朝日新聞縮刷版で読む「A級戦犯」の赦免──国民運動が高まり、国際社会が合意した [A級戦犯]
以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です
昨日付の朝鮮日報の社説が、アメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」に載った安倍総理のインタビュー〈http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201306/Abe.htm〉を、「二つのうそを言った」と厳しく批判しています〈http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/05/21/2013052100763.html〉。
「一つは靖国神社参拝を米国ワシントン郊外にあるアーリントン墓地への参拝と同じものとした点だ」「二つ目のうそは、韓国がこれまで日本の首相による靖国神社参拝を問題視しなかったという主張だ」と指摘しています。
一つ目については、「ドイツで行われたニュルンベルク裁判で有罪判決を受けたナチスの戦犯たちに対し、首都の中心部に祭ってドイツの首相や閣僚、政治家などが日本のように参拝したらどうなるだろうか」と問いかけ、「日本のA級戦犯たちはナチスの戦犯たちと何ら変わらない。A級戦犯を祭る施設を東京の中心部に置き、日本の政治指導者たちが毎年参拝することを、米国のアーリントン墓地の参拝に例えるなど詭弁(きべん)以外の何物でもない」と反発しています。
しかし、これこそ「ウソ」と「詭弁」でしょう。
日本の戦時指導者とナチスとを同列で論じることは無謀ですし、日本の「戦犯」は、ナチスの「戦犯」とは異なり、国際ルールに従って、国際社会の合意に基づいて、赦免・減刑・釈放されました。
いまや韓国国民の3人に1人はキリスト者だそうですが、「戦犯」の赦免・減刑にキリスト者が果たした役割は少なくありません。日本国内で戦犯者の助命、減刑を嘆願する署名運動には多くのキリスト社が参加しています。海外でまっ先にフィリピンが日本人「戦犯」を赦免したのは、「敵を赦せ」というキリスト教精神に基づいています。
韓国・朝鮮人の頑なで、非キリスト教的な態度は何に由来いるのでしょうか?
というわけで、平成14年8月に宗教専門紙に連載された拙文をまとめて転載します。当時もまた「A級戦犯」問題が沸騰し、日本ではいわゆる追悼懇が靖国神社に代わる追悼施設建設を模索していたのでした。
それでは本文です。なお一部に加筆修正があります。同紙の編集方針に従い、歴史的仮名遣いで書かれています。
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朝日新聞縮刷版で読む「A級戦犯」の赦免
──国民運動が高まり、国際社会が合意した
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◇昭和二十七年 独立回復
◇「戦犯」赦免の一千万署名はじまる
内閣官房長官の諮問会議「追悼・平和懇」は五月下旬の第六回会合のあと、開かれてゐない。「次回は八月中に」(事務局)とも聞くが、どうなるのか。
議事録を見るかぎり、議論は堂々めぐり。だが確実に、着実に、「靖國神社に代はる」国立追悼施設の建設へと向かってゐるかに見える。新施設が追悼の対象と予定するのは明治維新以来の戦歿者であり、議事録には「靖國神社に祀られてゐる人が全部ここに移ってくる」といふ発言が記録されてゐる。
新施設は靖國神社の慰霊・追悼の歴史を認めないらしい。根っこには「A級戦犯」(昭和殉難者)問題がある。近隣諸国の「わだかまり」もここにある。なるほど同社は戦後、A級、BC級の別なく戦争裁判の刑死者らを合祀してきた。
けれどもその前提となる重い歴史が忘れられてゐないか。独立回復後、戦犯赦免の国民運動がわき起こり、日本政府を動かし、さらに関係各国政府が釈放に同意したといふ歴史である。
昭和三十一年三月に「最後のA級戦犯」といわれる、元軍務局長で陸軍中将の佐藤賢了氏が釈放されるまで、どのやうな経緯があったのか。いまや靖國神社批判の急先鋒の観がある朝日新聞の記事をめくりつつ、ふり返ってみたい。
昭和二十六年九月、米サンフランシスコで日本を含む四十九カ国が対日平和条約に調印した。戦犯の赦免・減刑が具体的に動き出すのはその翌年の二十七年、最初はフィリピンである。
▽フィリピン死刑囚に涙する朝日新聞記者
二十七年の年明け早々、来日した複数のフィリピン国会議員が「モンティンルパの収容所にゐる日本人戦犯百十三人は講和発効後、死刑は無期懲役になるなど、それぞれ減刑・赦免され、日本に送還されるだらう」との情報をもたらす。
一月二十八日付の朝日新聞の朝刊は、特派員のモンティンルパ訪問記を載せてゐる。
「僕たちのためにと無理に多額の賠償を払ふやうなことがないやうに」と金網越しに語る若い死刑囚に、特派員は「罪は日本人全体が負ふべきだ」との思ひをかみしめ、溢れる涙をこらへつつ、「無事に帰国できるやう、日本に伝へます」と約束してゐる。
二月になると、モンティンルパの戦犯、ニューギニアのマヌス島に収容されてゐたオーストラリアの戦犯が日本に送還されるやうになる。
フィリピンの大統領官邸で開かれた国家最高会議では服役中の日本人戦犯の減刑・日本送還が提議され、朝日の特派員は、フィリピン首脳が「今後、死刑囚の処刑はあり得ない」と言明したとの情報を得る。キリノ大統領は「戦犯を日本に返したい」と言明する。
フィリピンの日本人戦犯と一般市民との交流も盛んになる。
三月十四日付の朝刊には、在比戦犯から留守家族への手紙百数十通が届いたといふ記事が載ってゐる。きっかけはモンティンルパの刑務所と東京都内のキリスト教系病院の看護婦たちとの文通であった。このころの朝日には、「私を身代はりに」などと、死刑囚を激励する手紙が殺到してゐた。
▽署名運動の中心に浄土真宗の関係者
四月二十八日、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、フランス、メキシコ、ニュージーランド、パキスタン、英、米および日本との間に平和条約が正式に発効する。
昭和天皇は独立回復のお喜びを「風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり」と詠はれた。
講和発効を境に、巣鴨の戦犯赦免は急展開を見せる。日弁連など民間団体が赦免運動を巻き起こすのだ。
