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黙祷──死者に捧げる「無宗教」儀礼の一考察 [国家神道]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年5月12日)からの転載です


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 黙祷──死者に捧げる「無宗教」儀礼の一考察
(雑誌「正論」平成18年2月号)
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 本日、発行した斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンhttp://melma.com/backnumber_170937_5817954/〉で、宮中祭祀の法的位置づけが敗戦後、単純に様変わりしたのではなくて、占領期を挟んで段階的な変遷があったこと、について、お話ししました。

 そのなかで書き漏らしたことがありますので、当メルマガで補足することにします。

 昭和26年5月に貞明皇后が崩御になり、大喪儀が行われましたが、斂葬当日に黙祷が捧げられたのを、アメリカ人宣教師たちは「戦前の国家宗教への忌まわしい回帰」と猛反発しました。

 けれども、この黙祷こそ、「戦前の国家宗教」の強制どころか、日本では大正時代からすでに、そして良くも悪しくも、無宗教の国民的儀礼が社会に浸透していたという何よりの証拠なのでした。

 というわけで、雑誌「正論」平成18年2月号に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 平成17年の秋、小泉首相の5度目の靖国神社参拝に対して、激しい抗議と批判が内外からわき起こりました。

 日本の一部政治家や官僚、知識人が「首相参拝は憲法が定める政教分離原則に違反する」「戦没者を慰霊・追悼する公的施設は無宗教でなければならない」などと主張しました。

 挙げ句に「戦犯」の「刑死」を「公務死」と認定した政府自身の過去の判断を忘れ、「戦犯分祀が無理なら参拝自粛か新施設建設を」と追悼施設議連を立ち上げたのは、偽善的ともいうべきであって、日本人一般の国民感情からも、世界の常識からもかけ離れているのではないかと思います。

 不慮の死者たちに対して、とりわけ国に一命を捧げた国民に対して礼節を尽くすことは間違いなく文明国の責務であり、国に殉じた戦没者を慰霊・追悼する公的施設を一国の首相が国を代表して表敬するのは当然であって、その祈りが絶対的無宗教であり得るはずもないからです。

 首相参拝が「違憲」だというなら、そのような憲法こそ逆に人倫にもとるのではないでしょうか?

 イギリスを見てください。日本とは対照的なほど、きわめて宗教的に戦没者の公的慰霊が国を挙げて行われています。


▽1 日本とは対照的なイギリスの戦没者追悼

 2005(平成17)年は11月13日の日曜日、午前11時から2分間、イギリスは国中が戦没者に謝意を表する沈黙の祈りに包まれました。

 第1次世界大戦の休戦協定発効が1918(大正7)年11月11日の午前11時だったことから、毎年この日に近い日曜日が「戦没者追悼記念日」(Remembrance Sunday)と定められています。

 そして、ロンドンの官庁街ホワイト・ホールにそびえる記念碑セノタフ(Cenotaph)周辺を会場に、国家元首たるエリザベス2世や政府首脳、数千人の退役軍人、宗教関係者が真っ赤なポピー(ひなげし)の造花を胸に参列し、二度の大戦とフォークランド紛争や湾岸戦争などで落命した戦没者を追悼する式典が開かれます。

 国会議事堂の時計台ビッグ・ベンの鐘の音と騎馬隊の一斉射撃を合図に、「2分間の沈黙」(the two minute silence)が国を挙げて捧げられ、そのあと、女王は碑前に大きな花環を捧げます。

 これに対して日本では、8月15日の終戦記念日に、東京の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、天皇皇后両陛下は正午を期して、国民とともに戦没者に対して「1分間の黙祷」を捧げられ、菊花を手向けられます。

 また、震災記念日の9月1日と東京大空襲のあった3月10日には、東京・横網(よこあみ)の東京都慰霊堂で、皇族の御臨席のもと、震災犠牲者と戦災遭難者を悼む慰霊法要が、都の主催で行われ、関東大震災発生時刻の午前11時58分に「1分間の黙祷」が捧げられます。

