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キリスト者に育てられ、キリスト教国の影響を受けられた昭和天皇  ──天皇・皇室の宗教観 その3(「月刊住職」平成27年11月号) [昭和天皇]

以下は「月刊住職」平成27年11月号に掲載された拙文の転載です。

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キリスト者に育てられ、キリスト教国の影響を受けられた昭和天皇
──天皇・皇室の宗教観 その3(「月刊住職」平成27年11月号)
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 中国や朝鮮では、王朝が交替するたびに国の宗教が代わった。だが日本では、万世一系の天皇を中心に、諸宗教が平和共存する多元的宗教空間が保たれた。

「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇『禁秘抄』)を原則とする皇室では、仏教に帰依された天皇もまた神道祭祀を厳修された。「私をおいてほかに神があってはならない」(十戒)とする一神教世界ではあり得ない現象だ。近代になると、皇室はキリスト教文化を積極的に受容され、無宗教主義さえ受け入れられた。

 ならば、いわゆる「国家神道」時代と「信教の自由」の時代を、ともに生きられた昭和天皇はいかなる信仰をお持ちだったのだろうか、「戦後70年」の節目に当たり、あらためて考える。


▽1 キリスト者による教育

 明治34年4月、明治天皇の皇太子嘉仁(よしひと)親王(のちの大正天皇)に第1男子が誕生された。迪宮(みちのみや)裕仁親王、のちの昭和天皇である。親王は古来の乳人(めのと)制度により、生後70日で枢密顧問官川村純義伯爵に預けられ、ひとつ違いの弟君淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)親王(秩父宮)とともに、3年あまり養育された。

 川村は戊辰戦争、西南戦争を戦った明治海軍の創始者で、明治天皇の信頼が篤かったらしい。

 迪宮・淳宮両親王は毎月、釈雲照から無病息災の加持祈祷を受けられた。川村の依頼によるものという。雲照は明治の元勲たちが一様に帰依した真言宗の名僧である。明治初年の諸山勅会廃止によって中絶した宮中後七日御修法を、東寺灌頂院にて再興させた人物でもある。

 川村邸での養育が川村の死去で幕を閉じ、最後の加持が行われたあと、祀られていた虚空蔵菩薩は肌守として両親王に献上された(『昭和天皇実録』など)。

 東宮御所に御帰還後、両親王は今度はキリスト者による養育を受けられることになる。

 名前は足立タカ。東京府女子師範学校(いまの東京学芸大学)を卒業したばかりで、附属幼稚園の保母だった。タカの父元太郎は札幌農学校の二期生、内村鑑三や新渡戸稲造らの同期生で、父娘はプロテスタントだった。タカは両親王に母親のように接し、昔話などを話したらしい。タカはのちに終戦時の宰相鈴木貫太郎の後妻となった(若林滋『昭和天皇の親代わり』など)

 第一次世界大戦終結から3年後の大正10年、皇太子裕仁親王はヨーロッパ歴訪の旅に出られた。大正天皇の御健康が憂慮され、宮中祭祀のお務めを見合わせざるを得ないような状況下での御訪欧は、皇太子教育という、より重要な目的を持っていた(波多野勝『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』)。

 随員には、珍田捨己(宮内省御用掛、供奉長、メソジスト)以下、山本信次郎(海軍大佐、カトリック)、澤田節蔵(外交官、クエーカー)など、名だたるキリスト者が従っていた。

 珍田は日露戦争後の講和条約交渉、パリ講和会議などに関わった外交官で、御訪欧当時は伯爵、枢密顧問官の地位にあった。のちに東宮太夫、侍従長を歴任した。

 山本は日本海海戦時は旗艦「三笠」の分隊長、当時は東宮御学問所御用掛。御訪欧中はテーブル・マナーやフランス語をきびしくお教えした。ローマ教皇との謁見実現は山本の尽力によるという。

 澤田は国際連盟日本代表などを歴任し、連盟脱退に反対した。第2次大戦末期、鈴木貫太郎内閣顧問となり、和平工作のためバチカンに働きかけた(澤田壽夫編『澤田節蔵回想録』など)。

 最初の公式訪問国はイギリスで、その最初の公式行事は戦没者追悼記念碑セノタフへの御拝礼、次がウェストミンスター寺院にある無名戦士の墓への参詣だった。お名前が金字で押され、紅白のリボンのついた花環を捧げられ、深々と拝礼されると、沿道から歓声と拍手がわき上がるなど、皇太子が大歓迎を受けたことを「タイムズ」などが報道している。


