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キリシタン26人はなぜ処刑されたのか──「殉教の地」長崎に異論あり [キリスト教史]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年6月13日)からの転載です

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 キリシタン26人はなぜ処刑されたのか
 ──「殉教の地」長崎に異論あり
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 前回は、「東洋の使徒」ザビエルがなぜ来日したのか、がテーマでした。

 イエス・キリストは弟子たちに「全世界に出て行って、すべての造られたものに、福音を述べ伝えなさい」と語ったといわれます。

 大航海時代のカトリックの世界宣教は、教皇アレキサンドル6世が1493年の勅書で、ポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まります。

 けれども、それはスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的がありました。

 キリスト教の布教は、航海、征服、植民、貿易という世俗的な事業の一環として進められた。イベリア2国による「世界2分割征服論」という荒々しい野望とカトリックの勢力拡大という宗教活動が、教皇の名のもとに一体化して推進された、と研究者は説明しています。

 ザビエルの来日もその一環であり、実際、1575年には教皇グレゴリウス13世の大勅書によって、日本は知らぬ間に「ポルトガル領」と認められています。

 今回のテーマは、なぜキリシタンは殉教したのか、です。

 ザビエル来日から40年足らずで、日本は迫害、殉教の時代に入ります。日本人にとって、異民族はしばしば新しい海外文化をもたらしてくれる恩人で、ザビエルの布教も当初は仏僧たちに大歓迎されたといわれます。

 それがなぜ、時代は変わっていったのか?

 というわけで、平成11年9月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。なお、一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 ポルトガル人宣教師フロイスが430年前、日本に伝えたのが最初といわれる南蛮菓子の金平糖が、いまでは靖国神社の神饌(しんせん)になり、非命にも戦陣に散り、戦禍に斃れた英霊たちの良き慰めになっている、と前回、ご紹介したら、「カステラはどうなんだ」と読者から指摘を受けた。

 春と秋の例大祭などに同社で授与される、桜の枝と白鳩と鳥居があしらわれ、独得の真四角の形をしたカステラが、記者の脳裏に浮かんできた。

 同社の説明では、「神饌ではなくて、みやげ物として社頭でお頒(わ)けしている」とのことだが、今年も終戦記念日には頭が割れそうになるほど蝉時雨がさんざめき、5万人の参拝者で埋め尽くされた境内の片隅で、文明堂が出張販売していた。

 こうなれば、とことん追究するしかない。

 カステラの元祖といったら、どうしたって長崎丸山遊郭の入り口、思案橋と見返り松がある、粋な「山ノ口」の、店構えも古風な福砂屋だろう。

 というわけで、さっそく長崎に飛んだ。


◇貿易と信仰とをめぐる駆け引き
◇キリシタンが破壊した神社仏閣

 長崎は、カトリックにとって、忘れがたい「殉教の地」である。

 いま記念館と記念碑が建つ、JR長崎駅正面の西坂の丘で、26人のキリシタンが処刑されたのは、慶長元(1597)年のことである。

 一昨年2月には、長崎県立体育館に教皇特使を迎え、6千人が参列する「殉教400年」のミサが行われた。

 分からないことがいくつかある。

 たとえば、「殉教」の経緯だが、カトリック修道会イエズス会によって開設された上智大学の中世思想研究所が編集に関わる『キリスト教史5』は、次のように説明する。

 日本でのカトリック布教は、ポルトガルの「布教保護権」(教皇がスペイン・ポルトガル諸侯に与えた、異教世界を植民地化し、支配し、交易するための独占的権限)のもとに進められたのだが、ポルトガルとスペインとの境界線は確定していなかった。

 1494年のトルデシリャス条約で決まった境界線は、日本列島の四国を通過することから、その後、スペインの日本進出の気運が高まった。

 そこで宣教師ヴァリニャーノは従来通り日本宣教がイエズス会に委ねられるのが妥当として上申した結果、1585年のグレゴリウス13世の勅書で、イエズス会にのみ布教が託されることが明確になった。

 ところが、フランシスコ会が進出して、禁教下の日本で公然と活動し、目立った活動を控えていたイエズス会との協調を欠いた。

 さらに、文禄5(1596)年、四国に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員のことばから誤算が生じ、事態を悪化させた。

