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朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 東条内閣期  第2回 戦時体制と闘った在野の神道人たち [戦争の時代]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年4月10日)からの転載です


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 朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 東条内閣期
 第2回 戦時体制と闘った在野の神道人たち◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 月刊「正論」平成10年3月号に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。


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 前回(朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 日中戦争期 第1回 師弟関係にあった緒方竹虎と葦津珍彦https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-09-1)は、昭和12年夏の盧溝橋事件をきっかけとする日中戦争勃発以後、日本軍の暴走を必死で阻止しようとした葦津耕次郎、珍彦父子ら神道人たちを描きました。

 平成9年の「愛媛玉串料訴訟」(愛媛県が靖国神社の例大祭に玉串料として公費を支出したなどことが憲法の政教分離原則に違反するかどうかが争われた)の最高裁判決に、

「わが国では、国家神道に対して事実上、国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた」

「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、右のような種々の弊害を生じた」(多数意見)

 とあるように、俗流の「国家神道」史観では、神道あるいは神道人こそが戦前・戦中の宗教迫害や「侵略戦争」の推進者であるように考えられていますが、事実はそれほど単純ではないことが理解されるでしょう。

 たとえば、明治以来、政府が推進する神社合祀に猛反対した植物学者で民俗学者の南方熊楠は、

「およそいかなる末枝小道にも、言語筆舌に述べ得ざる奥義あり。いわんや国民の気質品性を養成し来たれる宗教においておや」(白井光太郎宛書簡=『南方熊楠全集7』所収)

 と書いていますが、時代を超えて、民族が受け継いできた宗教が本来、好戦的で野蛮なものであろうはずはありません。

 今回は、昭和16年12月の日米開戦後、言論・思想をきびしく統制する東条内閣の戦時体制と果敢に闘った土着の神道人の苦闘を、前回に引き続いて、葦津耕次郎、珍彦(うずひこ)父子を中心に描こうと思います。

 葦津珍彦は戦後唯一の神道思想家であると同時に、神社界の専門紙「神社新報」の事実上の主筆をつとめ、30年も前にソ連崩壊を予測していたほどの優れたジャーナリストでもありましたが、その新聞人としての才能を育てた「恩師」、朝日新聞主筆・緒方竹虎(のちの自由党総裁)の戦時中の苦悩もあわせて描きます。


◇1 日米開戦を予見した森恭三と葦津父子

▽「もっとも微妙な事態に直面」

 朝日新聞論説主幹として戦後の朝日のみならず日本のジャーナリズムをリードした森恭三は、昭和10年代前半から、ニューヨークに支局にあって、日米開戦をいち早く予見していたようです。『私の朝日新聞史』に、おおむね次のように書いています。

「1939(昭和14)年9月にドイツ軍がポーランドを攻撃し、さらに周辺国を電撃的に次々に占領していったとき、アメリカの参戦は間違いないと思った。一年後の40年9月末に日独伊三国同盟が締結されるときには、危険だと考えた。アメリカの対独戦争と日独同盟を重ね合わせれば、日米戦争とならざるを得ないからである」

 三国同盟の成立が伝えられたのは9月28日の朝刊ですが、そこには次のような記事が掲載されています。

「アメリカは2500ドルの対支借款、くず鉄の全面的輸出禁止と相次いで対日報復手段を発表、これに対する日本側の反撃が予想され、日米関係はここにもっとも微妙な事態に直面することになった。……アメリカにおける有識者の懸念するところは、日米が双方とも昂奮し、一方の対抗手段に他方がより以上の対抗手段をももって応え、かくして惰力によって双方にとって不幸なる最終段階に突入し、あるいはソ連の赤化勢力の太平洋への進出の契機を作ることである」

 この時代、これほど率直な記事が掲載されていることは驚きである。しかもリベラルな気風がより残っていたといわれる大阪朝日の場合は、同じ記事を一面トップで伝えています。

 その後、ルーズベルト大統領はドイツと戦っているイギリス軍の「兵器廠(へいきしょう)」となることを明らかにし、41年3月になるとアメリカは「中立法」を廃棄し、「武器隊予報」を議会で成立させます。

