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知られざる「玉砕の島」ビアク───鎮魂 南太平洋に散った日本軍将兵 [戦争の時代]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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知られざる「玉砕の島」ビアク───鎮魂 南太平洋に散った日本軍将兵
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 報道によると、今日午前、安倍首相は硫黄島を訪問し、遺骨収集の現場などを視察するとともに、戦没者追悼式に臨んだと伝えられます。

 硫黄島は先の大戦で、日米が死闘を展開し、日本軍2万、アメリカ軍7千が戦死した最激戦地の1つです。しかもサンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復したのと裏腹に、戦後しばらく小笠原諸島がアメリカ海軍の占領下におかれ、日本に返還されたのは昭和42年です。

 講和条約発効後、アメリカの施政下におかれたのは沖縄と同様ですが、沖縄では条約が発効した「4月28日」がしばしば「屈辱の日」と受け止めているのに対して、硫黄島では、旧島民の帰島の夢さえ叶わないのが現状です。全島が海上自衛隊基地の敷地とされ、基地に勤務する自衛隊員以外は島への立ち入りが禁止されているからです。

 けれども、悲しい歴史を伝える激戦の島は硫黄島や沖縄だけではありません。

 というわけで、日米開戦60年の節目に、宗教専門紙(平成13年12月)に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。



「もう昔のことですから──」

 戦争中、中国大陸を転戦しながら、中国人捕虜たちとともに植樹活動をしたという、ある連隊長の行動に興味を持ち、遺族の方にお話をうかがおうとしたら、そういって断られたことがあります。

 日本人はいい思い出であれ、つらい思い出であれ、過去を語りたがりません。日米開戦から今月(平成13年12月)8日で丸60年、講和条約調印からも半世紀がたって、戦争体験の風化が指摘されるのは、過去を「水に流す」という日本人の美徳と無関係ではありません。

 けれども、周辺諸国や旧敵国にとっては、戦争は「過ぎ去った過去」ではありません。連合軍捕虜や元占領地のアジア人が戦時中の強制労働などに対する補償や謝罪を日本に要求する訴訟が、日本国内やアメリカ国内であとを絶たないのは、その証拠です。

 しかし、加害者と被害者、侵略国と被侵略国という二分法的な図式で戦争を考えることに、筆者はどうしてもなじめません。人間の世の中ではしばしば、加害者が被害者になり、被害者が加害者になるからです。

 ここでは、激戦地として知られるニューギニアでの戦いを通して、そのような「戦争」の実相をあらためて考えてみたいと思います。


◇ 西部ニューギニアの自然の楽園
◇ アメリカ軍を迎撃する歩兵222連隊

 インドネシア・イリアンジャヤ州(西部ニューギニア)のビアク島は戦後生まれにとっては馴染みが薄いけれども、戦争世代にとっては誰もが知る「玉砕の島」です。

 ニューギニアは地図で見ると、赤道直下を西に向かって飛ぶ翼竜のようなかたちをしています。ちょうど首の後ろがヘルビング湾で、ここに浮かぶスハウテン諸島最大の島がビアク島です。面積は東京都と神奈川県を合わせたぐらいで、案外、大きな島です。

 珊瑚礁が隆起してできた島は、鬱蒼たる熱帯のジャングルにおおわれています。ジャワ出身のインドネシア人によれば、極楽鳥など珍しい動植物がたくさん棲息する自然の宝庫で、いまでは欧米人が数多く訪れる観光地となっているようです。人口は約2万。オランダ時代の影響からキリスト教徒が多い、と聞きました。

 州で唯一の国際空港を擁する島は交通の要衝ですが、ジャワから直線距離にして約3000キロ。飛行機を乗り継いで往復に数日を要します。

 日本軍と連合軍の将兵が血みどろの死闘をくり広げた南部のモクメル海岸に、日本政府が建設した御影石の慰霊碑が鎮まっています。何事もなかったかのように静かな白い砂浜とヤシ林。月日が流れ、記憶は薄れていく。けれども島民は「むかし日本の兵隊がたくさんここにいた」ことを知っています。

 日本からはるか遠い南の島の知られざる戦いこそ、じつは大戦の雌雄を決する「豪北の天王山」でした。

 緒戦こそ華々しい勝利を重ねた日本軍でしたが、昭和17年6月のミッドウェー海戦を境に彼我の形勢は逆転します。

 18年2月に日本軍が南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を撤退すると、アメリカ軍の反攻は急展開しました。ニミッツ提督ひきいるアメリカ海軍は、日本本土空襲をにらみ、19年6月にサイパン上陸を予定していました。これを空から擁護する使命を帯びていたのがマッカーサー元帥指揮下のアメリカ陸軍で、このため必要とされたのが西部ニューギニア・ビアク島の早期攻略でした。

