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改めて考える。靖国神社の「A級戦犯」合祀  ──昭和天皇の「不快感」は本当か [A級戦犯合祀]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年4月28日)からの転載です


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 改めて考える。靖国神社の「A級戦犯」合祀
 ──昭和天皇の「不快感」は本当か
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 朝日新聞の一昨日の社説に、「靖国神社には戦没者だけでなく、先の戦争を指導し、東京裁判で厳しく責任を問われたA級戦犯が78年に合祀(ごうし)された。それ以降、昭和天皇は靖国を参拝しなかった」という一節がありました。

 かなり誤解を招きかねない表現です。

 いわゆる「戦犯」の合祀は政府が「法務死」を「公務死」と認めたことに基づいています。平和条約発効後、「講和に取り残された戦犯を救おう」という国民運動が起こり、世論に後押しされて日本政府は平和条約に基づき、関係各国に「赦免」を勧告し、国際社会の合意のもとで赦免が進められました。

 一方、国会は「戦犯」の赦免・釈放を何度も決議し、援護法などを改正し、「戦犯」刑死者の名誉が回復され、一般戦没者と同様の待遇を受けられるようになりました。

 合祀は靖国神社が勝手に進めたわけではありません。一般戦没者と同様に扱うべきではないというのなら、朝日新聞は政府をこそ批判すべきでしょうし、「戦犯」赦免に果たした自らの過去も検証すべきです。

「A級戦犯」合祀のあと、昭和天皇が参拝が途絶えたというのは間違いではありませんが、陛下が合祀にご不満であったかのように理解するのは慎重を要します。

 というわけで、月刊「正論」平成19年10月号に掲載された拙文を転載します。そのころ、「富田メモ」を根拠に、昭和天皇の「不快感」が話題になっていたのでした。一部に加筆修正があります。

 ついでにいえば、富田長官は、日本国憲法の規定を優先させ、皇室伝統の祭祀を改変させた中心的人物であって、私は万死に値すると考えています。



 靖国神社の「A級戦犯」合祀(ごうし)に、昭和天皇は「懸念」を示されていた。その「具体的な理由」を、故徳川義寛(よしひろ)・元侍従長が昭和天皇の作歌の御相談役だった歌人の岡野弘彦氏に語っていたことが判明した──。そのように伝える記事が八月上旬、新聞各紙にいっせいに掲載されました。

 昭和天皇がいわゆるA級戦犯の合祀に「不快感」を示されていたとするニュースは、日本経済新聞が昨年七月にスクープした富田朝彦・元宮内庁長官のメモなどを根拠に、これまでも報道されてきました。昭和天皇晩年の肉声をつぶさに記録する「富田メモ」には、昭和天皇は「A級戦犯」合祀が原因で靖国参拝を中止し、「それが私の心だ」と語られたことが記されているといわれます。

「明治天皇の思(おぼ)し召し」によって創建された靖国神社にとって、「天皇の心」は究極の拠り所です。その天皇が「A級戦犯」合祀を批判されていたとなれば、靖国神社の立つ瀬はありません。共同通信が放った特ダネは、日ごろは反天皇の立場に立つ反ヤスクニ派をいやが上にも元気づけ、靖国神社をめぐる混乱に拍車をかけています。


◇1 半年遅れの新刊紹介

 共同は三十年前には「A級戦犯合祀」を「スクープ」しました。東京裁判で絞首刑となった七人と受刑中に死亡した五人、それと公判中に病死した二人、の計十四人が合祀されたのは昭和五十三(一九七八)年秋で、共同は翌春、このニュースを加盟社に配信し、たとえば神奈川新聞は四月十九日付で、「東条英機元首相らを合祀 靖国神社が昨年秋 『昭和殉難者』として」と伝えています。

「国民感情の点から合祀が見送られていたが、靖国神社当局は『戦後三十余年も過ぎ、いつまでも例外を作る必要はなく、今日の時点で当然行うべきこと』として決めたと説明している。合祀は神社側がまず決断し、同神社崇敬者総代(東竜太郎元東京都知事、永野重雄日商会頭ら十人で構成する合祀諮問機関)全員の同意で決まった。戦犯処刑者はすべて祀(まつ)られていたが、A級だけは実現されずにいた」