 このとき森は、日米戦争が不可避に担ったと断定します。同年4月に日米交渉がはじまりますが、アメリカの参戦態勢はすでに確立されていたのに、日本は政府も軍も最後まで気がつかなかった、と振り返っています。

 森は、日米戦争を回避するためには、ヨーロッパでの戦争とアジアでの戦争を断ち切ることが必要であり、そのために日本が日独軍事同盟を破棄するとともに、中国大陸から全面的に撤兵し、中国との和平を図るという非常手段をとることが必要だと考えていました。

 森は、日米開戦は不可避だ、と繰り返し書きました。この判断に基づいて、41年春には家族を日本に送り還していますが、当時のニューヨーク支局長・細川隆元(のちの政治評論家)にこうした認識がなかったことを、森は嘆いています。


▽ファシズムと神道は異なる

 日米開戦の危険を予感していたのはニューヨークの森ばかりではありません。葦津父子も日本にあって、戦争の危険を察知し、開戦回避の努力を続けていました。

 珍彦によると、父・耕次郎は、一刻も早く対支戦闘を打ち切り、和平を急ぎ、米英ソ連とも和解し、日本国の立て直しを図るべきであり、無用なトラブルを起こしてはならない、と考えていました。

 日中戦争解決のために奔走した耕次郎が心労で倒れ、病床にあった昭和14年12末に発行された論文集『あし牙(あしかび)』には、「日支事変の解決策」(12年9月)、「『国民精神総動員』に対する希望」(12年9月)、「日支事変の解決法」(13年6月)などが集録されています。

 このうち「日支事変の解決策」は、冒頭に明治天皇の御製

よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ

 を引用し、

「平和は、人類幸福の根源にして、平和なきところに幸福はない。人類相互、国際相互、いずれの場合といえども、すべて平和は、相互道義の交換により招来し得るものにして、道義なきところに平和はない、幸福はない」

 という書き出しでは始まり、「道義」の回復と「東洋永遠の平和幸福」の確立を訴えています。

 葦津父子が必ずしも一心同体だったわけではないでしょうが、耕次郎の考えを受けて、珍彦は行動を開始します。

 耕次郎死去の直後、15年9月に三国同盟が締結されると、珍彦の周辺では、

「三国同盟によってイギリスを討つべし」

 という論が高まったといいます。同盟締結によって対米英戦が避けられなくなったという理解ではなくて、むしろソ連を中立させることが可能になって、という見方が広がってきました。危険を感じた珍彦は、「三国同盟反対につき同志への書簡」を発表し、対米英反対論を展開しました。

 森の場合はパワーポリティクスの観点から三国同盟の危険性を見抜いたのでしょうが、葦津らはそればかりではありませんでした。政府・軍部が導入しようとしているドイツのナチズムやイタリアのファシズムは日本古来の神道精神とはまったく異質だという認識があったのです。

 ヒトラーの著作には日本を蔑視する表現すらあります。ドイツ民族の優秀性ばかり強調する著書もあります。先述した明治天皇の御製に示される天皇の大御心とナチスの思想とは矛盾します。

 珍彦ら在野の神道人は、

「ファシズムと神道の根本的相違を指摘し、日本軍の中国における戦闘行動が陛下の軍の行動として相応しくないと批判する運動を、朝日新聞の緒方竹虎らと密接な連絡をとりながら進めていた」(『神社新報五十年史 上』)

 のでした。珍彦は異質な外来思想に侵されていく危険を「友人」「年長諸先生」に訴えました。しかし「影響力を発揮し得なかった」のでした。


▽「不期生還」

 昭和16年12月8日、いよいよ開戦の詔勅が渙発されました。葦津は

「これまでの一切の思念を断ち切って、陛下の忠誠の臣民として戦うほかはない」

 と決意しました。

「ハワイ、マレーの大勝が報道されて、国民は狂喜した。私ももちろん喜んだが、これまで一年考えてきたことが、まったく無意味な妄想のように思われた。緒方さんが日比谷で演説しているのを、ラジオで聞いた。その表裏の真意がまったく分からなかった」

