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「国家神道」とは何だったのか by 佐藤雉鳴 ──阪本是丸教授の講演資料を読む 後編 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月30日)からの転載です

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「国家神道」とは何だったのか by 佐藤雉鳴
──阪本是丸教授の講演資料を読む 後編
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▽11 井上毅や元田永孚と異なる「教育勅語」解釈

 教育勅語の草案を作成したのは、主に法制局長官・井上毅と天皇の側近・元田永孚でした。文部省訳や国民道徳協会のそれは本当に正しいでしょうか。井上毅らの教育勅語と比較して検討してみます。

 まず「之を古今に通じて謬らず」の解釈です。稲田正次の著作には教育勅語に関する各種の草稿が掲載されています。

「之を古今に通じて謬らず」(原文はカタカナ表記)の部分を、稲田正次『教育勅語成立過程の研究』から、原文を整理して引用します。

井上毅・六月初稿「以テ古今ニ伝ヘテ謬ラズ」
井上毅・七月次稿「以テ上下ニ伝ヘテ謬ラス」
文部省・八月上奏案「以テ上下ニ推シテ謬ラス」
元田永孚・九月修正案「以テ上下ニ通ジテ謬ラズ」
教育勅語・十月完成稿「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス」

 つまり「通じて」の「通」は「伝えて」の意味だと解釈して妥当です。また教育勅語は外国語にも翻訳されました。『漢英仏独 教育勅語訳纂』にはそれぞれの翻訳が記載されています。

 ところが漢訳では「之を古今に通じて謬らず」の「之」は目的語ですが、英訳の「之」は主語となっています。これで同じ意味になるはずがありません。

 漢訳は稲田正次本にある元田永孚のものと、ほぼ同じです。したがって「之」は目的語です。しかし金子堅太郎が主導した英訳の「之」は主語となっています。教育勅語の原文も「之」は目的語ですから、英訳が間違っていることは明らかです。

 おそらく昭和15年当時、井上毅らの草稿は未整理だったのかもしれません。文部省の協議会では初稿も次稿も検討されていませんでした。そして井上哲次郎をはじめとする各種の教育勅語解釈本を参考に、解釈がなされた可能性があると思います。ちなみに井上哲次郎『勅語衍義』も井上毅の草稿とは異なる解釈をしています。

 さて、文部省や国民道徳協会の現代語訳は、この英訳とほぼ同じです。少なくとも井上毅や元田永孚の教育勅語ではありません。井上毅らにしたがえば、「之を古今に通じて謬らず」の正しい現代語訳は、「(歴代天皇が)之(斯の道)を昔から今に伝えて誤りがなく」となって自然です。


▽12 「之を中外に施して悖らず」の誤解

 明治11年、天皇は北陸東海両道を巡幸されました。各地の実態をご覧になられた天皇は岩倉右大臣に民政教育について叡慮あらせられました。これを聞いた侍補たちは大いに喜び、「勤倹の詔」を「速に中外に公布」せられんことを岩倉右大臣に懇請しました(『元田永孚文書』)。

 民政教育ですから、この「中外」は「宮廷の内外」「中央と地方」です。外国は関係ありません。教育勅語「之を中外に施して悖らず」の「中外」もこれと同じです。外国は関係がなく、この場合は「宮廷の内外」が妥当です。

『伊藤博文関係文書』には井上毅との書簡のやりとりが掲載されています。その中で井上毅が用いた「中外」はほぼ「宮廷の内外」「朝廷と民間」「中央と地方」です。

 また、教育勅語に関する井上毅の資料には、「中外」を「国の内外」と解釈できるものは見当たりません。

「我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」(文部省訳『続・現代史資料9』)

 したがってこの訳は間違いだと分かります。「之を中外に施して悖らず」は、「之(斯の道)を全国(民)に及ぼして間違いがない(なかった)」と解釈して文脈に無理がありません。

 結局のところ、「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」は以下のような訳になると思います。

「(歴代天皇が)之(斯の道)を昔から今に伝えて誤りがなく、之(斯の道)を全国(民)に及ぼして間違いがない(なかった)」

「この道は古今を貫いて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」とした文部省訳は、前段後段ともに、とんでもない誤訳だと判明します。


▽13 鵜呑みにされた国家神道の「聖典」

 およそ歴代天皇によって昔から今まで伝えられてきたとされる皇祖皇宗の遺訓、それが「我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」とは飛躍が過ぎます。井上毅のいわゆる起草七原則にも違背します。

 漢文読解風に云えば、古今と中外は時間と空間の表現ですが、文部省訳ではX軸とW軸に整合性がありません。教育勅語の古今と中外はあくまで国内の話です。

 ところで明治23年に渙発された教育勅語が曲解されたのは、昭和戦前だけではありません。明治24年井上哲次郎『勅語衍義』など、すでに曲解の産物でした。

 そしてこの日本人の曲解をGHQが鵜呑みにし、神道指令を発したことは明白です。GHQは「皇道を四海に宣布」などのスローガンの基礎は、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」にあると考えました。これはCIEのダイク局長らのコメントに明らかです。


