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かつて御代替わりは国民の間近で行われた ──第2回式典準備委員会資料を読む 14 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月23日)からの転載です

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かつて御代替わりは国民の間近で行われた
──第2回式典準備委員会資料を読む 14
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 前々回、上山春平先生の御代替わり論についてご紹介しましたが、うっかりして書き漏らしたことがありました。それは「大嘗会の標(ひょう)」です。

 ちょうどいま京都では猛暑の中、祇園祭が行われていますが、上山先生によると、山鉾巡行に登場する山と鉾のうち、山の飾り付けが「大嘗会の標」にそっくりだというのです。


▽1 大嘗会の標山

 祇園祭の起源は平安期の御霊(ごりょう)信仰に根ざし、長刀鉾や函谷鉾などの鉾は悪霊退散のシンボルということですが、岩戸山や山伏山などの曳山は鉾柱の代わりに屋上に真松を立てています。

 上山先生によると、平安末期、無骨(むこつ)という名の雑芸人(エンタテーナー)が注目を浴びようとして、「大嘗会の標」そっくりの飾り付けをした柱を車に乗せて、祇園の社頭に乗り込んだ、これが曳山の起源らしいのです。

 それなら「大嘗会の標」はといえば、悠紀国、主基国それぞれから京の都に運ばれた食物を、御所の北方、北野の斎場で祭礼用に、「標」と呼ばれる高さ数メートルの造形に調整されたのでした。

 まず、めでたい山を作り、青桐を植え、二羽の鳳凰をとまらせ、五色の雲を立ち上らせ、太陽と月を表すという具合です。

 そして卯の日の午前、二基の標山(ひょうのやま)はそれぞれ20人の曳夫に引かれ、北野の斎場から御所内の大嘗宮へ、しずしずと進み、当然、あまたの都人たちがこれを、ちょうど今日の山鉾巡行のように見送ったのでしょう。

 けれども残念ながら、応仁の乱がおこり、大嘗会が長らく中断を余儀なくされることになり、大嘗会の標山は消滅してしまいました。

 問題は、こうした歴史が、政府の説明にはまったく表れないことです。


▽2 君民一体による御代替わり

 標山だけではありません。上山先生が指摘するように、大嘗祭の前月、10月の末に、新帝は加茂川で御禊(ごけい)とよばれる神事を行い、大勢の人が詰めかけ、見物したといわれます。

 最近では即位式を民衆が拝観していたことさえ分かってきました(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』)。宮内庁が所蔵する、明正天皇の「御即位行幸図屏風」には、胸をはだけ、赤子に授乳しながら即位式を拝観する2人の女性が描き込まれています。民衆は切手札(チケット)を手に、自然体で参加していたのです。

 まさに上山先生が指摘しているように、即位式、大嘗祭など御代替わりの行事は、「朝廷の一部の官僚たちだけでやっている祭りじゃない」ということです。民衆の手が届くところで、天皇の御代替わりは行われていたのです。

 明治の近代化により、国体論的天皇論が幅を効かせるようになり、民衆とともにある御代替わりの伝統的儀礼は忘れ去られていったということでしょうか。国民の身近にあった天皇の祭儀の復活を、私は心から願っています。それこそが君民一体による、「国の行事」としての御代替わりでしょうから。
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