道』が軍国主義の精神的支柱となり、あるいは一部の宗教団体が迫害されたことへの反省だったことを思い起こしたい」と書いていることに明瞭に現れています。

 しかし、こうしたいわば「国家神道=戦犯」論は、歴史の真実をどこまでいいあてているのでしょうか。

 朝日新聞論説主幹として戦後の朝日新聞およびジャーナリズムをリードした森恭三は、論説顧問の立場にあった35年前の昭和47(1972)年、新春企画「未来からの回顧 日本外交のビジョン」で、「避けられぬ戦争責任」を取り上げ、次のように主張しました。

「戦争責任は、対外的にも対内的にも、日本人自身の手によって究明すべきであった。それをやらなかったから、何のため戦争をやり、何のため戦争に敗れ、何のため国民が塗炭の苦しみを受けたか。また、なぜ日本は敗戦国のなかではただ一国、戦争犯罪人が返り咲いて政治に大きな発言権をもっているのか。そういった戦後日本の政治問題の一番かんじんなところがボケてしまうのだ」

 森氏の説はじつにもっともですが、「大本営発表」を垂れ流しにして真実を報道せず、国民を戦争の狂気へと駆り立てたといわれる大新聞こそ、「戦争責任」の追及から免れることはできないでしょう。まるで他人事のように、「『国家神道』が軍国主義の精神的支柱だった」などという社説を書いて、口をつぐむことは許されないはずです。

 森氏のいう「戦争責任」について、あらためて考えてみたいと思います。その一つの方法として、ここでは日本を代表する大新聞の「朝日新聞」と、一般には無名に近い神社界の専門紙「神社新報」とにスポットを当て、後者については創刊前史にさかのぼって、新聞人が、あるいは靖国問題ではげしい社会的指弾を浴びている観のある神道人が、先の戦争とそれぞれどう向き合ってきたのか、歴史の真実に迫ってみたいと思います。そうすることによって、ヤスクニ裁判の「国家神道」批判の妥当性が、ひいてはヤスクニ裁判の司法判断の妥当性が明らかになると思うからです。


◇1 緒方竹虎と葦津父子

▽もう一本の糸は頭山満

 朝日新聞と神社新報とは、意外に近い関係にあります。

 というのは、昭和9年から18年末まで朝日新聞主筆として筆政を担当し、のちに自由党総裁となる緒方竹虎と、神社新報の、事実上の主筆としてほとんど一貫して社を代表した葦津珍彦(あしづ・うずひこ)とは師弟関係にあるからです。

 昭和21年に創刊した揺籃期の神社新報を育てたのは緒方であり、その存在がなければ同紙の歴史はあり得なかったでしょう。戦後唯一の神道思想家として知られる葦津の、新聞人としての才能を花開かせたのは、ほかならぬ緒方でした。

 緒方は明治21(1888)年、山形に生まれましたが、4歳のとき内務官僚であった父・道平の転勤で福岡に引っ越し、東京高商(いまの一橋大学)入学までをここで過ごしました。同じ福岡に生まれ育った葦津の父・耕次郎とは同郷のよしみで、古くから縁故があったようですが、2人を結ぶもう一本の糸は、俗に「右翼の総帥」ともいわれる玄洋社の頭山満でした。

「右翼的傾向を好まなかった」という緒方にとって、唯一の例外が頭山でした。頭山もまた福岡の生まれです。緒方は戦後、「戦犯」に指定されたとき、裁判の準備資料「自らを語る」(嘉治隆一『緒方竹虎』1962年所収)にこう書いています。

「東京に来て郷党の先輩として頭山の門に出入りするあいだに、そのまったく私のない人格に打たれた。頭山は暗殺団の親玉のようにいわれるが、彼は一面において学者である。孔子教の論語に対する造詣はきわめて深く、ほとんどその章句を諳んじている。それゆえに彼は世間の想像とは反対に日支事変には最初から反対であった」