▽14 納得できない阪本教授の「国家神道」論

「国家神道」の聖典とされた教育勅語の解釈は、曲解に満ちたものでした。むろん聖典は教育勅語だけではありません。GHQは記紀も聖典の一部だと把握していました。

 しかし「世界征服」の思想は教育勅語にあると考えました。これまで引用したとおりです。いま、私たちが検証すべきは「国家神道」の正体です。GHQが鵜呑みにした日本人による教育勅語の解釈が、曲解だったと判明すれば、「国家神道」は瞬時に雲散霧消するはずです。

 GHQのいう「国家神道」とは、教育勅語の「中外」を誤解して語られた「世界征服」の超国家主義であって、神道そのものとは関係がない。これが「国家神道」の正体だと思います。

 我が国の「国家神道」論は、「国家神道」を独自に定義して神道指令を無視しています。なぜ歴史的用語としての「国家神道」を、神道指令を無視して定義しようとするのか、納得できません。そしてあくまで「世界征服」の思想がなければ「国家神道」が成立しないことは、これまで引用したGHQ文書に明らかです。

 加えてGHQが「国家神道」の聖典とした教育勅語解釈の検証も不十分だと云わざるを得ないと思います。およそ「聖典」の解釈を検証しない「国家神道」研究とは如何なるものか。

 阪本教授の講演資料には、たしかに「国家神道」への詳しい言及はありません。ただ島薗教授の「戦前の国体論が国家神道と不可分の関係」を引用して何の批判もありません。戦前の国体論と教育勅語を聖典とする「国家神道」との関係とはどのようなものか。

 ところで阪本教授には『近代の神社神道』という優れた研究書があります。ことにこれまでの政教関係裁判の判決を批判した点では、高い評価がなされて当然だと思います。

 そしてその第四章は「国家神道とは何だったのか」です。ここで明治の小田貫一衆議院議員の発言「十五年ニ於テ、早ヤ既ニ宗教ノ神道、国家神道ト云フモノハ明カニ分ッテ居ッタケレドモ」を引用しています。

 教授は「この小田の発言にある国家神道が、神道指令のいう国家神道の定義とほぼ一致することは自明であろう」と述べています。もしそうなら、小田国家神道に「世界征服」の思想があったことを立証する必要があると思いますが、どこにも見当たりません。もし立証できなければ、GHQ神道指令とは合致しないこと、明白です。

(1)「国家神道」はあくまでGHQが神道指令に用いた用語である
(2)GHQのいう「国家神道」の聖典は教育勅語である
(3)GHQが問題にしたのは「之を中外に施して悖らず」である
(4)その意味は「世界征服」だと断定された
(5)「国家神道」の正体解明は聖典である教育勅語解釈の検証にある

 これが「国家神道」究明の鍵だと思いますが、これまでの研究者にその成果はありません。


▽15 ウッダードは「国体のカルト」と神道を区別した

 ウッダードは昭和21年5月からCIEのスタッフとして宗教政策に関与しました。彼の『天皇と神道』には多くの示唆に富む文章が記されています。

「日本の政治学者や思想家は、日本の『国体』にさまざまな解釈を与えた。しかしわれわれの関心は、(1)一九三〇年代および一九四〇年代初期に極端な超国家主義者と軍国主義者が『国体』について行った解釈、(2)警察国家の権力によって日本国民にカルトとして強制された『国体』の教義および実践活動、に限られる」

「学者や評論家は、しばしば『国体』概念の過激な解釈をなんらかの神道の形態と同一視し、神道が日本の軍国主義ないし超国家主義の本質的な中核をなしていると説いた。民間情報教育局やその日本人助言者も、このような解釈をとったのであり、その結果、『国体のカルト』の廃絶を命じた指令が『神道指令』の名で知られるようになった。
 そのことが、一方では神道の性格について、他方では神道と日本の超国家主義および軍国主義との関係について、根本的な誤解を存続させることになった。残念なことであったというべきであろう」

「『国体のカルト』は、神道の一形式ではなかった。それははっきりと区分される独立の現象であった。それは、神道の神話と思想の諸要素をふくみ、神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない」

 ウッダードはその鋭い洞察力で、「国家神道」神社の鳥居の前までは至りましたが、これに教育勅語『中外』の曲解が加われば、間違いなく本殿に到達したと思います。

 くどいようですが、「国家神道」はGHQ神道指令の用語です。我が国の「国家神道」論はなぜか、GHQ関係者のコメントとリンクしていません。「国家神道」論の謎といってよいと思います。またなぜ教育勅語解釈の研究がタブーに見えるのか。不思議でなりません。(了)


[筆者プロフィール]
佐藤雉鳴(さとう・ちめい) 昭和25年生まれ。国体論探求者。著書に『本居宣長の古道論』『繙読「教育勅語」─曲解された二文字「中外」』『国家神道は生きている』『日米の錯誤・神道指令』
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