四月中旬、A級戦犯弁護人は全戦犯の釈放を政府に要請し、BC級戦犯弁護人団がBC級戦犯釈放のための署名運動開始を決める。
五月二日、昭和天皇親臨のもと新宿御苑で全国戦歿者追悼式が催され、三日には皇居前広場で独立記念式典が催された。
天声人語は「独立式典に先立って慰霊するのが順序。結構だ」との見識を示してゐる。
六月五日、戦犯者の助命、減刑、内地送還を嘆願する署名運動が全国一斉に始まった。東京では愛の運動東京都協議会を中心に東京留守家族会、戦犯受刑者世話会、キリスト教を含む各宗教団体が参加した。
翌六日、日弁連は戦犯保釈特別委員会の第一回総会を開き、戦犯の全面赦免を要請すべきであると合意する。
愛の運動東京都協議会が集めた戦犯助命の署名は七月には五百五十万人(東京五十万、関東五百万)になり、八月には一千万人を超える。
終戦記念日を前に東京では「講和に取り残された戦犯を救はう」といふ署名運動が始まる。運動の中心には全日本華道婦人友愛連盟。その代表は大谷嬉子裏方(浄土真宗本願寺派)で、同連盟らは百万人の署名を集め、政府に陳情した。
▽トルーマン大統領が減刑保釈委員会設置
国民の要望を受けて、日本政府がいよいよ重い腰を上げる。
六月十一日、吉田首相は戦犯の赦免、減刑、仮出所などについて関係各国に了解を求めるやう、手続きを進めることを保利官房長官に指示した。
同十六日、参議院厚生委員会は、服役中の戦犯を未復員者、特別未帰還者と同様に扱ひ、給料、扶養手当を支給する「未復員者給与法案の一部改正案」を、労農党と共産党をのぞく共同提案で参議院に提出する。
各方面からの釈放要請のなか、八月上旬、保利官房長官が巣鴨を慰問する。
数日後には木村法相が記者会見で、「政府はこれまで戦犯二百三十二人の仮出所を勧告した。今月中旬には勧告を終了する。赦免についても終戦記念日までに終はる予定。海外戦犯者三百十七名は内地送還に努力したい。戦犯家族救済には近く内閣に総合機関を発足させる」と語る。
平和条約は戦犯赦免などに関して、裁判に関係した複数政府の決定と日本の勧告が必要だと定めてゐる。これに基づいて、政府は八月十五日、BC級戦犯全員の赦免を関係国に勧告したのだ。
そのあとアメリカでは九月にトルーマン大統領が日本人戦犯の減刑保釈委員会設置を命じ、翌十月に同委員会は日本人戦犯の審査を開始する。
▽立太子の礼を機会にA級戦犯赦免を要請
A級戦犯赦免のきっかけは、十一月十日の立太子の礼であった。政府はこれを機に、国内外の戦犯の赦免・減刑を関係各国に要請する。
その後、アメリカ政府はA級戦犯の赦免・減刑について、極東裁判参加国と協議を開始した。
同二十三日、A級戦犯を含む戦犯六百四十名が後楽園で野球見物を楽しんだ。初めての外出であった。
しかし処刑者の遺家族の境遇は苦しかった。
十二月四日の朝日の朝刊に「置き去りの戦犯遺家族」といふ記事が載ってゐる。
全国千百世帯の戦犯遺家族は「援護法」の適用が受けられず、遺家族年末特別給与金などの「恩典」からも締め出されてゐる。フィリピンで処刑された陸軍中将の未亡人は「夫は責任を負って処刑された。厚かましいが罪は償はれたのではないか。しかし靖國神社にも祀っていただけない。政府は死人にまでむち打つつもりかしら」と述べた。
記事は遺家族に同情的で、都職員に「本当にお気の毒」と語らせてゐる。
しかし明るいニュースが飛び込んできた。十一月中旬にインドが、十二月上旬に台湾の国民政府が、A級戦犯釈放を欧米関係各国に先駆けて承認するのだ。
A級戦犯の処刑命日に当たる十二月二十三日、愛の運動東京都協議会は戦争刑死者千百余柱を対象とする全国で初めての戦争刑死者慰霊祭を東京の築地本願寺で催した。
同二十四日には、戦犯の仮出所など処遇を緩和するための戦犯処理法の改正案が、衆院法務委員会で最終決定の上、衆院本会議に上程可決された。
◇昭和二十八年 特赦
◇独立記念日でフィリピン大統領が決断
昭和二十八年一月中旬、日弁連は政府に要望書を提出した。
「講和発効から二年目、いまなほ千百名に上る戦犯が内外で拘禁されてゐる。国会や政府、各種団体が赦免の努力を重ねたが、二十五人が仮出所したにすぎない。戦犯には無実の者や事実以上に重刑を課せられてゐる者も多い。関係各国とローマ法王庁に使節団を至急派遣し、平和条約一周年までに全戦犯釈放の実現を期するやう要望する」
アメリカの壁は意外に厚かった。
前年暮れ、戦犯の仮出所など処遇を緩和する戦犯処理法が日本の国会で成立し、一月に施行されたのに対して、同国政府は「戦犯の服役を有名無実化し、平和条約の趣旨に違反する」と正式に抗議したほどだ。
日本は二月に「法律の運用に慎重を期す」と回答せざるを得なかった。
しかし三月になると、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、パキスタンの八カ国にそれぞれ「A級戦犯」をふくむ戦犯の仮出所減刑に関する審査機構が設置される。下旬には八カ国の在京大使館・公使館が日本外務省に、「日本政府の勧告があれば、戦犯赦免について、個別に審査する」と通告する。
いよいよ戦犯赦免が動き出したのだ。
▽妻子を殺された憎しみを越えて
六月下旬、フィリピンからビッグ・ニュースがAP電で飛び込んできた。
キリノ大統領が在比戦犯百十三名全員に対する特赦令に署名し、死刑囚は終身刑に減刑し、巣鴨に移管することを承認したといふのだ。七月四日のフィリピン独立記念日を機会とする大統領の特赦は秘密裡に進められてゐた。ところが地元紙がすっぱ抜き、取り急ぎ政府発表となった。
二十七日朝、戦犯釈放を求める日本人五百万名の署名簿が空路、フィリピン外務省に届けられた。奇しくも特赦令発表はそれとほぼ同時だった。
キリノ大統領は日本人のために妻子を殺され、日本人をいちばん赦しがたい立場にあった。ある日本人が戦犯赦免を願ひ出ると、大統領は涙を浮かべ、「多くの国民は日本人を赦せないと思ってゐる。しかしキリスト教精神で何とか赦さうとしてゐる」と答へた。
大統領だけではない。戦犯の弁護人に任命された一群のフィリピン軍将校はしばしば同胞から投石や暴言を浴びた。それでも愛憎を越えて献身的に活動した。戦犯特赦はその結果であった。
それから数日後、今度はマヌス島に収容されてゐる戦犯百六十五名の日本送還が、オーストラリア政府から正式に発表される。
▽現実からほど遠いソ連収容所訪問記
在比、在豪戦犯の日本送還が完了すると、残されたのは在ソ、在中戦犯であった。
七月下旬、大山郁夫参院議員がモスクワでモロトフ外相と会見し、戦犯釈放が話題になったのをきっかけに、在ソ戦犯や戦犯容疑者の留守家族たちが日本送還を求めて全国的な署名運動を展開する。