▽2 教科書とされたジョージ5世

 昭和天皇にとって、大英帝国は帝王学の生きた教科書だった。

 イギリス御到着の夜、バッキンガム宮殿で催された晩餐会で、国王ジョージ5世は第1次大戦中の日本軍の行動に謝意を率直に表明し、皇太子を「われわれの友人」と呼んだ。

 イギリス御訪問に続き、西部戦線を指揮したフランスのペタン元帥の案内で訪れた大戦の激戦地の傷跡は皇太子に深い印象を与えた。広漠たるヴェルダンの戦跡には死臭が漂っていた。

 皇太子は戦死者の墳墓に花環を供えられ、破壊された砲台やいわゆる銃剣塹壕、焼失した森林などを視察されて、「戦争というものはじつにひどいものだ」ときわめて真剣に語られた(二荒芳徳・澤田節蔵『御外遊記』)。

 皇太子は2年後、今度は日本で、関東大震災で焦土と化し、死臭ただよう東京の街を目の当たりにされた。翌年、大震災1周年に「2分間の黙祷」が捧げられたが、それは第1次大戦休戦1周年にジョージ5世がイギリス国民に呼びかけ、実施された「2分間の停止(沈黙)」に酷似していた。

 昭和54年の会見で、昭和天皇はジョージ5世との交流に言及されている。

「イギリスの王室はちょうど私の年頃の前後の人が多くって、じつに私の第2の家庭ともいうべきような状況であったせいもあって、イギリスのキング・ジョージ5世がご親切に私に話をした。その題目は、いわゆるイギリスの立憲政治のあり方というものについてであった。そのうかがったことが、そのとき以来、ずっと私の頭にあり、つねに立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていた」(高橋紘『昭和天皇発言録』)

 御訪欧から7年後の昭和3年、張作霖爆殺事件の首謀者の処罰をめぐって、昭和天皇が田中義一首相にきびしく辞職を迫り、内閣が総辞職したことがあった。このときイギリス式の「君臨すれども統治せず」を理想とする元老西園寺公望は「ご自分の意見を直接、表明すべきでない」と陛下を諫(いさ)め、それ以後、天皇は内閣に対して拒否権を行使なさらなくなったとされる(『昭和天皇独白録』)。

 キリスト教文化やイギリス型立憲君主主義は今上陛下にも引き継がれている。皇太子時代の家庭教師、東宮御教育参与、彼らを抜擢した宮内庁長官、海外御訪問に随行した侍従長らはすべてキリスト者であり、皇后陛下もカトリックの学校教育を受けられ、皇室に入られた。


▽3 戦時中、存続したキリスト教儀礼

 今日、日本のキリスト教指導者たちは戦前の「国家神道」時代に「弾圧と迫害」があったという歴史批判を展開しているが、事実はまったく異なる。

 きっかけとされるのは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件で、配属将校の引率で学生たちが靖国神社まで行軍したとき、カトリック信者の学生が参拝しなかったことから、マスコミを巻き込んで大騒動に発展したとされている。

 ところが渦中にいた学長補佐は、このとき陸軍当局者と次のような会話を交わしたと回想しているのだ(『上智大学創立60周年──未来に向かって』)。

「陛下が参拝する靖国神社にカトリック信徒が参拝しないのは不都合ではないか?」
「閣下の宗旨は?」
「日蓮宗です」
「それなら本願寺や永平寺に参拝しますか?」
「他宗の本山には参りません」
「しかし陛下は参拝されます」
「僕の書生論は取り消します」

 これは迫害とはいえない。けれどもカトリック信徒にとっては、唯一神信仰に反する異教崇拝は許されず、深刻な信仰問題を提起した。しかしバチカンは信徒の靖国参拝を愛国的行為として容認し、戦後も追認している。事件それ自体も宮様師団長の「どうなっているのか?」の一声で急速に解決したという。

 当時のカトリック新聞は、弾圧・迫害どころか、皇室がいかにキリスト教の社会事業を物心両面で支えていたかを伝えている。開院したばかりの病院を支援するために開かれたチャリティーコンサートに、朝香宮など皇族4殿下がご出席になり、盛況をきわめたというニュースが載り、貞明皇后は御殿場のハンセン病療養施設にたびたび下賜されたことが伝えられている。