 日本とイギリス、いずれも追悼儀礼の中心は、一定の時刻に人々が集まり、あるいはそれぞれの場所で、鐘の音などを合図に、沈黙の祈りを共有する黙祷ですが、両者は決定的に異なります。

 イギリスではキリスト教をベースとする自国の宗教伝統に基づき、さらに最近では他宗教をも取り込んで、多宗教的・多文化的に国家的慰霊・追悼の伝統が一貫して受け継がれているのに対して、日本では後述するように、戦前も戦後も、多神教的・多宗教的伝統が斥けられ、無宗教を前提として公的追悼が行われてきました。

 英国の黙祷は宗教的祈りですが、日本の黙祷は戦前・戦中から無宗教儀礼とされています。日本政府は戦前も戦後も宗教色を嫌い、無宗教儀礼をもっぱらとし、あまつさえ近年は公的追悼施設・式典の異教化が進められています。宗教的無色中立を求めるあまり、無味乾燥な国家宗教の創設に猛進しているのです。

 日本の公的追悼がイギリスと真反対なのは、宗教的価値や日本の歴史と伝統を深く理解しようとしない知識人たちの啓蒙主義的性癖にこそ原因があるのではないでしょうか? 日本の政教分離問題、とりわけ靖国問題がいっこうに解決できない最大の要因もここにあるのでしょう。

 黙祷の歴史を振り返ると、そのことがじつによく分かります。


▽2 大正元年、明治天皇御大喪の「遥拝」

 今日、無宗教的な国民儀礼として認められている黙祷は、大正時代に生まれました。

 もちろん「黙祷」という言葉自体は中国・唐の時代、韓愈(かんゆ)の詩に登場するほど古くからあります。日本では最古の節用集(国語辞書)の1つといわれる、室町中期の「文明本節用集」に載っています。

 けれども、その意味はいずれも「個人が心の中で祈る」というほどのものであり、今日の集団儀礼ではありません。

 近世の庶民がもっとも親しんだとされ、今日、百数十種類確認されている江戸期から明治中期までの節用集には「黙祷」は見あたりません。市井の言葉としては近世から近代にかけて、死語に近かったということでしょうか。

 明治・大正時代の新聞記事にもほとんど登場しません。

 明治7年に創刊された読売新聞の過去の掲載記事をすべて網羅するデータベース「明治の読売新聞」「大正の読売新聞」で検索すると、今日的な意味に近い「黙祷」は大正元年9月8日付の「市民の黙祷と学生」にはじめて現れます。

 尊皇家として知られる阪谷芳郎・東京市長の提唱で、明治天皇の御大喪当日の夜、交通機関が止まり、葬場殿の儀に合わせて、東京市民・学生はそれぞれの持ち場で起立し、葬場殿の方角に向かい、「3分間の稽首遥拝の礼」を捧げることに決まったのです。

『明治天皇紀』は当日の模様を「市民一斉に黙祷し、全国六千万の蒼生また時を推りて遥拝す」と記述しています。

 けれども、これを黙祷儀礼の先駆けと見るのは無理があります。読売新聞はこれ以外の記事はすべて「遥拝」と表現しているからです。

 天皇や神仏を遠くから拝礼する「遥拝」は、『延喜式』に記されているほど古い宗教的な儀礼形式でした。近世・近代の節用集には見あたりませんが、「明治の読売」では131件、「大正の読売」では109件の記事が検索されます。

 明治29年の孝明天皇30年祭や明治45(大正元)年の明治天皇御大喪、大正3年の昭憲皇太后の御大喪などで、各地に神道形式の遥拝所が設けられ、「遥拝」「遥拝式」が行われたことが報道されています。

 今日の「黙祷」によく似た、交通機関を止め、一定の時刻に国民がいっせいに拝礼する国民儀礼としての「遥拝」が行われたのは、明治天皇の御大喪のときが最初でした。


▽3 ジョージ5世が呼びかけた「2分間の沈黙」

 国に一命を捧げた戦没者や不慮の天災・事故などの遭難者を対象とする、国民儀礼としての「黙祷」の歴史は、戦間期のイギリスに始まったようです。

 第1次世界大戦休戦一周年の1919(大正8)年11月11日、国王ジョージ5世の呼びかけで「2分間の沈黙」がはじめて行われました。

「すべての交通機関を止め、完全な静寂の中で、すべての人々は思いを英霊への敬虔な追憶に集中させよ」。

 この年の休戦記念日、大群衆で立錐の余地もないロンドン市長公邸マンション・ハウスでは、感動的な野外ミサが捧げられ、大群衆による讃美歌のあと、花火と時計台の時計が午前11時を知らせると、市長の合図で静かな祈りが捧げられました。

