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求められる靖国神社の本格的再検討──場当たり的な対応には限界がある [靖国問題]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年5月1日)からの転載です


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求められる靖国神社の本格的再検討──場当たり的な対応には限界がある
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 安倍内閣の閣僚らが靖国神社に参拝したことについて、またしても中国・韓国がつよく反発しています。マスメディアも批判的です。

 靖国神社は明治以来、戦没者を慰霊追悼する中心的施設です。

 戦争は国の行為であり、戦死者を追悼するのは国の責務のはずですが、戦後の日本政府は民間に任せたままにしています。

 その歪なあり方こそ、正されるべきだと私は考えます。公人が参拝するのに私人を装わなければならないということの方が不自然です。

 というわけで、平成19年5月に、宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。当時は安倍首相の大真榊奉納がメディアの批判を浴びていました。

 そのころと比べて、議論がまったく進歩していないことを歯がゆく思うのは私だけでしょうか?



 安倍首相が靖国神社に私費で真榊を奉納したことを一部のマスコミが問題視し、いわゆる靖国問題が再燃する気配です。

 四月下旬の同社の春季例大祭に合わせて三権の長などが真榊を奉納したのを、今月上旬になって日本の新聞が「首相が奉納」と伝え、中国外務省の副報道局長は定例会見で慎重な対応を求め、韓国政府は「非常に遺憾」と論評しました。

 翌日の日本の新聞は「ナショナリズムの地金を小出しにする限り、ジレンマから抜け出せない」「不参拝を明言したら」などと社説で批判しています。

 何が問題とされているのでしょう。ある社説は憲法の政教分離原則と靖国神社の「軍国主義」的性格を指摘しています。しかし問題点というなら、むしろマスコミの扇動主義の方にこそあるかも知れません。


▽責任を転嫁する大新聞

 まず政教分離ですが、ちょうど十年前、最高裁大法廷は、愛媛県が靖国神社の例大祭に玉串料を公金から支出したのは憲法違反である、との判決を下しました。このとき「合憲と違憲の目安が示された」と評価したはずの新聞が、今度は私費の奉納も「疑問がある」と主張しています。論理の一貫性がありません。

「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法をあくまでも厳格に解釈するというのなら、違憲とみなすべき事例はほかにたくさんあります。

 たとえば、東京都の外郭団体が主催する都慰霊堂の法要は仏式で、皇族や三権の長、自治体の首長の献花もあります。岩手県奥州市にあるキリシタン領主・後藤寿庵の館跡で地元教会が主催する祈願祭に、市長はご祝儀を公金から支出しています(市の公式サイト)。

 完全分離主義に立てばこれらは違憲でしょうが、完全分離主義者が追及したとは聞きません。憲法を盾に攻撃されるのは決まって靖国神社です。

 大新聞の社説も「忘れてならないのは靖国神社の性格だ」とずばり指摘し、「隣国を侵略し、植民地化した戦前の軍国主義のシンボル。その歴史はいまも遊就館で正当化されている」と一刀壟断にしています。しかし言い分は正しいのかどうか。

 敗戦後、GHQは、占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定する国際法に違反して、靖国神社の焼却を主張したばかりでなく、いわゆる神道指令によって神道に対する差別的な圧迫を加え、駅の門松や注連縄をも撤去しました。

 それは「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。アメリカは「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解していました。

 ところがです。

 昭和二十年十一月の臨時大招魂祭は終戦前の形式での挙行が許されました。GHQはその結果を見て、神社の存廃を決めようとしたのです。泳がせ戦術です。

 日本側は「従来の軍楽隊の奏楽は印象を悪くする」と懸念しましたが、結果は逆で、占領軍には「荘厳で良かった」と好評でした。

 また、神職が一兵卒として召集されていたという事実は、職員が戦争指導の責任的立場にあったと見るGHQの先入観を打ち砕きました(小林健三ら『招魂社成立史の研究』)。

 こうして「国家神道」の幻影は消え、占領後期になると神道を標的とした宗教政策は改まりました。であればこそ、松平参議院議長の参議院葬が神式で挙行されたし、吉田首相の靖国参拝も認められたのでしょう。

 アメリカ人が見た「軍国主義のシンボル」は、鏡に映った自分の姿だったのではないでしょうか。日米開戦後、「全国民の教会」ワシントン・ナショナル・カテドラルでは月例ミサが始まり、ホーリー・スピリット・チャペルは「war shrine」としての役割を果たしたといわれます。

 日本の大新聞が靖国神社をシンボル化したという歴史さえあります。

 ある新聞は戦意高揚のイベントをいくつも手がけ、靖国神社境内を主な会場とする「戦車大展覧会」を主催しました。言論より商売を優先させ、靖国神社を利用して「戦争の時代」を演出し、「経理面の黄金時代」を築いた大新聞が、いまさら神社を批判するのは責任転嫁そのものです。

 扇動主義は懲りずに現代も続いています。

 胡錦涛・温家宝体制は対日重視政策を採り、四年前の秋、バリ島での首脳会談で温首相は靖国神社参拝に触れませんでしたが、帰途、同行記者団に心を許した小泉首相が「参拝は中国側にも理解されている」と語ったとメディアが伝えると、温家宝は強硬派の批判を浴びました。

 二年前の全人代で温家宝が靖国批判をしたのも、日本の記者が質問したからで、やがて対日重視政策は後退していきました。

 今回、首相の真榊奉納について中国外務省の高官が懸念を示し、クギを刺したとの報道がありますが、中国側の報道では記者の質問に答えただけのことです。マスコミ報道が靖国問題をあおり、日中関係を悪化させる原因を作っています。

 むしろ中国側は冷静です。靖国批判をテコにした「反日」江沢民派の猛攻をしのいだ胡錦涛政権は歴史問題に抑制的方針をとっています。「反日」が国益に沿わないのを知っているからです。


▽日本の精神伝統の破壊

 それなら何のための靖国攻撃なのか。

 祖国に一命を捧げた国民を慰霊・追悼することは国家の当然の責務であり、いずれの国であれ、それぞれの宗教伝統に基づいた国家的儀礼が斎行されています。公的慰霊を民間任せにするような国がどこにあるでしょう。

 完全分離主義者らは国家の基本を蔑ろにし、占領史や中国国内の動き、仏教やキリスト教の事例には目をつぶり、平和と護憲を教条的に唱え、GHQでさえ捨て去った神道撲滅運動に血道を上げ、日本の歴史の否定、精神的伝統の破壊を推し進めています。

 だとすると、マスコミに暴かれ、攻め立てられて、政府高官が会見で釈明するというような場当たり的な姿勢ではなく、国の基本的なあり方として靖国神社を位置づけ、制度を本格的に再構築することが求められます。

 焦点は、むろんいわゆるA級戦犯合祀でしょう。神社による合祀がきわめて慎重に進められたことは国会図書館の新資料集が明らかにしていますが、葦津珍彦ほか先人たちの不同意にもかかわらず合祀が敢行されたともいわれます(「中外日報」の葦津論攷)。

 靖国神社は侵略戦争を肯定しているわけでも、戦争犯罪を神聖視しているわけでもありません。「分祀」論者のいう「分祀」には何ら神道的意味はありませんが、明治大帝の思し召しによる創建の精神に立ち返って、神社のあり方を根本的に再検討すべき時であることは間違いないでしょう。

 読者の皆さまはいかがお考えでしょうか。
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