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宮家継承を予定しない幕引き役 ──何のための歴史論か 7 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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宮家継承を予定しない幕引き役
──何のための歴史論か 7
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 私は運動家ではありませんが、やむにやまれぬ思いから、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、ひとりで始めました。いまのままでは間違いなく悪しき先例が踏襲されるでしょう。同憂の士を心から求めるとともに、友人知人の皆様への拡散を切にお願いします。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第5節 何のための歴史論か──「女性宮家」創設論のパイオニア・所功京産大名誉教授


▽7 宮家継承を予定しない幕引き役
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 所先生のレジュメにまとめられた淑子(すみこ)内親王の事例は宮内省書陵部の資料からの抜粋でしょうが、ある程度、学術的な研究もあります。久保貴子昭和女子大学講師の「女性宮家と女性当主」(「歴史読本」2006年11月号)がそれです。

 以下、久保講師の文章を引用することにします。〈 〉内は私の補足です(以下、同じ)。

「〈文久元[1861]年〉12月に入って、淑子内親王は〈妹君の〉和宮が出立して空いた桂御所に入った。〈降嫁目前の和宮が要請し、天皇が命じ、幕府が承諾した〉新殿ができるまでの仮住居である。
 しかし、淑子内親王にとっては思いも掛けない展開が待っていた。翌文久2年10月、26年間空主の続く桂宮家に仕える諸大夫たちが、淑子内親王の桂宮家相続を願い出たのである。
 諸大夫たちは、〈天保6[1835]年に、26年ぶりに、2歳で桂宮家を相続し、翌年、没した〉節仁(みさひと)親王〈仁孝天皇皇子〉没後も皇子誕生をひたすら待ち望んでいたが、孝明天皇にも睦仁親王(明治天皇)以外皇子がおらず、皇子による相続は全くめどが立っていなかった。
〈9代〉公仁親王没後から数えれば90年余り、ほとんど空主の桂宮家では存続の危機感がピークに達していた。そんな時期に仮住居として淑子内親王に接し、意を決したということかもしれない。
 この願いを受けた天皇は淑子内親王の気持ちをたしかめた上で意向を固め、幕府の了承を得た。文久3年2月、それまで淑子内親王に与えられていた化粧料300石はそのままとし、相続にともなって道具料500石が新たに進献されることに決まる。4月、いったん参内した淑子内親王は行列を整えて桂御所に入った。内親王35歳の時で、もちろん未婚である」

 結局、なぜ淑子内親王が親王家を相続することになったのか、はっきりした理由は分かりません。

「当主の妻が家主、あるいは家主同格として家を守ることはあっても、女性である皇女が親王家を相続したのはこの淑子内親王のみで、幕末という時代を背景に、さまざまな要因が重なり合って生じた極めて希有な出来事であった」

 久保講師は以上のように説明するだけです。

 所先生が説明するように、文政12(1829)年にお生まれになった淑子内親王は、天保11(1840)年に閑院宮5代愛仁(なるひと)親王(文化15[1818]年生)と婚約されましたが、2年後、愛仁親王は薨去され、婚約は自然解消されます。

 天保13年に内親王宣下されますが、淑子内親王はその後、独身を貫かれ、35歳で桂宮家を相続され、慶応2(1866)年4月に一品に叙せられ、准三宮の宣旨を受けられ、以後、桂准后宮と称せられましたが、明治14(1881)年10月、53歳で薨去され、300年続いた桂宮家は絶えることとなりました。

 所先生は雑誌論考に

「文久2年(1862)迎えられたのが、仁孝(にんこう)天皇の皇女淑子(すみこ)内親王(34歳)である。これは史上初めての皇女を当主とする宮家だが、未婚のまま20年後薨去(こうきょ)された結果、桂宮家は11代で断絶した」(「宮家世襲の実情と『女性宮家』の要件」=「正論」平成24年3月号)

 と書いています。

 なぜ淑子内親王は未婚のまま薨去されたのか、歴史家ならばそこにこそ関心がいくはずです。けれども所先生の論考には説明が見当たりません。先生は

「薨去された結果、断絶した」

 と記述していますが、そうではなく、因果関係は逆ではないのでしょうか。けれども、所先生は紙幅の制限のためか、「女性が宮家を継いだ例」としか解説していません。

 当時としては適齢期をはるかに過ぎているであろう30代半ばまで独身を貫き、親王家を相続してからも結婚することがない。つまり、次代への継承を予定しない、いわば幕引き役としてのお立場といえます。

 皇統の備えとしての宮家の役割を果たすことはない、内親王による唯一の親王家相続のケースは、「女性宮家」創設の歴史的先例とはいえないでしょう。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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