 一方、葦津耕次郎は、大正8(1919)年、10歳の珍彦を連れて福岡から上京し、かつて筑前黒田藩の下屋敷が並んでいた麻布・霊南坂の頭山邸の隣に居を構えます。耕次郎にとって頭山は、もっとも畏敬し、傾倒する絶世の英雄であり、頭山の言葉によれば、耕次郎とは「『敬』と『親』をもって交わる」、数少ない間柄だったといわれます(葦津珍彦「頭山満先生」)。

 緒方と耕次郎とがとくに親しく交わるようになったのは、もっとあとで、昭和12年夏の日中戦争勃発以後のようです。耕次郎は3年後の15年6月にこの世を去るのですが、その死を悼んで緒方は、「最近において、私の心境の上に翁くらい強い影響を与えた人はいない」と言い切っています。

 それほどまでの深い交流をするようになったきっかけは、ほかでもない戦争だったようです。緒方の説明によると、こうです。

「翁と私とは同じ福岡県の出身であるが、3、4年前までは、たまに頭山邸などで顔を合わせるくらいで、親しく翁の教えを受ける機会はなかった。それが、ある問題の会合をするようになってから、急に親しくなった。翁としては、そのころ朝日新聞がともすると左翼だという評判を立てられるので、私を通じて国体観念を明徴にしてやりたいという老婆心も一面に手伝っていたと思う。とにかく、一度足を向けられて以来の翁は、ほとんど3日にあげず私の社に立ち寄られ、来られると2時間くらいは、わが国の歴史、祭祀の重んずべき所以、君民一体観、公私一如観などなど、説き去り、説き来たって、帰るを忘れられるありさまであった」(「葦津翁の思い出」)

 緒方のいう「ある問題」とは日中戦争であり、事変によって発生した「支那難民救恤問題」のようですが、そのことは追々述べるとして、まず耕次郎の略歴を見てみましょう。


▽福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家

 耕次郎は、緒方とは10歳違いで、明治11(1878)年に生まれました。生家は福岡・筥崎宮の社家で、父・磯夫は明治維新後、同社宮司(祠掌)に就任し、神祇官復興、教育勅語起草などに関わり、晩年は福岡県神職会長をつとめました。また、日本初の手形交換所を創立し、勧告の貨幣制度改革に取り組むなど活躍した大三輪長兵衛は伯父に当たります。

 耕次郎は終生、熱心な信仰家でしたが、神職として一生を送ることなく、事業家となりました。熱情家にして豪傑でした。「俺の全生命は国家と八幡様(筥崎宮は古くから八幡神をまつる神社として知られています)のもの」というのが信念で、採算確実な事業にも見向きもせず、前人未踏の事業を開拓することに情熱を傾けました。

 満州軍閥の張作霖を説いて鉱山業をおこし、あるいはまた、台湾から檜を移入し、全国数百カ所に上る社寺を建設しました。その一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく、天照大神をまつることに強く抵抗したり、韓国併合に反対するなど、逸話の数には限りがありません。緒方ととくに交流のあった晩年は、社寺建築専門の工務店の経営者でした。

 その後、病に倒れた耕次郎に代わって、珍彦は週に1、2回、朝日本社に緒方を訪ね、父親との連絡役を務めるようになりました。編集部への出入りはノーパスで、情報統制の厳しい当時、報道禁止のニュースにも接することができたようです。

 緒方は、時間があると2時間も、「きわめて懇切に時事を論じ、歴史を語りして、私(珍彦)を教えられたことが多い」(「故緒方竹虎大人の追想」)といいます。

 けれども、緒方と葦津二代の交流は、朝日新聞発行の伝記刊行会編著『緒方竹虎』(1963年)にも記されておらず、一般には知られていません。


◇2 葦津珍彦の上海戦線視察

▽日本軍の暴状

 日中戦争が勃発した昭和12年の暮れ、葦津珍彦は上海特別市の蘇錫文市長の招きで訪中します。そして激戦が伝えられる上海戦線で目を覆うような事態を目撃します。戦線の惨状は予想を絶するものがあった。日本軍の軍規はみだれて暴状著しいものがあった」。珍彦は翌13年1月、帰朝報告にそう書き記しています。

