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社会党議員が持ち出した「国事」「私事」の対比──歴史的に考えるということ 8 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 社会党議員が持ち出した「国事」「私事」の対比
 ──歴史的に考えるということ 8
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▽1 皇太子殿下の御結婚から20年

 20年前の今日、皇太子殿下の「結婚の儀」が行われました。

 殿下は宮内庁を通じて、「月日のたつのは早いもので……」とご感想を発表されましたが、ご実感でしょう〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/gokanso-h25-goseikon20.html〉。

 宮中三殿・賢所大前で行われる「結婚の儀」は、「朝見の儀」「宮中饗宴の儀」とともに、今上陛下の先例を踏襲して、「国の儀式」として行われました。

 平成5年4月13日の「朝日新聞」夕刊は、この日午前の閣議で決まり、16日の内閣告示で公示される、と伝えています。

 わが国唯一の「儀典と法律の総合ウェブページ」とされる中野文庫に、この内閣告示が載っています。


「皇太子結婚式における国の儀式について(平成5年内閣告示第1号)

一 皇太子徳仁親王殿下の結婚式における結婚の儀、朝見の儀及び宮中饗宴の儀は、国の儀式として行う。

二 結婚の儀、朝見の儀及び宮中饗宴の儀は、平成五年六月上・中旬を目途として、宮中において行う。

三 儀式の日時及び細目は、宮内庁長官が定める。」


 今上陛下のときは第2項が「二 右の諸儀を行う時期は、昭和三十四年四月中旬を目途とし、場所は、皇居とする」だったのを除き、まったく同文です。

 けれども、じつに対照的なことがありました。それは今上陛下の御成婚時とは異なり、皇太子殿下の御結婚では、新たな視点として、政教分離問題が浮かび上がったことです。


▽2 「私事」論を打破した今上天皇御成婚

 その議論の前に、もう一度、簡単に、宮中祭祀をめぐる戦後の歴史を振り返ってみます。

 昭和20年10月、アメリカ国務省のヴィンセント極東部長は対日占領政策を、ラジオ放送でアメリカ国民に説明し、「日本政府に指導され、強制された神道ならば廃止されるだろう」と述べました。

 同年暮れには、「宗教を国家から分離すること」を目的とする過酷な神道指令が発令されます。「(大祭は)天皇、皇族および官僚を率いてみずから祭典を行う」と定めていた皇室祭祀令は、「皇族および官僚を率いて」が削られるなど、変更を余儀なくされました。

 21年4月には、祭祀を担当する掌典職は官制廃止となり、職員は内廷費で雇われる天皇の私的使用人という立場になりました。公正かつ無私なる天皇の祭祀は「皇室の私事」と位置づけられることとなったのです。

 22年5月、日本国憲法の施行に伴い、皇室祭祀令など皇室令はすべて廃止されました。祭祀令に代わって祭祀存続の根拠となったのは、「従前の例に準じて、事務を処理すること」とする宮内府長官官房文書課長名による依命通牒でした。

 ところが、占領後期になると、占領軍は神道指令の解釈を、「宗教と国家の分離」から「宗教団体と国家の分離」に、変更します。「神道廃止」政策は採用されなくなり、24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参議院公邸で、何よりも神道形式で行われました。

 さらに26年6月の貞明皇后大喪儀は、準国葬として行われました。旧皇室喪儀令に準じ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 このとき宮内庁の照会に対して、占領軍は、葬儀は宗教と無関係ではあり得ない、ご本人の宗教の形式で行っても憲法に違反しない、国費で支弁して差し支えない、と回答したと宮内庁職員が証言しています。

「神道の廃止」政策は採られなくなったものの、皇室の祭祀は公的性を奪われたままで、「私事」という位置づけを脱することはできなかったのでした。

 大きく変わったのが、今上陛下の御成婚でした。昭和34年4月、宮中三殿で行われる「結婚の儀」は「国の儀式」、すなわち天皇の国事に関する行為とされました。「宮中祭祀は皇室の私事」とする法解釈が破られたのです。


