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廃仏毀釈の嵐を鎮め、キリスト教文化を受け入れた皇室 ──天皇・皇室の宗教観 その2 [天皇・皇室]

以下は「月刊住職」平成27年10月号からの転載です

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廃仏毀釈の嵐を鎮め、キリスト教文化を受け入れた皇室
──天皇・皇室の宗教観 その2
(「月刊住職」平成27年10月号)
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 皇室の仏教信仰について、歴史的検証を試みている。前回は仏教公伝から江戸時代までを振り返った。今号では引き続き、明治・大正期、いわゆる「国家神道」時代を考える。


▽1 「泉涌寺を護る会」総裁

 今年(平成27年)5月12日、秋篠宮文仁親王殿下は妃殿下を伴われ、中世以来、皇室唯一の香華院(菩提所)として知られる真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派総本山・東山泉涌寺を訪れられ、霊明殿に参拝された。

 霊明殿の内陣中央御扉内には第87代四条天皇(在位1332~42)の御尊像(木像)と御尊牌(ごそんぱい)をはじめ、第122代明治天皇(同1867~1912)、昭憲皇太后、第123代大正天皇(同1912~26)、貞明皇后、第124代昭和天皇(同1926~89)、香淳皇后の御真影、御尊牌が奉安され、それ以前の歴代天皇、皇妃、親王方の御尊牌は左右の御扉内に奉安されている。内部の荘厳具は、明治以後の皇族方から寄進されたものといわれる。

 この日は、殿下が総裁をお務めになる「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」の定期総会であった。関係者によれば、殿下は平成8年の総裁ご就任以来、毎年欠かさず参拝されている。

 泉涌寺は御寺と呼ばれるほど、歴史的に皇室との関わりが深い。それは第86代後堀河天皇(在位1221~32)が綸旨(りんじ)によって御願寺とされたことに始まるといわれる。

  第82代後鳥羽天皇(同1183~93)、順徳上皇(第84代天皇。同1210~21)、後高倉院(守貞親王)は、開山と仰がれる月輪(がちりん)大師俊芿(しゅんじょう)によって受戒されるなど、深く帰依されたが、四条天皇の御葬地となったことがさらなる縁を刻んだ。

 承久の乱から約20年後の仁治3(1242)年のことだった。天皇は御年12歳でにわかに崩御された。時の執権北条泰時は皇位継承者に、順徳上皇の第5皇子忠成王ではなく、土御門上皇(第83代天皇。在位1198~1210)の第2皇子邦仁王(第88代後嵯峨天皇。在位1442~46)を選んだ。上皇が乱に反対のお立場だったというのが理由らしい。乱の失敗で公武関係は完全に逆転していた。

 御尊骸はその間、放置され、御葬送は崩御から16日後、混乱のなかで執り行われた。なぜ泉涌寺が御葬地となり、御陵月輪陵(つきのわのみささぎ)が境内に造営されたのか、直接的な史料は残されていないが、他寺他山が政争に巻き込まれるのを恐れたなかで、唯一、仏教者本来の姿を保った。四条天皇は俊芿律師の再誕だとする説も生まれたという(『泉涌寺史』など)。

 こうして皇室との縁が結ばれ、その後、北朝第4代後光厳天皇(在位1352~71)から第100代(北朝第6代)後小松天皇(同1382~1412)までの葬場となった。後小松天皇は俊芿に「大興正法国師」の諡号(しごう)を贈られた。

 中世末の戦乱で荒廃した伽藍を現在地に再興されたのは第108代後水尾天皇(同1611~29)で、その御葬礼は泉山で執行され、山内に御廟所が設けられた。以後、第121代孝明天皇(同1846~67)まで御陵が寺内に築かれた。また、後光厳天皇が創建された別院雲龍院や、第51代平城天皇(同806~09)の勅願寺とされ、第105代後奈良天皇(同1526~57)の叡慮によって山内に移築された善能寺など、皇室ゆかりの山内寺院が少なくない。


▽2 神仏分離令と廃仏毀釈

 幕末・明治維新期に到り、泉涌寺のみならず、仏教界は大きな混乱の坩堝に陥れられた。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)である。