 と葦津は書いています。開戦を阻止できなかった無念と脱力感が伝わってくるくだりですが、とはいっても32歳の若輩、

「天下の大局について妄想しても水泡のようなもの」でした。

 明くる日か、そのまた翌日、銀座で緒方に会うと、緒方は若者たちの「生還を期せざる」敢闘を涙を浮かべて語り、

「攻撃機を一機でも多く生産できるよう募財を進めたい」

 と話したといいます。12年の日中戦争勃発後、朝日新聞は「軍用機献納運動」を提唱し、進めてきたのですが、この国民運動は日米開戦後、いちだんと強調、強化されました。

 共感した葦津は、翌日、亡父から譲り受けた工務店の会計を調べ、できうる限りの献金を行いました。年末の現金をゼロにする計算でした。小企業相応の金額をはるかに超えていたため、緒方は不渡倒産を心配しました。けれども葦津は心配をさえぎり、代わりに

「『不期生還』と書いてください」

 と求めたといいます。

 緒方が揮毫した、横一間にもおよぶ四文字はいま、葦津の提唱で30数年前に創設された明治神宮の武道場「至誠館」のロビーに掲げられています。緒方らしい骨太の文字ですが、心なしか憂色を帯びているようにも見えます。どんな思いで、緒方はこれを書いたのでしょう。

 朝日新聞発行の伝記『緒方竹虎』に、終戦直後の昭和20年12月、連合軍に戦争犯罪を問われながら、健康を害していたため巣鴨拘置所への入所を延期し、自宅静養していたころの心境を書いた「遺稿」が引用されています。そのなかで緒方は開戦前夜を振り返り、自分を責めています。

「独り静かに敗戦の跡を追憶すると、何としても責任感のひしひしと胸に迫るものがあり。それは……自分の半生を投入した新聞記者ないし新聞主筆としての責任である。……日独伊三国同盟が調印されたとき、日本の新聞幹部の大多数は、これに反対であったと思う。……
 しかしいかなる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を懐きながら筆に反対を唱えなかったのは、そもそもいかなる悲惨事であったか。それは誰に向かっていうのでもない。日本一の新聞の主筆であっただけ、自分は自分を責めねばならぬのである」


◇2  統制の時代に迎合した大新聞

▽説明にならない理由

 平成7年2月にはじまった朝日新聞の連載「戦後50年 メディアの検証」は、戦前・戦後の言論統制下の新聞の実態をみずから検証する、従来にない画期的な企画で、新聞が統制の時代に迎合した姿を描きました。

「4 軍神」では、

「満州事変から2・26事件を経て太平洋戦争へ。急展開する時代のうずの中で、言論報道の自由は窒息状態に追い込まれた。抵抗力を失った新聞は『政府・軍部の伝声管』(塚本三夫・中央大学教授)となって人々を『聖戦』に駆り立てた。そのための格好のテーマとされたのが真珠湾攻撃の『九軍神』に代表される軍国美談だった。敗戦までの3年半あまり、新聞は紙面を『戦意高揚』で塗り込める」

 と書いています。

 また、「5 検閲と報道統制」では

「敗戦まで新聞など日本のメディアは、あらゆる分野で何をどう伝えるかについて、軍・政府の統制を受けていた。統制は満州事変以降、太平洋戦争末期になればなるほど厳しさと細かさが増していった。新聞側は、その流れに強く抵抗できないまま、次第に迎合していく」

 と記しています。

 たしかに戦前・戦中、「新聞の自由」「報道の自由」は奪われていました。「言論の自由はなかった」のは、まさにその通りでしょう。

「統制に反して新聞を作ることは、当時の検閲体制の下では事実上不可能だった。もしできたとしても、発禁などの処分が待っていた」。

 実際、汪兆銘の極秘来日をスクープした「東京夕刊新報」が新聞法と軍機保護法違反に問われ、危機時の掲載からわずか1カ月で廃刊に追い込まれたことを、「メディアの検証」は伝えています。

 しかし、「自由」を奪われていたことが、時代に「迎合」していったことの合理的説明になり得るのでしょうか。『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』(1995年)は、「新聞統制機構の確立」や「日本新聞会の発足」を追い、「新聞の自由」が奪われていく過程をくわしく説明しています。そこから浮かび上がってくるのは、権力と対抗して闘う新聞人の勇姿とはほど遠い、権力にいたぶられる哀れな受け身の姿なのですが、はたして真実はそうだったのでしょうか。