 秀吉は、宣教師がスペイン国王の手先として日本征服を目論むと非難し、6人のフランシスコ会士、3人のイエズス会士ほかが長崎で十字架刑に処せられた──というのである。

 これでは事実関係がよく分からないから、もう少し詳しく時代状況を眺めてみることにする。

 近代の代表的キリスト者(プロテスタント)で、新聞記者でもあった徳富蘇峰によれば、当時、九州の大名にとって重要なのは貿易であった。

 大名たちはキリスト教をエサに貿易を釣ろうとし、宣教師は貿易をエサにキリスト教を釣ろうとした。駆け引きがもっとも赤裸々に展開された舞台が平戸である。

 何しろ種子島に漂着したポルトガル船は、中国で2500両をもって仕入れた品物を日本で売りさばき、12倍の利益を上げた。それを聞いたポルトガル船が先を争って日本に来港した。

 やがて天然の良港である平戸が知られるようになる。

 イエズス会の宣教師ヴィレラは「神社やお寺は天狗だ」と笑い、「改宗すれば珍しいものを進呈しよう」と誘った。無知な民衆は欲に任せて改宗し、平戸に教会が建てられた。

 永禄4(1561)年、ささいなことでポルトガル船員と平戸の町民とが仲違いし、刃傷沙汰に発展、船長ら14人が殺害された。

 平戸の領主松浦隆信は貿易の利が失われることを恐れ、キリスト教保護をあらためて表明したが、宣教師トレーは本心でないことを見抜いて、容易には応じなかった。

 そのとき現れたのが、松浦氏のライバル・大村の領主大村純忠である。

 純忠は、教会建設、税金免除などの好条件を示し、領内の横瀬浦にポルトガル船の入港を求めた。トレーが快諾したのはいうまでもない。

 純忠の目的はもちろん貿易で、6万石の小大名はたちまち九州屈指の富裕大名となる。だが、朱に交われば、で永禄6年、重臣26名とともに受洗する。

 その日、兄有馬義真の出陣の門出に摩利支天堂の神像の首をはね、神社に放火して、そのあとに十字架を建て、戦勝を祈った。

 戦に勝つと、神社仏閣をことごとく破壊し、祖先の位牌さえ火中に投ずるにいたる。

 宣教師は満足したが、領民は驚愕し、内乱となる。

 この内乱を煽ったのが、ライバルの松浦氏で、その結果、ふたたび平戸が貿易で潤うことになる。

 隆信は平戸にフロイスを招いたが、隆信の目的があくまで貿易にあることを知るフロイスはあえて船を港外に停泊させる。隆信はそれまでの冷淡な態度を陳謝するが、フロイスはなお荷揚げを拒む。

 結局、隆信は宣教師の平戸居住、教会建設を承諾し、ようやく貿易の果実を得る。

 しかしその後も隆信の冷淡は変わらなかった。家臣は反抗的で、しばしば宣教師と衝突した。やがて宣教師はポルトガル商船を大村領内に移動させた。隆信は軍艦50隻で追跡し、力ずくで引き戻そうとするが、逆に撃退される。

 宣教師の妨害で平戸は敬遠され、元亀元(1570)年に純忠が長崎を開港するに及んで、長崎が南蛮貿易とキリスト教布教の中心地となる(徳富蘇峰『近代日本国民史』)。


◇「20日以内に退去せよ」
◇きっかけはスペイン船漂着

 天正8(1580)年、大村純忠は長崎・茂木をイエズス会に寄進する。同会は長崎に本部を置き、長崎は軍事力を伴う自治都市となった。住民はすべてキリシタンであった。

 京都外国語大学の松田毅一教授によると、天正10年の本能寺の変のあと天下人となり、13年に関白となった秀吉は、大阪城でバテレン一行を引見する。

 おりから島津氏が九州の全域を掌握しようとしていた。キリシタン大名の大友は崩壊寸前で、長崎は島津氏が支配していた。大村、有馬は島津の敵ではなかった。島津氏の九州制覇はキリシタンにとって、死活の問題であったという。

 大阪城の秀吉のもとに伺候したバテレンたちを、秀吉は歓待し、布教を許可する允許状を2通も与えた。

 翌14年12月、秀吉は九州に軍旗を進める。

 そして、この九州征伐の帰途、秀吉は「20日以内に国外に退去せよ」とバテレン追放を命じるのである。

 何が秀吉にそうさせたのか?