八月下旬にはジュネーブの国連捕虜特別委員会で日本代表の有田八郎氏がソ連および中国大陸内の未帰還者とその状況を訴へ、引揚促進を国連加盟各国に強く呼びかけた。
十月下旬の天声人語は「ロシア民族の変はらぬヒューマニティをこの機会に再認識させてほしい」と訴へるのだが、十月末にモスクワで始まった日ソ赤十字会談は思ふやうに進展しなかった。
何しろ戦犯の数さへ揃はない。ソ連抑留中の日本人戦犯八百十名の送還が発表されたのは、十一月十四日のことだった。
日赤代表団に同行してモスクワ郊外の収容所を訪問した特派員の訪問記が当時の朝日新聞に載ってゐる。
だが、「食事は魚や肉も」「週に一度は映画も」といふ記事は、平均的な収容所像からはほど遠い。帰国者の話では、軍隊時代の階級を打破する「反軍闘争」が収容所では展開され、樺太の婦人たちはソ連人女囚と雑居の日々を送らされてゐたのである。
▽一番後に残された中国大陸抑留戦犯
いよいよ最後に残ったのが中国大陸内に抑留された戦犯である。七月の時点で、中共赤十字社の代表は日赤の特赦依頼に対して、「中共の法律を守る日本人だけ引揚の援助をする。違反者は制裁を受けるべきだ」とあくまで冷淡だった。
しかし十一月中旬、中共赤十字社が日本居留民の集団帰国打ち切りを通告してくると、日本側はあわてる。「相当数の日本人が旅順、大連地区に残ってゐる」からだ。
打開の糸口は中共赤十字社長・李徳全女史の招待問題だったが、「竹のカーテン」を越えて正式の賓客を迎へることに外務省は消極的で、問題解決は年を越すことになる。
年も押し詰まった十二月二十八日、フィリピンのキリノ大統領は、今度は巣鴨で服役中の同国関係全戦犯の即時釈放を命じる。任期残り三日の同大統領の決断であった。
三十日、「死刑」から「無期」「釈放」と半年間に「運命の二段跳び」をした横山静雄元陸軍中将ら五十二人はそろって出所する。
慰問に訪れた歌手の渡辺はま子さんが「モンティンルパの夜はふけて」を歌ふと、たちまち合唱がわき上がり、巣鴨の空を温かく揺さぶった、と記事にある。
◇昭和二十九年 恩給法改正
◇戦犯の「刑死」「獄死」を「公務死」と見なす
昭和二十九年、日本国内では、戦犯への処遇が大きく様変はりする。
▽戦犯にも恩給を。国民の強い要望
国会は前年夏、軍人恩給の復活を含む恩給法改正を圧倒的多数で決めたのだが、戦犯は対象外だった。ところが「戦犯にも恩給を」といふ国民の要望は強く、政府は二十九年三月に同法改正案を国会に提出、六月に成立させる。
六月十八日の朝刊に、「恩給法改正」についてのほぼ全面を使った解説記事が載ってゐる。
改正点は二点で、一つは従来、拘禁されてゐる戦犯は恩給権を行使できなかったが、戦犯が指定する家族に普通恩給が支給されるやうになったこと。二点目は拘禁中に刑死・獄死した戦犯の遺族に、公務扶助料に相当する額の扶助料が支給されるやうになったことである。
第二点に関して記事は、左右両派社会党は「国民感情が許さない」と反対し、政府筋も「戦犯なるがゆゑにその家族を優遇する結果になるのは対外的にいかがなものか」と疑問視した。恩給局も戦犯者の刑死・獄死が在職中の公務死と見なせるか、恩給法の建前から問題視してゐる、と説明したうへで、「しかし国民多数の意思が戦犯者を殉難者と見るのは時の流れと見る向きもある」と解説してゐる。
戦犯の「刑死」を「公務死」と見なすことは、やがて靖國神社の「戦犯合祀」へとつながっていく。最近の朝日新聞は「A級戦犯合祀」を事あるごとに批判する傾向にあるが、とりわけ五十年前の国民には自然な気持ちであり、当時の朝日新聞も無理解ではなかった。
▽洗脳教育を窺はせる中国共産党地区戦犯の赦免
七月中旬、アメリカ政府が動き出す。日本政府がかねてBC級戦犯の全面釈放を要請したのに対して、「十年間の服役後、仮出所の資格を与へる」と回答してきたのだ。続いて、イギリスもBC級戦犯の仮出所条件の緩和について検討を始める。
同月末には頑なな態度をとり続けてきた北京政府から、「戦犯釈放の用意がある」との李徳全・中共赤十字社長のメッセージが日赤本社などにもたらされる。
条件は前年から持ち越しになってゐる李女史の招請問題だった。しかし、岡崎外相がどうしても承諾しない。北京政府と交渉してきた日赤、日中友好、平和連絡の三団体のうち、日赤以外の二団体の「政治性」を外相は容認できなかったらしい。
けれども八月下旬、北京放送が「日本人戦犯四百十七名を寛大な精神で赦免した。彼らは侵略戦争に荷担し、中国人民を敵としてきたが、罪を認めたので、赦免する。彼らは喜び、感激してゐる」と放送すると、外務省の対応は変はり、三団体との協議が始まり、戦犯引揚が急展開する。
九月上旬に北京放送は、赦免された日本人戦犯の座談会を放送した。戦犯たちは旧悪を懺悔し、謝罪するとともに戦争反対を叫び、赦免の感動を語った。さらに収容所の楽しい思ひ出や日中友好の決意を述べた。しかし帰国の喜びや希望はほとんどなく、「一生、中国に留まりたい」といふ発言さへあった、と朝日新聞はきはめて客観的に伝へてゐる。
帰国は同下旬。台風一過の舞鶴に帰ってきた戦犯たちは、「偉大的祖国」と口々に中共を讃へたと記事にある。収容所で受けたであらう洗脳教育を彷彿とさせる。
▽「いい加減に帰して」と訴へる天声人語
十月中旬、周恩来首相は「四百名を帰国させたが、まだ千名余り残ってゐる。寛大に、早く処理したい」と訪中議員団に語り、李・中共赤十字社長は同議員団に「蒋介石の軍隊に加はった戦犯も十一月か、来年一月頃には帰れるだらう」と語るのだが、結局は空手形に終はる。
同下旬、東京裁判参加国政府からA級戦犯の畑俊六元元帥、岡敬純元海軍中将が病気療養を理由に仮出所を認められた数日後、李女史一行が鳴り物入りで来日する。天声人語は「これを機会にきれいさっぱりと同胞を帰してもらひたい。日本はいはば人質を握られてゐる形だ」と訴へた。
この来日で、留守家族大会に出席した廖承志副団長は千人を超える日本人戦犯の名簿を日赤に提出し、「戦犯の絶対的大部分は近く寛大な処置を受ける」と挨拶して、関係者に期待を持たせたが、あくまで期待にすぎなかった。
廖氏は帰国間際に衆院引揚特別委員会代表と懇談した際には、「来年一月までに送還するのは、昨年までの集団引揚で帰国できなかった一般居留民だけで、戦犯は含まれない」と言明するのだ。
この年、戦犯赦免の交渉は思ったほどには前進しなかった。しかし北京政府以上に進展しなかったのはソ連で、天声人語は「もういい加減に帰してくれたって良いではないか」と国民のいらだちを代弁してゐる。
時代の良識を示してゐた朝日新聞がその後、近隣諸国と付和雷同して、靖國神社批判を展開するやうになった背景には何があるのか?
