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近代化された明治の皇室祭祀 ──百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか? 1 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年8月21日)からの転載です


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近代化された明治の皇室祭祀
──百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか? 1
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第4章 百地章日大教授の拙文批判に答える

第3節 百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか?


▽1 近代化された明治の皇室祭祀

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 百地先生への再批判を続けます。前節では依命通牒について書きました。百地先生は、昭和22年5月に発せられた依命通牒が50年9月に「破棄」(宮内庁OBの証言)されたことについて、ほとんどご存じないようです。

「『依命通牒』と『女性宮家』とは無関係である」

「ちなみに、依命通牒が『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない」

 と述べています。

 依命通牒が重要なのは、とくに第3項は、戦後の宮中祭祀存続に大きく関わっているからです。祭祀王である歴史的天皇像そのものに関わるからです。天皇のあり方に歴史的変更をもたらす、女系継承容認=いわゆる「女性宮家」創設論と、けっして「無関係」ではあり得ません。

 後鳥羽上皇の日記には、若くして即位される第3皇子、すなわち順徳天皇に大嘗祭の秘儀について教えられたことが記録されています。申詞(もうしことば)には

「国中平らかに、安らけく」

 の一節があります。

 その約10年後、順徳天皇がまとめられた『禁秘抄』の冒頭には、

「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」

 とあります。歴代天皇は国と民のためにひたすら祈る祭祀を第一とお務めと信じ、実践してこられました。

 公正かつ無私なる祭りを行うことが、天皇の天皇たる所以です。

 明治になって、欧米列強に対抗しうる近代的な立憲君主として確立されると同時に、祭祀王としての天皇の祭りが合理的かつ現実的に整備されました。

 たとえば、平安期の宇多天皇に始まる、天皇みずから清涼殿で伊勢神宮並びに賢所を遥拝された石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)は、明治4(1871)年10月、側近の侍従に賢所で拝礼させる毎朝御代拝に代わりました。

 同年の大嘗祭斎行について、『明治天皇紀』は、

「いまや皇業、古(いにしえ)に復し、百事維(こ)れ新(あら)たなり。大嘗(おおにえ)の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや」

 と批判し、

「偏(ひとえ)に実際に就くを旨」

 として整備されたと、数頁にわたり説明しています。

 新嘗祭は、以前は11月の下卯日(しものうのひ)に行われていましたが、6年の太陰太陽暦の廃止、太陽暦の導入によって、11月23日に固定されました。41年には皇室祭祀令(皇室令第1号)として明文化されます。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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