 やがて時代は戦時体制下に入っていくのだが、教会がおかれていた現実を考える上で注目される記事が16年元日の朝日新聞に載っている。前年秋に設立された神祇院が「国礼の統一」の一環で「黙祷廃止」を検討し始めたのである。

「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた1分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と2拝2拍手1拝の礼式を国礼として制定する意向」だった。

 国民儀礼としての黙祷は、先述したように、第1次世界大戦休戦1周年にイギリスのジョージ5世が呼びかけ、世界に広まり、日本では皇室が大震災1周年に黙祷を捧げられ、浸透していったという経緯がある。このため黙祷が外来文化に由来するという歴史的理解は波紋を呼び、とくに仏教界は心中穏やかではなかった。インド・中国から伝来した仏事も、同様の論理で排除されかねないからだ。

 しかし結局、黙祷は継続した。関係機関が協議し、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」との見解がまとまり、従来通り靖国神社の祭典などで捧げられた。

 戦前・戦中期に、宗教的受難を経験したのは、むしろ皇室であり、神道人ではなかったか? 天皇機関説を軍部などが猛攻撃するのに昭和天皇は異を唱えられていたし、もっとも代表的神道人である神宮奉斎会長今泉定助は、天照大神信仰に統一する合理主義的神道論を正統とする東條内閣によって発禁処分を受けた。


▽4 神格化を嫌われた昭和天皇

 敗戦の翌年、昭和21年元日に「新日本建設に関する詔書」が発せられた。昭和天皇は、天皇を現御神(あらみかみ)とするのは架空の観念だと述べられ、ご自身の神性を否定された「人間宣言」と一般に理解されているが、どうもそうではない。

 天皇は昭和52年の会見で「(冒頭に五箇条の御誓文を引用したことが)じつは、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした」「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった」と述べられている。

 そもそも天皇=現人神(あらひとがみ)という考え方自体、正統的とはいいがたい。

 詔書作成に関わった当時の侍従次長木下道雄は「予はむしろ進んで天皇を現御神とする事を架空なる事に改めようと思った。陛下も此の点は御賛成である」と記録している(『側近日誌』)。戦前、文部省が編纂した『国体の本義』は「天皇は現御神であらせられる」と明記したが、昭和天皇は神格化を嫌っておられた。

 遠く第42代文武天皇即位の宣命には「現御神と大八嶋国(おおやしまのくに)しろしめす天皇」とあり、公文書の形式を示す公式令(養老律令)は「明つ神(あきつかみ)と御宇(あめのした)しらす日本の天皇」などと例示しているが、「現御神と」は「しろしめす」にかかる連用修飾語であり、本来は本居宣長らが解説したように「現御神のお立場で」の意味と解される。

 ところが近代の知識人は一様に、現御神=天皇と解釈するようになった(佐藤雉鳴『神道指令・日米の錯誤』)。絶対神に正統性の根拠を置き、国王を地上の支配者と考えるヨーロッパ王室の影響ではなかったか?

 今日、反天皇制の立場に立つキリスト者は少なくないが終戦直後は逆だった。賀川豊彦はマッカーサーに面会し、天皇制存続を進言した。上智大学のビッテル神父は極東裁判のキーナン検事に何度も面談して昭和天皇訴追の断念、天皇制の存続を認めさせたといわれる(『マッカーサーの涙』など)。

 昭和天皇とキリスト者たちとの心温まるエピソードも伝えられている。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』などによると、戦後の御巡幸で神戸女学院にお立ち寄りになり、昼食をとられたあと陛下がご出発のため玄関に姿を現されると、生徒たちが「祖国」と題する讃美歌を歌った。「わが大和の国をまもり あらぶる風をしずめ 代々やすけくおさめ給え わが神」

 清らかな歌声は心を打たずにはおかなかった。陛下はポーチにお立ちになったまま動かれない。讃美歌は2度、3度と繰り返され、そのうち歌声はくもり、生徒たちの頬に涙が伝わりはじめた。陛下の目にも光るものが浮かんできた。大金は「この親和、この平和の境地」と書き記している。

 大正期、貞明皇后が九州行啓の途中、職員一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校ではこれを受けて、懸賞論文「地久節論文」の基金を設立した。学校を創設したアメリカ人女性は西洋かぶれを排し、「キリスト教魂をもつ日本風の女性」を育てることを教育目標としていたといわれ、それだけ生徒たちの皇室崇敬の気持ちは強かったと伝えられる。


