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ザビエル来日450年と靖国神社創立130年──神饌になった南蛮菓子「金平糖」 [キリスト教]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年6月9日)からの転載です


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ザビエル来日450年と靖国神社創立130年
──神饌になった南蛮菓子「金平糖」
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 日本スペイン交流400年事業が今月、スタートします〈http://www.esja400.com/jp/index-jp.shtml〉。

 興味深いことに、同事業は「友好400年」といわずに、「交流400年」と表現されています。

 公式サイトの「交流の歴史」はその筆頭に「1549年、ザビエルによるキリスト教布教」が掲げられ、「1584年、天正遣欧使節がフェリペ2世に謁見」と続いているのに、さらにそのあとに続く「1613年、支倉常長の慶長遣欧使節が出航」が「交流」の起点とされています。

 なるほど「東洋の使徒」ザビエルはスペイン人というよりバスク人でしたが、「交流400年」は大航海時代の荒々しいキリスト教世界宣教をめぐる議論を避け、あくまで「交流」の側面に注目しようという姿勢と見るのは、うがち過ぎでしょうか?

 400年という長期にわたる日本とスペインとの交流史ですから、さまざまな事柄があることは当然です。であればこそ、明るい未来に向けた「交流」が求められているのだと思います。

 名誉総裁となられた皇太子殿下は、スペイン政府の招待による同国御訪問を前にして、先日、記者会見に臨まれ、抱負などを述べられました〈http://www.asahi.com/national/update/0606/TKY201306060464.html〉。

 歴史を詳しく勉強されていることに感銘を深くしたのは私だけではないと思いますが、私としてはあえて、当時のキリスト教史の暗部に斬り込みたいと考えます。

 つまり、なぜザビエルは日本にやって来たのか、なぜキリシタンたちは殉教することになったのか、なぜ禁教政策が採られるようになったのか、です。

 およそ「友好」とは似ても似つかない、その歴史を探ることは、内外の批判が集中する、現代の、いわゆる国家神道問題や靖国問題とも深く関わると思うからです。

 というわけで、今回は、平成11年8月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。なぜザビエルは来日したのか、がテーマです。

 折しもこのとき全国各地で「ザビエル来日450年」のイベントが開催されていました。他方、靖国神社は「創立130年」の佳節でした。両者を結びつける、意外なお菓子を通じて、歴史を振り返ってみました。

 それでは本文です。なお一部に加筆修正があります。



 先月上旬、2万灯を超える燈籠の飾り付けなど、「みたままつり」の準備で大わらわの靖国神社を訪ねたら、拝殿脇で1人作業をする、青い目の青年と出会った。白衣姿がなかなかどうして決まっている。

 アメリカ・メリーランド州出身の大学3年生。専攻が宗教学だそうで、留学のかたわら、日本の宗教を体験的に学ぼうと、同社に通っていた。その後、「いろんなことを研修し、楽しかった。ふつうの日本人と知り合えたし、日本の文化がよく分かった」と受け入れ先の留学センターに感想を話していたという。

 さて、記者が足を運んだのは、同社では金平糖(こんぺいとう)が神饌(しんせん)として供され、参拝者に授与されると聞いたからだ。

 はて、金平糖といえば、もともとポルトガル語で、たしかキリスト教の宣教師が織田信長の時代に日本に伝えたのではなかったか。それがなぜ、悲運にも戦陣に散った英霊をまつる同社で献饌されるようになったのか?

 記者の頭の中で、知りたがりのムシがうずき出した。


◇ザビエル来日から450年
◇日本宣教はなぜ企てられたか

 南蛮菓子の金平糖が日本に伝わったのは、いうまでもなくキリスト教の伝来と関わっている。そこでまず「最初の宣教師」フランシスコ・ザビエルの来日を振り返ってみる。

 折しもいま、全国6都市を巡回して、「来日450周年」を記念する「大ザビエル展」が開催されている。先月は東京・池袋の美術館が会場となった。展覧会は残る3都市で12月まで開かれるという。

 展覧会のほか記念行事は各地で催されている。日本のカトリックにとって、450年前のザビエル来日の意味は大きい。来たる西暦2000年の「大聖年」とも関わるからだ。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は5年前、「使徒的書簡」を発表し、イエス・キリスト生誕から2000年目に当たる西暦2000年を「大聖年」と位置づけた。「すべての人が救いの力に預かることができる」ような「解放」の年とすべく、準備が進められているのだ。

 キリスト教やイスラム教、東方教会やプロテスタントとの関係改善または和解、さらには6月のケルン・サミットで決まった低開発途上国の「債務帳消し」のためのキャンペーンなどはその一環らしい。

 日本国内でも「大聖年」に向けた記念行事が目白押しで、その幕開けは、平成9年の「二十六聖人殉教400年」のミサであった。

 天正15(1587)年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出して以後、日本はキリスト教禁教、鎖国へと導かれた。

 9人の宣教師を含む26人のキリシタンが長崎で処刑されるのは慶長元(1597)年で、それから400年後、「殉教の地」に教皇特使を迎え、記念のミサが行われたのだ。

 それなら、わずか38年後に迫害と殉教の悲しい結末を招くことになる、ザビエルの日本宣教はなぜ企図されたのか?