◇昭和三十年 終戦十周年
◇アメリカほか関係国がA級戦犯「仮釈放」を許可
三十年三月十九日の夕刊が、ひめゆり部隊の靖國神社合祀を伝へてゐる。
悲惨をきはめた学徒兵の死を悼む国民から「靖國の社頭に」と望む声が強く上がってゐたのを受けて、厚生省が調査を重ね、八十八人を「軍属として戦死」と認定、合祀されることになったのだ。
ひめゆり部隊の合祀に関連して、厚生省の職員は「やがて軍人、民間人を問はず祀られることにならう」と語り、「靖國神社では将来、戦犯刑死者や終戦時の自決者の合祀を考慮してゐます」と朝日の記事にあるが、政府・国会は恩給法など戦争犠牲者関係三法の改正によってこれを実体化させていく。
恩給法の主な改正点は、旧軍人の恩給などを文官並みに引き上げること、終戦時に責任自決したものを公務死と見なすこと、戦犯服役期間を公務服役期間に準じて取り扱ひ恩給法を適用すること、などであった。
改正にはもちろん反対もあった。
大蔵省は「軍人恩給の急速な引き上げは予算編成を圧迫する」と反対したし、全労会議書記長は朝日の「論壇」欄でやはり財政論的な視点から「恩給亡国への途」と批判した。
しかし、左翼陣営の反対でさへ「軍人は戦犯で、国民は被害者であるといふやうなひねくれた見方には反対」と明言するほどで、少なくとも当時は戦犯赦免、靖國神社合祀が国民が納得する自然の流れだったことがうかがへる。
▽拘禁満十年が条件。全戦犯釈放に希望
六月になってA級戦犯の荒木貞夫元陸相・陸軍大将が、前年十月の畑俊六、岡敬純両氏に続いて病気療養のため、仮出所を許可された。
七月には恩給法改正案成立を前にして、戦犯問題を処理する唯一の国内機関・中央更生保護審査会が終戦十周年の八月十五日を期して巣鴨の全戦犯を赦免するやう、アメリカなど関係諸国に要請することを決める。しかしアメリカは大量釈放には反対だった。
アメリカがA級戦犯釈放に踏み切るのは八月下旬になってである。日米会談の席上、ダレス国務長官は重光外相に「A級戦犯釈放については関係各国と協議中だが、話し合ひは順調で、近く釈放されるだらう」と表明するのだ。
橋本欣五郎元大政翼賛会総務・陸軍大佐、賀屋興宣元蔵相、鈴木貞一元企画院総裁・陸軍中将の三人が仮出所するのは九月中旬。
これについて、同二十日の朝刊にほぼ全面を使った解説記事が載ってゐる。
いままでは「病気療養」が理由だったが、今回は「無条件の仮出所」。必要な手続きを怠らなければ「釈放」と何ら変はらない。また、「拘禁十年完了」が仮出所の条件とされたことから、BC級戦犯にも、さらには三氏より逮捕が遅い、残る四人のA級戦犯にも明るい見通しが出てきた、と記事にある。
実際、十二月には星野直樹元満洲国総務長官、さらに木戸幸一元内大臣、大島浩元駐独大使が、翌年三月には「最後のA級戦犯」佐藤賢了元軍務局長・陸軍中将が仮出所する。
▽誠意のないソ連。口先だけの北京政府
依然、進まないのは、ソ連と北京政府の戦犯赦免であった。
七月の日ソ会談でマリク全権が「刑期を終へた戦犯十六名を直ちに帰還させる」と通告すると、天声人語は「ほんの寸志みたいなもの」と指摘し、「在ソ戦犯をせめて巣鴨に移してほしい。残虐行為をしたわけでもないし、宣戦はソ連から布告された。それでゐて、米英やアジア諸国以上にきびしい幽囚を加へられてゐる」と訴へてゐる。
だがソ連は赦免どころか、フルシチョフ第一書記が「日本政府が故意に日ソ交渉を引き延ばしてゐる」と逆に批判する始末で、交渉は停滞した。
一方の北京政府も「居留民の帰国問題は満足に解決した」「戦犯釈放は国交正常化後に」といふ姿勢を崩さなかった。
十月になって毛沢東主席は訪中議員団に、「過去は過去。問題は将来のことです」と語り、期待を持たせるのだが、周恩来首相は「戦犯問題は戦争終結の問題で、戦争状態が終結すればすぐに解決する」と釘を刺してゐる。
けれども十一月に巣鴨のA級戦犯釈放が具体化するやうになると、アメリカの存在を多分に意識してゐるであらう毛主席は訪中団に対して、中国大陸に抑留されてゐる戦犯の過半数に当たる六百~七百人を帰国させると言明する。
十二月には周首相が「きはめて早期に」と付け加へるのだが、年内に実現したのは中国人の夫をもつ民間人などの集団帰国と張作霖爆死事件の首謀者とされる河本大作元大佐ら四十柱の遺骨返還だけだったらしい。
▽いまも昔も戦犯を政治利用する中国共産党
二十九年当時、周首相は「中国侵略に加はった戦犯については、すでに国民党が処理した」と言明してゐる。にもかかはらず北京政府は、早期に実現した独ソ国交回復を横目でにらみ、ソ連と共闘しながら、国交正常化を日本に迫り、結果を引き出すためになほ残されてゐる日本人居留民と戦犯を政治利用した。
天声人語には「人質」とも表現されてゐる。
冷戦期の政治手法はいまも使はれてゐる。北京政府にとって靖國神社、A級戦犯は日本批判の「人質」にほかならない。
他方、東京裁判に参加したアメリカなど関係八カ国は紆余曲折を経ながらも、A級戦犯の赦免、釈放に合意した。その背後には日本国民が千万人単位で協力した署名運動があり、刑死者たちの靖國神社合祀には恩給法改正など日本政府の施策が前提としてある。
昨年末、小泉首相は靖國神社首相参拝に対する近隣諸国の「わだかまり」解消をめざし、内閣官房長官の諮問会議「追悼・平和懇」を発足させた。「靖國神社に代はる」国立追悼墓地を建設することで中国や韓国をなだめようといふのだが、笑止の極みといはざるを得ない。
最後に付け加へるが、数十年前は戦犯赦免にむしろ深い理解を示し、近年は掌を返したやうに靖國神社批判の急先鋒を演じてゐる朝日新聞とはいったい何者なのか。
昨日付の朝鮮日報の社説が、アメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」に載った安倍総理のインタビュー〈http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201306/Abe.htm〉を、「二つのうそを言った」と厳しく批判しています〈http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/05/21/2013052100763.html〉。
「一つは靖国神社参拝を米国ワシントン郊外にあるアーリントン墓地への参拝と同じものとした点だ」「二つ目のうそは、韓国がこれまで日本の首相による靖国神社参拝を問題視しなかったという主張だ」と指摘しています。
一つ目については、「ドイツで行われたニュルンベルク裁判で有罪判決を受けたナチスの戦犯たちに対し、首都の中心部に祭ってドイツの首相や閣僚、政治家などが日本のように参拝したらどうなるだろうか」と問いかけ、「日本のA級戦犯たちはナチスの戦犯たちと何ら変わらない。A級戦犯を祭る施設を東京の中心部に置き、日本の政治指導者たちが毎年参拝することを、米国のアーリントン墓地の参拝に例えるなど詭弁(きべん)以外の何物でもない」と反発しています。
しかし、これこそ「ウソ」と「詭弁」でしょう。
日本の戦時指導者とナチスとを同列で論じることは無謀ですし、日本の「戦犯」は、ナチスの「戦犯」とは異なり、国際ルールに従って、国際社会の合意に基づいて、赦免・減刑・釈放されました。
いまや韓国国民の3人に1人はキリスト者だそうですが、「戦犯」の赦免・減刑にキリスト者が果たした役割は少なくありません。日本国内で戦犯者の助命、減刑を嘆願する署名運動には多くのキリスト社が参加しています。海外でまっ先にフィリピンが日本人「戦犯」を赦免したのは、「敵を赦せ」というキリスト教精神に基づいています。
韓国・朝鮮人の頑なで、非キリスト教的な態度は何に由来いるのでしょうか?