「いまや中支戦線は、日本軍によって荒廃に帰して終わった。すべての婦女子は辱められた。かかる惨事はおそらく近世の東洋史の知らざるところであろう。……この日本軍が皇軍と僭称することを天はゆるすであろうか」(「上海戦線より帰りて」)

 弱冠28歳の正義漢はいったい何を見たのでしょうか。強烈な表現で描写されている事実とはどのようなものだったのでしょうか。

 珍彦ののちの述懐によると、蘇錫文が建てた浦東地区の上海特別市には、戦火を避け、安全を求めて、何十万という難民がジャンクを駆って殺到していました。珍彦はそこで孔孟の古典を想起したといいます。重税を課さず、民心を安からしめる仁政をしき、民の信を得れば、天下の民が集まる。それが政治の第一義である。当たり前すぎる平凡な政治論だが、この孔孟仁政の第一義を確立することこそが大切なのだ、と深く実感したといいます。

 反面、上海戦線では異常な心理が戦場をおおい、戦慄すべき事件が相次いでいたのでした。珍彦は、軍規粛正が人道上からも、祖国日本の信用を維持する上からも必要だ、と痛感し、帰国後、父親とその友人たちに早期和平を訴えました。しかし激烈な報告書は最初、誰にも信用されなかったようです。新聞報道などで伝えられる戦況とあまりにも異なっていたからでしょう。

 暴状の事実を確認したのは、緒方でした。緒方は、珍彦の父・耕次郎に電話をかけてきました。

「きのう珍彦君の話を聞いて驚いた。新聞人として情報に精通しているつもりであった。戦線で2、3の不詳事故の起こったニュースは知っていた。しかし戦線一般の空気が、珍彦君のいうようなものとは想像しなかった。きのうあれから諸方に連絡してみた結果、珍彦君の話が真実だということを確かめ得た。これはじつに悲しむべきことだが、急速に対策を講じなければならない」(前掲「故緒方竹虎大人の追想」)

 珍彦によると、緒方は「蘇氏の『大道政府』は日本当局には人気がない。記事や論説は書きにくいが、存在を国民に知らせることは、市政府の抹殺を防ぐ多少の効果がある」として、「あまりページの多くなかった時代に、全ページの面をさいて、大道政府の多くの写真を特集してくださった」

 1990年から朝日新聞は創刊111年を記念して、『朝日新聞社史』全4巻を出版しましたが、その中の『社史 大正・昭和戦前編』(1991年)は、昭和13年当時の香港を舞台とした編集局顧問・神尾茂による「朝日の和平工作」について記述しています。日中の新聞人の接触から和平の道を模索しようというもので、背後には緒方の存在がありました。

『社史』には記されていませんが、そのきっかけとなったのは葦津珍彦の上海視察であり、耕次郎の働きかけであることは間違いないでしょう。

 翌14年2月、福岡・志賀島で静養する耕次郎にあてた緒方の書状が残されています。日中戦争の平和的解決と日ソ外交の根本解決を切望し、意見を求める耕次郎への返信で、「ロシアには西郷あれど、日本には西郷種切れにて、現在とても不可能と存じそうろう」「支那の方は内閣は交替せるも策なきは旧態依然にそうろう」などと毛筆でしたためられています。

 この年の暮れには論説委員の嘉治をともなって、緒方がみずから訪中します。朝日の和平工作に神道人が影響を与えていたのです。


▽「反軍でない奴は不忠不義だ」

 他方、珍彦の上海視察のあと、伊勢神宮の崇敬団体・神宮奉斎会の会長で、当時随一の神道思想家・今泉定助は日本軍の暴状を深く憂え、上海戦線の総司令官である中支那派遣軍総司令官・松井石根陸軍大将に急遽、特使を派遣しました。また、明治神宮の有馬良橘(りょうきつ)宮司は、明治天皇の御製

いつくしみあまねかりせばもろこしの野にふす虎もなつかざらめや

 を多数、謹書して、戦線の将兵に贈るとともに、政府や軍部に対して、人道尊重について強く進言したといいます。

 今泉は歴代首相や官僚、軍人がその国体論に耳を傾けたほど、当時、もっとも社会的影響力をもった神道思想家であり、他方、有馬は海軍大将で、日露戦争の旅順港閉塞作戦生き残りの英雄です。

