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安保法案の議論はなぜ深まらないのか──朝日新聞の社説を読んで思うこと [朝日新聞]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2015年9月18日)からの転載です

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安保法案の議論はなぜ深まらないのか
──朝日新聞の社説を読んで思うこと
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 安全保障関連法案(平和安全法制関連法案)の国会審議が最終段階を迎えた。野党は激しく抵抗しているが、よほどのことがない限り、法案は今日中に成立するだろう。

 日本の安全保障政策をめぐる、歴史的な転換点だが、それに見合う、十分な審議が尽くされたのかどうか、大いに疑問が残る。

 試みに朝日新聞の社説を読んでみると、その理由が浮かび上がってくる。

 この数か月、何度も社説のテーマとしてきた朝日だが、この15日からは、以下のように、連日、欠かさず取り上げている。

 15日 安保法案 民意無視の採決やめよ
 16日 安保公聴会 国会は国民の声を聴け
 17日 「違憲立法」採決へ 憲法を憲法でなくするのか
 18日 安保法案、採決強行 日本の安全に資するのか

 今日の社説では、法案の違憲性だけではないとし、「新たな法制で日本はより安全になるのか」と踏み込み、「そこに深刻な疑問がある」と指摘している。

 まさに仰せの通り、問題の核心はそこなのだが、一読者としては、社説が展開する論理にもまた「深刻な疑問がある」と感じざるを得ないのである。


▽ 国際的環境の劇的な変化

 世間のおおかたの議論は、いみじくも朝日新聞が「違憲立法」と呼んでいるように、違憲性の議論にとどまっているから、「それだけではない」と、より深く本質に切り込もうとする朝日の姿勢はさすがである。

 憲法を字面通りに解釈するなら、自衛隊の存在はむろんのこと、法案に反対する憲法学者たちが所属する大学に、もし私学だとすれば、公費を支出することもまた違憲なのだが、実際は違憲論者は一部にとどまる。現実を見定めることによって、あるいは周辺環境の大きな変化に伴って、法的解釈と運用は当然、変わってくる。

 重要なことは、憲法解釈・運用の前提となる、日本の平和と安全をめぐる、「戦後」と呼ばれてきた時代の国際環境の劇的な変化であり、したがって、それに呼応した軍事的・外交的対応の的確性こそが議論されるべきだと思う。ところが、社説の議論は、前提となる環境の変化を見定めていないように見える。

 社説は軍事的な抑止力だけでは不十分で、地域の緊張を緩和させる外交的努力が欠かせないと訴えている。そんなことは当たり前のことで、問題は、社説が指摘しているように、「中国の軍拡や海洋進出」という現実的な環境の変化に対して、日本が「どう向き合うか」である。

 社説は「抑止偏重の法案だけで対応できない」「南シナ海に自衛隊を派遣したとしても解決しない」「日中関係のカギは『共生』だ」「協力の好循環だ」と訴えるだけで、現実離れした青っぽさを禁じ得ない。


▽ 憲法9条ではなく前文

 与野党の対立もそうだが、メディアも含めて、議論が深まらないのは、問題意識が共有されていないからではないか?

 朝日の社説は、戦後日本の安全と地域の安定は「憲法9条がもたらした安全保障」と言い切っている。しかし、そうではないと思う。現実を見定めない「9条」第一主義は、同時に現実への対応を誤らせることになると思う。

 問題は「9条」ではなく、日本国憲法前文である。

 前文は、「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳っている。戦後日本の「安全と生存」は「諸国民の公正と信義」に立脚してきた。

 実際、この70年、世界のどこかで戦争の狂気はつねに繰り返されてきたが、東西の冷戦構造の狭間で、奇跡的に、日本は悲惨な戦争を直接、体験することを免れてきた。朝日の社説が主張するように、9条によって守られてきたのではない。

 ところがいまや、憲法前文の「諸国民の公正と信義」という、平和の大前提が崩れている。社説が取り上げる「中国の軍拡や海洋進出」だけではない。要するに、ヤルタ・ポツダム体制が崩壊したのである。

 けれども、その時代認識が共有されていない。混乱の原因はそこにあるのだと思う。

 政府も、なぜいま安保法制なのかをきちんと説明していない。他方、集団的自衛権行使に賛成していたはずの民主党議員は議論の輪に加わろうとしない。

 当然、国会審議は迷走し、理性ぬきの政局化は免れない。これで平和と安全は保てるだろうか?


▽ 覇権主義国家との「共生」は可能か

 朝日の社説は中国との「共生」を強調している。大賛成である。しかし、それなら相手国は日本との「共生」を求めているのだろうか? 相手が望まないのに、一方的な「共生」はあり得ない。逆に世界的な覇権を追求する国との「共生」は可能だろうか? 国際関係は関係論であって、1カ国の政策では決まりようがない。

 社説は、イラク戦争への自衛隊派遣について、日本政府が検証していないと指摘している。まったくその通りだと思う。しかしそれなら、議論を喚起すればいい。それがメディアの責任というものではないだろうか?

 社説は、「貧困、教育、感染症対策、紛争調整・仲介など、日本が役割を果たすべき地球的規模の課題は多い」と指摘している。これもその通りだと思う。しかしそれなら、そのように提言すればいいのである。

 ただ、そうした非軍事的な戦略によって「日本はより安全になるのか」どうかは、まさに社説が「新たな法制で日本はより安全になるのか」と問いかけ、「深刻な疑問がある」と疑いを示しているように、「深刻な疑問がある」。

 日本が敵対視せず、友好を呼びかけても、安保法制が成立したわけでもないのに、「抗日」戦争を戦い続けている国があるくらいである。

 首相が強調する「日本が戦争に巻き込まれることはあり得ない」「自衛隊のリスクは高まらない」を、社説が「新たな『安全神話』」と決めつけるのは自由だが、非軍事的な貢献が「安全」だと考えるのもまた「神話」ではないか?

 国の平和と安全は相手国次第なのであり、戦後日本の平和をもたらしてきた「諸国民の公正と信義」がすでに崩壊している以上、どうすれば国が保てるのか、国民の代表者たちにはそこを真剣に議論してほしかった。

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