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縄文人以来の和の精神 ──憲法理論は法廷闘争の方便か 4 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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縄文人以来の和の精神
──憲法理論は法廷闘争の方便か 4
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第4章 百地章日大教授の拙文批判に答える

第7節 憲法理論は法廷闘争の方便か


▽4 縄文人以来の和の精神

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 靖国問題はいつの時代にも、キリスト教信仰者に限らず、靖国神社参拝に限らず、熱心な信仰者ほど、起こりえます。それなら諸宗教の共存を図るにはどうすればいいのか、解決のための知恵が、天皇の祭祀に秘められています。

 米と粟を捧げる天皇の祭祀は、その起源をさかのぼれば、おそらく縄文人の自然崇拝と弥生人の稲作信仰とを引き継ぐものでしょう。両者が対立せず、抗争もせずに共存できるのは、自然の猛威と争わずに共存する縄文人の自然観が、和の心として日本人の精神を形成し、現代に引き継がれてきたからではないしょうか?

 稲作民の米と畑作民の粟を捧げる天皇の祭祀こそ、崇高な日本の精神的な伝統そのものです。古来、信教の自由を保障する要であり、天皇の祈りの存在があればこそ、日本では深刻な宗教対立を経験することなく、宗教的共存が図られてきたのだと思います。

 これに対して、一神教世界ではまったく異なります。

 上智大学の設立母体イエズス会の総本山とされ、「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルの切断された右腕とロヨラの遺骸が安置されるローマのジェズ教会の聖堂には、天使が悪魔を踏みつけている大理石の彫像があり、悪魔には「カミ、仏、阿弥陀、釈迦」とラテン語で刻まれているそうです。

 異端を弾圧し、魔女裁判を行い、異教徒を殺害し、異教世界を侵略し、異教文化を破壊してきたのが、一神教世界です。

 キリスト教世界の国王が、あるいは大統領が、国民のなかにイスラム教徒がいたとしても、そのためにイスラムの神に祈ることはあり得ません。一神教なら当然です。

 けれども日本の天皇は違います。日本の多神教的、多宗教的文明は一神教世界とは異なるのです。

 たとえば、「キリシタン迫害」が過酷さを増した将軍徳川家光の時代、天皇がおられる京の都では八坂神社の祭礼・祇園祭に、驚くなかれ、旧約聖書の物語をデザインした、ヨーロッパ舶来のタピストリーが山鉾の前掛けにされ、都大路を巡行していました。

 一神教世界の政教分離論と同列に、天皇の祭祀を論ずるべきではありません。

 宮中祭祀=「皇室の私事」、大嘗祭=宗教的儀礼とするような百地先生流の政教分離論を学問的に克服していく必要がありそうです。そのためには縦割りの学問に安住せず、関連する学問研究の総合的な深化が求められます。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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