 翌年の休戦記念日はもっと盛大でした。ロンドンの官庁街ホワイト・ホールに石造りの記念碑セノタフが完成したのに加えて、ウエストミンスター寺院に無名戦士の墓が築かれ、パレードと埋葬式が行われたからです。

 葬列がセノタフに到着すると、国王は棺の上に月桂樹の花環を置きました。聖歌隊が讃美歌を歌い、群衆がそれに続き、午前11時、除幕式に合わせて人々は両手を組み合わせ、地上に平伏して、沈黙の祈りを捧げました。

 交通機関が止まり、沈黙の祈りを共有し、そして花環を捧げる、というイギリスに始まったこの国民儀礼は、明治天皇御大喪時の日本の「遥拝」に似ています。

 アングロ・サクソンが侵入する以前のケルトの文化では、1年の節目に死霊が各家を訪問すると信じられ、その信仰は現在のクリスマスやハロウィーンに引き継がれていますが、神霊・祖霊と交流するために忌み籠もり、そのため交通機関が止まる日本古来の精神文化とも通じます。

 死者に花を手向けるのは、ヨーロッパでは19世紀後半、ジャポニスムの時代に日本から伝わったと考えられているようです。

 第1次大戦休戦1周年に始まったイギリスの宗教色あふれる国民的追悼儀礼を、東京朝日新聞など日本のメディアは「沈黙」と直訳、報道しました。

 同様の儀礼が「黙祷」として最初に報道されたのは、「大正の読売」によると、同年12月、警官および志願巡査との衝突による犠牲者を悼む「30秒間の黙祷」がフィリピンのマニラ全市で行われたことを伝える外信記事です。

 大正10年春から7カ月にわたる御外遊の旅に出られた皇太子裕仁親王(昭和天皇)がイギリス御到着後、最初にお務めになった公式行事は、大歓迎の中でのセノタフ並びに無名戦士の墓への表敬で、皇太子は大きな花環を捧げ、深々と拝礼されました。そのあと、それまで静かに見守っていた群衆から大きな拍手がわき上がったと伝えられます。

 皇太子の御拝礼はイギリス人には「黙祷」と映ったのかもしれません。

 同年秋には、アメリカで「2分間の黙祷」(Two-Minute Silent Prayer)が捧げられました。

 ワシントン軍縮会議開会の前日に当たる11月11日、アーリントン墓地で無名戦士の埋葬式があり、正午を期して、ハーディング大統領の要請による黙祷が全米で捧げられました。

 その呼びかけは、「神の慈悲と我らが最愛の国への神の祝福を請い願う」という、イギリスにも増して宗教色の強いものでした。

 同じ日、ジュネーブで開催された国際労働機関の総会でも沈黙の祈りが行われた、と伝えられています。

 7つの海を支配する大英帝国に始まった黙祷は、世界大戦後、大国にのし上がったアメリカに伝わり、さらに国際連盟成立という新しい世界の動きの中で国際慣例化したといえるのでしょうか?


▽4 関東大震災1周年、摂政宮殿下の「2分間の御黙祷」

「黙祷」が国民儀礼として日本社会に定着するきっかけとなったのは、関東大震災で首都東京が壊滅した1年後、大正13年9月の関東大震災1周年です。

 震災直後の混乱が収まりつつあった前年10月、東京府市連合が主催する「49日」の追悼式が本所区被服廠(ひふくしょう)跡広場で行われました。

 祭壇に安置された大木牌を御下賜の菊花などが囲み、卒塔婆や線香など宗教的シンボルに彩られてはいましたが、イギリスやアメリカの戦没者追悼とは異なり、式自体は無宗教で、宗教者は排除され、宗教儀礼も採用されませんでした。