 たとえば、日米開戦を目前にして、昭和16年5月、「社団法人日本新聞連盟」が設立されます。『社史』は、新聞会は統制機構をつくって再編成すべきである、という政府・軍の圧力に抗して、不利な条件を飲まされるより先手を打った方が得策、という朝日の緒方の判断から「新聞事業の自治的統制団体」を発足させたと説明していますが、結局、政府の統制に屈したことは否めません。そうした実態を招いた真因はどこにあるのでしょうか。


▽商業ジャーナリズムの限界

 葦津珍彦の子息の泰國は『日本の新聞百二十年』(年)で、新聞連盟は「一応民間の自主機構」だが、連盟設立で新聞が

「実質的には国の指令で動くスピーカーにされてしまった」

 と書いています。その原因は、ほかならぬ新聞自身が作った自業自得と指摘しています。

 泰國によれば、いまだ報道の自由が確保されていた時代、新聞はこぞって国民に「反英米」「反支那」をあおり、読者を獲得した。主義主張ではなく、新聞の営業政策に動かされた国民の世論が、戦時下の政府に強力な統制を可能にさせ、その結果、今度は新聞が金縛りにあい、言論の自由を封殺された。つまり、「社会の木鐸(ぼくたく)」としての新聞を無力化させた第一の原因は、「ビジネス」としての新聞だというのです。

「新聞各社は、日本にとって、米英がどれほど脅威であるかを知っていた。知っていながらそれを隠し、世論にこびて世論をあおった。そして自分の首を絞め、日本の首を絞めていった」。

 泰國は手厳しく批判しています。

「大東亜戦争の末期は、いったいこれが新聞史というジャンルに入るのかどうか、私は原稿を書きながら、首をかしげる状態である。新聞社と名乗る会社は存在した。記者と称する職業はあった。しかし新聞社は軍の印刷所であり、記者は筆耕の職工であったのではなかったか」。

 筆を曲げるくらいなら、なぜ筆を折らなかったのか、記者としてのプライドはなかったのか、と泰國は迫っています。

 緒方は戦後、「米内光政を憶う──三国同盟をめぐって」(「文藝春秋」昭和24年8月号)で、

「日独伊軍事同盟は日本にとって和戦いずれを選ぶかの岐路であった」

 と述懐しています。けれども、先述したように、腹では反対でありながら、筆で反対を唱えることができなかったのでした。緒方はその背景を、戦争裁判の準備資料「自らを語る」でこう告白しています。

「僕は1921年、ニューヨークのネーション社を見たとき、新聞が強い主義主張をもって立つためには週刊新聞的な少人数によって作られる広告収入に依存しないものでなくては駄目だということを深く感じた。新聞社の収入が大きくなればなるほど資本主義の弱体を暴露するのである。朝日新聞もまたその例に漏れない。新聞資本主義は発禁や軍官の目を極度におそれる。
 満州事変以来、その資本家をめぐる重役を不安ならしめないようにしながら少しでも新聞の立場を貫こうとすることはあまり愉快な仕事ではなかった。それでもなお多少の新聞的良心を捨てなかったのであるが、昭和13年国家総動員法が布かれるにいたって、ついに手も足も出なくなった。新聞記者としてかりに筆を曲げぬまでも、いうべきことをいわずして過ぎるほど苦痛はない。
 いわゆる新体制運動に対し、日支事変に対し、三国同盟に対し、大東亜戦争に対し、朝日新聞にもし幾分かの弁疏(べんそ)が残されているとすれば、それは一番遅れて賛成したという意外に何ものもない」

 緒方が見据えているのは、新聞ビジネス、商業ジャーナリズムの宿命的限界なのでしょう。もとよりジャーナリズムはビジネスとして成り立ちがたい。新聞経営が赤字になることは分かり切っている。大所帯になればなるほど、赤字はかさむ。緒方はジャーナリストと経営者のはざまで、どれほど苦しんだことでしょうか。

