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藤森、佐野、土井先生、どうすればいいんですか? ──第2回式典準備委員会資料を読む 8 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月3日)からの転載です

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藤森、佐野、土井先生、どうすればいいんですか?
──第2回式典準備委員会資料を読む 8
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 前回までに指摘したように、宮内庁がまとめた「歴史上の実例」には、見逃しがたい、正確とはいえないところがあります。

 1つは、200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位儀が「上皇の御在所(仙洞御所)」で行われたと誤解していることです。ほかならぬ宮内庁がまとめた『仁孝天皇実録』には「清涼殿に於いて受禅あらせらる」と記録されています。

 2つ目は、平安期の儀式書『貞観儀式』の「譲国儀」冒頭に記された「天皇、予め本宮を去りたまふ。百官、従ひて、御在所に遷る」の「御在所」について、「新たな上皇のお住まい」と解釈している点です。

「天下の大事」とされる御代替わりなのですから、より正確な歴史理解が求められます。

 今回の御代替わりは、今上陛下の「譲位」のご意向が出発点でした。特例法で「退位」が認められ、期日も来春と定まりました。関係者各位のご尽力には敬意を惜しみませんが、「退位の礼」あるべしとされ、御代替わりの儀式が連続して行われないのは再考されるべきではないでしょうか。


▽1 宮内庁は資料を読み誤っている

 前回は藤森健太郎群馬大教授(日本史)や佐野真人皇學館大助教(神道史)の研究を参照しましたが、今回は土井郁麿氏(中央大学大学院)の論考「『譲位儀』の成立」(「中央史学」平成5年3月)を取り上げます。

 土井氏はこの論考でまず、平安期の儀式書『儀式(貞観儀式)』『西宮記』『北山抄』をもとに譲位儀の次第を概観し、以下のような流れを示しています。

(1)天皇遷御
(2)固関使の発遣
(3)宣命草案の奉見
(4)天皇出御
(5)宣命再覧
(6)宣制(皇太子のみ起立)
(7)群臣拝舞
(8)新帝拝舞
(9)剣璽・伝国璽等渡御
(10)新帝上表

 まず(1)天皇遷御です。

 土井氏は宮内庁書陵部編『皇室制度史料 太上天皇二』を根拠に、「退位の意を表す遷御は、平城天皇の譲位時(斎藤注、以下同じ。大同4=809年)から、定着したとされる」と説明し、「宇多天皇の譲位時(寛平9=897年)からは、一旦は、内裏内の別殿舎へ遷御され、しばらくしてから、内裏外へ遷御される例が始まる」と注記しています。

 宮内庁のリポートは「天皇は、譲位に先立って、あらかじめ内裏(お住まいの御殿)から出られ、臣下を従えて、新たな上皇のお住まいにお移りになる」と解説していますが、ほかならぬ宮内庁の文献がこれを否定していることになります。

 また、前回、ご紹介したように、藤森先生の『古代天皇の即位儀礼』(2000年)では、遷御される「御在所」は「平安初期の実例では大体別院」と注記され、さらに「ただし、光仁天皇(天応元=781年に譲位)から平城天皇(大同4年に譲位)までの譲位の際には、内裏で挙行されたものと思われる」と補足されています。

 佐野真人皇學館大助教(神道史)の「『譲国儀』儀式文の成立と変遷」(「神道史研究」平成29年10月)でも、より明確に、「儀礼の会場が『儀式』では、事前に天皇は本宮(内裏)から御在所に遷御される。清和天皇(天安2=858年に即位)以前の譲位の儀式は内裏以外で行われており、『儀式』の規定でも内裏以外で行うことを想定している」と説明し、ただ、『西宮記』(源高明撰述)では内裏が儀場とされていたことが考えられると記しています。

 なぜ宮内庁リポートは、「上皇のお住まい」(仙洞御所)と断定しなければならなかったのでしょうか。

次に、(4)天皇出御です。

 土井氏は、「天皇が出御される儀場については、『南殿』(『儀式』)とあるのみで、とくに指定されていないが、平城(809年)・嵯峨(弘仁14=823年)・仁明天皇(嘉祥3=850年)の譲位は、あらかじめ遷御された別院にて行われたので、『南殿』とは遷御された御所の殿舎のことを指すとみてよいだろう」と解説しています。

