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占領後期に変更された「神道指令」解釈──歴史的に考えるということ 4 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年5月5日)からの転載です


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占領後期に変更された「神道指令」解釈
──歴史的に考えるということ 4
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 先日、政府主催の「主権回復の日」式典が開かれましたが、積極的に報道するメディアは多くありませんでした。

 敗戦のあと、戦勝国の軍隊が進駐し、自国の政府がその従属化に置かれ、主権が失われた屈辱の占領期があったことを忘れているからではありませんか?

 まして占領期が前期と後期では時代の様相が異なることなど、なかなか気づきにくいことです。

 暗黒の戦中・戦後期のあと、明るい戦後期がやって来たというような、占領軍をまるで解放軍に見立てるような歴史区分では、日本の文明の根幹に関わる天皇・皇室問題にアプローチすることは至難です。


▽「宮内府関係法令集」に掲載された依命通牒

 4月29日発行の当メルマガ第280号「終戦後、天皇の祭祀はどのように存続し得たか」〈http://melma.com/backnumber_170937_5810104/〉は、日本国憲法が施行された昭和22年5月3日に立案・決裁され、同日、組織替えによって内閣総理大臣所轄の機関となった、宮内府の長官官房文書課長名による依命通牒の起案書について、お話ししました。

 依命通牒(通達)は官報には載りませんから、一般の目には触れません。依命通牒自体はその後、「宮内府関係法令集」「宮内庁関係法規集」に掲載されましたが、起案書となると、これを知る関係者はごく一部に限られたものと思います。いわゆるスクープです。

 依命通牒は、とくに第3項は、千年以上続く皇室伝統の祭祀が、敗戦・占領という未曾有の時代に辛うじて存続し得るための命綱的な明文法的根拠でした。

 あらためて、「法令集」「法規集」に掲載されていた規定を、以下、漢字使用、仮名遣いなど、できるだけ忠実に転記します。


  ○皇室令及び附屬法令廢止に伴い、事務取扱に關する通牒

宮内庁長官官房
文  書  課發第四五號

  昭和二十二年五月三日

       宮内府長官官房文書課長 高 尾 亮 一

  各部局長官殿

   依命通牒

皇室令及び附屬法令は、五月二日限り、廢止せられることになつたについては、事務は、?ね、左記により、取り扱うことになつたから、命によつて通牒する。

    記

一、新法令ができているものは、當然夫々、その條規によること。(例、皇室典範、宮内府法、宮内府法施行令、皇室經濟法、皇室經濟法の施行に關する法律、皇統譜令等)

二、政府部内一般に適用する法令は、當然、これを適用すること。(例、官吏任用敍級令、官吏俸給令等)

三、從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)

四、前項の場合において、從前の例によれないものは、當分の内の案を立てゝ、伺いをした上、事務を處理すること。(例、宮中席次等)

五、部内限りの諸規則で、特別の事情のないものは、新規則ができるまで、從來の規則に準じて、事務を處理すること。特別の事情のあるものは、前項に準じて處理すること。(例、委任規定、非常災害處務規定等)


▽「国家神道の神聖な教典」とされた教育勅語

「文藝春秋」昨年4月号に掲載された永田忠興元掌典補インタビュー〈http://melma.com/backnumber_170937_5540785/〉で語られているように、当時は占領期で、宮中祭祀は過酷な状況に置かれていました。

 昭和20年暮れにGHQが発令した、いわゆる神道指令は「宗教を国家から分離すること」を目的とし、駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷でした。

 アメリカは戦時中から、「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えていたようで、このため被占領国の宗教に干渉することを禁じた戦時国際法にあえて違反して、占領軍は神道撲滅運動に血道を上げ、靖国神社の焼却処分までが本気で企てられたのでしょう。

 たとえば、教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたようです(貝塚茂樹「戦後教育改革と道徳教育問題」日本図書センター、2001年)。

 ホールは、教育勅語そのものは「罪のない有害とも思えない文書」と考えていました。それがなぜ「国家神道の教典」となったのか? それには「ふたつの状況」があった、とホールは説明しています。

 ひとつは、教育勅語の本来の意味が、軍国主義的、超国家主義的な解釈で見失われたこと。もうひとつは、教育勅語それ自体が偏狭な愛国主義者の追従によって神聖不可侵なものとして覆い隠されたことでした。

 キリスト教には絶対神と救世主イエスがあり、聖書があり、教会があります。同様に日本の「国家神道」には天照大神と天皇、教育勅語、靖国神社がある、とまるでキリスト教の亜流のように、彼らには見えたようです。それはなぜか?


▽「これを中外に施してもとらず」

 昭和21年2月、CIE部長のダイク准将と安倍能成文相とが会談し、教育勅語に言及しています(『神谷恵美子・エッセイ集1』ルガール社、1977年。神谷は前田多門文相の長女、精神科医で、2人の会談で通訳を務めた。当時、明治の教育勅語に代わる新しい教育勅語の発布が構想されていたようです)。


安倍 新しい教育勅語とはどういうことをお考えなのか。

ダイク 明治大帝の教育勅語は偉大な文書だが、軍国主義者たちが誤用した。また誤用されうるような点がある。たとえば「これを中外に施してもとらず」という句のように、日本の影響を世界に及ぼすというような箇所をもって、神道を世界に宣伝するというふうに誤り伝えた。

安倍 仰せの「これを中外に施してもとらず」は真意はけっしてそのようなものではないし……

 教育勅語は明治23(1891)年秋に発布されました。発布の翌日、文部大臣は、学校の式日に勅語を奉体することなどを訓示し、翌年には紀元節や元始祭などに学校で儀式を行い、教育勅語を奉読することなどが決められました。