 幕府廃絶、新政府樹立を宣言する、慶応3年の王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原(もとづ)き」とあった。翌年には祭政一致、神祇官再興が表明され、諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。明治天皇は紫宸殿(ししんでん)に神座を設え、天神地祇を祀り、五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。

 僧形の別当・社僧の復飾が通達され、さらに「権現(ごんげん)」「牛頭(ごず)天王」など仏語を神号とする神社の改称、仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。

 年来の神仏習合の清算は神仏分離にとどまらず、激しい廃仏毀釈へと転化した。いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。

『新修大津市史』などによると、青蓮院、妙法院、梶井(三千院)の宮門跡は還俗を命じられていた。宮門跡は多くの場合、天台座主を兼ねていたから、延暦寺は皇室との関係を断ち切られることになった。戊辰戦争の最中で、輪王寺宮の処遇も微妙になった。

 他方、従来、延暦寺の支配下にあった日吉社の社司樹下(じゅげ)茂国は神祇事務局の事務掛に任命された。樹下は分離令後、「年来の宿憤を晴らすべきときが来た」と勇み立った。多年、社僧の下役に甘んじていたのを悲憤慷慨していたのだ。

 生源寺希徳(しょうげんじ・きとく)ら日吉社司は樹下に実力行使の加勢を迫り、樹下は京都吉田社に集合していた神官たちを動員した。4年4月、武装した神威隊と村人らが社殿に乱入し、本地仏や仏器、仏具、経巻などを散々に破壊し、焼き捨てたうえ、鰐口など金具類を持ち去るなど狼藉の限りを尽くし、快哉を叫んだ。

 過激な廃仏毀釈の原因は何だったのだろうか、辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。

 本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。明治元年の本願寺、興正寺などへの達(たっし)には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、みだりに復飾を願い出ることが牽制された。他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという(『明治維新神仏分離史料』など)。

 だが改革は神仏分離に留まらず、引き続いて社寺領の上知(じょうち)が布告された。神社は国家の宗旨とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった(『明治維新神道百年史』など)。


▽3 皇室と泉涌寺

 宮中の年中行事も激変した。

 年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、2月と8月の季御読経(きのみどきょう)、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。

 この一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、皇室祭祀が整備、確立されていった。

 京都御所には歴代天皇の御霊牌や念持仏を祀る御黒戸(おくろど)があり、女官が日々、奉仕していたが、神仏分離後、これらは撤去され、恭明宮に遷座され、さらに泉涌寺舎利殿に遷され、安置された。その後、御黒戸を移築した海会堂に、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られることとなった。

 泉涌寺について、孝明天皇は「四条帝以来御代々御陵守護の官寺、皇祖御尊敬の訳をもって諸寺の上席となすべし」と詔された。けれども神仏分離の影響を免れることはできなかった。

 泉涌寺の財政は、新政府に5000両の借用を申し入れたほど、御一新の混乱で逼迫した。即位の大礼を前に、明治天皇は泉涌寺内にある孝明天皇の御陵に参拝されたが、歴代の御尊牌に参詣されることはなかった。天皇は史上はじめて伊勢神宮に親拝された。孝明天皇3年忌(3年祭)も、第120代仁孝天皇(在位1817~46)の25回御忌も神式で斎行された。泉涌寺山内の御陵は寺門から切り離され、宮内省所管となった。

 もはや御寺の地位は失われたのか? しかし皇室の支援が途絶えたわけではなかった。孝明天皇御3回忌には大宮御所から銀1000枚の下賜があり、翌年からは年間100石の増禄を賜った。菊の御紋章の使用も例外的に許された。

 ようやく再興の見通しが見えてきた明治15年、泉涌寺は火災に見舞われた。このとき再建の資金を提供したのは宮内省だった。戦後の新憲法公布まで、修理費用はすべて宮内省が支出した。翌16年には明治天皇から俊芿に「月輪大師」の号が贈られた。明治天皇の行幸は元年以来、11回におよんだ。