 有馬は12年10月に国民精神総動員中央連盟の会長に就任していました。軍の暴走を知悉していたため、老齢を理由に辞退したのですが、政府の重ねての出馬要請に熟慮の末、「国家への奉仕は御祭神への奉祀」と考え、非常な決意で会長に就任したと伝えられます(佐藤栄祐編『有馬良詰伝』1974年など)。

 この二人は耕次郎が信頼し、尊敬する人物で、晩年、「唯一の益友」「百年の知己」といわれるほどの深い交友がありました。

 また頭山の子息・泉は、父・満の揮毫した「仁者無敵」の大書を上海の蘇市長に贈呈したほか、在留邦人に蘇を紹介し、大道政府を支援したといいます。

 つまり、愛媛玉串料訴訟判決がいうように、国家と神道が結びついた「国家神道」が「侵略」戦争を引き起こしたどころか、当時の中心的神道人たちが日本軍の暴走を必死に止めようとしていたのです。

 その中でも耕次郎はというと、緒方によれば、「日支事変(日中戦争)勃発後、翁の何よりの関心は、北支・中支のわが占領地域内における支那難民の身の上であった。飢寒に苦しむ、これら難民の流離の状を考えると、翁は居ても立ってもいられぬ、というありさまであった。この問題を放擲しておいて何の将来の日支提携があるか、というのが翁の意見であった」(前掲「葦津翁の思い出」)といいます。

 アジア主義者で、前述の明治天皇の御製を日ごろから拝誦していた耕次郎に日中の区別はありませんでした。有馬宮司(国民精神運動会長)を中心とする「支那難民救恤運動」を直ちに開始させるよう風見書記官長に進言してほしい、と緒方に依頼したこともあります。実際、緒方をともなって、広田外相に進言したこともあったといいます。

 また、珍彦によると、耕次郎は、とくに子供や老人の身の上を肉親のように案じていました。権力とは無縁の一介の野人でありながら、「自分こそは人類を悲惨から救出せねばならぬ責任者である」と確信する耕次郎は難民問題解決のために、東奔西走して当局者に喉が破れるほどの大声で弁じ立てました。疲れて帰宅すると、一人悄然とうなだれ、はた目にも気の毒なほどだったといいます。

 東亜の将来を憂い、寝食を忘れ、ついに耕次郎氏は健康を損なうことになります。しかし、病に倒れてからなお軍の暴走を必死で止めようと、病床で「国難に直面し、わが政府当局の反省を望む」を執筆し、14年9月に発表します。

「そもそも戦争というものは国家人類のもっとも不祥事であって、国家の死生存亡に関する絶対的理由にあらざれば、これを敢行すべきものではない。……百戦百勝してすでに二周年を経過してなお解決の端緒を見ることのできぬのは、今次事変の目的と理由とが日支両国民をはじめ世界万邦に対し闡明(せんめい)を欠いているからではあるまいか」

 道義のない日本の官憲を送り込んだ満州の「王道楽土」は「横道烙土」の間違いだ。蒋介石政権も反省が必要だが、日本政府も反省を要する。近衛首相の「国民党政府を対手とせず」という声明がなければ、とっくに蒋政府は和を乞うていた──とする苛烈な諫諍(かんそう)論文は発表後、直ちに押収されました。

 活字にならない発言にいたってはもっと激烈で、鎌倉で静養中のところを今泉定助とともに見舞いに訪れた親友の池田清・警視総監が、発言を慎重にしないと「反軍」として司法処分せざるを得なくなる、と忠告したほどだが、耕次郎は「いまの日本で反軍でない奴は不忠不義だ」と強く反論したと伝えられます。

 珍彦によると、政府・軍部内に、耕次郎を「逮捕せよ」という論がわき上がりました。それを抑えたのは緒方だといいます。


◇3 朝日は「南京虐殺」を報道せず

▽緒方の悲壮な決意

 朝日新聞では、日中戦争勃発の前年、昭和11年ころから、大きな動きがありました。

 まず同年2月に二・二六事件が起こりました。有楽町の東京朝日新聞を60名の反乱軍が襲撃したとき、社を代表して反乱軍に応対したのは、東京朝日の主筆で朝日新聞常務の緒方です。