 緒方は続けて、

「昭和16年12月8日の大詔渙発はこの意味からむしろ僕の両親の負担を軽くするものであった。大詔ひとたび渙発さるればただ戦うのみである」

 と述懐しているが、それは掛け値なしの実感、本音なのでしょう。

『朝日新聞社史』はいかにも新聞が戦争回避に努力した平和主義者のように書いていますが、『社史』自身が認めているように、じつに皮肉なことに、そして驚くべきことに、政府による情報統制が進むことで新聞社の販売経費は節減され、一方、発行部数は紙不足の時代にもかかわらず、じつに戦後の高度成長期を上回る比率で拡大し、昭和15年には全社で300万部を超え、社の収入も増大したのです。

 愛知大学の江口圭一は、『日本帝国主義論』で、

「強調されねばならないのは、この両大紙(朝日と大阪毎日・東京日日)が新聞社としての能力・機能のほとんどすべてを傾注して(満州)事変の支援につとめ、事変そのものを自己の不可欠の構成部分に組み込み、戦争を自己の致富の最有力の手段として、この制覇を成し遂げたという事実である」

 と書いています。

 満州事変に始まる、無謀で愚かともいうべきあの戦争を踏み台として、大新聞は大きく成長したのです。『朝日新聞七十年史』は「経理面の黄金時代」「新聞は非常時によって飛躍する」とまで表現しています。

 その一方で、仁義なき大新聞の読者獲得競争やビジネス競争に巻き込まれて、「時事新報」や「国民新聞」など、小なりといえども個性的なクオリティー・ペーパーは廃刊、吸収を余儀なくされ、消えていきました。

 緒方は前述の「自らを語る」に、昭和13年の国家総動員法成立で「手も足も出なくなった」と回顧していますが、抜き差しならない事態に立ち至る前に、手を打つことはできませんでした。というよりも、軍部と提携して、営業政策的に「戦争キャンペーン」を繰り広げる大新聞は、統制に迎合するどころか、むしろ「時流の演出者」だったのでしょう。東条首相の政敵・中野正剛の死、そして日本の敗戦はその帰結ではなかったでしょうか。

▽中野正剛の死

 朝日新聞は昭和18年正月早々、発禁処分を受けます。問題となったのは、元旦の新聞に掲載された衆院議員・中野正剛の署名論文「戦時宰相論」でした。情報部の検閲はパスしていたのですが、東条首相の逆鱗に触れ、発禁になったのです。緒方の「人間・中野正剛」(「文藝春秋」昭和25年8月号)によると、こうです。

「一文の趣旨は『東条に謹慎を求むるにあるのだ』と語っていた。『戦時宰相論』は一字の無駄もない荘重な名文章であった。そこには粛殺の気に迫るものはあるが、反戦とか変乱の示唆とか政府の忌諱にふれるべきものは何もののもない。したがって東条の一顰一笑(いっぴんいっしょう)を極度に病んだ当時の検閲官憲すら何らの危惧なく明けて通したのであった。
 しかるに驕慢(きょうまん)の極に達した東条は朝食の卓上これを一見するなり、怒気満面かたわらの電話機を取り上げ、彼みずから情報局に朝日新聞の発売禁止を命じたのである。驕慢の彼に中野正剛の名が端的に目障りだったのであろう」

 同年10月、中野は東条内閣打倒の重臣工作の嫌疑で検挙され、釈放後、自宅で壮烈な割腹自殺を遂げます。中野をそこまで追いつめたものは何だったのでしょうか。

 緒方は

「自刃と聞いた瞬間、ついに東条によって殺されたなと思った」(前掲「人間・中野正剛」)

 と書いています。遺体と対面したあと、政治部のデスクにもどった緒方は

「東条のような奴は縛り首にあうがいい」

 と吐き捨てるようにいった、と『社史』は記しています。中野の葬儀委員長を務めたのは緒方でした。緒方にとって、中野は小学校、中学校時代からの友人で、東京高商から早稲田専門部に移ったのも、朝日に入社したのも、中野の勧めからでした。中野は政治家になる前、朝日の記者でした。

 しかし「東条によって殺されたな」と緒方は思ったといいますが、そうとばかりはいえないでしょう。言論機関である新聞自身がはからずも言論封殺の時代を作り上げてしまったのだとしたら、東条首相を批判するだけでは済まないのではないでしょうか。緒方は生涯の友人として中野の最期を見送りました。けれども、同じ言論人として、中野の言説を支えることはできませんでした。