 仏教の外護者としてのお立場に変更はなかった。


▽4 皇室の仏教信仰

 信仰もまた同様である。

 親王門跡が残らず還俗し、門跡制度自体が廃止されるなか、復飾を拒否した女性皇族方がおられる。伏見宮邦家親王の3姉妹、誓圓尼(善光寺大本願)、文秀女王(円照寺門跡)、日榮尼(村雲瑞龍寺門跡)である。

 なかでも誓圓尼は、「一度、仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようとも、このたびの仰せには従い得ない。わが身は終生、仏弟子として念仏弘通のために捧げよう」と断言され、廃仏毀釈の嵐から善光寺を守り抜いた、中興の祖とされる。

 むろんお三方ばかりではない。明治10年、宮内省は孝明天皇の御念持仏を差し出すよう泉涌寺に通達した。仏教に帰依し、供養なさりたいとの英照皇太后の御意向と指摘される。昭憲皇太后もまた光格天皇(第119代。在位1780~17)の勅作とされる阿弥陀如来像を召されたという。

 英照皇太后は昭憲皇太后に諭されたといわれる。

「神仏の教へは、みな正しきにより人の心を導くなれば、けっして疎かに思ふべからず。…(中略)…神を信ずる心は、これやがて仏を尊む心なり。仏を信ずる心は、やがてこれ神を尊む心ともなれ。ただ誠の心もていづれの道をも信ぜよかし」

 明治の皇室の仏教信仰がもっとも色濃く伝えられているのは、日蓮宗大本山小湊山誕生寺である。皇室との関係は、第123代大正天皇(在位1912~26)が皇太子時代に百日咳を患われたとき、誕生寺第61世貫首豊永日良上人が病気平癒を御祈祷し、快癒されたことに始まるという。

 明治天皇の御肌守(おんはだまもり)紺紙金泥細字法華経八巻を奉納されたのは、生母中山慶子典侍であった。有栖川宮熾仁親王は同宮家の御廟所龍王殿を山内に建立された。昭憲皇太后は明治天皇崩御ののち「自我偈(じがげ)」を写経され、納経された。

 この時代はしばしば「神道国教化」と表現されるが、その中心であったはずの神祇官は早くも明治4年には神祇省に降格され、翌年には廃止され、教部省となった。さらに教部省は廃止され、やがて大教宣布の担い手であった神官が教導職を兼務することも禁止された。神社を国家の宗旨とする姿勢は変わらなかった(文部省『学制百年史』)が、天皇の側近には啓蒙主義者が登用されるようになり、宮中の生活様式は急速に洋風化していった。

 他方、神仏分離令後、中絶した後七日御修法はその後、釈雲照の提唱と真言宗をあげての復興運動により、明治16年、真言宗総本山教王護国寺(東寺)の灌頂院で再興され、今日に至っている。真言宗では日清戦争勃発後、大元帥法が修せられ、大正天皇即位礼、昭和天皇即位礼のときにも修せられた。

 また天台宗では、大正9年に御修法の復興を願い出、「聴許相成り候」との回答を得、翌年には御衣の下付が認められ、今日のように毎年、比叡山延暦寺の根本中堂で行われるようになった。


▽5 明治憲法とキリスト教

 宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。アジアで最初の近代憲法だった。

 キリシタン禁制の高札撤去から12年後のことで、とりわけキリスト者の喜びはひとしおだった。時事新報に「憲法発布式における市中の賑わい」のひとつとして、こんな記事が載っている。

「基督教信者は今度の盛典を祝せんとて、当日午前8時を期し、各町部の会堂に参集して讃美歌を唱へ、祈祷をなし、皇帝の万歳を祝し奉らんとの手筈なるが、前代未聞の大典なればとて、更に新詠の讃美歌を作らんとの計画もありといふ」

 翌年には長崎で日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、聖体行列が行われたが、警察は「わずかの敵意さえ示さなかった」。

