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「皇族」の概念が混乱している ──支離滅裂な「論点整理」 2 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「皇族」の概念が混乱している
──支離滅裂な「論点整理」 2
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 私は運動家ではありませんが、やむにやまれぬという思いから、組織も資金もないなか、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。現状では悪しき先例が踏襲されるに違いありません。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を心から求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第7節 支離滅裂な「論点整理」──変更された制度改革の目的意識


▽2 「皇族」の概念が混乱している
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 2つ目の混乱は、「皇室の御活動」とは何か、あるいは、「皇族」とは何か、です。もっといえば、「天皇」とは何か、です。

 今回の制度改革は「皇室の御活動」維持が目的ですが、2月の段階では、「皇室の御活動」について具体的な説明がまったくありませんでした。「両陛下のご負担」軽減を謳いながら、「両陛下の御活動」と「皇室の御活動」の関連についての説明もありません。

 そのためヒアリングでは、ご活動の具体的中味について、有識者の言及はほとんどなく、

「『権威』と『権力』を分離した象徴天皇制度は、我が国を安定させ、国民に深く根付いている」

「国民との強い信頼関係に基づき、国家、国民統合の象徴となっている」

「国際社会からも信頼と敬愛を寄せられる要因となっている」

 などという抽象論にとどまっています。

 それが「論点整理」になって、ようやく具体的な「御活動」の中身が示されるようになりました。たとえば、こう書いてあります。

「天皇陛下や皇族方は、憲法に定められた国事行為のほか、戦没者の慰霊、被災地のお見舞い、福祉施設の御訪問、国際親善の御活動、伝統・文化的な御活動などを通じて、国民との絆をより強固なものとされてきておられる」

 驚いたことに、天皇の御公務と皇族の御活動が同列に論じられています。

「天皇陛下は、日本国及び日本国民統合の象徴として、憲法に定められた国事行為のほか、様々な御活動を通じて、国民との絆を深められており、天皇陛下を支える皇族方についても、皇室と国民の間をつなぐ様々な御活動を分担されている」

 これも同じです。天皇と皇族の違い、あるいは皇族の概念が混乱しているために、天皇の国事行為、天皇の御公務と両陛下の御活動、皇族の御活動の違いが不明確になり、その結果、女性皇族との安易な「御分担」論が展開されることになります。

 本来、皇族とは、皇統に連なり、皇位継承の資格を持つ血族の集まりを意味します。現行の皇室典範第5条は皇族の範囲を、

「皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王を皇族とする」

 と定めていますが、これは、小嶋和司東北大学教授(故人)が指摘しているように、明治の皇室典範が本来、「皇族」ではないはずの、臣籍出身の后妃をも「皇族」とし、皇位継承資格者としての「皇族」と待遇身分としての「皇族」とを混同させ、その本質をぼやけさせてしまったことがいまに尾を引いています。

 歴史的に見れば、臣家出身の皇后や皇太子妃は皇族とは認められなかったようです。

 宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料』には、古代の法体系である大宝律令では親王・王の配偶者は内親王・女王でないかぎり皇族とは認められなかったと推測される、とあります。

 日本書紀に載っている皇后の出自を見ると、仁徳天皇の皇后以降は皇女を通例としています。皇后の出自が皇女もしくは皇族に限られるとする慣習は、大宝律令以前に成立していたと考えられていますが、聖武天皇は新例を開き、その後、臣家の女子の立后が相次ぎました。

 けれども、江戸時代までは、臣家の女子は皇族に嫁したあとも皇族の範囲には入りませんでした。明治維新になって、つまり明治の皇室典範で、皇后や皇太子妃が皇族と称することが規定されたのです。

 皇后が陛下の敬称で呼ばれ、したがって天皇・皇后両陛下と併称されるようになったのも、明治の皇室典範が制定されてからのことです。古代においては、太皇太后、皇太后、皇后の三后、皇太子は殿下の敬称を用いることとされていました。

 また、明治の皇族身分令などで、皇后は大婚に際し、皇太子妃は結婚成約に際して勲一等に叙し、宝冠章を賜うことが定められました。

 皇后の崩御も古代においては必ずしも「崩」とは呼びませんでした。「崩御」と呼ぶようになったのは大正15年の皇室喪儀令以後であり、天皇と同じく追号を贈られるようになったのも近代になってからのことです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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