 記事は四段見出しながら、掲載は社会面の左下隅。扱いはけっして大きくはありません。後追いした朝日新聞も社会面での掲載でしたが、「秋季例大祭の前日にこっそりと合祀」とひと味違う報道でした。合祀は大々的に公表する性格のものではありませんし、「五十三年十月六日の総代会決定を受けて、権宮司(ごんぐうじ)が侍従職と掌典職に参上している」と述べる関係者もいますから、「こっそり」は正確ではありません。

 朝日に先んじた「スクープ」の経緯は、『共同通信社50年史』(一九九六年)に、誇らしげに説明されています。

「四月十七日、編集委員の三ヶ野大典は日本遺族会の板垣正・事務局長と会った。A級戦犯として刑死した板垣征四郎元陸軍大将の子息。三ヶ野はA級戦犯の合祀問題について尋ねた。『お父さまの件はどうなりましたか』『ええ、おかげさまでやっと……』。板垣氏はそのあと慌てて言葉を打ち切った。三ヶ野は『合祀があったな』と確かな手応えを感じた。翌十八日、靖国神社に藤田勝重権宮司を訪ね、ずばり質問すると、意外にあっさりと前年の秋季例大祭を機に合祀していたことを明らかにした。『また書き立てるんですか』『神社側の真意は伝えます』。記事が十九日付の加盟社の朝刊に掲載された。三ヶ野の長期取材が実を結んだ」

 権宮司の人の良さを印象づける、文字通り「あっさり」した「スクープ」です。

 それなら今回の共同の配信記事は、といえば、「靖国神社のA級戦犯合祀に関する昭和天皇の懸念を徳川侍従長が歌人の岡野氏に伝えていたことが三日、分かった」と、いかにも新発見のような報道です。ところが、またも後追いとなった朝日は、「岡野氏が、徳川侍従長の証言として、昨年末に出版した著書で明らかにしていた」と、トーンが異なります。

 半年以上も前に出た本の内容が今ごろ「分かった」というのは、速報性を争うメディアとしては間が抜けている印象が否めません。

 問題の著書は、昭和天皇のお歌を岡野氏が解説した『昭和天皇御製(ぎょせい) 四季の歌』(同朋舎メディアプラン)です。共同の記者は「一般の目に触れるような本ではなく、最近になって内容が判明した」とスクープ性をあくまで強調します。

 けれども、版元によれば、大手の流通には乗らないものの、最初から市販されたといいます。その言い分に従えば、いわば半年遅れの新刊紹介がニュースに仕立て上げられたことになります。毎年恒例の「靖国の夏」だからでしょうか。


◇2 不快感の「具体的な理由」

 共同電に対抗する朝日の記事が軽く触れているように、徳川侍従長の証言集である『侍従長の遺言──昭和天皇との五十年』(朝日新聞社、平成九年)は、「A級戦犯」合祀についての「昭和天皇の怒り」(共著者の岩井克己・朝日新聞記者による「まえがき」)をいち早く伝えていました。

 徳川氏は昭和十一年からじつに半世紀以上も昭和天皇に仕えた側近中の側近で、この本は、昭和天皇崩御のあと、侍従職参与となった徳川氏に岩井記者が聞き取りした証言が、記者の解説とともにまとめられています。

 徳川侍従長は「第十三章 靖国神社」で、まず徳川氏自身による合祀批判を述べたあと、六十二年の終戦記念日に陛下が詠まれたとする「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」の解釈について、次のように説明しています。

「合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた。陛下の歌集『おほうなばら』(宮内庁侍従職編、岡野弘彦・徳川義寛解説、読売新聞社発行、一九九〇年)に採録されたとき、私は解題で『靖国とは国をやすらかにすることだが、とご心配になっていた』と書きました。発表しなかった御製や、それまでうかがっていた陛下のお気持ちを踏まえて書いた。それなのに合祀賛成派の人たちは都合のよいように解釈した」

 このくだりは合祀がテーマであることは明らかですが、陛下の「怒り」は必ずしも直接にはうかがえません。陛下のお気持ちより侍従長の批判的な考えがお歌に色濃く反映されたという理解も成り立ちそうですが、岩井記者の「解説」は「天皇の歌はA級戦犯合祀に苦々しい思いをこめたものであったようだ」と大胆に踏み込んでいます。

