もっとも先駆的な記事 ──「女性宮家」創設の本当の提案理由 5 [女性宮家]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です
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もっとも先駆的な記事
──「女性宮家」創設の本当の提案理由 5
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以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋です。一部に加筆修正があります。
第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?
第5節 「女性宮家」創設の本当の提案理由──政府関係者はきちんと説明すべきだ
▽5 もっとも先駆的な記事

平成14年に書かれた森暢平氏の記事は、タイトルに「女性宮家」が含まれていましたから、国会図書館の検索エンジンでヒットします。
ところが、さらにこれより数年早く、「女性宮家」に言及しながら、記事のタイトルに「女性宮家」がないため、検索に引っかからない、先駆的な記事がありました。
総合情報誌「選択」平成10年6月号に掲載された「『皇室典範』改定のすすめ──女帝や養子を可能にするために」がそれです。
「皇族女子は結婚すれば皇族の身分から離れるが、これを改め天皇家の長女紀宮(のりのみや)が結婚して宮家を立てるのはどうか。そこに男子が誕生すれば、男系男子は保たれることになる」
いわゆる「皇統の危機」についていち早く指摘し、女性天皇容認を問題提起する、私が知るところ、もっとも先駆的な記事で、同時に皇室典範第12条を改正し、皇族女子が婚姻後も皇室にとどまれるようにする、いわゆる「女性宮家」創設をも提案していました。
ただし、「男系」と「女系」を混同する致命的な誤りを犯しています。最良のジャーナリズムでさえ、当時はこのレベルだったのです。あるいは、そのようにニュース・ソースから思い込まされていたのかも知れません。
「選択」の記事は政府内で非公式の第1期研究会が始まって、およそ1年後のことでした。「文藝春秋」の記事はそれから4年後です。書き手や媒体を選びつつ、政府関係者が情報を小出しにリークし、世論の反応をうかがっていたことが想像されます。
無署名のこの記事を書いたとおぼしき記者は、ほかに並ぶ者のいない、優れた皇室ジャーナリストで、じつをいうと、記者と私は、ほかならぬこの雑誌で、一時期、筆者と編集者という間柄でした。毎月のように酒を酌みつつ、企画を練り、新ネタを飛ばしたものです。共同で記事を書いたこともあります。いっしょに取材旅行をしたこともありました。
しかしこの記事のころから女性天皇・女系継承容認に急速に傾斜し、私とは疎遠な関係になりました。当時、宮内庁筋から積極的なアプローチがあったことは知っています。実際、どこから、どんな情報を得ていたのか、詳細を直接、確認したいところですが、残念ながら、もうこの世にはいません。私のこの本は、記者にこそ読んでほしいと思いますが、それがかなわないのはまことに残念です。
生前、男系・女系論争が白熱していたころ、久しぶりに顔を合わせる機会があり、記者が囁くように弁解していたのを覚えています。自分は編集者から与えられたテーマに沿って、取材で得られた客観的事実をリポートしているだけで、賛成も反対もない、というのです。
しかし、誰よりも早く一次情報に食い込んだ記者は、「女系継承容認のほかに、方法はないのか?」という問題意識が希薄で、取材は女系派にとどまり、そして取り込まれ、お先棒を担がされ、代弁者を演じ、偏向したのです。
記者は「客観性」を強調していますが、限界もそこにあります。天皇・皇室を論じるには、学んでも学びきれないほどの幅広い知識が求められます。あれほどの記者にして、取材対象を批判しうる主体性を確立できなかったのでしょう。
管理職となり、日常の業務に追われ、幅広い取材が時間的に困難になっていたこともあるのでしょう。二兎を追うものの定めです。「生涯一記者」を貫ける環境があれば、当時の論争はもっと別のものとなっていたかも知れません。残念でなりません。
記者をミスリードした編集者の責任も軽くはないと思います。同誌なら商業主義に走らない企画を立てられたはずです。私が編集を担当し続けていたら、と悔やまれます。
その後、記者は異様とも思える執着心で、女帝容認論を展開していきました。いや、異常な執念を燃やしたのはむしろ、記者と肝胆相照らした歴史家であり、情報を提供した政府の官僚たちだったのでしょう。
さて、阿比留瑠偉産経新聞記者によると、その後、15年5月から16年6月にかけて、内閣官房と内閣法制局、宮内庁による皇位継承制度の改正に向けた共同検討が実施されました。そして第2次小泉内閣(改造内閣)時代に、皇室典範有識者会議が16年12月に発足しますが、会議の最終報告書では「女性宮家」の表現は、なぜか消えました。
ともあれ、現在の「女性宮家」創設論が女性天皇・女系継承容認と同一の議論だとするならば、さまざまな謎は解けます。森氏が書いているように、女性皇族にも皇位継承権があることになり、当然、「宮家」を立てなければなりません。
しかし、だとすれば、そのように説明されてこそ、建設的な国民的議論は可能なはずです。渡邉允前侍従長(いまは元職)のように、当事者であるはずの宮内庁関係者が
「皇位継承問題とは別の次元の問題」
などと強調することなどあるべきではありません。
以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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もっとも先駆的な記事
──「女性宮家」創設の本当の提案理由 5
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以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋です。一部に加筆修正があります。
第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?