 仏教各派連合の追悼会(ついとうえ)や全国神道連合会の50日祭は、開催場所こそ同じ被服廠跡ながら、府市連合の追悼式とは別個に催されました。

「国家は宗教に干渉せず」を原則とする、啓蒙主義的な当時の行政と、その姿勢を「宗教に無理解」と反発する宗教者との抜き差しならない対立があったことを当時の新聞は伝えているほどです。

 黙祷儀礼が現れるのはこの翌年です。

 記録によると、震災1周年を間近に控えた13年夏、東京府・市と東京商業会議所(現・東京商工会議所)、東京実業組合連合会(現・東京実業連合会)が震災記念事業協議会を組織して協議を重ね、震災発生時刻の午前11時58分に、社寺教会などは鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らして注意を喚起し、市電は1分間停車、市民は「黙想反省」することなどを決めました。

 これこそ「黙祷」儀礼にほかなりませんが、現代と同様、宗教を毛嫌いする当時の行政の姿勢を反映しているのでしょうか、協議会は「黙想反省」というきわめて無機質的な表現を用い、新聞はこれを「祈念黙想」と言い替えて報道しました。

 東京朝日新聞に「2分間の黙祷」が現れるのは、震災1周年当日を数日後に控えた予定記事です。天皇皇后両陛下並びに東宮同妃両殿下が震災追悼式に花環を下賜されるとともに、東宮殿下が赤坂仮御所で「2分間の御黙祷」を捧げられることになった、というのです。

 あたかも協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、この報道を境に、市民の「祈念黙想」は「黙祷」に一変したのでした。

 朝日新聞が1周年当日の東京駅界隈の様子を伝えています。「東京駅では、田舎のお婆さんがやおら立ち上がり黙祷を始めると、人々は一斉に緊張した黙祷を捧げた」。

 新しい儀礼に不慣れなぎこちなさが伝わってきます。

 この年も、宗教者たちは東京市主催の震災1周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫りましたが、当局はこれを拒否し、被服廠跡では無宗教の式典が催されました。

 そのような状況下で、死者を追悼する黙祷儀礼は皇室に源を発し、一般に広がりました。皇室と国民の沈黙の祈りには切なるものがありましたが、既成の宗教儀礼によらない黙祷は宗教宗派への絶対的不干渉・中立主義をとる行政にとっても好都合で、以後、無宗教儀礼として受け入れられていくのです。

 イギリスやアメリカなどの、宗教色の強い黙祷との違いはここに始まります。


▽5 戦時体制下で国民儀礼化する「遥拝」「黙祷」

 昭和になって、「黙祷」は「遥拝」とともに集団儀礼として一気に社会の表舞台に登場します。けれども国民儀礼としては、より伝統的、より宗教的な「遥拝」が中心でした。

 昭和元年から20年までの記事を網羅した「朝日新聞戦前紙面データベース」で検索すると、「黙祷」は222件、「遥拝」はその2倍、444件の記事がヒットします。

 両者には形式上の大きな違いはありませんが、「遥拝」は天皇、御陵、神宮などが拝礼の対象で、一方の「黙祷」は関東大震災犠牲者に対する慰霊であって、少なくとも昭和初年には用語の使い分けがされていたようです。

 政府が主導する無宗教的な国民儀礼としての「遥拝」の初例は、新聞報道で見ると、昭和9年5月に行われた日露戦争の英雄・東郷平八郎元帥の国葬です。

 人霊に対しては本来、「遥拝」の語は用いるべきではありませんが、東京府下では府が通牒を発して、各小学校で弔慰を表する遥拝式が催されました。

 12年夏の盧溝橋事件をきっかけに日中が全面衝突すると、新聞紙上に「遥拝」「黙祷」の記事が桁違いに増えます。凱旋した軍人兵士や帰国した五輪選手が宮城を遥拝し、元日や紀元節、天長節など祝祭日での遥拝式が国民儀礼化されます。

 12年12月3日付の朝日新聞は、政府が国民精神総動員の趣旨にのっとって、翌年元日の午前10時に官庁や学校で宮城遥拝や祝賀式を行うことなどが決められた、と伝えています。