 それなら、「不快感」の「具体的な理由」が判明したと伝えられている、今回の『四季の歌』ではどうでしょう。

『四季の歌』では、『侍従長の遺言』とは異なり、しかし御製集『おほうなばら』とは見解を同じくして、お歌は前年の六十一年に詠まれたとなっています。それはともかくとして、岡野氏は同年秋、岡野氏が教授を務めていた国学院大学に徳川侍従長が持ってきたお歌を「初めて見た」のでした。

「天皇がこれほど深い憂いを抱いていられる理由が、歌の表現だけでは十分に計りかねた」岡野氏が、「何をどう憂いていられるのか」と尋ねると、徳川侍従長は次のように説明したといいます。

「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。合祀せよという意見がおこってきたとき、お上(かみ)は反対の考えを持っていられました。理由は二つあって、一つは国のために戦(いくさ)に臨んで戦死した人々のみ魂(たま)を鎮(しず)め祭る社(やしろ)であるのに、その性格が変わるとお思いになっていること。もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根(かこん)を残すことになるとお考えなのです。ただ、それをあまりはっきりお歌いになっては差し支えがあるので、少し婉曲(えんきょく)にしていただいたのです。そのお上のお気持ちは、旧皇族のご出身の筑波(つくば)(藤麿)宮司はよくご承知で、ずっと合祀を抑えてこられたのですが、筑波宮司が亡くなられて、新しく松平(永芳)宮司になるとすぐ、お上の耳に入れることなく、合祀を決行してしまいました。それからお上は、靖国神社に参拝なさることもなくなりました」

 岡野氏は昭和天皇の「反対の考え」について述べた徳川侍従長の言葉を書き記し、メディアは侍従長の解釈と伝聞をもとに、昭和天皇が「A級戦犯」合祀を不快とされていた「具体的な理由」が「明らかになった」と断定的に伝えています。しかしそこまで割り切っていいものでしょうか。


◇3 矛盾する昭和天皇像

 問題点は大きく二つ考えられます。一点はいうまでもなく、「A級戦犯」の合祀に関して、昭和天皇が実際、何をお考えだったのか。二点目は天皇の意思とはそもそも何か、です。

 今年五月一日の日経新聞は、社外有識者による「富田メモ研究委員会」が半年あまりの検証の末、前月末にまとめた最終報告について特集しています。メモの抜粋とともに掲載された座談会記事で、東京大学の御厨(みくりや)貴(たかし)教授は、「天皇が靖国に参拝できない理由は、A級戦犯合祀だったということで決着したと考えていいか」という司会者の質問に対して、「基本的には決着したと思う」と答えていますが、疑問です。

 たとえば昭和四十年代の東大紛争当時、警視庁の治安警備担当課長だった佐々(さっさ)淳行(あつゆき)氏(のちの初代内閣安全保障室長)は、『東大落城──安田講堂攻防七十二時間』(文藝春秋、一九九三年)に次のように書いています。

「安田講堂の攻防戦からしばらくして、秦野章警視総監が治安情勢内奏のため参内(さんだい)した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、さっそく各機動隊長を通じて全隊員に伝達し、士気昂揚を図らなければいけない。ところが帰庁した秦野総監は怪訝(けげん)そうな表情を浮かべている。

『天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。安田講堂のこと奏上したら、「双方に死者は出たか?」と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、「ああ、それは何よりであった」と仰せなんだ。機動隊と学生のやり合いを、まるで息子の兄弟げんかみたいな目で見ておられるんだな、ありゃあ』

 私は感動した。天皇は一視同仁、お相撲好きの昭和天皇が終生、誰がご贔屓(ひいき)力士かを口外されなかったように、『機動隊、よくやった』と御嘉賞されることは帝王学の道からは外れるのだ」

 ここに描かれているのは、敵も味方もなく、すべての国民をみなひとしく赤子(せきし)と思われ、「国平らかに、民安かれ」とひたすら祈り、国と民を一つに統合する天皇第一のお務めを果たされた昭和天皇の姿です。