第5節 「女性宮家」創設の本当の提案理由──政府関係者はきちんと説明すべきだ
▽5 もっとも先駆的な記事

平成14年に書かれた森暢平氏の記事は、タイトルに「女性宮家」が含まれていましたから、国会図書館の検索エンジンでヒットします。
ところが、さらにこれより数年早く、「女性宮家」に言及しながら、記事のタイトルに「女性宮家」がないため、検索に引っかからない、先駆的な記事がありました。
総合情報誌「選択」平成10年6月号に掲載された「『皇室典範』改定のすすめ──女帝や養子を可能にするために」がそれです。
「皇族女子は結婚すれば皇族の身分から離れるが、これを改め天皇家の長女紀宮(のりのみや)が結婚して宮家を立てるのはどうか。そこに男子が誕生すれば、男系男子は保たれることになる」
いわゆる「皇統の危機」についていち早く指摘し、女性天皇容認を問題提起する、私が知るところ、もっとも先駆的な記事で、同時に皇室典範第12条を改正し、皇族女子が婚姻後も皇室にとどまれるようにする、いわゆる「女性宮家」創設をも提案していました。
ただし、「男系」と「女系」を混同する致命的な誤りを犯しています。最良のジャーナリズムでさえ、当時はこのレベルだったのです。あるいは、そのようにニュース・ソースから思い込まされていたのかも知れません。
「選択」の記事は政府内で非公式の第1期研究会が始まって、およそ1年後のことでした。「文藝春秋」の記事はそれから4年後です。書き手や媒体を選びつつ、政府関係者が情報を小出しにリークし、世論の反応をうかがっていたことが想像されます。
無署名のこの記事を書いたとおぼしき記者は、ほかに並ぶ者のいない、優れた皇室ジャーナリストで、じつをいうと、記者と私は、ほかならぬこの雑誌で、一時期、筆者と編集者という間柄でした。毎月のように酒を酌みつつ、企画を練り、新ネタを飛ばしたものです。共同で記事を書いたこともあります。いっしょに取材旅行をしたこともありました。
しかしこの記事のころから女性天皇・女系継承容認に急速に傾斜し、私とは疎遠な関係になりました。当時、宮内庁筋から積極的なアプローチがあったことは知っています。実際、どこから、どんな情報を得ていたのか、詳細を直接、確認したいところですが、残念ながら、もうこの世にはいません。私のこの本は、記者にこそ読んでほしいと思いますが、それがかなわないのはまことに残念です。
生前、男系・女系論争が白熱していたころ、久しぶりに顔を合わせる機会があり、記者が囁くように弁解していたのを覚えています。自分は編集者から与えられたテーマに沿って、取材で得られた客観的事実をリポートしているだけで、賛成も反対もない、というのです。
しかし、誰よりも早く一次情報に食い込んだ記者は、「女系継承容認のほかに、方法はないのか?」という問題意識が希薄で、取材は女系派にとどまり、そして取り込まれ、お先棒を担がされ、代弁者を演じ、偏向したのです。
記者は「客観性」を強調していますが、限界もそこにあります。天皇・皇室を論じるには、学んでも学びきれないほどの幅広い知識が求められます。あれほどの記者にして、取材対象を批判しうる主体性を確立できなかったのでしょう。
管理職となり、日常の業務に追われ、幅広い取材が時間的に困難になっていたこともあるのでしょう。二兎を追うものの定めです。「生涯一記者」を貫ける環境があれば、当時の論争はもっと別のものとなっていたかも知れません。残念でなりません。
記者をミスリードした編集者の責任も軽くはないと思います。同誌なら商業主義に走らない企画を立てられたはずです。私が編集を担当し続けていたら、と悔やまれます。
その後、記者は異様とも思える執着心で、女帝容認論を展開していきました。いや、異常な執念を燃やしたのはむしろ、記者と肝胆相照らした歴史家であり、情報を提供した政府の官僚たちだったのでしょう。
さて、阿比留瑠偉産経新聞記者によると、その後、15年5月から16年6月にかけて、内閣官房と内閣法制局、宮内庁による皇位継承制度の改正に向けた共同検討が実施されました。そして第2次小泉内閣(改造内閣)時代に、皇室典範有識者会議が16年12月に発足しますが、会議の最終報告書では「女性宮家」の表現は、なぜか消えました。
ともあれ、現在の「女性宮家」創設論が女性天皇・女系継承容認と同一の議論だとするならば、さまざまな謎は解けます。森氏が書いているように、女性皇族にも皇位継承権があることになり、当然、「宮家」を立てなければなりません。
しかし、だとすれば、そのように説明されてこそ、建設的な国民的議論は可能なはずです。渡邉允前侍従長(いまは元職)のように、当事者であるはずの宮内庁関係者が
「皇位継承問題とは別の次元の問題」
などと強調することなどあるべきではありません。
以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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