 新聞人の筆を折る勇気の無さ、主義主張より経営を優先せざるを得ない苦渋の選択が、結局は友人の中野を死に追いやり、幾千万余の国民を死地に赴かせたのではないでしょうか。しかし、それを攻め立てるほどの正義は私にはありません。


◇3 東条体制と闘う在野の神道人

▽百数十種の神道書が発禁処分に

 東条内閣の言論・思想統制に強く抵抗したのは、大新聞ではなく、意外にも葦津珍彦ら在野の神道人であり、ミニ新聞だったようです。

 東条内閣はきびしい統制政策を、独裁的にヒステリカルに社会の隅々にまで及ぼし、思想政策ではナチス流のナショナリズムを押しつけようとしたといわれます。通俗的な理解では、たとえばもっとも社会的影響力のあった今泉定助のような神道家たちこそが、好戦的な戦時思想の強力な推進者とされていますが、事実は異なります。今泉は逆に東条内閣の思想統制の受難者なのです。

 葦津珍彦によると、昭和16年の暮れに「大東亜戦争」という未曾有の大戦争が勃発するや、国民精神の高揚がつよく求められ、人々は今泉に大きな期待を寄せました。今泉は、政治家、官僚、軍人など幅広い人々がその熱烈な神道的国体論に耳を傾けた、当時随一の神道思想家です。歴代総理はほとんどがその教説を聞きました。陸軍参謀本部の要請で、参謀一同に数日間、国体論を連続して抗議したこともありました。

 日米開戦直後の16年末には、今泉は首相官邸で東条首相を前にして神道論を講義しました。翌17年正月にはラジオで連日、国民の決意を促し、その後、各地を旅行し、国体論を講じたといいます(葦津「今泉定助先生を語る」)。

 ところが、東条内閣は、宮内省の官僚が唱えた、天照大神以前の神々を否定し、天照大神信仰に統一する官僚的な合理主義的神道論を正統とし、17年2月、今泉の神道論「皇国史観の展開」(「皇道発揚」17年2月号)をはじめ百数十種の神道書を発禁処分とします。

 今泉が唱える宇宙神としての天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下の神格論は神秘思想に通じ、ナチス流の地上天国論とは通じがたい。民族至上のナショナリズムの根拠としては不適当と判断されたのです。国体を讃美するのみで、現状を肯定する「国家神道」体制にとって、「皇道文化」による世界救済、いわゆる「世界皇化」をよびかける今泉の神道論は受け入れがたかったようです。


▽葦津珍彦の東条内閣弾劾

 東条内閣の官僚神学に対して、神道の伝統を侵すものとしてはげしく反対したのは在野の神道人です。東条流の「国家神道」は在野神道の敵対者でした。

 とくに葦津は、緒方からの情報で、日本は戦争に勝てない、戦局を強化し維持しながら、速やかに「名誉ある和平」を求める必要がある、と考えていました。そのためには東条内閣の無責任な言論思想統制を破らなければなりません。戦局は楽観を許さないのに、首相は連戦連勝のデマ放送で国民をあおっていました。天皇が開戦の詔書で

「いまや不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くにいたる。洵(まこと)に已(や)むを得ざるもあり。豈(あに)朕が志ならむや」

 とやむなく戦端を開かれたことを明言し、和平を望まれているのに、「全体主義と民主自由主義の世界的思想決戦」「百年戦争」などと戦線拡大に突き進んでいました。

 葦津は、内閣の情報統制に昂然と抵抗し、弾劾のパンフレットを発行しました。朝日の緒方も密接な連絡をとって、協力したといいます。

『神社新報五十年史』によると、批判の論点は5項目で、葦津は、

(1)古事記は批判してはならない皇国の神典か、それとも中国思想による書籍で、国体違反を含むものなのか、

(2)古事記冒頭の天地創成神話は日本民族の信仰か、それとも中国伝来の思想か、

(3)天之御中主神を否定、あるいは軽視する所論こそ神典を冒涜する説ではないか

 ──などと迫り、同時に検閲の不法性を糾弾しました。

 問題が提起されるや、「報国新報」「皇道日報」「帝国新報」「大日本新聞」など、あまり馴染みのないようなミニ新聞が賛同し、東条内閣打倒をめざす人々が結集しました。神社関係の民間団体である皇天講究所、大日本神祇会の理事らも「個人的立場」で同意を表明、形成は逆転し、官僚神学を立てた宮内省官吏は依願免職となり、逆にその著書が発禁となりました。何よりも内閣の維新を著しく傷つけることになり、17年8月、検閲方針は撤回されざるを得なくなります。