 また、「天皇に政治的責任なし」が憲政上の大原則ですが、昭和天皇は高い次元で戦争責任を痛感され、生涯、ご自身を責め続けられました。

「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」(終戦の御聖断)、「戦争責任者を連合国に引き渡すはまことに苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」(『木戸幸一日記』)と語られ、マッカーサーには「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねる」と述べられたといわれます(『マッカーサー回想録』)。

 臣下の罪を責めずに、わが罪とされる昭和天皇と、「A級が合祀され、そのうえ、松岡(洋右(ようすけ)外相)、白取(白鳥敏夫か)までもが。筑波(宮司)は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平(慶民・元宮内相)の子の今の(松平永芳)宮司がどう考えたのか、易々と。親の心子知らずと思っている」と名指しで批判されたことを記録する「富田メモ」の天皇像は一致しません。


◇4 「神社の性格が変わる」

「A級戦犯」はどういう経緯で靖国神社に合祀されるようになったのでしょう。前出の朝日の岩井記者は『侍従長の遺言』で、平和条約の締結に伴い、昭和二十七年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立し、軍人・軍属に対する国家補償が始まった。その後、援護行政の広がりとともに戦犯刑死者が公務死と認定されるようになり、これが合祀につながったと説明していますが、重要なポイントがいくつか抜け落ちています。

 本誌昨年十二月号掲載の拙文「知られざる『A級戦犯』合祀への道」に書いたように、当時の朝日新聞の記事をひもとくと、平和条約の発効と相前後して、戦犯の赦免・減刑が内外で動き始めたことが分かります。国内では日弁連や仏教団体などが戦犯赦免の署名活動を大々的に展開し、それを受けて、日本政府が平和条約に基づいて勧告し、関係諸国が減刑・保釈を決定しました。海外ではフィリピンが真っ先に赦免・減刑を開始し、インド、台湾が欧米諸国に先駆けて、「A級戦犯」釈放を承認しました。

 恩給法の改正は、「戦犯にも恩給を」という国民の強い要望に端を発しています。戦犯合祀のきっかけは、三十年の沖縄・ひめゆり部隊の合祀です。「靖国の社頭に」と望む声が強まったのを受け、厚生省は八十八人を「軍属として戦死」と認定し、合祀が決まったのです。

 当時の朝日の記事には、厚生省の職員が「やがて軍人、民間人を問わず祀られることになろう」と語ったとあり、「読者応答室から」は「靖国神社では将来、戦犯刑死者や終戦時の自決者の合祀を考慮しています」と説明しています。 

 昭和天皇が「A級戦犯」合祀に反対する「理由」の一つに、『四季の歌』は「国のために戦に臨んで戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変わるとお思いになっていること」をあげていますが、戦場での戦死者を慰霊するのが靖国神社の鉄則で、それを変更させたのが「A級戦犯」の合祀だ、という見方は歴史論的に誤りでしょう。

 すでに明治時代、多数の兵士が脚気(かっけ)など悪疫で落命しましたが、戦病死者として合祀されています(『靖国神社忠魂史』など)。先の大戦では、ひめゆり部隊のほか、疎開船や引揚船の沈没で亡くなった学童や新聞記者、さらには講和発効後、ソ連・中共地区で死亡した抑留者も祀られています。

 こうした合祀基準の変遷を昭和天皇がご存じないはずはありませんが、だとすると「A級戦犯」合祀反対の理由とされる「神社の性格が変わる」はどう解釈すべきなのでしょう。

 合祀は「戦場での戦死」に限られるべきだというのが昭和天皇の確信だとすれば、「反対」は戦犯の合祀を求めた国民や戦犯刑死者を公務死と認めた国にも向けられるべきで、松平宮司を批判しても始まりません。昭和天皇の「不快感の理由」は徳川侍従長の理解やマスコミの報道とは次元の異なるものなのかも知れません。


◇5 慎重だった靖国神社

 厚生省は昭和四十一年二月、「A級戦犯」十二人の祭神名票を靖国神社に送りました。今年三月、国会図書館が公表した分厚い「新編靖国神社問題資料集」には、二月八日付の厚生省援護局調査課長から靖国神社調査部長宛の送り状、「東京裁判関係(A級)死没者十二柱」(刑死者七人と獄死者五人)の氏名や身分などを一覧表に記した目録も含まれています。