 東京・霊南坂教会の設立者で、同志社の総長・小崎弘道の『日本基督教史』(昭和13年)によれば、キリスト者の最大の関心事は信教の自由だった。

「思想、集会、信教の自由を保障せられたことは、大いに慶賀すべく、ことに信教の自由においては、枢密院においてすこぶる強硬なる反対論があったにもかかわらず、伊藤(博文)公らの尽力により、この一項の掲げられたことは、吾人キリスト信徒の大いに感謝せねばならぬところである」

 それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においてはキリスト教の社会事業を物心両面から支援された。

 たとえば赤十字である。ヨーロッパのキリスト教精神に基づくナイチンゲールの活動やデュナンによる赤十字運動は日本に完全に受容されているが、その中心は皇室である。

 日本の赤十字運動は西南戦争時の明治10年に設立された博愛社に始まる。禁教が解かれてから4年後だった。ヨーロッパの赤十字事業を視察していた元老院議官・佐野常民が大給恒らを誘って、博愛社を開設しようとしたのは、皇室の御仁慈に啓発され、日本の武士道精神に合致すると考えたからだった。

 事実、明治政府は当初、敵味方の区別なく救護活動を行なうという博愛社の精神を理解しなかったが、佐野らは征討総督の立場にあった有栖川宮熾仁(たるひと)親王に博愛社設立を願い出て許可され、明治天皇は特旨をもって金1000円を賜った。

 設立願書には「この輩のごとき大義を誤り、王師に敵すといえども、また皇国の人民たり。皇家の赤子たり」と記され、佐野の伝記には、敵味方の区別なく救うという赤十字の精神は一視同仁という天皇精神と通じる、と説明されている。

 やがて博愛社は日本赤十字社と改称され、ヨーロッパの王室にならって、皇室が赤十字運動の指導的立場に立たれた(『日本赤十字社発達史』など)。

 いまも日本赤十字の名誉総裁は皇后陛下であられ、日赤大会は明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮の杜で開かれる。皇太后の寄付金をもとに創設された昭憲皇太后基金は、世紀を超えて、世界の赤十字活動を支えている。


▽6 関東大震災の御黙祷

 いつの時代も日本の多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になると非宗教をも飲み込んでいった。

 大正12年10月、関東大震災の犠牲者を悼む「四十九日」の追悼式が東京府市合同で行われた。式は「国家神道」どころか無宗教で行われ、宗教者は排除され、既成の宗教儀礼も採用されなかった。仏教各派連合の追悼会や全国神道連合会の五十日祭は府市連合の追悼式とは別個に開催された。

「国家が宗教に干渉するのは世界の大勢にもとる」というのが行政の基本姿勢であったから、神道も仏教も一律に排除され、そのため啓蒙主義的、反宗教的な行政と、その姿勢を「宗教に無理解」と反発する宗教者との抜き差しならない対立が表面化し、事件が起きたことを、当時の新聞は伝えている。

 翌年の震災1周年に登場したのが、無宗教儀礼としての黙祷であった。

 東京府市と経済団体とで組織される震災記念事業協議会が協議を重ね、震災発生時刻に社寺教会などは鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らし、市電は1分間停車、市民は「黙想反省」することなどが決められた。新聞はこれを「祈念黙想」と言い換えて報道した。

 ところが1周年当日を数日後に控え、東宮殿下(昭和天皇)が追悼式に「2分間の御黙祷」を捧げることになったと伝えられると、協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、「祈念黙想」は「黙祷」に一変した。

 死者を追悼する黙祷儀礼は皇室に源を発し、一般に広がっていった。皇室と国民の沈黙の祈りは切なるものであったけれども、既成の宗教儀礼によらない黙祷は宗教宗派への絶対的不干渉・中立主義をとる行政にとっても好都合で、以後、無宗教儀礼として浸透していった。

 宗教者たちはこの年も東京市主催の震災一周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫った。けれども当局はこれを拒否し、無宗教の式典が催された。これが一般に「国家神道」の時代といわれる近代日本の実態だった。

 次号ではいよいよ昭和期の皇室と仏教について迫る。

(一部敬語敬称略。参考文献=安丸良夫『神々の明治維新』1979年、石川泰志『近代皇室と仏教』平成20年、「大法輪」平成24年12月号など)
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