 事件後、東京・大阪両本社の主筆が一本化され、5月21日に緒方は全朝日の主筆となります。さらに数日後には朝日新聞代表取締役に選任され、専務取締役に就任し、緒方は文字通りの朝日の顔となります。

 しかしその背後には悲壮な決意が秘められていました。きな臭さを増す時代の予感のなかで、「朝日新聞の看板を次の世代まで通用させる」ため、一切の「戦争責任」を一人でかぶろうと覚悟したようです。

 主筆の一本化は、「当然にそれから以後の論説委員室の空気を気まずいものにした」。けれども、「その代わり、戦後の今日、朝日をめぐって幾人かの戦争で手を汚さなかった人を残し得たかと思うと、せめてもの心慰めである」(「言論逼迫時代の回想」=「中央公論」昭和27年1月号)と緒方は書いています。朝の来ない夜はありません。すでにして戦後を見定めていたということでしょうか。

 翌12年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発します。近衛内閣は不拡大方針を打ち出しましたが、軍事衝突は上海に飛び火し、戦闘は本格化します。

 いわゆる「南京大虐殺」があったとされるのは同年の暮れです。その事実の有無についてはいまなおかまびすしい議論が続いていますが、『朝日新聞社史』は「日本軍暴行事件」があったという前提で、「真実」を報道しなかったみずからを責めています。

 日本軍の南京突入直後、朝日の特派員も城内に到着し、臨時支局を開設しました。12月4、5日の両日、激烈な「残敵掃討戦」が行われました。中村正吾特派員は、ニューヨーク・タイムズなど外国特派員らと行き会って、「この目で見た南京最後の日、タイムス記者ら語る」を取材執筆し、記事は16日の朝刊に掲載されました。また、朝日の特派員たちは、日本兵に銃を向けられていた無抵抗の中国市民たちを救出したといいます。けれども、「この種の事実は国内への報道を厳禁されていた」のでした。

「南京にて中村特派員十五日発」の記事は、見出しこそ「死都を襲った不気味な静寂」と思わせぶりですが、「虐殺」についてはまったくふれていません。それどころか、街の復興を描いています。

『社史』によると、「南京アトロシティ(残虐)」の真実を事件直後に伝えられなかった後遺症は深く、30年後の昭和46年夏から本多勝一記者が『中国の旅』を連載し、日本軍の蛮行にふれたとき、囂々(ごうごう)たる非難の投書となって現れた。「多くは『中国の旅』が中国側の証言を素直に伝えたことに対する反発であった」と述べています。

『社史』は、防衛庁防衛研修所戦史室がまとめた『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』が、占領直後の敗残兵掃討戦で多数の非戦闘員や住民が巻き添えを食らって死亡したことなどを記していると指摘します。日本政府の公式資料が「南京虐殺」を認めている、と主張したいのでしょう。

 しかし、『戦史叢書』は、終戦後の南京軍事裁判で30万人の軍民、東京裁判では6.2万人以上が虐殺・殺害されたと認定されたことに対して、「証拠を子細に検討すると、これらの数字はまったく信じられない」と、逆に否定しています。したがって『社史』の記述は正確ではありません。


▽受け身の傍観者の白々しさ

 私にとって不可解なのは、「虐殺」事件がはじめて取り上げられた東京裁判のとき、中国は「中華人民共和国」成立前の内戦状態にあり、また、本多が中国を取材した71年6~7月は文化大革命のまっただ中で、林彪(りん・ぴょう)が失脚、殺害される直前の大混乱期でした。上海では文革派が権力基盤を拡大していたときではなかったでしょうか。「虐殺」が政治利用されたであろうことは、十分、想像されますが、『中国の旅』にはこうした時代背景が見えてこないのです。『社史』も同様です。

 ただ、私は「虐殺」を全面否定するつもりはありません。好むと好まざるとに関わらず、戦争は国際法が愚かにも公認する、国家による相互破壊であり、相互殺戮です。葦津珍彦の上海戦線報告から類推すれば、生きるか死ぬかの戦場で「何もなかった」とは思えません。

