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天覧に浴した井上の喜びと教科書構想が破れた芳川の落胆 ──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 3 [教育勅語]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2017年4月20日)からの転載です


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天覧に浴した井上の喜びと教科書構想が破れた芳川の落胆
──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 3
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 井上哲次郎の『勅語衍義』(明治24.9)に関するふたつ目の疑問は、私著なのか、それとも教科書なのか、である。

『明治天皇紀』巻7には「私著として上梓」されたと記録されている。ところが、文部省が編集・監修した『学制百年史』(昭和56.9)はそうではなくて、「師範学校・中学校の修身教科書として使用された」と記述する。

 いったいいずれが正しいのか。もし前者が正しいなら、なぜ教科書にならなかったのか、その間、何があったのか。

 それで、ひきつづき『教育勅語衍義釈明』(昭和17)の「釈明」第二節「草案完成」を読むことにする。
井上哲次郎『釈明教育勅語衍義』@NDL


▽「私著として公刊して可なり」

 井上によると、書名は『勅語衍義』と決まったが、草案作成がはかどらず、数か月を要した。ようやくできあがった稿本は多くの知識人の校閲を受けた。

 井上は中村正直(啓蒙思想家)、加藤弘之(政治学者)、井上毅(法制局長官)、島田重礼(儒学者)らのほか、西村茂樹(啓蒙思想家)、重野安繹(やすつぐ。漢学者)、小中村清矩(きよのり。国学者)らにも意見を求めたらしい。芳川顕正文相や文部官僚の江木千之(えぎ・かずゆき。のちの文相)らは稿本を見て、付箋を貼り、意見を述べたという。

 とくに意見が合わなかったのが井上毅らしい。

「なおここに付け加へておきたいことは、井上毅氏は自分ならばもっと簡単な註釈にするであらうといって約10枚ばかりの見本を作ってみせたが、どうもそれは形式的なもので、いっこう精神の躍動してゐない文章であったから、自分一見して顧みなかったが、芳川文相もこれではならぬといって撥ね付けた。さういふこともあった」

 井上哲次郎の『衍義』はやたらと長いから、井上毅が「もっと簡単」にと意見したとしても十分、理解できる。けれども、哲次郎がわざわざ毅の固有名詞を出して回想するからには、よほど腹に据えかねるところがあったのかも知れない。だが、文相をも巻き込んだこの一件は、「撥ね付けた」では済まなかっただろうと想像される。

 井上哲次郎によれば、『衍義』の文義が定まったあと、内務大臣を経て、天覧の栄誉に浴することになった。お手許に留め置かれること一週間か10日、そして下賜された。天皇が目通しされたことは、哲次郎にとって喜びはひとしおだったろう。

「『教育勅語』の解釈は600余種にものぼってゐるやうであるけれども、天覧をかたじけなくしたのはひとりこの『勅語衍義』のみであった」

 しかし、である。手柄話では済まなかったのである。

「文相吉川氏より自分に、この書は私著として公刊して可なりと申し渡された。それでいくばくもなく自分の私著としてこれを公刊した次第である」

 結局、芳川文相が目的とした教科書とはならず、『衍義』は私著として公刊された。要するに、芳川文相の教科書構想は日の目を見なかったのである。天覧にあずかった哲次郎の喜ぶ顔と芳川文相の落胆の顔が同時に浮かんでくるのは皮肉である。


▽二人の井上の呉越同舟

 なぜ教科書ではなく、私著となったのか。『明治天皇紀』は「この書、修正の如くせば可ならん。しかれどもなお簡にして意を尽くさざらんものあらば、また毅と熟議してさらに修正せよと」という明治天皇の言葉を記録している。

 しかし井上哲次郎は「毅と熟議」どころか、「撥ね付けた」のであった。

 井上毅と井上哲次郎。二人の井上は求めるものが違っていた。毅が勅語の非宗教性、非哲学性、非政治性どころか、良心の自由をも追求したのに対して、哲次郎はドイツ風の愛国心の高揚を心に秘めていた。二人の呉越同舟が教科書への道を阻んだのではないか。

 結局、哲次郎は明治天皇の叡慮にも従わなかったことになるのだが、哲次郎自身がそのことを自覚していたように見えないのは不思議である。哲次郎には他者の批評が「たいていみなこれを削除したがよからうといふやうな消極的の意見」としか映らず、それでいて「いったんこの書を公刊したところが、部数はずいぶんたくさん発行され、幾万部幾十万部にか及んだ」と逆に勝ち誇っている。

 愛国主義的な解釈本が売れれば売れるほど、明治天皇の叡慮の実現は遠ざかっていったのかも知れない。解釈本は何百種とあるのに、芳川文相が構想した標準的な教科書は作れなかった。だとしたら、それだけで混乱は必至だろう。

 しかも教科書になり損ねた愛国主義的解釈の『衍義』がベストセラーになれば、ますます混乱に拍車がかかる。さらに、一方では勅語の捧読、奉安殿の設置と神格化が促進された。勅語の作成では宗教性が排されたのに、むしろ勅語それ自体が宗教的対象と化していくのである。

 戦後、教育勅語がきびしく批判される原因はここにあるのかも知れない。とすれば、井上の書はまさに『釈明』と題されるのに相応しい。だが、当の井上はどこまで自覚していたのだろうか。

 蛇足ながら、最後にもうひとつ付け加えたい。『勅語衍義』の著者自身が「私著」と断言しているのに、文部省がまとめた『学制百年史』はなぜ「師範学校・中学校の修身教科書として使用された」と記述しているのだろうか。新たな疑問である。
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