SSブログ

「答礼」として始まった!?天皇の外国御訪問 ──高橋紘『人間 昭和天皇』を読む [皇室外交]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年2月17日)からの転載です


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「答礼」として始まった!?天皇の外国御訪問
──高橋紘『人間 昭和天皇』を読む
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 戦後随一の皇室ジャーナリストと思われる、といっても、皇室ジャーナリズムなどというのは、戦後にしか存在しないのだが、共同通信の皇室担当記者だった高橋紘さんの著書に、総ページ1千ページを超える『人間 昭和天皇』上下2巻(2011年)がある。

 高橋さんは私を皇室報道の世界に導いてくれた恩人の1人で、この本は「昭和天皇の語り部」ともいわれた高橋さんが、最晩年、ガンと闘いながらまとめ上げた、記者人生の集大成というべき一冊である。
koukyo01.gif

▽1 臨時代行法の成立

 下巻の第11章に「皇室外交」が取り上げられている。

 それによると、始まりは1960年代だった。

 当時、皇太子殿下(今上陛下)はアメリカや中東、アフリカ、南アジアを、昭和天皇のご名代として、また国賓来日の答礼として訪問され、大歓迎された。

 けれども、天皇は憲法上、外国には行けない仕組みになっている。ご不在中、たとえば首相任命、国会召集の事態が持ち上がっても、対応できないからだ。

 そこで昭和39年になって臨時代行法がつくられた。代行法は天皇の外国御訪問を視野につくられたと高橋さんは書いている。


▽2 高松宮妃の働きかけ

 しかし、実際のご外遊はずっと遅れる。観光目的の海外旅行が庶民にも開かれたのは44年だが、その翌年、歯車が動き出した。

 最初に天皇ご外遊を働きかけたのは、高松宮妃殿下だという。

 昭和45年4月、大阪万博を機に来日したベルギー国王の弟アルベール殿下に、愛知揆一外相主催の晩餐会の席上、妃殿下がこう語りかけたというのである。

「天皇陛下は皇太子時代に欧州訪問されたが、皇后陛下は海外にお出かけになったことがない。ベルギーの国王陛下は6年前、来日されたが、その答礼という形で、国王陛下からの招待状を天皇陛下に送っていただけないか」

 あくまで「答礼」としての天皇ご外遊なのだった。

 妃殿下は吉田茂元首相にも働きかけられ、佐藤栄作首相の周辺で話は進んでいき、翌年2月23日、ご外遊が閣議決定された。9月27日から18日間のご日程で、ベルギー、イギリス、西ドイツを公式訪問し、非公式にデンマーク、スイス、フランス、オランダを訪問されることとなった。


▽3 閣僚にも極秘扱い

 計画は極秘に進められた。そのことは『佐藤栄作日記』に明らかだと高橋さんは指摘する。

 福田赳夫蔵相が佐藤首相から知らされたのは閣議決定のじつに5日前、昭和46年2月18日だった。宮内庁を所管する山中貞則総務庁長官にはその翌日で、「極秘を守ること」が条件だった。

 実際、『佐藤日記』を読んでみよう。

「2月18日 木 (二木会の)帰途、福田蔵相と同車し、陛下の御外遊をはじめて話する。二十三日発表の予定だからひと言一般より早く話しておく必要があるので話したが、山中総務長官にはまだ話さない。明日耳打ちするするつもり」

「2月19日 金 山中総務長官に両陛下の御外遊の件をもらす。しかし極秘を守ることと閣議前に話する」

「2月23日 火 閣議で両陛下の御外遊を決めたので、保利官房長官が各党へ挨拶に回り、各党ともいい感じを持ってくれた様子」

 政府内でも極秘扱いだったのだ。


▽4 「答礼」が大義名分

 さすがに宮内庁へは早くから相談があったらしい。

 高橋さんは入江相政侍従長の『日記』を引用している。前年45年12月の日記によると、長官室で会議がもたれたという。

 これも『日記』を読んでみると、次のように書かれている。

「12月2日(水) 曇 頗寒……1時から長官室で(式部)官長、(宮内庁)次長、予の4人で会議。御外遊についてのもの。イギリスから明年10月4日から21日までの間よしとのこと。あとベルギー、ドイツ、フランス、オランダなどをどう入れるかでいろいろ話し会う。2時まで」

 主要閣僚にも知らされないまま、計画は数か月前に決まっていったのである。

 そして、御訪欧の大義名分は、繰り返しになるが、「答礼」だった。


▽5 御訪欧先行の理由

 高橋さんは、「天地開闢以来」(宇佐美長官)の御外遊がアメリカぬきの御訪欧が先行したことについて、なぜかと問いかけ、三つの理由を挙げている。

 1つは「答礼」御訪問を名目としたことだった。

 昭和38年には西ドイツの大統領夫妻が来日し、翌39年にはベルギー国王夫妻が、国賓として来日していたが、日本側の答礼はなかった。イギリス女王の来日も予定されているという情報もあった。

 もうひとつは、答礼が名目なら天皇の政治利用ができないと考えられたからだという。

 宇佐美毅長官は皇太子御訪米の際、岸信介首相の政治利用にはめられたという苦い経験があるというのである。それで国会答弁でも「答礼」で押し通された。

 3つ目は、アメリカとの戦争の記憶が重く、時期尚早と考えられたからだという。


▽6 なぜ天皇の御外遊なのか

 高橋さんはなぜ御訪欧先行なのかと問いかけたのだが、どういうわけか、なぜ外国御訪問なのかとは問いかけていない。

 論理的に考えれば、「答礼」としての外国御訪問なら、皇太子殿下のご名代でも不足はないはずである。なぜ天皇の御外遊なのか。

 問題は憲法である。

 高橋さんが指摘しているように、「天皇は外国に行けない仕組みになっている」だけでない。憲法が規定する国事行為はすべて内向きであって、皇室外交を予定していないのである。憲法7条が規定するのは、日本大使の認証、外国大使の接受にとどまる。

 憲法の規定を重視するなら、もともと外国御訪問の計画を議論する余地はない。

 政府が「答礼」という受け身の行為にこだわったのは、国事行為に何ら規定がないことの裏返しである。

 それでも、御外遊が実施され、いまや国民もメディアも相手国も受け入れ、歓迎している。

 つまり、当時から「天皇は大使100人分の働きをなさる」といわれ、それは今回のフィリピン御訪問でも立証されたのだが、制度的に万全とは言いがたい。


▽7 象徴天皇制の変質

 外国御訪問に意義を認めるのならなおのこと、そもそも陛下のご公務、お務めとは何かを整理し直すとともに、憲法の法的不備をただすことが求められているのではあるまいか。

 国事行為臨時代行法があるから、天皇の御外遊が認められるという論理はどう見ても本末転倒であろう。

 高橋さんは、戦争・敗戦を経て、日本国憲法の施行によって、天皇は「大元帥から象徴」に変わったというお考えだが、憲法の国事行為ではない外国御訪問をなさる天皇はもはや現行憲法的な象徴天皇とは言いがたい。

 むろん、神功皇后の三韓征伐は別として、「空飛ぶ天皇」は近代以前にはなかったことであり、御外遊は皇室の伝統でもない。

 現行憲法下で、現行憲法が規定する象徴天皇制それ自体がすでに変質しているということではないのか。

 憲法9条に関しては一歩たりとも譲らないという論理を展開している憲法学者たちは、憲法第1章の変容をどう考えるのだろうか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。