というわけで、平成14年8月に宗教専門紙に連載された拙文をまとめて転載します。当時もまた「A級戦犯」問題が沸騰し、日本ではいわゆる追悼懇が靖国神社に代わる追悼施設建設を模索していたのでした。
それでは本文です。なお一部に加筆修正があります。同紙の編集方針に従い、歴史的仮名遣いで書かれています。
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◇昭和二十七年 独立回復
◇「戦犯」赦免の一千万署名はじまる
内閣官房長官の諮問会議「追悼・平和懇」は五月下旬の第六回会合のあと、開かれてゐない。「次回は八月中に」(事務局)とも聞くが、どうなるのか。
議事録を見るかぎり、議論は堂々めぐり。だが確実に、着実に、「靖國神社に代はる」国立追悼施設の建設へと向かってゐるかに見える。新施設が追悼の対象と予定するのは明治維新以来の戦歿者であり、議事録には「靖國神社に祀られてゐる人が全部ここに移ってくる」といふ発言が記録されてゐる。
新施設は靖國神社の慰霊・追悼の歴史を認めないらしい。根っこには「A級戦犯」(昭和殉難者)問題がある。近隣諸国の「わだかまり」もここにある。なるほど同社は戦後、A級、BC級の別なく戦争裁判の刑死者らを合祀してきた。
けれどもその前提となる重い歴史が忘れられてゐないか。独立回復後、戦犯赦免の国民運動がわき起こり、日本政府を動かし、さらに関係各国政府が釈放に同意したといふ歴史である。
昭和三十一年三月に「最後のA級戦犯」といわれる、元軍務局長で陸軍中将の佐藤賢了氏が釈放されるまで、どのやうな経緯があったのか。いまや靖國神社批判の急先鋒の観がある朝日新聞の記事をめくりつつ、ふり返ってみたい。
昭和二十六年九月、米サンフランシスコで日本を含む四十九カ国が対日平和条約に調印した。戦犯の赦免・減刑が具体的に動き出すのはその翌年の二十七年、最初はフィリピンである。
▽フィリピン死刑囚に涙する朝日新聞記者
二十七年の年明け早々、来日した複数のフィリピン国会議員が「モンティンルパの収容所にゐる日本人戦犯百十三人は講和発効後、死刑は無期懲役になるなど、それぞれ減刑・赦免され、日本に送還されるだらう」との情報をもたらす。
一月二十八日付の朝日新聞の朝刊は、特派員のモンティンルパ訪問記を載せてゐる。
「僕たちのためにと無理に多額の賠償を払ふやうなことがないやうに」と金網越しに語る若い死刑囚に、特派員は「罪は日本人全体が負ふべきだ」との思ひをかみしめ、溢れる涙をこらへつつ、「無事に帰国できるやう、日本に伝へます」と約束してゐる。
二月になると、モンティンルパの戦犯、ニューギニアのマヌス島に収容されてゐたオーストラリアの戦犯が日本に送還されるやうになる。
フィリピンの大統領官邸で開かれた国家最高会議では服役中の日本人戦犯の減刑・日本送還が提議され、朝日の特派員は、フィリピン首脳が「今後、死刑囚の処刑はあり得ない」と言明したとの情報を得る。キリノ大統領は「戦犯を日本に返したい」と言明する。
フィリピンの日本人戦犯と一般市民との交流も盛んになる。
三月十四日付の朝刊には、在比戦犯から留守家族への手紙百数十通が届いたといふ記事が載ってゐる。きっかけはモンティンルパの刑務所と東京都内のキリスト教系病院の看護婦たちとの文通であった。このころの朝日には、「私を身代はりに」などと、死刑囚を激励する手紙が殺到してゐた。
▽署名運動の中心に浄土真宗の関係者
四月二十八日、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、フランス、メキシコ、ニュージーランド、パキスタン、英、米および日本との間に平和条約が正式に発効する。
昭和天皇は独立回復のお喜びを「風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり」と詠はれた。
講和発効を境に、巣鴨の戦犯赦免は急展開を見せる。日弁連など民間団体が赦免運動を巻き起こすのだ。
四月中旬、A級戦犯弁護人は全戦犯の釈放を政府に要請し、BC級戦犯弁護人団がBC級戦犯釈放のための署名運動開始を決める。
五月二日、昭和天皇親臨のもと新宿御苑で全国戦歿者追悼式が催され、三日には皇居前広場で独立記念式典が催された。
天声人語は「独立式典に先立って慰霊するのが順序。結構だ」との見識を示してゐる。
六月五日、戦犯者の助命、減刑、内地送還を嘆願する署名運動が全国一斉に始まった。東京では愛の運動東京都協議会を中心に東京留守家族会、戦犯受刑者世話会、キリスト教を含む各宗教団体が参加した。
翌六日、日弁連は戦犯保釈特別委員会の第一回総会を開き、戦犯の全面赦免を要請すべきであると合意する。
愛の運動東京都協議会が集めた戦犯助命の署名は七月には五百五十万人(東京五十万、関東五百万)になり、八月には一千万人を超える。
終戦記念日を前に東京では「講和に取り残された戦犯を救はう」といふ署名運動が始まる。運動の中心には全日本華道婦人友愛連盟。その代表は大谷嬉子裏方(浄土真宗本願寺派)で、同連盟らは百万人の署名を集め、政府に陳情した。
▽トルーマン大統領が減刑保釈委員会設置
国民の要望を受けて、日本政府がいよいよ重い腰を上げる。
六月十一日、吉田首相は戦犯の赦免、減刑、仮出所などについて関係各国に了解を求めるやう、手続きを進めることを保利官房長官に指示した。
同十六日、参議院厚生委員会は、服役中の戦犯を未復員者、特別未帰還者と同様に扱ひ、給料、扶養手当を支給する「未復員者給与法案の一部改正案」を、労農党と共産党をのぞく共同提案で参議院に提出する。
各方面からの釈放要請のなか、八月上旬、保利官房長官が巣鴨を慰問する。