 しかしのちに同時に合祀されることになる、未決拘禁中に死亡した松岡洋右、永野修身(おさみ)の名前はここにはありません。

 新資料集によれば、翌四十二年五月、神社内で厚生省と神社の担当者による合祀検討会が行われ、法務死没者の合祀も検討されています。「A級(刑死七名、獄死五名)」と「内地未決中死亡者(松岡元外相以下十名)」について、「総代会に付議決定すること」とされたようですが、とくに後者について「援護法では取り扱っていない」と注釈があるのが注目されます。

 どのような経緯で十名が追加され、合祀が検討されるようになったのでしょう。

 A級戦犯十二名と内地未決中死亡者十名の合祀が認められたのは、四十四年一月の検討会だったようです。

 しかし神社側はこれを保留としたらしく、四十五年二月の検討会では、神社職員が保留扱いの理由を説明しています。また、合祀時にはA級と内地未決を同時に扱うことが「至当」とされました。

 同年六月の検討会では、「法務関係」の「A級十二名」と「内地未決二名」について「諸情勢を勘案保留とする」ことが「再確認」されていますが、内地未決の柱数が一気に減少したのが注目されます。

 当時の靖国神社はなぜ合祀に慎重だったのでしょうか。

 筑波宮司の諮問機関・祭祀制度調査会の委員の一人で、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(うずひこ)氏は五十五年五月、宗教専門紙「中外日報」の連載で、「神社が宗教法人ならば政治戦犯合祀をするのも自由だが、前例の確たるものもないし、神社が国家護持を目標とする限り、ことはきわめて重大である。国家護持ができてのちに、公に国民のコンセンサスの上で決すべきだ」と不合意の理由を説明しています。

「国家護持の目的こそ第一義であり、国家的性格を失った宗教法人のままであることは忍びがたい」というのがその精神で、それは調査会の一致した考えだったといわれます。

 しかし責任役員の池田清氏(元警視総監)が亡くなり、筑波宮司も亡くなって、新たに宮司に就任した松平永芳氏は就任直後、十四人の合祀を敢行します。総代の一人、青木一男・元大東亜相の強硬意見が反映された結果ともいわれますが、松平氏自身は退任後、ある講演でこう語っています。

「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しない限り、日本の精神復興はできないと考えていました。就任早々、書類や総代会議事録を調べますと、数年前に総代さんから『最終的にA級はどうするんだ』と質問があって、合祀は既定のこと、ただ時期が宮司預かりとなっていたんですね。私の就任は五十三年七月で、十月には年に一度の合祀祭がある。合祀は、昔は上奏して御裁可をいただいたのですが、いまでも慣習によって上奏簿を御所(ごしょ)へ持っていく。そういう書類を作る関係があるので、九月の少し前でしたか、『まだ間に合うか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に思い切って十四柱をお入れしたわけです」(「靖国奉仕十四年の無念」=「諸君」一九九二年十二月号)

 他方で松平氏は「国家護持」ではなく「国民護持」「国民総氏子」をさかんに主張していました。


◇6 合祀から十年のタイムラグ

 昭和天皇が最後に靖国神社に参拝されたのは昭和五十年十一月で、「A級戦犯」合祀はその三年後ですが、「富田メモ」などに天皇の「不快感」が記録されていたとされるのはすべて六十年代です。昭和天皇が「だから私はあれ以来、参拝していない。それが私の心だ」と語られたのが事実だとして、約十年のタイムラグが意味するものは何でしょう。

「富田メモ」が書かれた状況をあらためて振り返ってみます。

 富田朝彦氏は元来、警察官僚で、昭和四十九年に宮内庁次長となり、奇しくも「A級戦犯」が合祀された五十三年の春に宮内庁長官に就任し、六十三年春まで務めました。

 日経の検証報告によると、富田氏は次長就任後から日記をつけていましたが、昭和天皇が開腹手術から復帰された六十二年の年末以後は用途を天皇との対話の記録に限定した手帳を用意し、言上(ごんじょう)内容や天皇のご質問、ご発言を詳細にメモしたといいます。

 メモには信頼する長官にみずからの意思を伝えたいという天皇の意思が感じられる、というのが「富田メモ研究委員会」の一致した見方ですが、「一種の病床日記」とも指摘されます。