 こうして宮城への「遥拝」は戦時体制下、国民儀礼化されたのです。

 他方、戦没者に対する国民儀礼としての「黙祷」を推進したのは陸軍でした。

 13年3月4日付、朝日新聞朝刊の記事「いっせい足止めて黙祷、陸軍記念日の正午に」は、陸軍が3月10日の第33回陸軍記念日に「過去の諸戦役における先人の偉業をしのび、今事変の意義を闡明(せんめい)し、挙国長期戦の覚悟を促進する」ための計画を立てていることを紹介しているのですが、その1つが「1分間の黙祷」でした。

 これが行政機関が日本国民に無宗教儀礼としての「1分間の黙祷」を求めた最初かと思われます。

「黙祷」の歴史を考える上で注目される記事が、16年元日の朝日新聞に載っています。前年秋に設立された神祇院が、「国礼の統一」の一環で、「黙祷廃止」を検討し始めたというのです。

「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた1分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と2拝2拍手1拝の礼式を国礼として制定する意向」でした。

 行政関係者のなかに、黙祷が外来文化に由来する、という歴史的理解が当時、あったことは注目に値します。

 当然ながら波紋はすぐに広がりました。宗教専門紙の報道によると、仏教界は心中穏やかではなかったようです。同様の論理に立てば、インド・中国から伝来し、日本化された仏教行事も排除されかねないからです。

 しかし結局、黙祷は継続することになります。大政翼賛会文化部、文部省、神祇院が協議し、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」という見解がまとまったのです。

 そして同年春、1万5千の英魂を新たに合祀する靖国神社の臨時大祭には例年通り1億の黙祷が捧げられました。

 しかしながら1億の国民の祈りもむなしく、日本は敗戦。そして連合国軍による占領末期、黙祷をめぐる「宗教・無宗教」論争が起きます。火をつけたのはアメリカ人宣教師でした。


▽6 宣教師が火をつけた「黙祷」論争

 昭和26年、日本で発行されている英字新聞紙上で、「信教の自由」「政教分離」をめぐる「黙祷」論争が繰り広げられました。

 同年5月に貞明皇后が崩御になり、斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられたのですが、その数日後、アメリカ人宣教師の投書がニッポン・タイムズ紙の読者欄に載りました。

「日本の学校で戦前の国家宗教への忌まわしい回帰が起きた。生徒たちは皇后陛下の御霊に黙祷を捧げることを命令された。キリストに背くことを拒否した子供たちはさらし者にされた」

 これが宗教論争の始まりでした。

 公文書によると、斂葬当日に官庁等が弔意を表することが閣議決定され、文部省は「哀悼の意を表するため黙祷をするのが望ましい」旨、次官通牒を発しました。

 宣教師が問題としている子供たちの通う私立校の場合は対象外で、しかも通牒には宗教儀式の不採用、社寺不参拝が明記されており、黙祷は少なくとも文部当局にとって、この宣教師が批判するような「命令」でも「宗教儀式の強制」でもありませんでした。

 けれども、宣教師らは文部当局の説明に納得しませんでした。日本の行政機関にとっての「黙祷」は戦前と同様、無宗教儀礼でしたが、キリスト教文化圏に始まった「黙祷」は宣教師らには当然、宗教儀礼と映ったのでしょう。

 そして宣教師らが強硬だったのはトラウマがあったからです。投書の主たちは、昭和8年に聖書学校生徒の子弟が伊勢神宮への参宮を拒否したのに端を発して、教会が暴徒に襲われるという「迫害」を経験していたのでした。

 宣教師は「真のキリスト者は天皇を愛し、必要なら命を捧げるが、崇拝はしない」と強調したばかりでなく、「戦前のキリスト者が神に忠実であったなら、『真珠湾』は起きなかっただろう」とまで述べています。

 そしてサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび同じ学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、「また命令された。新憲法は宗教儀式の強制を許すのか」とふたたび抗議。広範囲の読者を巻き込んだ甲論乙駁の紙上論争は10月半ばまで続きました。