▽戦時刑事特別法の改正に反対

 18年3月、東条内閣は、前年3月に施行された「戦時刑事特別法」の改正を強行し、「戦時に対し国政を変乱する」おそれのある一切の言論を禁圧しようと目論みました。

 葦津はみずから実質的な編集責任者をつとめる「報国時報」に次々と批判の論説を発表し、抵抗しました。きわめつきは、神平隊の天野辰夫、前田虎雄両人の東条批判を「報国新報」(3月7日)に同時編集し、貴族院、衆議院で頒布したことです。議場への入場キップは中野正剛の協力で手に入れたようです。

「吾人は警告せねばならぬ。幕府専制の武将といえども、『天皇』より将軍宣下の御沙汰を拝したる歴史的事実は、あまねく人の知るところである。彼らもまた自己をもって『天皇の御信任ある者』と錯誤したのである。征夷大将軍もまた『天皇の御任命』によりて、その権力を得たのである。ただこれを濫用し、過度に拡張したるがゆえに、皇国体をみだす者となったのである。
 在朝の有司諸卿、諸卿が一億の皇国民の赤子の真情に信頼するあたわず、天下の公儀公論を敬するの道を知らず、これを暴圧せむとする権限を要求するとき、諸卿はすなわち専制的幕府を再建せむとするの危機に瀕するものなるを悟らねばならぬ」

「前田虎雄」の筆名で掲載されたこの論説は、前田と共謀して葦津が書いたものといわれるが、翼賛政治のこの時代、筆者の真情は議員たちにどこまで届いたでしょうか。

 葦津によれば、大政翼賛会は今泉の主張を一つの源流とします。今泉は、西欧流の功利的政治原理を破棄し、政党を解消し、日本独自の祭政一致の道義政治に還れ、と勧告しました。皇祖の神勅をよく学び、神勅を奉じていくように努めれば、おのずから一億一心の道義政治が実現する。議会政治家は政権争奪の政党を解消し、禊祓(みそぎはらい)を修業し、私心私欲を去り、皇祖神の神勅をかしこみ、政府に対する厳正なる批判者たれ、といいたかったようです。

 ところが、15年10月にいざ政党が解消され、翼賛政治が始まると、権力争奪の泥仕合は見られなくなった反面、政府に対する批判力をも失い、「無能無能の存在」となってしまいます(前掲「今泉定助先生を語る」)。それはよくいわれるような国家が神道と結びついた「国家神道」体制がもたらした結果ではなく、逆に国家が神道的道議精神を失った結果としての悲劇なのでしょう。

 さて、葦津らの行動に、東条が激怒したのはいうまでもありません。姿をくらました葦津の身代わりに、近親者十数名が検挙され、やがて「人質釈放」のために自首した葦津は、検事に

「帝国憲法上、われわれが不法か、東条が不法か」

 と憲法論争を迫りました。当時の葦津は憲法学者の井上孚麿(たかまろ)から憲法論を学び始めたばかりでしたが、論争には自信がありました。検事は沈黙して、取り調べに来なくなり、釈放された、といいます。

 東条内閣が倒れるのは翌年19年の夏でした。

 余談ですが、東条とは「戦争屋」だったのでしょうか。それとも「独裁者」だったのでしょうか。毎日新聞の岩見隆夫は、映画『東京裁判』を見て、

「貧相で気弱に写り、ただの凡夫にしか見えなかった」

 という「一種の意外感」を書いています(「東条英機論」)。

 政敵の中野正剛は壮絶な割腹自殺を遂げましたが、「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」の「戦陣訓」を全軍に示した東条は敗戦後、二度、自殺をこころみ、二度とも未遂に終わり、「カミソリ東条の威名」とはかけ離れた無様な醜態をさらした。それは「弱い男」の一面だが、なぜ性格的に弱いような軍人が首相となり、大戦争の首謀者を演じたのか、と岩見は問いかけ、