▽3 主権論の延長線上にあった議論

 正確にいうと、政府は「結婚の儀」「朝見の儀」「宮中祝宴の儀」を「国の儀式」として行うことを閣議決定しました。

 御成婚に関わる一連の諸儀式を全体として「国の儀式」としたわけではありません。旧皇室親族令に準じて行われていますが、名称が変更された儀式、不採用となった儀式もありました。

 また、政府の決定には「国事」という表現はありません。「国の儀式」とされなかった儀式は「皇室の私事」であるとする政府の資料もないようです。

 けれども、メディアは、「国の儀式」を「国事」と言い換え、それ以外は「私事」として行われる、「私事」は内廷費でまかなわれる、と報道したのでした。

 歴代天皇が天皇第一のお務めと信じ、実践してこられた宮中祭祀は、敗戦・占領によって「皇室の私事」に貶められ、こんどは「国の儀式」と「内廷の行事」という区分を飛び越えて、「国事」と「私事」とに色分けされることになったのです。

 なぜそのような議論が生まれることとなったのか、当時、政治の世界ではどのような議論が交わされていたのか、国会の議事録をひもといてみることにします。

「皇太子」「国事」をキーワードに、昭和33年から35年までの国会会議録を検索すると、16件がヒットします。

 33年は2件、34年は11件、35年は3件です。

 もっとも古いのは、33年2月7日の衆議院法務委員会でした。

 この日、最初に質問に立った猪俣浩三議員(社会党)は、皇太子御成婚と恩赦との関係について取り上げ、「皇太子の結婚式は法律上の国事なのか、皇室の私事なのか」「皇室中心主義の時代には皇室の私事と国家の行事とが混淆していたが、主権在民の憲法下では昔の恩赦の観念ではいけない」と政府に迫ったのでした。

「皇室の私事」か「国事」かという対比を持ち出したのは社会党議員で、議論は憲法の主権論の延長線上にありました。


▽4 「私法上の関係だけではない」と岸首相

 これに対して、亀岡康夫法制局参事官(第一部長)は、「非常に重要な問題であり、かつ難しい問題であると存じておる次第で、よく部内において協議いたしますと同時に、ただいま法制局長官が出席していないので、長官とも十分協議して、あらためてお答え申し上たいと存じます」と答えるにとどまっています。

 つまり、御成婚が「国事」か「皇室の私事」かという議論について、このころはまだ政府見解がはっきりと定まっていなかったことが分かります。

 この年、ふたたび皇太子御成婚「国事」問題が取り上げられたのは3月10日の参議院予算委員会で、質問したのは矢嶋三義議員(社会党)でした。

 答弁に立った宇佐美毅宮内庁長官は、「結婚ということは私法上の問題が原則でございますけれども、皇太子殿下の御結婚につきましては、公的機関であります皇室会議の議を経なければならないというような各種の点から、公のものと、ただいま考えておる次第でございます」と答えています。

 さらに、岸信介首相は「皇太子殿下の御結婚の問題につきましては、これをどういう形式でやるかということは、これは十分慎重に考えなければならぬと思います。将来、国の象徴たるべき方の御結婚でありますから、もちろん単純な私法上の関係だけだと見るわけには私は参らぬと思います」と補足します。

 つまり、皇太子御成婚は一般的な民法上の結婚とは性格が異なる、「私事」ではないことを重ねて説明しています。

 きわめて常識論的な議論は、御成婚全体についての見解であって、「国の儀式」と「皇室の行事」とに二分する考えが示されたわけではありませんでした。

 逆に、宮中祭祀に公的性があるという政府見解が示されたわけでもありませんでした。

 御成婚「国事」問題はこの年は、以上で終わり、国会の議論は翌年1月に政府が「結婚の儀」などを「国の儀式」として行うとした閣議決定後に持ち越されます。


 つづく。
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