数日後には木村法相が記者会見で、「政府はこれまで戦犯二百三十二人の仮出所を勧告した。今月中旬には勧告を終了する。赦免についても終戦記念日までに終はる予定。海外戦犯者三百十七名は内地送還に努力したい。戦犯家族救済には近く内閣に総合機関を発足させる」と語る。
平和条約は戦犯赦免などに関して、裁判に関係した複数政府の決定と日本の勧告が必要だと定めてゐる。これに基づいて、政府は八月十五日、BC級戦犯全員の赦免を関係国に勧告したのだ。
そのあとアメリカでは九月にトルーマン大統領が日本人戦犯の減刑保釈委員会設置を命じ、翌十月に同委員会は日本人戦犯の審査を開始する。
▽立太子の礼を機会にA級戦犯赦免を要請
A級戦犯赦免のきっかけは、十一月十日の立太子の礼であった。政府はこれを機に、国内外の戦犯の赦免・減刑を関係各国に要請する。
その後、アメリカ政府はA級戦犯の赦免・減刑について、極東裁判参加国と協議を開始した。
同二十三日、A級戦犯を含む戦犯六百四十名が後楽園で野球見物を楽しんだ。初めての外出であった。
しかし処刑者の遺家族の境遇は苦しかった。
十二月四日の朝日の朝刊に「置き去りの戦犯遺家族」といふ記事が載ってゐる。
全国千百世帯の戦犯遺家族は「援護法」の適用が受けられず、遺家族年末特別給与金などの「恩典」からも締め出されてゐる。フィリピンで処刑された陸軍中将の未亡人は「夫は責任を負って処刑された。厚かましいが罪は償はれたのではないか。しかし靖國神社にも祀っていただけない。政府は死人にまでむち打つつもりかしら」と述べた。
記事は遺家族に同情的で、都職員に「本当にお気の毒」と語らせてゐる。
しかし明るいニュースが飛び込んできた。十一月中旬にインドが、十二月上旬に台湾の国民政府が、A級戦犯釈放を欧米関係各国に先駆けて承認するのだ。
A級戦犯の処刑命日に当たる十二月二十三日、愛の運動東京都協議会は戦争刑死者千百余柱を対象とする全国で初めての戦争刑死者慰霊祭を東京の築地本願寺で催した。
同二十四日には、戦犯の仮出所など処遇を緩和するための戦犯処理法の改正案が、衆院法務委員会で最終決定の上、衆院本会議に上程可決された。
◇昭和二十八年 特赦
◇独立記念日でフィリピン大統領が決断
昭和二十八年一月中旬、日弁連は政府に要望書を提出した。
「講和発効から二年目、いまなほ千百名に上る戦犯が内外で拘禁されてゐる。国会や政府、各種団体が赦免の努力を重ねたが、二十五人が仮出所したにすぎない。戦犯には無実の者や事実以上に重刑を課せられてゐる者も多い。関係各国とローマ法王庁に使節団を至急派遣し、平和条約一周年までに全戦犯釈放の実現を期するやう要望する」
アメリカの壁は意外に厚かった。
前年暮れ、戦犯の仮出所など処遇を緩和する戦犯処理法が日本の国会で成立し、一月に施行されたのに対して、同国政府は「戦犯の服役を有名無実化し、平和条約の趣旨に違反する」と正式に抗議したほどだ。
日本は二月に「法律の運用に慎重を期す」と回答せざるを得なかった。
しかし三月になると、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、パキスタンの八カ国にそれぞれ「A級戦犯」をふくむ戦犯の仮出所減刑に関する審査機構が設置される。下旬には八カ国の在京大使館・公使館が日本外務省に、「日本政府の勧告があれば、戦犯赦免について、個別に審査する」と通告する。
いよいよ戦犯赦免が動き出したのだ。
▽妻子を殺された憎しみを越えて
六月下旬、フィリピンからビッグ・ニュースがAP電で飛び込んできた。
キリノ大統領が在比戦犯百十三名全員に対する特赦令に署名し、死刑囚は終身刑に減刑し、巣鴨に移管することを承認したといふのだ。七月四日のフィリピン独立記念日を機会とする大統領の特赦は秘密裡に進められてゐた。ところが地元紙がすっぱ抜き、取り急ぎ政府発表となった。
二十七日朝、戦犯釈放を求める日本人五百万名の署名簿が空路、フィリピン外務省に届けられた。奇しくも特赦令発表はそれとほぼ同時だった。
キリノ大統領は日本人のために妻子を殺され、日本人をいちばん赦しがたい立場にあった。ある日本人が戦犯赦免を願ひ出ると、大統領は涙を浮かべ、「多くの国民は日本人を赦せないと思ってゐる。しかしキリスト教精神で何とか赦さうとしてゐる」と答へた。
大統領だけではない。戦犯の弁護人に任命された一群のフィリピン軍将校はしばしば同胞から投石や暴言を浴びた。それでも愛憎を越えて献身的に活動した。戦犯特赦はその結果であった。
それから数日後、今度はマヌス島に収容されてゐる戦犯百六十五名の日本送還が、オーストラリア政府から正式に発表される。
▽現実からほど遠いソ連収容所訪問記
在比、在豪戦犯の日本送還が完了すると、残されたのは在ソ、在中戦犯であった。
七月下旬、大山郁夫参院議員がモスクワでモロトフ外相と会見し、戦犯釈放が話題になったのをきっかけに、在ソ戦犯や戦犯容疑者の留守家族たちが日本送還を求めて全国的な署名運動を展開する。
八月下旬にはジュネーブの国連捕虜特別委員会で日本代表の有田八郎氏がソ連および中国大陸内の未帰還者とその状況を訴へ、引揚促進を国連加盟各国に強く呼びかけた。
十月下旬の天声人語は「ロシア民族の変はらぬヒューマニティをこの機会に再認識させてほしい」と訴へるのだが、十月末にモスクワで始まった日ソ赤十字会談は思ふやうに進展しなかった。
何しろ戦犯の数さへ揃はない。ソ連抑留中の日本人戦犯八百十名の送還が発表されたのは、十一月十四日のことだった。
日赤代表団に同行してモスクワ郊外の収容所を訪問した特派員の訪問記が当時の朝日新聞に載ってゐる。
だが、「食事は魚や肉も」「週に一度は映画も」といふ記事は、平均的な収容所像からはほど遠い。帰国者の話では、軍隊時代の階級を打破する「反軍闘争」が収容所では展開され、樺太の婦人たちはソ連人女囚と雑居の日々を送らされてゐたのである。
