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O先生、政教関係は正されているのですか ──政教分離問題への素朴な疑問 [政教分離]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2016.9.4)からの転載です


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O先生、政教関係は正されているのですか ──政教分離問題への素朴な疑問
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 ご無沙汰しています。

 先日は久しぶりに、先生が代表をお務めになる研究会に顔を出させていただきました。お元気そうなお姿を遠くから拝見しましたが、ろくに挨拶もできず、失礼しました。

 さて、折り入って先生に手紙を書こうと思い立ったのは、会の現状に素朴な疑問を感じざるを得なかったからです。


▽1 靖国訴訟の勝利を喜べるのか

 先般の研究会では、いつものようにまず、最近の靖国訴訟の事例報告がありました。報告にありましたように、反靖国派が仕掛ける裁判闘争それ自体はめっきり少なくなり、判決も軒並み合憲判断で、連戦連勝です。めでたいかぎりです。
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 しかし本当に喜んでいい状況なのでしょうか。私が報告のあと質問したのも、そこに大きな本質論的疑問を感じたからです。原告が敗訴したのは誰の目にも明らかですが、被告の国・靖国神社もまた裁判に勝っていないのではないか。

 葦津珍彦先生がご存命のころ、J本庁は靖国神社の国家護持運動を熱心に進めていました。靖国神社の歴代宮司には「いずれ神社を国にお返ししたい」と明言なさる方もおられました。その実現は近づいたのでしょうか。

 先日の研究会にはJ本庁や靖国神社の責任ある立場の方々も参加されていたようですが、勝訴が続いていることを手放しで喜んでおられるのかどうか、私は知りたいと思いました。現状が続けば国家護持の展望が開けると思うのかどうか。

 ところが、若い司会者は何を思ったか、「趣旨が違う。懇親会の場で聞け」と私の質問を遮りました。いったい何がどう「趣旨が違う」のでしょう。

 葦津先生が主導してスタートした先生の研究会は、日本の政教関係そのものを正すことが唯一最大の目的のはずです。政教訴訟を正すことが目的ではないし、まして単なる学会ではないでしょう。

 私としては、会にとってもっとも本質的な問いかけのつもりでしたが、残念なことに司会者には「酒飲み話」にしか聞こえなかったようです。私は苦笑するほかはありません。葦津先生を直接知っているのはたぶん私が最後の世代でしょうから、若い司会者には、私の問いかけなど理解できないのかも知れません。

 いやもしかしたら、司会者だけではないかも知れません。


▽2 本質的解決より現実的妥協

 その後、研究会は進み、被災地の復興に奮闘している神職による生々しい事例報告があり、さらにフロアの老名誉教授からの発言、これを受けて神職のコメントが続きました。それを聞いて、私はなるほどと合点しました。

 神職は2点、指摘しました。(1)現在の政教関係には正されるべき問題点があると重々承知していること、(2)しかし現実の世界では実利を得るために行政との妥協が求められていること、の2点です。

 一点目についてはウンウンと大きくうなずいていた老教授が、二点目についてはまったく対照的に、頭を何度も左右に振っていたのが、私にはじつに印象的でした。

 そうなのです。本質的解決がいっこうに進まないために、現実の世界では厳格主義を脱せない行政との苦渋の妥協を模索せざるを得ないのです。これが今日の政教関係の最大の問題です。そして現実的妥協がまた本質的解決への道を阻むという悪循環です。妥協によって実利が得られるなら、無理を重ねて本質的解決を図る必要はないからです。

 その典型例が、1日も早い復興が要求されつつ、なかなか進まない被災地です。被災地での政教分離問題は、行政の厳格主義と妥協しつつ、支援を引き出すハウツー問題になっています。それこそが政教分離問題の解決が進んでいないことの何よりの証明で、現場では本質的解決より現実的妥協を選択しているのです。

 それでいいのですか、と私は問いかけているのです。


▽3 日航の代表者は私人なのか

 最大のネックはもちろん靖国訴訟です。

 合憲判決を得た国・靖国神社はけっして裁判に勝ったとはいえません。本質的解決が少しも図られず、現実的妥協に満足させられているだけです。靖国神社は「特定の神社」と位置づけられたままで、首相参拝も「私人の参拝」です。勝ったことにはなりません。

 勝者がいるとすれば、靖国神社国家護持を「悪企み」と思い込み、これを結果的に阻むことに成功している反靖国派でしょう。彼らは記者会見では「不当判決」と叫びつつ、それこそ懇親会の場では勝利の美酒に酔いしれているかも知れません。