 靖国参拝について述べられたのは、昭和天皇最晩年の六十三年四月二十八日と五月二十日の手帳のメモとされます。「A級戦犯」が合祀された五十三年当時の日記にも、合祀がスクープ報道された翌年四月の日記にも、関係する記述はないようです。

「それが私の心だ」と書かれた「四月二十八日メモ」は、昭和天皇最後の記者会見となる、四月二十五日に行われたお誕生日会見について感想を語られたものとされます。会見で「先の大戦についてのお考え」を問われた昭和天皇は、「何といっても大戦のことがいちばん嫌な思い出であります」とお答えになり、一筋の涙を流されました。さらに「戦争の最大の原因は何だとお考えですか」という質問には「人物の批判とか、そういうものが加わりますから、いまここで述べることは避けたいと思います」と答えられたと伝えられます。

 会見の数日前には、春の例大祭に合わせて靖国神社に参拝した奥野誠亮・国土庁長官が閣議後の記者会見で、「もう占領軍の亡霊に振り回されることはやめた方がいい」とタンカを切り、翌月には国会で「日中戦争当時、日本に侵略の意図はなかった」と発言して内外の批判を浴び、長官を辞任しています。

「富田メモ」にはこれに対応するように、「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したが、それはあとで云いたい。『嫌だ』といったのは奥野国土相の靖国発言、中国への言及に引っかけて云った積もりである。前にもあったね、どうしたのだろう。中曽根の靖国参拝もあったか、藤尾(正行文相)の発言」とあり、そのあと前に紹介した合祀批判、松平批判の内容が続いているようです。

 今年四月に朝日がスクープした「卜部(うらべ)亮吾侍従日記」は奇しくも同じ四月二十八日、「お召しがあったので吹上へ。長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」とあり、赤線が引かれていると伝えられます。

 さらに富田氏の「五月二十日メモ」には、「山本(悟侍従長か)未言及だ&徳川(前侍従長)とは(話を)した&靖国に干(関)し。藤の(藤尾か)、奥野がしらぬとは。松岡、白取(白鳥か)。松平宮司になって、参拝をやめた」「靖国。明治天皇のお決になって(た)お気持を逸脱するのは困る」などとあるようです。

 病魔と闘う最晩年の昭和天皇は、公式の場では語れない、過去の歴史に寄せる個人的な率直な気持ちを複数の側近たちには語っていたということでしょうか。


◇7 国民的統一が失われる

 日経新聞は昨年七月二十一日、「富田メモ」スクープの翌日に、「昭和天皇の思いを大事にしたい」という社説を掲げ、「A級戦犯分祀」や首相参拝見送りを暗に要求しました。

「小泉首相の靖国参拝をめぐって国内に賛否の議論が渦巻き、中国、韓国との関係がぎくしゃくして首脳会談も開けない異常事態が続いている。新たな事実が明確になったことを踏まえ、靖国参拝問題を冷静に議論し、この問題を他国の意向に振り回されるのではなく、日本人自身で解決するよい機会にしたい」

 しかしここには重大な事実誤認がありそうです。靖国問題とりわけ小泉参拝が国論を二分したことは事実ですが、これまで本誌などに何度も書いてきたように、日中関係を悪化させた主因は別にあります。中曽根参拝のときもそうでしたが、中国政権中枢に熾烈(しれつ)な権力闘争があり、対日重視派の胡耀邦あるいは胡錦涛を追い落とす政争の具として対日強硬派が靖国を利用したのです。

 また昭和天皇が「A級戦犯」合祀を不快とされたふたつ目の理由として、『四季の歌』は「関係諸国との間に将来、禍根を残す」とお考えだったことを指摘していますが、「A級戦犯」の減刑・赦免は関係諸国の決定で行われたのであり、逆に冷戦下、不当に拘束した「戦犯」(抑留者)を洗脳し、政治利用したのがソ連と中国でした。

 昭和天皇にすれば、参拝して国に命を捧げた国民を慰霊したいというお思いは格別でしょうが、五十年の最後の参拝の前日、野党議員が国会で当時、宮内庁次長だった富田氏を「なぜ参拝するのか」「憲法違反ではないか」と終日、厳しく攻め立てたように、参拝が政治問題化し、国民的対立をもたらすのなら、天皇は躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ません。