 ザビエルは「東洋の使徒」とも呼ばれ、最果ての地に神の福音と西洋の新しい文化をもたらした「平和の使者」として描かれるのが常だが、そうした理解だけで十分なのか?

 生い立ちから振り返ってみると、ザビエルは1506年、フランスとスペインにまたがるバスク地方のナバラ王国に、貴族の末っ子として生まれた。

 パリ大学に留学中、イグナチウス・ロヨラと運命的な出会いをし、修道士への道を選ぶ。34年8月15日、ロヨラら同志7名がパリのモン・マルトルの聖堂で、「清貧」「貞節」「聖地巡礼」の誓いを立て、これがのちの修道会イエズス会に発展する。

 40年、ポルトガル国王ジョアン3世の要請によって、イエズス会のインド宣教が企てられる。国王は東洋の国々をキリスト教に改宗させることが自分の義務と考えていた。

 ザビエルがインド西海岸のゴアに到着したのは、42年。ゴアは1510年にポルトガル第2代総督アルブルケに攻略されたあと、教皇パウロ5世によってカトリックのアジア伝道の中心地と定められていた。

 その後、ザビエルはマレー半島のマラッカに渡り、「アンジロウ」という名前の日本人と出会う。知識欲が旺盛で、理解力に優れたアンジロウとの巡り合いは、ザビエルに日本行きを決意させた。

 ザビエルはジャンク船に乗り、ちょうど450年前の天文18(1549)年8月15日、鹿児島に上陸する(『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』など)。


◇ザビエルの日本人評価は高い
◇武力征服が宣教の隠れた目的

 フロイス「日本史」(ザビエルの同志ルイス・フロイスが書き残した克明な記録)の完訳者として名高い京都外国語大学の松田毅一教授によると、ザビエルは鋭く日本人を観察し、じつに高い評価を与えていた。

 来日の翌年、鹿児島からゴアに出された長い手紙に、ザビエルは、「私たちが知り得た限りでは、この国の人々はいままでに発見された国民のなかで最高で、日本人より優れた人々は異教徒のなかでは見出せないだろう」と述べ、富よりも名誉を重んじる「キリスト教の諸地方の人々がけっして持っていないと思われる特質」を指摘している。

 また、フロイスに対しては、「日本人は、文化・風俗および習慣において、多くの点ではるかにスペイン人に優る」とまで褒めちぎっているという。

 ザビエルは天文19(1550)年に上洛する。

 日本宣教の勅許を願い、学僧と法論を交わしたいというのが前々からの希望であったが、後奈良天皇との謁見は果たせず、比叡山では門前払いを受ける。都は戦乱で荒れ果て、天皇は史上、もっとも悲惨な境遇にあられた。

 翌年、ザビエルは日本でもっとも繁栄する山口の領主14代大内義隆に拝謁する。インド総督の使節として絹の衣をまとい、総督の親書を携え、望遠鏡やオルゴールなどの珍しい品々を奉呈した。

 義隆は布教を許可し、廃寺となっていた大道寺を宿舎として与えた。この大道寺が日本で最初のキリスト教会とされる。

 天文20年、日本をあとにしたザビエルは翌年、中国・華南沖の孤島サンシャン島で病没する(松田『南蛮のバテレン』など)。

 ところで、カトリックの世界宣教は、教皇アレキサンドル6世が1493年の勅書で、ポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まる。

 キリシタン史研究の第一人者、慶応大学の高瀬弘一郎教授によれば、カトリックの世界布教はスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的があった。

 キリスト教の布教は、航海、征服、植民、貿易という世俗的な事業の一環として進められた。イベリア2国による「世界2分割征服論」という荒々しい野望とカトリックの勢力拡大という宗教活動が、教皇の名のもとに一体化して推進された、と高瀬教授は説明する。

 とくにマゼランの世界一周達成以後は、両国のあいだで、香料を産する東南アジアのモルッカ諸島をめぐって争奪戦が展開された。

 日本に対する両国の関心は銀であったらしい。その点、ザビエルが離日後、両国王に対して、日本の征服は不可能だから断念するように進言する手紙を書いていることは注目される。