 興味深いのは、GHQがアメリカ人宣教師の立場をけっして擁護していないことです。占領中の宗教政策を担当した同職員のW・P・ウッダードはこの論争をある論攷に取り上げ、「黙祷」について、こう解説しています。

「黙祷という語は仏教や神道のものではない。明治以前には使われていなかった。関東大震災の記念日に関連して行われ、戦中は種々の場合に行われた。超国家主義者の中には日本的でないとして反対する者もいたが、代わる適当なものがなかったことを知った。何か特定の対象に捧げるものであるという主張には根拠がないように思われた」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4所収)

 論争は、キリスト教文化圏で宗教的な儀礼として始まった黙祷が、日本では無宗教儀礼として官民に浸透した歴史を浮かび上がらせます。

 けれども、黙祷が第1次大戦後の英国で始まり、世界化し、日本では戦時体制下に国民儀礼として慣例化したという歴史など、アメリカ人宣教師らには思いもよらぬことだったに相違なく、行政が主導する無宗教儀礼は彼らには国家宗教に見えたのでしょう。

 もう1つ見逃せないのは、昭和20年12月の「神道指令」と現行憲法が定める政教分離規定とを同一視する憲法学者らがいるのに対して、ウッダードはこの考えを当時すでに否定していることです。ウッダードは同じ論攷にこう述べています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない。……米国の世論は非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しないだろう。米国では明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある」

「神道指令」は神道からの「分離」をきびしく要求していましたが、貞明皇后の御大喪の例が示すように占領後期には緩和され、GHQはもはや厳格な政教分離政策を採らなくなりました。

 独立回復からすでに半世紀を過ぎた今日の日本ができもしない完全分離にこだわり、「非宗教主義に終わる可能性のある政策」を追求しなければならない理由はまったくありません。

 日本の官僚・知識人が絶対的分離に固執するのは、占領政策の残滓というよりも、もともと彼ら自身に近代合理性の精神に由来する、とくに神道に対する、宗教的偏見があるからなのではありませんか?

 その偏見がGHQでさえ捨て去った完全分離主義への郷愁を保ち続けさせ、他方では神社嫌いの一部の宗教者たちがその偏見をあおり立て、愚かしいことに、自分たちを否定することになる非宗教主義的な無色中立政策を採らせているのでしょう。


▽7 新たな国家宗教を創る政府

 人の死を悼むのは間違いなく宗教的行為で、イギリスの戦没者追悼儀礼が自国の宗教伝統に基づいて宗教色豊かに行われるのは当然です。しかし日本政府は、戦前も戦後も厳格な政教分離主義の立場に立ち、とりわけ近年は公的追悼施設や追悼行事からの宗教性排除に奔走しています。

 日本国憲法は国の宗教的中立性を求めているものの、絶対的無色中立を要求するものと解釈すべきではないし、もともと無色中立などはあり得ないはずです。絶対的な中立を追求すれば、宗教伝統を否定する新興宗教的な国家宗教の創設もしくは異教化を国みずからが推進することになり、憲法が認める信教の自由を否定する自家撞着に陥ります。

 事実、国や地方公共団体が関わるごく最近の公的追悼施設や追悼式典には、その傾向がはっきりとうかがえます。

 平成14年、15年に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が相次いで開館しました。

 これらは既存の宗教形式によらない無宗教施設で、読経や讃美歌の合唱などは禁じられています。献花は認められますが、玉串拝礼は想定されず、焼香は「火気の使用」に当たるという理由で認められていません。

 認められるのは「厳かな雰囲気で静かに死没者に思いをいたし」という戦前と同様の無宗教儀礼としての黙祷です。

 広島祈念館には祭壇すらありません。中心施設「追悼空間」は爆心地から見た被爆後の街並みを死没者と同数の14万のタイルで表現した円形のパノラマで、来館者はここで「死没者を追悼し、平和について考える」とされています。

 しかし、どこに向かって祈るというのでしょうか。死者はどこにいるのでしょう? 慰霊碑も祭壇もないなら、「天」に向かって祈らざるを得ません。「天に祈る」のは古来の宗教伝統とは異なります。

 一方、長崎祈念館の「追悼空間」には緑色に光るガラス製の「光の柱」が林立し、正面には献花台があり、死没者の名簿棚が直立します。

 開館したばかりの祈念館を訪れた小泉首相は記帳のあと、名簿棚に向かって献花、合掌、黙祷しました。名簿に死者の魂が宿っているとでも信じられているのでしょうか、そのような観念は日本人の伝統的宗教心になじむのでしょうか?