 迎え撃つビアク島守備隊の中核は陸軍歩兵第222連隊。14年春に宮中で軍旗を親授され、岩手、青森、宮城の出身者を主体に、青森県弘前で編成された新設連隊で、最初は中国北部・山西省などで赫々(かくかく)たる成果をあげました。部隊感状の栄誉は三度。武勲ばかりではありません。東北人特有の素朴さで住民の信頼を得て、日中親善の実をあげたといわれます。

 その後、日米が開戦し、太平洋方面で戦局が急を告げたのを受けて、18年暮れ、西部ニューギニアに転進し、島で葛目直幸大佐を長とする陸海空1万2000のビアク支隊を編成し、島の防衛と3つの飛行場を建設する任務に就いていました。島は、阿南惟幾大将をして「航空母艦10隻に相当する」といわしめたほどの、戦略上の重要拠点でした。


◇ 「海軍記念日」の朝に敵軍上陸
◇ 1平米あたり数トンの砲爆撃

 19年5月27日──。この日は日本海軍が対馬海峡でロシア・バルチック艦隊を粉砕した「海軍記念日」で、烹飯隊は徹夜で腕を振るっていました。

 そのとき朝靄のなか、敵艦砲の第1弾がこだまします。50隻の連合軍機動艦隊、爆撃機40機が来襲したのです。兵士が四散します。一個師団の兵力が、天地を揺るがすような砲爆撃とともに上陸を敢行してきました。その数は約3万。

 ビアク支隊は海軍特別根拠地隊の部隊2000と協同し、物量で圧倒するアメリカ軍に対抗したが、戦闘は熾烈を極めました。いかんせん、飛行場こそ完成したものの、制空、制海権をすでに奪われていました。対抗しうる唯一の戦法は夜襲斬り込みです。

 しかし精強をほこる葛目支隊の予想外の奮闘は、アメリカ軍の思わぬ誤算となりました。業を煮やしたマッカーサーは指揮官を猛将アイケルバーガー中将に交替させます。アイケルバーガーは態勢を立て直し、攻勢に転じました。回顧録によれば、「1平方メートルあたり数トンの砲弾を撃ち込んだ」(『東京への血泥の道』)といいますから、すさまじいものです。

 連合軍はいくたびも増援部隊を送り込んできました。激しい艦砲射撃と空爆が一瞬、やんだかと思うと水陸両用戦車を先頭に、上陸用舟艇が次々に押し寄せます。北支では適用した武器がアメリカ軍の前では玩具同然でした。

 葛目支隊長は東方地区の陣地を撤収し、6月9日、西洞窟に移動しました。体育館ほどもある巨大な洞窟は、すでに無数の腐敗した死体と重症患者で埋まっていました。なかには発狂した兵士さえいます。「真っ白いご飯を腹一杯食べられたら、いつ死んでもいいよ」といいつつ、ついに口にすることなく、兵士たちは落命していきました。遺体は「虫葬屋」と呼ばれる黒い昆虫などに食い尽くされ、一週間もせずに白骨化したといいます。

 そのころ西方約800キロ、モルッカ諸島のハルモヘラ海にあった戦艦大和、武蔵はニューギニア本島ソロンの玉田旅団をビアク島に逆上陸させようと準備していました。しかしアメリカ軍のサイパン上陸が目前に差し迫り、急遽、マリアナへ向かいます。

 援軍の期待が失われたところへ、連合軍が総攻撃を開始しました。ブルドーザーを持たない葛目支隊がツルハシとモッコで建設した飛行場は敵の手に落ちます。けれども、葛目支隊の奮戦によって、連合軍がモクメル飛行場を利用できるようになったのは当初の予定よりはるかに遅れました。

 連合軍は西洞窟を完全に包囲し、戦車砲や火炎放射器で情け容赦のない攻撃を加えました。最期を悟った葛目支隊長は軍旗を奉焼し、6月21日、50名の将兵とともに、夜陰に乗じて西洞窟を脱出します。

 抗戦・激闘はさらに続きましたが、戦局の好転は望むべくもありません。7月2日未明、葛目支隊長は飛行場北方の洞窟内で拳銃自決します。

 連合軍上陸進攻から1カ月、食糧が完全に底をつくと、「分散して自活、自戦」「皇軍の大挙再来のその日に備えて」という支隊の苦闘がいよいよ始まります。しかし残存将兵は10人に1人もいません。そして8月には通信連絡が途絶します。