 それでなければ、退役した松井司令官がどうして文子夫人と二人、熱海の伊豆山にひきこもり、隠遁生活を送るでしょうか。中国革命の孫文を敬愛し、「アジア人のアジア」を信条としていたという松井が、なぜわざわざ日中双方の将兵の血が染みこんだ土を激戦地から取り寄せ、瀬戸焼にして高さ一丈の観音像を建立し、「興亜観音」と命名して読経三昧の晩年を送るでしょうか。

 それはともかくとして、朝日新聞は結局、「南京虐殺」を報道しなかったのです。なぜでしょうか。

 朝日新聞は平成7年2月から「戦後50年 メディアの検証」の長期連載をスタートさせました。敗戦から半世紀がたって、ようやく実現したらしい画期的な意欲的な企画で、第一回目には「新聞の戦争責任」が取り上げられました。

 この記事には、「南京大虐殺」当時、ニューヨーク特派員だった森恭三は、「虐殺を伝えるアメリカの新聞を見て、それを詳細に打電したが、一行も掲載されなかった」とあります。

 このくだりは、森の『私の朝日新聞社史』からの引用のようですが、森の著書には、日本軍による南京虐殺事件は、アメリカの新聞には大々的に報道された。森はこれらを打電したが、記事にはならなかった。森は「出先と本社とのズレ」を痛感した、と書かれています。

 森の無念は理解できないわけではありませんが、「真実」を伝えるために新聞人はどこまで努力したのでしょうか。「報道を厳禁されていた」「打電したが掲載されなかった」というまるで他人事のような表現に、「新聞の戦争責任」に当事者として対峙しきっていない、受け身の傍観者の白々しさを感じるのは、私だけでしょうか。

 これに対して緒方は、前掲の「言論逼迫の回想」で、「私は戦時中、一新聞の責任者としてあまり当時の不愉快な記憶を呼び起こしたくない。何となれば、いかに弁解しても、大きな口を叩いても、結局において戦争を防ぎ得なかった責任をまぬかれないからである」と書いています。弁解を好まない緒方の真摯な姿勢に、私は時代の傍観者との「ズレ」を感じてしまうのです。


◇4 『社史』に「戦争展」の記載なし

▽靖国神社の会場で数十万人が来観

 戦争という時代ゆえに「真実」を報道できなかったとするなら、戦後はどうでしょうか。新聞人のモラルは戦後、回復されたのでしょうか。私にはそうは思えないのです。

 昭和14年1月8-15日、東京朝日新聞は、陸軍省の後援で、靖国神社の外苑を主な会場とする「戦車大展覧会」を主催しました。戦車150台を連ねて東京市中をパレードする「大行進」や陸軍の専門家の「大講演会」も開催されました。

 縮刷版を見ると、「いよいよ明日から本社大戦車展 轍(わだち)とどろく鉄牛100台 観兵式場から大行進」「きょう鉄牛大行進 同時に九段で戦車展開く」「無敵戦車、帝都を大行進 延々一里半の戦列 『戦車展』春の人気独占 叫ぶ万歳 目に涙さえ 銀座の興奮『神風』以来」「大祭そのまま 展覧会の初日の雑踏」などの大見出しが、連日のように躍っています。

 開会翌日の朝刊は「陸軍始め」の日の「戦車大行進」の模様をいかにも名調子で伝えています。耳をつんざく轟音、沿道の熱狂、万歳の叫び、歓声、紙吹雪、突っ立ったまま涙を流す老人、感極まって飛び出す日劇ダンシングチーム、テープや花束を投げる銀座のデパートの女子店員──150台を超える「鉄の猛牛」の隊列はさぞかし壮観であったでしょう。

 また、日比谷公会堂で開催された「大講演会」は、戦数百人の聴衆が石碑突せずに静聴したといいます。講演の前に挨拶に立ったのは緒方です。「戦車展」は「無慮数十万人」の来観者を数え、名古屋、大阪でも同様に催されました。