 勝ったつもりの靖国派はじつは負けているのです。

 それにしても、なぜこんな無様な裁判が続いているのでしょうか。

 たとえば、マスコミを湧かせた中曽根首相の公式参拝は「終戦40年」昭和60年の終戦記念日で、その3日前、日航ジャンボ機墜落事故が起きました。

 今年も群馬県上野村で追悼慰霊祭が行われ、遺族のほか日航関係者も参列しましたが、首相の靖国神社参拝は「私人の参拝」と強弁する人たちは、日航関係者の参列もまた私的立場であるべきだと考えるでしょうか。遺族はそれで満足し、メディアはこれを容認するでしょうか。

 どう考えても、常識に反します。

 ネックは「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法ですが、靖国神社は戦死者に対する国家的祭祀を行う国家的祭場であり、国の代表者が公的資格で参拝し、あるいは例大祭に参列することは国として当然の責務であり、むろん憲法にも違反しないという法理論を立てることは可能なはずです。なぜそうしないのですか。


▽4 靖国参拝を認めたバチカン

 たとえば、明の時代に中国宣教を開始したカトリックのイエズス会は、一見、唯一神信仰に反する、皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認め、それによって中国宣教は大成功し、宣教師は高級官僚ともなりました。

 この適応政策はその後も引き継がれ、昭和11年にはバチカンは、靖国神社の儀礼は宗教儀礼ではなくて国民的儀礼であり、信徒が参加することは国民の義務だと判断し、許しています。戦後も同じです。

 今日、カトリック信徒の内掌典が陛下の祭りを奉仕していると聞きますが、これも信教の自由に反しないという宗教的確信があるからでしょう。たとえ異教儀礼に由来するとしても、国家的・国民的儀礼なら唯一神信仰に反しないという判断です。

 とするなら、首相の靖国参拝が国民の信教の自由を侵すことはあり得ません。

 ところが、現実妥協路線の裁判は、周辺諸国の批判も相まって、国家機関としての首相参拝を遠ざけています。その一挙手一投足が話題となる「極右」政治家は、首相就任後は、堂々と参拝するどころか、靖国神社を避け、千鳥ヶ淵墓苑や防衛省内のメモリアルゾーンを戦没者追悼の場に選んでいます。そして逆に、靖国神社は私的信仰の対象とされています。話はまるで逆なのです。

 私も遺族の1人ですが、国に一命を捧げた戦没者やその遺族はこれで満足すると先生はお考えですか。

 先生が代表をお務めになっている会の存在はたいへん貴重です。葦津先生の慧眼には敬服するばかりです。であればこそ、会がその目的を十分に果たしているのかどうか、あらためてお考えいただけないでしょうか。


▽5 シンクタンクの設立を

 政教分離が本質的に問われているのは、靖国問題だけではありません。にわかに国民的議題として浮上してきた皇室の御代替わりについても同様です。

 前回の御代替わりでは、政教分離がネックとなり、さまざまな不都合がおきました。いまのままでは同じことが繰り返されるでしょう。

 とくに心配されるのは大嘗祭です。少なくとも宮中祭祀は「皇室の私事」などという法理論が大手を振るうようなことがないようにと願っています。これも大嘗祭が国家的儀礼ではなくて、稲作社会の収穫儀礼という宗教的に解釈するところに誤りの原因があります。靖国問題と構造はまったく同じです。

 葦津先生がそんな理論に心底から満足していたとは思えません。

 それならどうすればいいのか、私は政教問題、靖国問題、あるいは皇室問題を総合的に研究し、発信する常設のシンクタンクを設立できないかと願っています。先生の会を発展させるのも1つの案となるでしょう。

 先生の会は残念ながら、いつの間にかJ本庁周辺の集まりになっているようにお見受けします。けれども、もともとの葦津先生の理想はもっと広範囲の英知を結集することにあったと思います。そしていまそれが必要なのではないでしょうか。

 葦津先生は「学問は1人でするものではない」と仰せだったと聞きます。心から求められるのは共同研究であり、そのため葦津先生に代わって、シンクタンクをアレンジしてくれるプロデューサーの存在です。

 そして皇室問題に世間の耳目が集まっているいまは、1つの大きなチャンスです。

 いかがでしょうか。ご一考いただければありがたいです。

 ご多忙のところ、最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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