 12月、オーストラリアのメルボルン放送は、ニューギニアでの作戦が終了したことを世界に告げました。


◇ アメリカ軍の蛮行を告発した空の英雄
◇ 1万数千の将兵中生存者は数十名

 ビアク島で戦死した日本軍将兵は1万名を超えます。復員者はわずかに300余名。ほぼ全滅です。その背景には死闘とは別のおぞましい歴史があります。飢えと病気、そして注目されるのは、連合軍の残虐行為です。

「翼よ、あれがパリの灯だ」の名セリフで知られる、大西洋無着陸横断飛行の英雄、チャールズ・リンドバーグが『第二次大戦日記』で、アメリカ軍の蛮行を告発しています。

 リンドバーグはアメリカ生まれの反戦平和主義者ですが、大戦が勃発すると、「戦争参加は国民の義務」と考え、志願します。ルーズベルト大統領の政敵でしたから、ホワイトハウスは拒否しますが、国家への忠誠を誓い、技術顧問として南太平洋へ、さらにビアク島にやってきました。

 そして、一握りの日本軍が圧倒的に優る強敵の猛攻に耐え、拠点を死守している姿を見、「攻守ところを代えて、アメリカ軍部隊がかくも勇敢に拠点を固守したのであれば、この防衛戦はアメリカ史上、不撓(ふとう)不屈の勇気と犠牲的精神のもっとも栄光ある実例の一つとして記録されたに違いない」と賞賛しました。

 しかし、戦場では、アメリカ人将校は日本軍将兵を「黄色い奴ら」と呼び、無慈悲にむごたらしく皆殺しにしていました。

『日記』には、実戦経験のない技術科軍曹の実話が紹介されています。「帰国前にせめて1人でも日本兵を殺したい」と洩らしたところ、偵察隊が1人の捕虜を差し出しました。「無抵抗の捕虜は殺せない」と断ると、偵察隊の1人は「野郎の殺し方を教えてやる」といって、いきなり日本人捕虜のノドを切り裂きました。

 アメリカ軍は捕虜をとりたがらず、投降する日本兵に発砲しました。日本兵の死体の口をこじ開けて金歯をもぎ取り、寄せ書きの日の丸や軍刀を「戦利品」として奪いました。そればかりか、遺体を墓標のない穴にブルドーザーで押しやり、そのうえにトラック1台分の残飯やゴミを放り込みました。日本兵の頭蓋骨を飾り物にしました。

 リンドバーグが非難すると、逆に悠然たる侮蔑と哀れみの態度が返ってきました。「野郎どもが我々にやったことだ。奴らを扱う唯一の方法さ」

「文明のための戦争」を旗印とするアメリカの戦いの非倫理的実態を、リンドバーグはきびしく批判します。「我々は声を限りに日本軍の残虐行為を数えたてる一方で、自分の残虐行為を包み隠し、単なる報復行為として是認している」

 1945年6月、リンドバーグはナチス降伏後のポーランドにいました。ユダヤ人捕虜収容所です。焼却して捨てられた人骨であふれる穴の前で、ビアク島の記憶が次々によみがえりました。

 ──ドイツ人がヨーロッパで犯した犯罪を、アメリカ人もビアク島で犯したのだ。そのアメリカ人に、どうしてドイツ人を、日本人を裁く資格があるだろうか。

 リンドバーグは『日記』の最後を、聖書の言葉で締めくくっています。「汝ら、人を裁くな。裁かれざらんためなり」

 むろん日本軍にも非はあるでしょう。アメリカ軍捕虜となって島から運良く帰還した元海軍書記の体験談にこうあります。

「米兵から一枚の写真を見せられた。目隠しをされ、地面に正座させられたアメリカ軍兵士の後ろで、陸軍将校らしき人物が日本刀を振りかざしている。いままさに捕虜を斬首しようというのだ。こんな写真を撮らせ、得意げになる馬鹿者がいた。アメリカではこの写真をメディアに流し、『目には目を』の敵愾心をあおったのだろう」

 キリスト教の教理に従えば、裁きは神の手にあります。幸いにも戦争で生き延びた人たちは旧敵国の「犯罪」を追及し、謝罪や補償を求めることができますが、命を失った人たちにはその術さえありません。

 さて、終戦後の20年秋、ビアク島で残存者の捜索が実施されたとき、発見された日本兵の生存者はたった数十名でした。武装解除後、広場で終戦の詔書が奉読されると、ふんどし1つで真っ黒の兵士たちは男泣きに泣いたと伝えられます。(参考文献=『戦史叢書』『ビアク支隊戦史』『歩兵222連隊史』など)

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