 既成宗教に対する完全中立を求めるあまり、行政自身が無宗教的な国家宗教を創設し、国民に強制する伝道師を演じているのではありませんか?

「特定の宗教を排除」して宗教的中立性を追求したつもりが、結果として、日本の宗教伝統を排除し、あまつさえ異教にすり寄る結果をもたらしたのが、阪神淡路大震災10年の追悼式典です。

 平成17年1月、兵庫県や県議会、県民代表の13団体で構成される式典委員会(委員長=県知事)が主催した、黙祷、献唱曲、献花を内容とする追悼式典では、何とキリスト教音楽の合唱が捧げられました。

♪ 愛しい真の御身は処女マリアから生まれ、万民の身代わりに十字架に付けられ、苦しみを受けられた。

 楽聖モーツアルトが作曲した聖体賛歌「アベ・ベルム・コルプス」は、キリストの生誕から受難までをラテン語で簡潔に表現した教会音楽の最高傑作の1つで、異教徒や不信心者の心をも洗わずにはおきません。

 けれども、絶対的な政教分離主義に立つ行政機関が主体的に関わる公的追悼行事で演奏されるのは、矛盾も甚だしいといわねばなりません。

 イギリスのセノタフを「宗教性なし」と決めつけたのが、かの追悼懇ですが、ここでは国が主催する戦没者追悼式で、自国の宗教伝統に基づいてイギリス国教会のロンドン司教が宗教儀式を行い、ユダヤ教や仏教、ヒンドゥー、イスラム、シーク教の代表者も参列して、国に一命を捧げた戦没者に感謝の祈りが捧げられます。

 こうした多宗教形式による祈りは、アメリカのワシントン・ナショナル・カテドラルで行われた「9・11」同時多発テロ犠牲者への追悼ミサや、オーストラリア政府が主催したバリ島爆弾テロ一周年の追悼式、スマトラ島沖地震・大津波の犠牲者を悼む追悼式などでも行われ、世界的な流れといえます。

 第2バチカン公会議以降、宗教多元主義が受け入れられてきた結果ともいわれます。

 けれども、多元性・多宗教性が日本の宗教的伝統であるはずなのに、日本の行政は相変わらず戦前と同様、「宗教性の排除」に狂奔しています。「宗教性」を否定した慰霊・追悼などあるはずもないのに、です。

 自国の宗教伝統に背を向け、異国の神にすり寄った挙げ句に、行政関係者はこう言い張ります。「『アベ・ベルム・コルプス』の歌詞の意味は知らない。本来は教会音楽かもしれないが、宗教とは考えていない」。

 これはまさに宗教への冒涜にほかならず、このような式典で死者が慰められるはずもないのではありませんか?

 戦前も戦後も、日本の政治家や官僚、知識人には、度し難いほどに啓蒙主義が身に染みついているようです。小泉首相の靖国神社参拝に対する言論・マスコミ人の強硬な批判、あるいは厳格な政教分離主義に固執する靖国参拝訴訟「違憲」判決などは、その当然の結果といえます。新追悼施設議連設立もまた同様でしょうか?

 もっとも愚かしいのは、戦前の宗教者たちが宗教的な公的慰霊の実現を政府に強く働きかけたのに対して、現代では一部とはいえ、宗教家たちが「反ヤスクニ」裁判に血道を上げ、非宗教主義に走る「違憲」判決に狂喜していることです。

 宗教家自身が宗教的価値を見失っているのでしょう。だとすれば、死者たちの魂を誰がどうやって慰め、救済するのですか。いま求められているのは啓蒙主義を打ち砕く本物の宗教心であり、国民の宗教心を呼び覚ましてくれる本物の宗教家ではないでしょうか?
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