 朝日新聞はほかにも、国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけています。『社史 資料編』(1995年)には朝日が主催した展覧会、博覧会の一覧がありますが、それによると、昭和6年の満州事変以降、16年の大東亜戦争勃発までに限ってみても、次のようなものがあります。多くは軍部の後援によって開催され、博覧会は100万人以上の入場者数を記録する盛況ぶりです。

【おもな展覧会】
 戦争美術展覧会=昭和13年5月18日-6月5日。東京府美術館。
 第一回聖戦美術展=同14年7月7-23日。東京府立美術館。
 第二回聖戦美術展=同16年7月1-20日。東京・上野の日本美術協会。
 大東亜戦争美術展=同17年12月3-25日。東京府立美術館。
 陸軍美術展=同19年3月8-30日。東京都美術館。

【おもな博覧会】
 満州事変一周年記念展覧会=昭和7年9月11-20日。大阪・朝日会館。
 支那事変聖戦博=同13年4月1日-5月30日。阪急西宮球場。
 大東亜建設博覧会=同14年4月1日-6月20日。阪急西宮大運動場。
 航空総力大展覧会=同14年10月1-31日。大阪・第二飛行場。

 このうち、西宮球場とその外園で行われた「支那事変聖戦博」を主催したのは大阪朝日新聞で、こちらは陸海軍省の後援でした。


▽靖国神社国家援助を当然視した緒方

 不思議なことに、『朝日新聞社史』には大阪朝日の「聖戦博」は載っているのですが、東京朝日の「戦車大展覧会」の記述はまったく見られません。『社史 資料編』の博覧会の一覧にも年表にも記載はありません。単純なミスなのでしょうか。それとも靖国神社が会場だったことに、何か不都合でもあるからなのでしょうか。

 疑問に答えて、朝日新聞広報室は「すべての社業を社史に網羅するのは物理的に困難。意図的に外したのではない」「(掲載・非掲載の)はっきりとした基準があるわけではありませんが、取り上げているのは(当時)社業にとってとくに重要なこと」と説明しています。

 だとすると、当時の少ないページ数の中で、連日、写真を多用し、関連の連載ものも含めて複数のページにわたって大々的に報道し、講演会には主筆が挨拶するほど社をあげて取り組んだ大イベントは「重要」ではない、ということになり、説明がつきません。「古傷にふれたくない。ふれられたくない」「戦争協力の実態を糊塗したい」というのが本音なのではないでしょうか。

 さらにいえば、話が飛びますが、平成9年2月、朝日新聞は、新聞休刊日の前日の日曜日というタイミングで打たれた共同通信の「単独スクープ」を急追するようにして、「愛媛玉串料訴訟」判決の予測記事を掲載しました。最高裁の合議内容にまで踏み込んだ記事は前代未聞で、秘密漏洩疑惑にまで発展しました。記者同士のはげしいスクープ合戦というより、靖国神社に対する際だった偏見があるのではないか、という疑いが晴れません。

「いたずらに自社の業績を自画自賛する、お手盛りの履歴書ではけっしてなく、客観的に誇れるものは誇り、同時に、過ちは過ちとして包み隠さず記述して、この冷静、客観的な史実の編集から、私たち朝日人の実りある反省と、将来への明るい展望を引き出せる、歴史的な『教書』になれば、と願って」(「序」朝日新聞社長中江利忠)刊行されたという『社史』が「南京虐殺」の「真実」を伝えなかった「新聞の責任」をみずから追及していることには敬意を表しますが、その「反省」の上に立っているはずの戦後の朝日新聞は、「真実」に対する新聞人としての謙虚な姿勢を回復したといえるのでしょうか。

「真実」が伝えられないのは、けっして戦争の時代だけに限らないということでしょう。

 余談ですが、戦後、緒方は東久邇内閣や吉田内閣にたびたび入閣しました。そんな晩年のある日、神社新報論説主幹の葦津珍彦が新年用の談話をとりに訪ねると、「緒方さんは、正月の話で筥崎の『おしおい』の思い出を語り、靖国神社法案の話になったら、予想外なほどの積極的な言葉で、靖国神社に対する国家援助の当然なることを力説された」(前掲「故緒方竹虎大人の追想」)のでした。