▽一番後に残された中国大陸抑留戦犯
いよいよ最後に残ったのが中国大陸内に抑留された戦犯である。七月の時点で、中共赤十字社の代表は日赤の特赦依頼に対して、「中共の法律を守る日本人だけ引揚の援助をする。違反者は制裁を受けるべきだ」とあくまで冷淡だった。
しかし十一月中旬、中共赤十字社が日本居留民の集団帰国打ち切りを通告してくると、日本側はあわてる。「相当数の日本人が旅順、大連地区に残ってゐる」からだ。
打開の糸口は中共赤十字社長・李徳全女史の招待問題だったが、「竹のカーテン」を越えて正式の賓客を迎へることに外務省は消極的で、問題解決は年を越すことになる。
年も押し詰まった十二月二十八日、フィリピンのキリノ大統領は、今度は巣鴨で服役中の同国関係全戦犯の即時釈放を命じる。任期残り三日の同大統領の決断であった。
三十日、「死刑」から「無期」「釈放」と半年間に「運命の二段跳び」をした横山静雄元陸軍中将ら五十二人はそろって出所する。
慰問に訪れた歌手の渡辺はま子さんが「モンティンルパの夜はふけて」を歌ふと、たちまち合唱がわき上がり、巣鴨の空を温かく揺さぶった、と記事にある。
◇昭和二十九年 恩給法改正
◇戦犯の「刑死」「獄死」を「公務死」と見なす
昭和二十九年、日本国内では、戦犯への処遇が大きく様変はりする。
▽戦犯にも恩給を。国民の強い要望
国会は前年夏、軍人恩給の復活を含む恩給法改正を圧倒的多数で決めたのだが、戦犯は対象外だった。ところが「戦犯にも恩給を」といふ国民の要望は強く、政府は二十九年三月に同法改正案を国会に提出、六月に成立させる。
六月十八日の朝刊に、「恩給法改正」についてのほぼ全面を使った解説記事が載ってゐる。
改正点は二点で、一つは従来、拘禁されてゐる戦犯は恩給権を行使できなかったが、戦犯が指定する家族に普通恩給が支給されるやうになったこと。二点目は拘禁中に刑死・獄死した戦犯の遺族に、公務扶助料に相当する額の扶助料が支給されるやうになったことである。
第二点に関して記事は、左右両派社会党は「国民感情が許さない」と反対し、政府筋も「戦犯なるがゆゑにその家族を優遇する結果になるのは対外的にいかがなものか」と疑問視した。恩給局も戦犯者の刑死・獄死が在職中の公務死と見なせるか、恩給法の建前から問題視してゐる、と説明したうへで、「しかし国民多数の意思が戦犯者を殉難者と見るのは時の流れと見る向きもある」と解説してゐる。
戦犯の「刑死」を「公務死」と見なすことは、やがて靖國神社の「戦犯合祀」へとつながっていく。最近の朝日新聞は「A級戦犯合祀」を事あるごとに批判する傾向にあるが、とりわけ五十年前の国民には自然な気持ちであり、当時の朝日新聞も無理解ではなかった。
▽洗脳教育を窺はせる中国共産党地区戦犯の赦免
七月中旬、アメリカ政府が動き出す。日本政府がかねてBC級戦犯の全面釈放を要請したのに対して、「十年間の服役後、仮出所の資格を与へる」と回答してきたのだ。続いて、イギリスもBC級戦犯の仮出所条件の緩和について検討を始める。
同月末には頑なな態度をとり続けてきた北京政府から、「戦犯釈放の用意がある」との李徳全・中共赤十字社長のメッセージが日赤本社などにもたらされる。
条件は前年から持ち越しになってゐる李女史の招請問題だった。しかし、岡崎外相がどうしても承諾しない。北京政府と交渉してきた日赤、日中友好、平和連絡の三団体のうち、日赤以外の二団体の「政治性」を外相は容認できなかったらしい。
けれども八月下旬、北京放送が「日本人戦犯四百十七名を寛大な精神で赦免した。彼らは侵略戦争に荷担し、中国人民を敵としてきたが、罪を認めたので、赦免する。彼らは喜び、感激してゐる」と放送すると、外務省の対応は変はり、三団体との協議が始まり、戦犯引揚が急展開する。
九月上旬に北京放送は、赦免された日本人戦犯の座談会を放送した。戦犯たちは旧悪を懺悔し、謝罪するとともに戦争反対を叫び、赦免の感動を語った。さらに収容所の楽しい思ひ出や日中友好の決意を述べた。しかし帰国の喜びや希望はほとんどなく、「一生、中国に留まりたい」といふ発言さへあった、と朝日新聞はきはめて客観的に伝へてゐる。
帰国は同下旬。台風一過の舞鶴に帰ってきた戦犯たちは、「偉大的祖国」と口々に中共を讃へたと記事にある。収容所で受けたであらう洗脳教育を彷彿とさせる。
▽「いい加減に帰して」と訴へる天声人語
十月中旬、周恩来首相は「四百名を帰国させたが、まだ千名余り残ってゐる。寛大に、早く処理したい」と訪中議員団に語り、李・中共赤十字社長は同議員団に「蒋介石の軍隊に加はった戦犯も十一月か、来年一月頃には帰れるだらう」と語るのだが、結局は空手形に終はる。
同下旬、東京裁判参加国政府からA級戦犯の畑俊六元元帥、岡敬純元海軍中将が病気療養を理由に仮出所を認められた数日後、李女史一行が鳴り物入りで来日する。天声人語は「これを機会にきれいさっぱりと同胞を帰してもらひたい。日本はいはば人質を握られてゐる形だ」と訴へた。
この来日で、留守家族大会に出席した廖承志副団長は千人を超える日本人戦犯の名簿を日赤に提出し、「戦犯の絶対的大部分は近く寛大な処置を受ける」と挨拶して、関係者に期待を持たせたが、あくまで期待にすぎなかった。
廖氏は帰国間際に衆院引揚特別委員会代表と懇談した際には、「来年一月までに送還するのは、昨年までの集団引揚で帰国できなかった一般居留民だけで、戦犯は含まれない」と言明するのだ。
この年、戦犯赦免の交渉は思ったほどには前進しなかった。しかし北京政府以上に進展しなかったのはソ連で、天声人語は「もういい加減に帰してくれたって良いではないか」と国民のいらだちを代弁してゐる。
時代の良識を示してゐた朝日新聞がその後、近隣諸国と付和雷同して、靖國神社批判を展開するやうになった背景には何があるのか?
