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「準国葬」貞明皇后大喪儀から「国事」皇太子御成婚まで──歴史的に考えるということ 5 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年5月12日)からの転載です


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「準国葬」貞明皇后大喪儀から「国事」皇太子御成婚まで
──歴史的に考えるということ 5
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 先週は、占領直後の昭和20年暮れに発令された、「宗教を国家から分離すること」を目的とする、いわゆる神道指令の解釈が、占領後期になると「宗教教団と国家の分離」に解釈変更されたというお話をしました。

 その結果、26年の貞明皇后の大喪儀も準国葬として、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 小嶋和司東北大学教授(憲法学。故人)が『小嶋和司憲法論集3 憲法解釈の諸問題』に書いているように、20年末には東京駅に飾られた門松や注連縄までが撤去されるほど厳格でしたから、わずか数年で様変わりしたのです。

 その背景には、アメリカによる神道研究が進み、「国家神道」観が変化し、修正されたのだろうと推測されますが、実際に占領軍がどのような経緯で神道指令の解釈変更をしたのかは大きな謎で、GHQの文書を洗い直す今後の実証研究に期待するほかはありません。


▽1 「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉

 簡単におさらいすると、アメリカは戦争中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えていたようです。

 靖国神社は明治2(1869)年に建てられた東京招魂社が始まりで、12年に靖国神社と改称され、別格官幣社に列せられました。一般の神社とは異なり、陸海軍が管轄しました。

「靖国」という社号は明治天皇の命名によるもので、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。同社の祭神は、国の非常時にかけがえのない一命を捧げたというただ一点において、祀られています。

 しかし、たとえば昭和14(1939)年1月、東京朝日新聞は、陸軍省の後援で、靖国神社の外苑を主な会場とする「戦車大展覧会」を主催しました。戦車150台を連ねて東京市中をパレードする「大行進」や陸軍の専門家の「大講演会」も開催されました。

 靖国神社を「軍国主義」の教会として演出した勢力がたしかに存在したのです。

 他方、明治23年秋に発布された教育勅語は、その翌日に文部大臣が、学校の式日に勅語を奉体することなどを訓示し、翌年には紀元節や元始祭などに学校で儀式を行い、教育勅語を奉読することなどが決められました。

 教育勅語それ自体は「罪のない有害とも思えない文書」(CIE[民間情報教育局]職員R・K・ホール少佐)でしたが、「これを中外に施してもとらず」の一句は「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と解釈され、しかも神聖化されたことで、あたかも世界宣教、世界征服の意図があるかのように受け取られたようです。


▽2 世界征服を企てた軍国主義者の追放

 昭和20年8月、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争は終わりました。

 同宣言には「吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」とありました。

 軍国主義者が日本国民を欺き、世界征服の野望を推し進めた、という理解がはっきりと示されています。

 戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教に干渉することを禁じています。またポツダム宣言自身、「言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」と謳っています。

 にもかかわらず、占領軍はいわゆる神道指令、すなわち「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」と題する覚書を発したのです。国家神道が軍国主義の源泉であるなら、軍国主義者たちを世界から永久追放するには必要だったということでしょう。

 アメリカ国務省は「神道の廃止」を占領政策の基本に掲げ、CIEの大勢は「神道、神社は撲滅せよ」と強硬で、靖国神社の「焼却」が噂になっていました。

 けれども、ビッテル神父の「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」というマッカーサーへの回答で、靖国神社はひとまず守られました。

 20年11月、臨時大招魂祭が斎行され、昭和天皇が行幸になります。そして、参列したCIE部長のダイク准将らは「荘厳で良かった」と感激します。職員が一兵卒として応召したことも分かりました。世界征服の中心施設ではなかったことが判明したのです。

 しかし同12月、神道指令が発令されます。靖国神社は国家管理を離れ、宗教法人化せざるを得なくなります。他方、教育勅語ですが、文部省は21年10月、奉読と神聖的取り扱いの停止を通達し、日本国憲法施行後の23年6月には排除、失効確認の国会決議がなされています。


▽3 掌典職官制の廃止

 さて、宮中祭祀です。

 昭和20年12月の神道指令の発令を受け、明治41年9月に制定公布され、大祭は「天皇、皇族および官僚を率いてみずから祭典を行う」、小祭は「天皇、皇族および官僚を率いてみずから拝礼し、掌典長祭典を行う」と定めていた皇室祭祀令は、「皇族および官僚を率いて」が削られるとともに、皇室祭祀令に規定する官国幣社の祈年祭、新嘗祭班幣の項も削除されました。