「罪のない有害とも思えない文書」のはずなのに、唯一神である天照大神の子孫である絶対的な天皇のもとで、軍事力を伴って、世界中に教え広めるということになれば、キリスト教文明と完全に対立します。

 キリスト教の聖書には「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」(マルコによる福音書16章15節)というイエスの言葉が記録されています。大航海時代にはローマ教皇の勅書に基づいて荒っぽい世界宣教が行われ、異教世界への侵略・殺戮・破壊が行われました。

 けれども、天照大神は唯一神ではありません。天皇は祭り主であって、「地上の支配者」ではありません。日本の宗教伝統には統一的な教義はありません。血縁共同体や地域共同体を前提とする日本の神道には布教の発想自体ありません。世界宣教などあり得ません。

 ところが、「これを中外に施してもとらず」という教育勅語の言葉は、誤用どころか、たいていは「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と理解されてきました。明治以後、海外に建てられた神社は少なくありません。宮城遥拝も行われました。

 誤解されるのも当然だったといえます。彼らは鏡に映った自分を見ていたということではありませんか?


▽公私の概念が異なる

 しかし、やがて時代は変わります。

 占領前期、日本政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、という方針でした。

 GHQは、天皇が「皇室の私事」として祭祀を続けられることについては干渉しませんでしたから、祭祀に従事する掌典職は国家機関ではなくなり、職員は公務員ではなく、内廷費で陛下に直接、雇われる、天皇の私的使用人と位置づけられました。

 永田掌典補が前掲インタビューで語っているように、終戦直後の宮内次官で、戦後初の侍従長ともなった大金益次郎は、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したといわれます。

 つまり、皇室における公私の概念と占領軍の公私の概念は異なるのでした。

 日本では古くは「公(おおやけ)」とは皇室を意味しました。「天皇に私なし」。公正かつ無私なるお立場で、国と民のために祈りを捧げるのが、日本の天皇です。宮中祭祀は「皇室の私事」ではあり得ません。日本の皇室が徹底して無私なるお立場にあるのは、ヨーロッパの王室と異なり、ファミリー・ネームさえないことからも分かります。

 一方、占領軍にとっては、「公」とは行政機関、公共機関を意味していましたが、日本政府にとって異議申し立ては不可能でした。

「国家神道」についての理解が変わり、したがって宮中祭祀のあり方が変わったのは、占領軍自身の神道研究が進んだからでしょう。


▽「たいへん荘厳でよかった」

 アメリカ軍の東京進駐から1カ月後の昭和20年10月6日、アメリカ国務省のヴィンセント極東部長はラジオ放送で対日本占領政策をアメリカ国民に説明し、「日本政府に指導され、強制された神道ならば廃止されるだろう」と述べました。

 GHQは放送内容を事前に知らされていませんでした。驚いたGHQは本国に照会し、国務長官バーンズは「国教としての神道、国家神道は廃されるだろう」と回答します。この回答がCIEによる神道指令起草の起点となりました。

 当時、「国家神道」の中心施設と考えられていた靖国神社では遊就館の業務が停止し、神社「焼却」が噂になっていました。アメリカ政府はCIEに、「国家神道は廃止すべきだが、民間信仰の対象としての神道は残してもいい」と訓令していましたが、CIEの大勢は「神道、神社は撲滅せよ」と強硬に主張していたのでした。

 大日本帝国最後の靖国神社招魂祭を約1カ月後に控えた10月中旬、最高司令官マッカーサーの覚書が上智大学のビッテル神父の元に届きました。ビッテルは法王使節代行も務めていました。

「司令部の将校たちは靖国神社の焼却を主張している。同社焼却にキリスト教会は賛成か否か、速やかに貴使節団の統一見解を提出されたい」

 ビッテルはバーン管区長ら数人の神父と意見を交換し、結論を出しました。

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。……靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」

 こうして靖国神社は守られました。

 CIE教育・宗教課で宗教班の責任者だったW・K・バンス課長らが神道研究を始めたのは、このビッテル答申の時期で、基本姿勢は「神道国家主義の根絶」だったとされます。

 靖国神社では予定通り、11月19日から臨時大招魂祭が斎行され、昭和天皇が行幸されました。

 占領軍は、靖国神社がどれほど狂信的なのか、を見定めようと、この臨時招魂祭・合祀祭を従来の形式で行うよう求めました。自由に泳がせて、その結果を見て、あらためて存廃を判断しようとしたのです(小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』錦正社、昭和44年)。

 面白いことに、CIE部長のダイク准将らは「たいへん荘厳でよかった」と神社の祭典に逆に感激します。神社の職員が一兵卒として応召したことも分かりました。

「目的は宗教を国家より分離するにある」と規定する神道指令をGHQが発令したのは、1か月足らず後の12月15日でした。

 ダイク准将と安倍文相が会談し、教育勅語について語り合ったのは翌21年2月、文部省が教育勅語の奉読、神格化を止めるよう通達したのは、同年10月です。


▽「ご本人の宗教でやってかまわない」

 占領後期になると、GHQは神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に条文解釈を変更します(W・P・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」。ウッダードは占領中、宗教政策を担当していた)。

 この間、CIE内でどのような議論がなされたのかは残念ながら分かりませんが、24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参院議長公邸において神式で行われ、26年10月には吉田首相の靖国神社参拝も認められました。

 同じ26年6月の貞明皇后の御大喪は神道形式ですが、かつての皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 貞明皇后の大喪儀が準国葬として行われた事情を、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」

 宮中祭祀はあくまで私的信仰として認められるという意味なのでしょう。

 その後、日本は独立を回復し、神道指令は失効します。宮中祭祀は存続しました。しかし「祭祀は天皇の私事」とする憲法解釈は超えられませんでした。


つづく。
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