◇昭和三十年 終戦十周年
◇アメリカほか関係国がA級戦犯「仮釈放」を許可
三十年三月十九日の夕刊が、ひめゆり部隊の靖國神社合祀を伝へてゐる。
悲惨をきはめた学徒兵の死を悼む国民から「靖國の社頭に」と望む声が強く上がってゐたのを受けて、厚生省が調査を重ね、八十八人を「軍属として戦死」と認定、合祀されることになったのだ。
ひめゆり部隊の合祀に関連して、厚生省の職員は「やがて軍人、民間人を問はず祀られることにならう」と語り、「靖國神社では将来、戦犯刑死者や終戦時の自決者の合祀を考慮してゐます」と朝日の記事にあるが、政府・国会は恩給法など戦争犠牲者関係三法の改正によってこれを実体化させていく。
恩給法の主な改正点は、旧軍人の恩給などを文官並みに引き上げること、終戦時に責任自決したものを公務死と見なすこと、戦犯服役期間を公務服役期間に準じて取り扱ひ恩給法を適用すること、などであった。
改正にはもちろん反対もあった。
大蔵省は「軍人恩給の急速な引き上げは予算編成を圧迫する」と反対したし、全労会議書記長は朝日の「論壇」欄でやはり財政論的な視点から「恩給亡国への途」と批判した。
しかし、左翼陣営の反対でさへ「軍人は戦犯で、国民は被害者であるといふやうなひねくれた見方には反対」と明言するほどで、少なくとも当時は戦犯赦免、靖國神社合祀が国民が納得する自然の流れだったことがうかがへる。
▽拘禁満十年が条件。全戦犯釈放に希望
六月になってA級戦犯の荒木貞夫元陸相・陸軍大将が、前年十月の畑俊六、岡敬純両氏に続いて病気療養のため、仮出所を許可された。
七月には恩給法改正案成立を前にして、戦犯問題を処理する唯一の国内機関・中央更生保護審査会が終戦十周年の八月十五日を期して巣鴨の全戦犯を赦免するやう、アメリカなど関係諸国に要請することを決める。しかしアメリカは大量釈放には反対だった。
アメリカがA級戦犯釈放に踏み切るのは八月下旬になってである。日米会談の席上、ダレス国務長官は重光外相に「A級戦犯釈放については関係各国と協議中だが、話し合ひは順調で、近く釈放されるだらう」と表明するのだ。
橋本欣五郎元大政翼賛会総務・陸軍大佐、賀屋興宣元蔵相、鈴木貞一元企画院総裁・陸軍中将の三人が仮出所するのは九月中旬。
これについて、同二十日の朝刊にほぼ全面を使った解説記事が載ってゐる。
いままでは「病気療養」が理由だったが、今回は「無条件の仮出所」。必要な手続きを怠らなければ「釈放」と何ら変はらない。また、「拘禁十年完了」が仮出所の条件とされたことから、BC級戦犯にも、さらには三氏より逮捕が遅い、残る四人のA級戦犯にも明るい見通しが出てきた、と記事にある。
実際、十二月には星野直樹元満洲国総務長官、さらに木戸幸一元内大臣、大島浩元駐独大使が、翌年三月には「最後のA級戦犯」佐藤賢了元軍務局長・陸軍中将が仮出所する。
▽誠意のないソ連。口先だけの北京政府
依然、進まないのは、ソ連と北京政府の戦犯赦免であった。
七月の日ソ会談でマリク全権が「刑期を終へた戦犯十六名を直ちに帰還させる」と通告すると、天声人語は「ほんの寸志みたいなもの」と指摘し、「在ソ戦犯をせめて巣鴨に移してほしい。残虐行為をしたわけでもないし、宣戦はソ連から布告された。それでゐて、米英やアジア諸国以上にきびしい幽囚を加へられてゐる」と訴へてゐる。
だがソ連は赦免どころか、フルシチョフ第一書記が「日本政府が故意に日ソ交渉を引き延ばしてゐる」と逆に批判する始末で、交渉は停滞した。
一方の北京政府も「居留民の帰国問題は満足に解決した」「戦犯釈放は国交正常化後に」といふ姿勢を崩さなかった。
十月になって毛沢東主席は訪中議員団に、「過去は過去。問題は将来のことです」と語り、期待を持たせるのだが、周恩来首相は「戦犯問題は戦争終結の問題で、戦争状態が終結すればすぐに解決する」と釘を刺してゐる。
けれども十一月に巣鴨のA級戦犯釈放が具体化するやうになると、アメリカの存在を多分に意識してゐるであらう毛主席は訪中団に対して、中国大陸に抑留されてゐる戦犯の過半数に当たる六百~七百人を帰国させると言明する。
十二月には周首相が「きはめて早期に」と付け加へるのだが、年内に実現したのは中国人の夫をもつ民間人などの集団帰国と張作霖爆死事件の首謀者とされる河本大作元大佐ら四十柱の遺骨返還だけだったらしい。
▽いまも昔も戦犯を政治利用する中国共産党
二十九年当時、周首相は「中国侵略に加はった戦犯については、すでに国民党が処理した」と言明してゐる。にもかかはらず北京政府は、早期に実現した独ソ国交回復を横目でにらみ、ソ連と共闘しながら、国交正常化を日本に迫り、結果を引き出すためになほ残されてゐる日本人居留民と戦犯を政治利用した。
天声人語には「人質」とも表現されてゐる。
冷戦期の政治手法はいまも使はれてゐる。北京政府にとって靖國神社、A級戦犯は日本批判の「人質」にほかならない。
他方、東京裁判に参加したアメリカなど関係八カ国は紆余曲折を経ながらも、A級戦犯の赦免、釈放に合意した。その背後には日本国民が千万人単位で協力した署名運動があり、刑死者たちの靖國神社合祀には恩給法改正など日本政府の施策が前提としてある。
昨年末、小泉首相は靖國神社首相参拝に対する近隣諸国の「わだかまり」解消をめざし、内閣官房長官の諮問会議「追悼・平和懇」を発足させた。「靖國神社に代はる」国立追悼墓地を建設することで中国や韓国をなだめようといふのだが、笑止の極みといはざるを得ない。
最後に付け加へるが、数十年前は戦犯赦免にむしろ深い理解を示し、近年は掌を返したやうに靖國神社批判の急先鋒を演じてゐる朝日新聞とはいったい何者なのか。
タグ:A級戦犯
2013-05-22 08:36
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