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宮中祭祀廃止論も廃止反対論も前提は変わらない ──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その3 [竹田恒泰]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年5月1日)からの転載です

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宮中祭祀廃止論も廃止反対論も前提は変わらない
──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その3
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▽1 天皇=「単なる祭り主」論

 伝統主義的天皇論の進化を心から願いつつ、現代を代表する伝統主義者の1人と思われる竹田恒泰氏の天皇論をあえて批判しています。前回は、天皇の祭祀が皇祖神にのみ捧げられるものではない、と指摘しました。
皇居二重橋.jpeg
 そのようなことは、問われてみれば、おそらく竹田氏にとっては常識の範囲かと思われます。ところが、その意味が案外、見過ごされているということではないでしょうか。

 天皇が皇祖神のみならず天神地祇を祀り、祈りを捧げてきたことが、国民を精神的にひとつに統合する天皇のお役目とつながっている。その意味を確認し、理解が深められなければ、天皇は単に祭りをなさる存在としか映りません。

 竹田氏の天皇=祭り主論は、「単なる祭り主」論ではないはずです。竹田氏が再三引用している葦津珍彦はもちろんその立場ではありません。

 天皇が祭りをなさるということはいかなる意味を持つものなのか、そこが重要であり、そのためにあらためて天皇の祭祀の中身を見つめ直す必要があると考えます。

 ところが、これがまた意外に難しいのです。

 天皇の祭りは衆人環視のもとで行われるわけではありませんし、メディアも多くを報道しませんから、伝えられる情報は限られているからです。


▽2 「宮中祭祀を知らない」のではない

 以前、大学生を対象とした講演会で、「天皇の祭りと聞いて、何をイメージしますか?」と質問したところ、「浅草の三社祭」という正直な返事が返ってきました。

 祭りといえば、多くの場合、氏子らが神輿を担いで練り歩く神賑わいが思い起こされます。けれども、天皇が神輿を担がれるはずはありません。

 天皇の祭りの実態が広く知られないだけではありません。現代人にとって、神祭りそれ自体が縁遠い存在となっているのではないでしょうか。

 竹田氏の共著の第二章は原武史氏の宮中祭祀廃止論を批判することが目的とされているようです。原氏は雑誌記事などで、もはや農耕社会ではない現代において、農耕儀礼である宮中祭祀の廃止を検討したらどうか。皇太子は格差社会の救世主として行動すべきだ、と提案したのでした。

 竹田氏は、原氏を「恐らく宮中祭祀のことを何もご存じではない」と批判していますが、天皇の祭りを知らないのではありません。

 もし原氏が、代々、氏神様の氏子総代を務める旧家に生まれ育ち、ご自身、お神輿をかつぐのが大好きで、祭りを通じて共同体が一体化することを体感できる人だったら、どうでしょう。おそらく祭祀廃止論など言い出さなかったではないでしょうか。


▽3 宗教伝統そのものを知らない

 宮中祭祀廃止論は、東京郊外の団地を転々と移動し、それゆえ氏神の意識を持たず、地域共同体の存在を実感してこなかっただろう、原氏ならではの発想と思われます。

 しかし、地域の祭りに参加する機会を失っているのは、原氏に限ったことではないでしょう。現代の日本人は定住農耕民ではなくて、遊牧民化しているからです。

 今日、国民の多くは転勤を日常的に繰り返すサラリーマンです。20年も前のデータですが、ある研究者によれば、1人平均2.75回の移動を経験するそうで、しかも原氏のような高学歴者ほど移動回数が多いようです。

 土地に根付いた氏神信仰、氏子集団による祭礼を経験できる人はもはや少数派なのです。これも古いデータですが、一生を同じ土地で暮らす日本人は4人に1人もいないそうです。

 伝統主義を成り立たせる前提が失われているのです。

 皇室の伝統を知らない皇室研究者が皇室の伝統の廃止を提起したのではなくて、日本の宗教伝統を知らない研究者が伝統の廃止を提起したのです。

 けれども伝統を知らないのは、原氏だけではなくて、雑誌記事などを企画した出版社の担当者も、原氏の主張に共感した読者も同じなのだろうと想像されます。

 だから、深刻なのだと思います。議論がかみ合わないのは当然なのです。


▽4 農耕儀礼でも稲作儀礼でもない

 原氏の宮中祭祀廃止論では、前提として、天皇の祭りは農耕儀礼だと理解されています。けれども現代は農耕社会ではない。だから、時代遅れの祭祀は廃止を検討すべきだという論理です。

 これに対して、竹田氏は、稲作信仰とお考えのようです。古代から連綿と続く、稲作の伝統にもとづく儀礼だから、廃止などもってのほかという論理となります。

 原氏にしても、竹田氏にしても、私から見れば、前提は大して変わりません。前提が同じなのに、それぞれの判断基準によって結論は異なる、それだけです。

 農耕社会にもとづく天皇の儀礼が、バリバリの現代人である原氏の思考回路を通ると廃止論になり、伝統を重んじる竹田氏の物差しでは廃止反対論になるのです。

 しかし、お二方の前提は正しいのでしょうか。私は間違いだと思います。天皇の祭りは農耕儀礼でも、稲作儀礼でもありません。

 農耕儀礼や稲作儀礼だというのなら、特定の宗教儀礼ということにもなり、政教分離原則に抵触するという解釈も成り立ちます。

 政教分離に違反しないのは、原氏がいうような「農耕儀礼」でも、竹田氏がいうような「稲作儀礼」でもなくて、葦津がいうように「国民統合の儀礼」だからではないのですか。

 そのことについては次回、具体的に考えることにします。

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