 記事掲載直後の31年1月下旬、緒方は帰らぬ人となります。小我筑地の談話が「20年来の恩師との永遠の別れ」でした。最後の会話が靖国問題についてだったというのは、何か因縁めいたものを感じさせます。葦津がほとんど生涯をかけて取り組んだのは、「靖国神社国家護持」でした。


▽ふたつの「神道」

 通俗的な歴史理解では、神道あるいは神道人は「侵略」戦争のもっとも戦闘的な推進者と見られていますが、事実とはいえないでしょう。制度的に見ても、明治15年の神官教導職の分離以来、官社神官は祭祀の枠に閉じ込められ、宗教を語り、葬儀に関わることさえ禁じられました。

 日本の民族宗教である神道は軍国主義でも侵略主義でもありません。かといって単純な平和主義でも反戦主義でもありません。そのことは、土着の神道人そのものである葦津父子が、我が身を省みずに日本軍の暴走を止めようとし、日中の早期和平を訴え、奔走したことからも分かります。

 だとすると、冒頭の愛媛玉串料訴訟判決に見られるような「国家神道」批判がなぜ一般に流布しているのでしょうか。

『神社新報五十年史 上』は、「陸軍と神職の立場の相違」に言及しています。それによると、日本の明治以来の歴史は、在野の「日本主義」と軍・官僚の「欧化主義」との対立としてとらえられる。軍や官僚の国民に対する思想宣伝は「神道精神」を基本に行われたが、彼らの掲げる「神道」は伝統的日本人が抱く「神道」とは異質だった、と記されています。

 つまり、土着の「神道」と欧化主義的な「神道」、民衆の信仰と国家の祭祀という、二つの「神道」が存在したということでしょうか。官僚が作り上げた「国家神道」の成立基盤は伝統的神道の信仰ではなくて、神道に擬せられた近代合理性の精神だったということになります。

 たとえば明治神宮は、明治天皇崩御のあと、国家の『強制』どころか、国民の強い要望が政府を動かし、大正4年に造営が始まるのですが、『五十年史』によれば、創建直後は賽銭や祈祷が禁じられました。それでも神前には賽銭の山が築かれ、やむなく賽銭箱が設置されたのですが、そうした民衆の信仰心は政府官僚からは「困った奴め」と蔑視されたといいます。

 いわゆる「戦争責任」についてはどう考えればいいのでしょうか。批判にさらされている神道人自身はどう考えているのでしょう。

 葦津は、『明治維新と東洋の解放』(1964年)で、大東亜戦争には日本人の良きものと悪しきものとがすべて注ぎ込まれた。伝統的な神道的道義精神と明治以来の帝国主義の野望。解放者の使命と征服者の専横。日本軍の意識の中には、二つの潮流が激突しながら流れていた、と書いています。それは同時に二つの神道のぶつかり合いでもあったのでしょうが、日本の戦時指導者には「『征服』の野望を秘めて、『解放』の教義を説いた者が少なくない」と葦津は指摘しています。

「国家神道」理解の難しさはこの辺にあるようです。戦争はいうまでもなく国家の行為ですが、ひとたび国権の発動によって戦端が開かれれば、在野土着の神道精神が燃え上がります。神道が軍国主義を導いたのではないということでしょう。ちょっと考えてみれば分かることですが、軍国主義一本槍の信仰が民族の歴史とともに何千年も続くはずはありません。

 ところが平成9年春の「愛媛玉串料訴訟」判決に見られるような「国家神道」観は、すでに昭和52年の「津地鎮祭訴訟」の最高裁判決にあらわれています。判決理由には「わが国では、国家神道に対し、事実上国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは宗教団体に対し、きびしい迫害が加えられた」「明治維新以降、国家と神道とが密接に結びつき、前記のような種々の弊害を生じた」というほとんど同じ文言があり、俗流史観が「判例」として定着していることに驚きを禁じ得ません。

 しかし、近代の神道史は、「司法の番人」たちが思い描くほど、単純ではありません。それは次に取り上げる日米開戦後、東条内閣時代の新聞人と神道人の姿を見れば、より明らかとなるでしょう。

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