 そのことを裏付けるかのように、朝日の岩井記者は『侍従長の遺言』で、昭和天皇は「今後、参拝せず」の意向を、「A級戦犯」合祀が報道される以前から示していたと証言する元宮内庁幹部もいると指摘しています。合祀が不参拝の理由ではない、ということになりませんか。

 錯綜(さくそう)する因果関係を正確に把握せず、「天皇の思い」の断片を暴き、一方的に解釈し、皇室の権威を借りて、特定の立場で政治利用することはあってはならないし、政治利用されるような状況を作ることも避けなければなりません。

 したがって側近の日記やメモは公開すべきものではないだろうし、昭和天皇は公開を望まれなかったでしょう。天皇が公式の場ではなく、内々に側近にお気持ちを語られたのは非公開が前提だったことは間違いありません。

 富田長官も同様で、日経の検証報告記事は「正確な記録を後世に役立てたいという富田氏の考えがメモには反映されており、公開は有意義なだけでなく、富田氏の遺志にも沿うのではないか、というのが委員会の最終的な見解である」と手前味噌に述べていますが、逆に生前の富田氏はある新聞記者に「日記は棺まで持っていく」と語ったと聞きます。

 側近のメモはあくまでメモに過ぎません。側近の理解は側近の理解でしかなく、天皇の本当のお気持ちは推測の域を出るものではありません。陛下がどうお考えだったのか、とりわけ歴史家やジャーナリストには関心の深いテーマですが、結局は言ったか言わなかったかという水掛け論に終わるでしょう。

 恐れなければならないのは、有史以来、日本の国と民を一つに統合してきた天皇の「お考え」が側近とメディアを通じて公開され、政治問題化し、そのことによって逆に国民的統一が失われること、「天皇の心」が天皇の統治を揺るがせる皮肉な結果をもたらすことです。

 いままさにその状況が生まれかけています。けれども歴史家も新聞人も、入江相政(すけまさ)・元侍従長による「拝聴録」や靖国神社総代会の議事録もすべて公開せよ、と無責任にもボルテージを上げています。


◇8 「帝室は政治社外のもの」

 日本の最高権威である「天皇の意思」とは、人間としての天皇個人の意思ではありません。皇位が神代にまでつながる連綿たるものであるのと同様に、天皇精神(大御心(おおみこころ))とは歴史を超えた悠久にして高次元のものであり、日本人はそれが民族の意思であると信じてきました。

 日経の社説が主張するように、日々移ろう生身の人間としての天皇の意思が現実政治に直接、反映されるのなら、独裁政治と何ら変わりません。独裁政治なら開闢(かいびゃく)以来、二千年も天皇統治が続くはずはありません。

 福沢諭吉は明治憲法が発布される前の明治十五年に「帝室論」を著しました。「帝室は政治社外のものなり」。皇室は政治の外に仰いでこそ、尊厳は永遠のものとなる。政治を論じ、政治に関わるものは皇室の尊厳を濫用(らんよう)してはならない──と訴えています。

 当時はまだ国会が開設されず、しかし政党運動が激化し、自分たちこそ唯一の天皇のお味方であるかのように主張し、反対派を不忠者と攻め立てることが続発していました。その情勢を憂い、福沢は警告を発したのです。

「帝室は万機を統(すぶ)るものなり、万機に当たるものにあらず」。皇室の任務は、直接、政治に関わることではなく、民心融和の中心たる点にある。議会政治、政党政治は国論の分裂が避けられないことを達観する福沢は、政治圏外の高い次元での国民統合の役割を期待したのです(小泉信三『ジョオジ五世伝と帝室論』)。

 そのまさに「君臨すれども統治せず」という立憲君主のお立場を公的に生涯、貫かれたのが昭和天皇でした。しかし畏れ多いことながら、もしかすると最晩年にはその姿勢に揺らぎがあったのかも知れません。

 もしそうなら、私的なご発言の断片をメモに書きとめるより、お諫(いさ)めするのが藩屏(はんぺい)の務めであり、皇室を現実政治の世界に引き入れ、煩(わずら)わし、権威を貶(おとし)める結果を導くような行動は君側に近侍する者のなすべきことではありません。

「天皇の心」を理解する藩屏の不在、それこそが昭和天皇の深い憂いの核心ではなかったかとも疑われます。
   
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