 宮内庁のリポートにある「天皇が、儀場となる上皇のお住まいの正殿の殿上にお出ましになる。殿上にしつらえた南側を向かれる御席に御着席になる」は誤りだということです。

 藤森先生の著書では、「『儀式』の場合は内裏の紫宸殿ではなく、『御在所』の正殿を想定しているはず」と説明されています。

 さらに、10世紀以降になると、『西宮記』によれば、儀場は内裏に変わっていると藤森先生は指摘し、「(天慶9=946年に)朱雀天皇は内裏で『譲国儀』を行った」「(897年の)宇多天皇から醍醐天皇への譲位のときから、内裏における『譲国儀』が常例になった」と指摘しています。

 時代がくだり、200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位儀は、冒頭に書いたように、清涼殿で、すなわち内裏で行われています。宮内庁による『貞観儀式』の解釈も、歴史の実例の理解も誤りなのです。


▽2 自画自賛する政府

 2月に開かれた第2回式典準備委員会では、山本宮内庁長官が、この不正確なリポートについて説明し、次のように語ったと議事概要に記録されいています。

「宮内庁は、光格天皇の前例など調査を行い、内閣官房と緊密に協議してきた」

「御退位に伴う式典の考え方について、光格天皇の譲位儀との対比を踏まえ、次の通り意見を述べたい」

 しかし、そもそも退位の礼などあり得ません。退位(譲位)と即位(践祚)の分離などあり得ません。

「儀場については、光格天皇の譲位時には、新たな上皇の御在所で行われた。今回は、上皇の御在所は未整備で、考え方案のとおり、宮殿松の間で行われることが望ましい」

 宮殿で行われるのは当然ですが、光格天皇の譲位の儀が仙洞御所で行われたという事実はありません。ただ、歴史的にいえば、譲位の意思を示す遷御は重要です。1年もあれば、いまどき仙洞御所の整備は不可能ではありません。仙洞御所の未整備は理由になりません。

「参列者については、『貞観儀式』に親王以下の儀場への参入の定めがあり、光格天皇譲位時には関白、左大臣ほかが参列している。今回は、考え方案の通り、皇族方が供奉され、三権の長ほか国民を代表される方々が参列されることが望ましい」

「皇太子の参列については、光格天皇譲位時には皇太子は参列しなかったが、『貞観儀式』では参列されることとされており、また、光格天皇以前に行われた儀式でも参列されている。今回は、考え方案の通り、皇太子殿下もご参列になることが望ましい」

 光格天皇の譲位儀なるものが史実でない以上、参列者の範囲、皇太子の参列の有無など、議論の価値がありません。

「御退位事実の公表については、光格天皇譲位時には宣命使に譲位の宣命を宣読させた。今回は、考え方案のとおり、総理の奉謝、天皇陛下のお言葉により、御退位が内外に明らかにされることが望ましい」

 土井氏によれば、平安時代、譲位儀の中心は宣命であり、宣命の作成には天皇の直接の意向が尊重され、反映されるよう配慮されました。宣命が宣読されるときには皇太子だけが起立したのです。退位の礼ではなく、御代替わりの儀式として連続して行われるべきではないでしょうか。

「剣璽については、光格天皇譲位時には、譲位儀に引き続いて、剣璽が新天皇のもとに移された。今回は、考え方案の通り、退位の儀式が重儀であることを踏まえ、剣璽等を捧持することが望ましい」

 光格天皇の譲位時には、「仁孝天皇実録」によれば、光格天皇が仙洞御所(桜町殿)に遷御され、そこから剣璽渡御の儀があったと説明されています。部分的にも平安絵巻を再現することはできないでしょうか。

 問題山積の山本長官の説明ですが、出席した委員からは以下のような自画自賛の発言しか聞かれませんでした。

「御退位の礼は、古来、仙洞御所や宮殿で粛々と行われてきており、説明のあった考え方案の内容は、伝統の基本骨格を大事にしたものとなっており、皇室の伝統等を尊重し、また、今の時代に相応しいものとなっているのではないか」

 政府・宮内庁はなぜ、「伝統の尊重」といいつつ、歴史上あり得ない、退位(譲位)と即位(践祚)の分離を強行しようとするのですか。なぜ連続した御代替わりの儀式とはしないのでしょうか。

「皇室の伝統を尊重」が謳われる政府の基本方針には同意しますが、だとすれば、次の御代替わりはどのように進められるべきなのか。御代替わりに詳しい藤森、佐野、土井のお三方はいかがお考えでしょうか。

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