 そして22年5月3日、日本国憲法が施行される前日、皇室祭祀令など皇室令のすべてが廃止され、天皇の祭祀の明文法的根拠は失われました。

 けれども、祭祀令に代わって、同日付の宮内府長官官房文書課発第45号、各部局長官宛の依命通牒が発せられ、宮中祭祀は存続しました。

 依命通牒第3項には「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)」と記されています。

 この日、明治以来の宮内省は大機構改革によって宮内府となり、内閣総理大臣所轄の機関となりました。終戦時6000人を超えていた職員は宮内府発足とともに1500人弱に激減したと宮内庁HPに記されています〈http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/enkaku.html〉。

 天皇の祭祀をつかさどる掌典職はすでに前年4月に官制廃止となっていました。国家機関ではなくなり、職員は内廷費で直接、雇われる天皇の私的使用人と位置づけられることとなったのです。

 公正かつ無私なる天皇の祭りが、「皇室の私事」とされたのでしたが、異議申し立てはできません。それほど、神道指令は苛烈だったのです。


▽4 準国葬として行われた貞明皇后大喪儀

 ところが、占領後期になって、占領軍は神道指令の解釈を「宗教と国家との分離」から「宗教団体と国家の分離」に変更します。

 24年11月には、松平恒雄参議院議長の参議院葬が参議院公邸で行われるのですが、占領軍が毛嫌いしたはずの神道形式でした。占領軍はもはや「神道廃止」政策を採らなくなっていたのです。

 GHQ職員による、はっきりとした証言があります。

 26年5月、貞明皇后が崩御になり、6月に大喪儀が準国葬として行われました。旧皇室喪儀令に準じ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 斂葬当日の22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられます。政府は、斂葬当日に官庁等が弔意を表することを閣議決定し、文部省は「哀悼の意を表するため黙祷をするのが望ましい」旨、次官通牒を発しました。

 その数日後、アメリカ人宣教師の投書がニッポン・タイムズ(現ジャパン・タイムズ)の読者欄に載ります。「日本の学校で戦前の国家宗教への忌まわしい回帰が起きた。生徒たちは皇后陛下の御霊に黙祷を捧げることを命令された。キリストに背くことを拒否した子供たちはさらし者にされた」。新聞紙上で宗教論争が始まりました。

 黙祷は私立校では対象外で、しかも通牒には宗教儀式の不採用、社寺不参拝が明記されており、「命令」でも「宗教儀式の強制」でもありませんでしたが、宣教師らは文部当局の説明に納得しませんでした。

 そしてサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、「また命令された。新憲法は宗教儀式の強制を許すのか」と再抗議し、紙上論争は10月半ばまで続きました。

 ところが、GHQは宣教師たちの反神道的立場をけっして擁護しませんでした。占領中の宗教政策を担当した同職員のW・P・ウッダードは、のちに回想しています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」)

 貞明皇后の大喪儀が準国葬として行われた事情を、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」

 宮中祭祀は私的信仰として認められるという意味なのでしょう。過酷な神道指令の時代は終わりました。その後、講和条約の発効で日本は独立を回復し、神道指令は失効します。しかし「宮中祭祀は天皇の私事」とする憲法解釈は超えられませんでした。


▽5 「国事」と閣議決定された皇太子御成婚

 大きく変化したのは、34年4月の皇太子(今上天皇)御成婚です。

 賢所での神式儀礼が「国事」と閣議決定され、国会議員らが参列しました。宮中祭祀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の解釈が打破されたのです。

 このときの事情を百地章日大教授(憲法学)が『政教分離とは何か』で、次のように説明しています。

「この賢所大前の儀では、皇太子、同妃両殿下が賢所内陣で玉串を奉奠(ほうてん)、拝礼の後奉告文を奏上され、賢所前幄舎(あくしゃ)には皇族、親族をはじめ首相、各閣僚、衆参両院議長、最高裁長官ら約600人が参列した。これは明らかに宗教的行事といえようが、それにもかかわらず『国事』とされた」

 その理由を宇佐美毅長官が国会(第31回国会参議院予算委員会第1分科会。34年3月26日)で答弁していることを、百地教授は紹介しています。

 この日、分科会では同年度総予算のうち、皇室費が議題となっていました。質問に立ったのは社会党左派の吉田法晴議員で、「皇太子の結婚が国事であるのか私事であるのか」と迫ったのです。

 これに対して、宇佐美毅宮内庁長官が「『賢所』で行われる『結婚の儀』は憲法7条に基づく天皇の儀式(国事行為)である」としたうえで、次のように答弁した、と百地教授は説明しています。

「その行い方につきましては、その家の方式で行う、その信ずるところで行うことが、むしろ憲法の精神に沿うのではないか。これはたとえば貞明皇后の御葬儀でも国の儀式として行われましたが、神道様式で行われておる。あるいは過去において衆議院葬を行われた、公の儀式で行いましたが、仏式で行われたようなことでございまして、私どもはそれによって憲法違反になるというふうには考えていないわけでございます」

 いよいよ核心部分に入ってきました。質疑応答をさらに掘り下げたいのですが、すでに長くなりましたので、次回、お話しします。

 つづく。
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