 15年6月19日付の文書には、「日本は神国であり、邪法をもたらしたのはよくない」「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」などとある。

 じつは、九州のキリシタン大名の領内では、領民の多くが事実上、強制的に改宗させられ、神社仏閣のほとんどが破壊されていたのだ。

 天正16年、秀吉は長崎・茂木・浦上のイエズス会領を接収し、直轄地とする。

 さて、26人の処刑である。きっかけは文禄5(1596)年に起きたスペインの豪華船サン・フェリペ号の四国漂着であった。

 このとき1人の船員は世界地図を示し、奉行にスペインの強大さを誇る。奉行が多くの領土を得た経緯を問うと、船員は「バテレンを派遣し、キリスト教徒を作り、その後、スペイン軍が攻め込む」というような発言をする。

 秀吉はこの直後、積み荷の没収を命じ、2カ月後には大阪・京都の宣教師とキリシタンの死刑を命じる。

 26人の処刑後、船の積み荷の返還と処刑囚の遺骸引き取りを求めてきたフィリピン総督への返書に、秀吉はこう書いている。

「往年、バテレンが当国に来て異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので、予はそれを禁じた。しかるに貴国よりきた僧侶は帰国せず、異国の法を説いてやまぬので誅戮(ちゅうりく)せしめたのである。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているという……」

 カトリック布教の危険性を、秀吉は確信していたものらしい(松田『南蛮のバテレン』など)。


◇諏訪神社のキリシタン合祀説
◇小説『沈黙』の舞台に鎮まる神社

 長崎・諏訪神社の松本亘禰宜(ねぎ)の10数年にわたる研究によると、じつに面白いことに、秀吉によるバテレン追放、キリシタン処刑ののち、長崎ではキリスト教はかえって盛んになった。

 開港後に建てられた「岬の教会」は慶長6(1601)年に改修され、「被昇天のサンタマリア教会」と改称される。東洋一の規模を誇り、日本宣教の中心に位置づけられたという。

 慶長10年、全国の信徒数は75万を数えた。キリスト教隆盛のなかで、慶長14年、長崎の諏訪・森崎・住吉の3祠が破却される。

 しかしふたたび時代は変わる。

 徳川幕府は慶長17年、禁教令を発令し、キリシタン弾圧が始まる。慶長19年秋、長崎の諸教会は破壊され、キリシタンは破滅的打撃を受ける。元和8(1622)年にはキリシタン55人が西坂で処刑される。

 諏訪神社がのちに初代宮司となる青木賢清によって再興するのは、寛永2(1625)年である。

 興味深いのは森崎神社である。

 諏訪神社は、かつてキリシタンに破却された森崎神社と住吉神社を、相殿にまつっているが、森崎神社はいま県庁がある森崎の地に、以前、まつられていたということ以外、ほとんど不明の、謎に包まれた神社だ。

 地元、純心女子短期大学の越中哲也教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に創建された社祠だとする説を、12年前に発表している。

 越中教授は、(1)教会の破壊後、たたりを恐れて同社が創建された、(2)かつての教会を偲んで、信徒が社祠形式に改めて祀った、(3)諏訪・住吉の2社が勧請されたとき、すでに教会跡に祀られていた祠を長崎の氏神と解釈して合祀した──と推測するのである。

 キリシタンたちが教会の代わりに創建したという説だが、異論もある。ほかならぬ諏訪神社宮司による反論である。

 越中説は、長崎岬の突端の森崎は、人の住まない森で、開港以前に神社はなかったとするのに対して、上杉千郷諏訪神社宮司は、神社創建は人家の有無とは無関係だと批判している。

 実際に漁師が信仰する森崎社が渚に鎮まっていたとする記録もあるという(「神道文化」創刊号など)。

 それ以上に関心を引くのは、上杉宮司の体験談である。

 昭和57年、御鎮座360年の社殿改修で、遷座祭が斎行されたとき、御船台に納められた森崎神社の御霊代(みたましろ)は諏訪・住吉両社とは異なり、宮司1人では捧持できないほど大きく、重かったというのである。

 もしかしたら、ヨーロッパのキリスト教史と同様に、まず森のなかの神社があり、それが破却されたあとに教会が建てられたのではないか。その教会が禁教で破壊され、こんどはキリシタンが追憶、慰霊、鎮魂の目的で祠を置き、やがて諏訪神社再興のときに相殿に祀られたとも考えられる、というのである。

 キリシタンによって神社が祀られる──それはけっして突拍子もないことではない。

 上杉宮司、松本禰宜の両氏に案内され、訪れた、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台といわれる外海町黒崎には、海を望む山中に枯松神社がひっそりと鎮まっていた。

