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石原信雄元内閣官房副長官の意見への3つの疑問 ──宗教性の否定、退位と即位の分離、賢所の儀 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン」(平成30年3月5日号)からの転載です


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石原信雄元内閣官房副長官の意見への3つの疑問
──宗教性の否定、退位と即位の分離、賢所の儀
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 遅ればせながら、2月20日に開かれた、第2回目式典準備委員会について書きます。案の定というべきか、悪しき前例の踏襲が行われることとなりそうです。
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 指摘したいことは何点かありますが、公表されている議事概要に沿って、ここでは有識者ヒアリングについて、とくに石原信雄元内閣官房副長官の意見について、考えてみることにします。

 政府の説明によると、前回、1月の初会合で、何らかの儀式を行うことが望ましいとの意見があったことから、この日、今上陛下の退位に伴う式典など、3つの式典について議論が行われました。

 これに先立って、有識者4人のヒアリングが実施され、その1人が、平成の御代替わり当時、内閣官房副長官として諸行事を取り仕切った石原信雄氏でした。


▽1 宗教否定主義と政治的妥協主義路線

 まずは基本的な考え方に関する意見です。

 石原氏は、前回は各式典が憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統を尊重したものとなるよう検討したと振り返っています。30年後のいま、政府はまさにこれと同じ考え方を踏襲していることが分かります。

 つまり、御代替わりの諸儀礼を全体的に1つと考えるのではなく、ひとつひとつ分解し、政教分離のふるいにかけ、国の行事(天皇の国事行為)と皇室行事とに分離させる二分方式、他方、大嘗祭については皇室行事としつつ、費用を国費から支出する現実的妥協です。

 今回もこの方式を採用することになったわけです。宗教否定主義と政治的妥協主義路線のキーパーソンこそ石原氏ということでしょうか。

 しかし天皇の祭祀は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法上の宗教的活動なのでしょうか。教義もなく、聖職者も信者もいない宮中祭祀が国民の信教の自由を侵すのでしょうか。皇祖神ほか天神地祇を祀る天皇の祭祀は逆に、古来、日本の価値多元主義の要として機能してきたのではないのでしょうか。

 皇統が神代にまで連なると信じられてきたのなら、宗教性を排除するのは不可能です。それを逆に、非宗教主義を皇室に押しつけるのは新手の国家宗教のように私には見えます。そもそも宗教的価値を認めないのは、憲法に違反しませんか。


▽2 退位と践祚をなぜ分けるのか

 2点目は、退位の翌日に即位するという日程について、です。退位と即位(践祚)をなぜ分けなければならないのでしょうか。

 石原氏は、退位の礼と即位(践祚)の式を同日に行うという考えを否定し、皇室典範特例法上、4月30日の24時に陛下が退位され、皇太子殿下が翌日の0時に即位されることが決まっている、皇位継承に空白もない、と仰せです。

 つまり、特例法に従って4月30日の退位が閣議決定され、同時に翌日の即位が政府決定されたことの意味は、石原氏の解説によれば、各儀式の挙行時間と法的効力の発生時間はまったく別だということです。

 それならそれで理解できるのですが、閣議決定後に官房長官がそのように説明したとは聞かないし、記者会見でそのような質疑応答があったとは寡聞にして知りません。

 それに、儀式挙行の時刻の如何にかかわらず、5月1日午前0時をもって、今上天皇が退位(譲位)され、新帝が即位(践祚)されるというのなら、仰せのように、退位の礼を4月30日とし、剣璽等承継の儀(剣璽渡御)、即位(践祚)後朝見の儀を翌5月1日に挙行しなくてもいいことになりませんか。

 たとえば5月1日午前10時から連続して一連の儀式を行い、その法的効力は午前0時にさかのぼることとすれば十分であり、むしろその方が皇位の連続性を視覚化できるし、合理的かつ現実的かと思われます。

 皇位継承は新帝の即位が中心テーマであるはずなのに、今回の御代替わりはNHKの「生前退位」報道が発端となったことから、もっぱら今上天皇の退位が主題となり、しかも前回以来、践祚(皇位継承)の概念が失われているうえに、改元の期日問題が加わって、議論がまったく混乱してしまっているように見えるのは、じつに残念です。


▽3 賢所の儀はいつ、誰が

 もうひとつの問題は、御代替わりに伴う祭祀です。

 石原氏が仰せのように5月1日午前0時をもって新帝が即位(践祚)するというのなら、関連する祭祀はいつ、誰によって行われるべきでしょうか。

 大正から昭和への御代替わりでは、大正天皇が葉山御用邸で崩御されたのが大正15年(昭和元年)12月25日午前1時25分で、直ちに皇太子(昭和天皇)が践祚になり、登極令に従って、3時15分に宮中三殿で賢所の儀が行われ、掌典長が奉仕し、同時に葉山では剣璽渡御の儀が行われました。「昭和」への改元は即日でした。

 前回、平成の御代替わりでは、昭和64年1月7日午前6時33分に昭和天皇が崩御になると、直ちに今上天皇が即位(践祚)され、賢所の儀が行われ、10時1分に正殿松の間で剣璽等承継の儀が行われました。「平成」はその翌日からでした。

 旧登極令は「第1条 天皇践祚のときは、すなわち掌典長をして賢所に祭典を行わしめ」と定め、附式に践祚の式として、賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀、剣璽渡御の儀、践祚後朝見の儀の祭式を挙げています。

 先帝崩御に伴う践祚なら、一年の服喪期間中、親祭、親拝はありませんが、今回のように譲位に伴う践祚で、3日間におよぶ賢所の儀などは掌典長に行わせて済むのでしょうか。掌典長が代わって奉仕するにしても、執行の日時はどのようになるのでしょうか。まさか午前0時でしょうか。

 当然ながらというべきか、石原氏のヒアリングにはその言及がまったくありません。それどころか、信じがたいことに、剣璽は神器ではない、という発言すら飛び出しています。

「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇)が皇室の基本原則ですが、石原氏にとっての皇室とは何でしょうか。宗教性を否定するなら皇室の伝統を尊重することにはなりません。
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