「気弱な面をもつきまじめな人物が非常時の宰相になり、強権を手にしたときの悲劇の典型」

「不幸な時代にめぐり合わせた不幸な軍人宰相」

 と分析しています。

 興味深いことに、東条体制をはげしく追及した葦津は、

「戦中は、東条英機首相は当然裁判にかかるべき犯罪人だと信じていたのですが、(戦後に戦争)裁判が始まってみると、だんだん弁護的な気持ちに変わっていったんです」(鶴見俊輔編『語りつぐ戦後史?』)

 と語っています。東京裁判でキーナン検事らの追及を聞き流しながら大あくびしている東条を見て、

「(人間的に)好きになった」

 と漏らしていたともいいます。罪を憎んで人を憎まず、が日本的神道的精神だということでしょうか。


▽大新聞の“無責任”

 三重県津市が神式の地鎮祭を主催したことが憲法の政教分離規定に違反するかどうかが争われた「津地鎮祭訴訟」で最高裁は昭和52年7月、「合憲」の判決を示しました。判決はともかくとして、判決理由に

「わが国では、国家神道に対し、事実上国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた」

「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、種々の弊害を生じた」

 とあるのは妥当でしょうか。

 このとき最高裁長官としては「合憲」判決を言い渡しながら、一判事としては異例なことにほかの3人の判事とともに「反対意見」を述べ、それでも飽きたらずにさらに長文の「追加反対意見」を書いた藤林益三は、退任後、

「とにかく日本は戦争を起こしたのです。これには、軍国主義と神社神道とが手を結んだことに大なる原因があります」(『藤林益三著作集3』)

 と述べていますが、果たしてそのように断定できるのでしょうか。

 平成9年4月の「愛媛玉串料訴訟」判決は「津地鎮祭訴訟」判決とまったく同じ歴史認識を示していますが、これに対して、可部恒雄裁判官は長文の「反対意見」を書き、

「戦前・戦中における国家権力による宗教に対する弾圧・干渉をいうのならば、過酷な迫害を受けたものとして、神道系宗教の一派である大本教などがあったことが指摘されなければならない」

 と、「多数意見」を批判しました。

 可部のいう神道系新宗教の大本教ばかりではありません。「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、種々の弊害を生じた」どころか、すでに見たように、今泉定助など神道人の主流が宗教迫害の受難者でした。そして受難に立ち向かい、戦時体制と果敢に闘い、風穴を開けようとしたのが、葦津珍彦ら在野の神道人でした。

「津地鎮祭訴訟」「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決に示されたような、国家と神道が結びついた「国家神道」が神社参拝の強制や宗教迫害を招き、「侵略戦争」の元凶となったとする「国家神道=戦犯」論は歴史の真実をいいあてているとは思えません。いったい「法の番人」たちはどのような事実認識の許に、このような判決を書き続けているのでしょうか。

「玉串料訴訟」判決の翌日、社説に

「厳格な政教分離規定が設けられた原点は、戦前から戦中にかけて『国家神道』が軍国主義の精神的支柱となり、あるいは一部の宗教団体が迫害されたことへの反省だったことを思い起こしたい」

 と書いた朝日新聞もまた同様でしょう。軍国主義をあおり、無辜の国民を無謀な戦争に駆り立てたのは、ほかならぬ大新聞自身ではなかったでしょうか。

 自分たちが政府の情報統制に対して、葦津ら在野の神道人ほどに食い下がったことはあったかどうか、大新聞は「思い起こす」べきでしょう。大新聞の「無責任」さはこの社説に象徴的に現れているように思います。

 次回(朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 戦後期 第3回 新聞人の夢を葦津珍彦に託した緒方竹虎https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-14-3)は、戦後、新聞人と神道人がそれぞれ「戦争責任」とどう向き合ってきたのか根「新聞の戦争責任」とは何か、について、さらに迫りたいと思います。
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