 宣教師ジワンを祀るとされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。周辺には「祈りの岩」と呼ばれる磐座(いわくら)があり、キリシタン時代以前からの聖地であることをうかがわせる。

 上杉宮司は、「神仏習合により栄えてきた神社が、キリシタンをも内包するふところの大きさ」を強調している。

 キリスト教は自分たちの信仰を唯一絶対と信じて、異教の神々を冒涜し、信仰を踏みにじったが、日本人はキリシタンの信仰を神道形式で400年間、守ってきた。

 森崎神社はその歴史を暗黙裏に語っているのかも知れない。

 さて、忘れてはいけない。肝心のカステラだが、キリシタンの取材に夢中になっているうちにとうとう食べ損ね、念願の福砂屋のカステラを手にしたのは、福岡空港の売店であった。

 創業は奇しくも諏訪神社再興と時を同じくするというだけに、昔懐かしい味がした。


◇26人「列聖」の理由と経緯
◇プロテスタントに対抗するため

 最後に蛇足ながら、キリシタン26人の「殉教」「列聖」について考えてみたい。

 26人が「聖人」となるのは、処刑から265年後の1862年だが、なぜ「列聖」することになったのだろう。

 不思議なことに、「殉教」を書きつづった文献はたくさんあるのだが、「列聖」の理由と経緯についての資料はほとんど見当たらない。

 唯一の資料と思われるのは、昭和6年に翻訳発行されたレオン・パジェスの『日本廿六聖人殉教記』である。

 これによれば、「殉教」には、(1)迫害による死か、(2)宗門のための死か、(3)自分の意思による死か──の条件があるが、「殉教者」が「聖人」かどうかは神自身が「奇蹟」によって証明する。教会は慎重な態度でこの証明を待つのだ、と説明されている。

 26人の場合、処刑のとき、十字架上に火の柱が出現し、夜なのに周囲が明るくなった。星々に囲まれた女性が現れた。処刑者の遺体が腐敗しなかった。刑場で死んだはずの宣教師が教会でミサを挙げているのが目撃された、とされる。

 26人は、「奇蹟」によって、「殉教者」とされた。

 処刑から7年後の慶長8(1603)年、京阪地域のキリシタンから「列聖」の嘆願書が提出され、1616年には教皇庁の調査が始まった。10数年後、教皇は26人について「殉教者」のためのミサを挙げることを許可し、「列聖」の前段階としての「列福」の栄誉を授けた。

 だが、その後、「列聖」の本調査が許可されながら、「積極的な措置が執られなかった」。

 それはなぜなのか。『殉教記』は理由らしい理由を記述していない。

 フランシスコ会トマス・オイテンブロク神父の『16─17世紀の日本におけるフランシスコ会士たち』によれば、17世紀初頭の教皇庁は多くの列福訴訟を審議中で、多忙をきわめていた。

 けれども二百数十年を経て、日本は安政元(1854)年に外国人に門戸を開き、同6年には宣教師の再入国を許可した。その結果、「殉教者」の「列聖」が促進されたという。

 しかし、日本側の鎖国から開国への転換だけが「列聖」促進の理由かどうか、は疑問がある。

『キリスト教史』などによると、19世紀初頭、ヨーロッパで、フランス革命の熱狂とナポレオン戦争の殺戮が収まると、18世紀の啓蒙思想が疑われ、カトリック教会は復興のときを迎えた。

 ガラガラの修道院と神学校にふたたび人材が集まり、解散させられていたイエズス会は再建される。

 1846年、ローマ教皇ピウス9世が登位する。教皇は第1バチカン公会議を開き、「教皇の不謬権」の教義を確立させた人として知られ、反自由主義的な態度で教皇権を強化した。

 32年間の在位中、世界宣教が奨励され、ヨーロッパの植民地拡大と並行して、カトリック教会は海外に向かって発展する。

 日本宣教に関しては、プロテスタント宣教師が日本の「お雇い教師」として入国し、教師や医師として日本人と直接接触して布教活動を展開したのに対して、カトリックの宣教師は在留フランス人のためにフランス国家から派遣されていて、日本社会との直接的関係を持たなかったという。

 プロテスタントに対抗するため、カトリックはまず、ゴシック様式の荘厳な大天主堂を建設した。

 文久2(1862)年には横浜に天主堂が建ち、同4年には長崎・大浦に「26聖人」記念の天主堂が竣工する。

 アジアで唯一の「聖人」である26人が日本宣教のため大いに利用されたであろうことは十分、推測されるのだが、どうであろうか。
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