▽5 日蓮宗開宗700年への思召し

 ならば仏教の外護者(げごしゃ)としてのお立場は失われたのか、といえばそうではない。

 たとえば、昭和27年は日蓮宗開宗700年に当たっていた。特別の法要が大本山清澄寺と総本山身延山久遠寺で営まれることをお聞きになった昭和天皇は、きわめて異例なことに、久遠寺に御香華料として金一封を賜り、勅使を開闢会(かいびゃくえ)に差遣された。

 勅使は思召しを日蓮宗総監に伝えたという。「今回、とくに香華料を賜ったのは宗祖立正大師の『立正安国』の精神に対してである。安国の基はまったく立正である。立正なくして安国はない。当時も国家乱れて綱紀麻のごとく、朝威地に墜ちて有史以来の暗黒時代であったが、今日はそれ以上であるというも過言ではない。立正安国の精神の発揚を待つやじつに切なるものがある」(石川泰司『近代皇室と仏教』)

 皇室唯一の菩提寺たる泉涌寺(せんにゅうじ)は戦後、政教分離を定める日本国憲法の施行によって、従来のように宮内庁から国費を受けられなくなり、経済的困難に陥った。けれども一山のみで御寺の尊厳を保持することには限界があった。

 そこで昭和41年になって、国民による護持が呼びかけられ、三笠宮崇仁親王を総裁に戴き、佐藤喜一郎三井銀行社長を会長として、「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」が結成された。顧問には石坂泰三経団連会長、筑波藤麿靖国神社宮司、宇佐見毅宮内庁長官、三崎良泉妙法院門跡らが名を連ねた。

 設立総会で総裁宮は「皇室の代表としてお引き受けした。陛下に申し上げたところ、引き受けたら良かろうとのお言葉があった」と挨拶された(『三笠宮殿下米寿記念論集』など)。

 皇室の女性たちはとりわけ篤い信仰の持ち主だったらしい。法華経を「信仰より最上のものとして考へをりたる」と語られた貞明皇后の柩には、皇族方が半紙に「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」と浄書され、紙縒りにして納められた。

 秩父宮雍仁親王の場合は、南無妙法蓮華経の7字が半紙に認められ、柩に納められた。親王は遺書に「遺体を解剖に伏す」「火葬にする」「葬儀は無宗教で」と綴られた。「遺志を尊重するように」との昭和天皇の勅許を得て、一般告別式は無宗教で執行された。

 高松宮宣仁(のぶひと)親王が薨去されたときは皇族方が写経された般若心経が納棺された(前掲石川著書)。


▽6 「無神論者」長官による祭祀改変

 歴代天皇と同様、宮中祭祀を重んじられた昭和天皇であるが、昭和40~50年代、天皇の祭祀は藩屏(はんぺい)たるべき側近によって蹂躙された。決定的だったのは50年8月15日、宮内庁長官室会議での一方的な改変決定であった。

 最大の変更は、平安時代に始まる石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なるとされる毎朝御代拝である。以前は天皇に代わって側近たる侍従に潔斎のうえ、烏帽子・浄衣に身を正させ、宮中三殿に遣わし、外陣(げじん)で拝礼させていたのだが、「庭上からモーニングで」(入江日記)と変更された。「侍従は公務員だから宗教に関与すべきでない」とする政教分離原則への配慮とされる。

 改変の中心人物は富田朝彦次長(のちの長官)だった。いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自認していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かったという。富田による変更はいまに尾を引いている。

 世間では「皇室はキリスト教化されているのではないか」「新興宗教の信者が側近に登用されている」との危惧の声があるが、現実ははるかに先を進んでいる。

 古来、多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になって一神教世界の文化を受け入れて以降、多元主義と一元主義との抜き差しならない相克に身もだえしている。挙げ句の果てが政教分離主義による宮中祭祀の改変である。

 さて、本論のテーマ、昭和天皇ご自身の信仰である。

 会見で「どんなテレビ番組をご覧になりますか?」と質問された陛下は、「放送会社の競争がはなはだ激しいので」とユーモアでかわされた。贔屓(ひいき)の力士の名を聞かれても、明らかにされなかった。とすれば「どんな信仰をお持ちですか?」とお尋ねしてもお答えにはなるまい。

 そもそも「天皇に私なし」である。だとすると、歴代天皇が仏教に帰依されたのはなぜなのか、天皇が信仰された仏教とは何だったのか、を問い直す必要がある。

(一部敬称略。参考文献=拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』など)
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