 しかし1575年、教皇グレゴリウス13世の大勅書によって、日本はじつに「ポルトガル領」と認められている(高瀬『キリシタン時代の研究』など)。

 松田教授によれば、かつてイエズス会の本部があったローマのジェズ教会には、ザビエルの切断された右腕とロヨラの遺骸が安置されている。聖堂の左側には天使が悪魔を踏みつけている大理石の彫像があり、悪魔には「カミ、仏、阿弥陀、釈迦」とラテン語で刻まれているという。

 カトリックは異教の神々を「悪魔」と同一視した。そして、たとい武力によって異教徒を改宗させ、領土を奪い取ったとしても、それは神の御旨にかなったことと信じられたのだ。

 ジェズ教会のせめて写真でも「ザビエル展」に出品されていないかと期待して出かけたが、どこにも見当たらなかった。その代わりに、「二十六聖人殉教図」や踏み絵はある。過酷な迫害は正視に耐えないが、禁教・迫害を導いた背景の説明はこれまたほとんどない。

「ヨーロッパとの出会い」「異文化交流」は説明されているが、「侵略」も「征服」も語られていない。


◇最初はフロイスが信長に献上
◇靖国献饌は昭和50年代から

 金平糖に話を転じたい。

 最初に文献に現れるのは織田信長の時代らしい。

 フロイスは永禄12(1569)年、6、7千人が働く、建設中の京都・二条城で、といっても、堀橋の上という如才ない場所で、工事を監督している信長に謁見し、布教許可を願い出た。

 このときガラス瓶入りの金平糖1瓶とロウソク数本を贈った、とフロイスは手紙に書き残している。

「これなるは南蛮菓子にござりまする」

「何と申すものか」

「コンフェイトと申しまする」

 ──という会話が交わされたかどうか、は分からないが、金平糖の語源は、ポルトガル語で「砂糖菓子」を意味する「コンフェイト」だという。

 金平糖は「日本侵略」の文字通りの「アメ」だったのか。

 時代はくだり、江戸時代の文学者井原西鶴が書いた『日本永代蔵』という浮世草子(小説)がある。今風にいえば、「こうすればあなたも百万長者になれる」といったたぐいの事例集で、その巻之五に、金平糖を作った男の話が載っている。

 製法が知られないために、人々は輸入品を「唐目(とうめ)1斤(きん)銀5匁(もんめ)」(重さ600グラムの金平糖が銀5匁に相当した)で買い求めていた。ところが、近年、値下がりし、広く出回るようになった。

 それは、この男がゴマ粒を種とする製造法を編み出したからだ。男は長崎の町人で、2年間の苦労の末、製法を見出し、たちまち大金持ちとなった、というのである。

 その後、家庭でも作られるようになったようだが、近代を経て、昭和初期には逆に忘れられた存在となる。というのも、寺田寅彦の随筆に、最近はキャラメルやチョコレートに押されて、駄菓子屋でも見かけなくなったとあるからだ。

 ところが数年ののち、金平糖は兵隊の携帯食として再浮上する。考案したのは、陸軍糧秣本廠に勤務していた川島四郎主計大尉(のちに少将)という。

 経緯はこうだ。昭和10年前後、日本はソ連が日露戦争の雪辱を期して満蒙奪回のために侵攻することを予想し、防衛のためにモンゴル砂漠を突破し、シベリア鉄道を寸断する作戦を立てた。

 このために新しく考案されたのが、金平糖入りの乾パンで会った。

 それまでの軍用乾パンは歌ガルタほどの大きさで、固くて食べにくかった。それを麻雀パイほどに小さくし、甘みをつけるために金平糖が加えられたのだ。

 そっけない乾パンの袋から懐かしい金平糖が出てくる。荒涼たる砂漠を行軍するおっちゃん兵もインテリも歓喜の涙を流した──と川島は書いている(『食糧研究余話』)。

 さて、「創立130年」を迎えた靖国神社によると、春と秋の例大祭に50台の神饌に混じって、金平糖が献饌されるようになったのは、意外にも新しく昭和50年代で、菓子の1つとして、せんべいやおこしなどとともに三方に積み上げられ、神饌撤下後、参列者に頒かたれる。

 もしかしたら、それ以前に供されていたかも知れない、ともいうが、はっきりしたことは分からない。とはいえ、十分な糧秣もなく、病や飢えのため、悲運にも斃れていった英霊たちの良き慰めであろうことは間違いないだろう。

 それにしても、金平糖はよくよく戦争と縁がある。

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