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大嘗祭に反対するキリスト教指導者の二重基準 ──教会で行われる戴冠式に政教分離違反と反対すべきだ [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月19日)からの転載です

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大嘗祭に反対するキリスト教指導者の二重基準
──教会で行われる戴冠式に政教分離違反と反対すべきだ
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 8月1日付クリスチャン・トゥデイによると、日本基督教団(石橋秀雄議長)が1日までに、教団のサイトで「天皇の退位および即位の諸行事に関する声明」(7月9日付)を発表し、抗議と反対の意思を表明したと伝えられます。

 日本のプロテスタント指導者は、とりわけ御代替わりの中心的儀礼である大嘗祭に国が関わることについて反対しているようですが、抗議は妥当でしょうか。少なくとも私にはダブル・スタンダードにしか聞こえません。偽善です。


▽1 議長声明の全文

 議長声明は三項からなる短いものなので、とりあえず同サイトから、以下、全文を引用することにします。


「天皇の退位および即位の諸行事に関する声明」

来年の4月30日と5月1日に、現天皇の退位および新天皇の即位が予定されております。私たちは、それらに関わる諸行事、とりわけ大嘗祭に国が関わることに関して、以下の点により反対の意思を表明します。

1、天皇の退位および即位に際して行われる諸行事に関して、本来は皇室の私的宗教行事である大嘗祭に至るまで公的な行事と位置付けることは、国民に対して天皇が特別な存在であること、さらには“神格化”のイメージを植え付けるものです。

2、宗教行事である大嘗祭に国が関与することは、日本国憲法が保障する信教の自由および政教分離の原則に反するものです。

3、どのような名目であれ大嘗祭に関わる経費に国費を支出することは、政教分離の原則に明らかに反しています。

私たちはキリスト者として、神以外の何ものをも神としてはならないとの聖書の教えに従い、天皇の代替わりに関する宗教的諸行事、とりわけ大嘗祭に国が関わることに強く抗議し、反対いたします。

2018年7月9日
日本基督教団
総会議長 石橋秀雄


 この声明には、いくつかの曲解と偏見があるように思います。


▽2 国王の戴冠式は「私的宗教行事」か

 まず第一項です。

 議長声明は、大嘗祭について、「本来は皇室の私的宗教行事」であるとし、その「大嘗祭に至るまで公的な行事と位置付けること」を問題視していますが、この基本的認識が誤っています。

 政府の立場は、30年前、現行憲法下で最初の事例となった平成の御代替わりと同様、「国の行事」と「皇室行事」とに分ける方針を示しているのであって、「公的行事」「私的行事」に区分しているわけではありません。政府は大嘗祭に公的性を認めています。

 教団がいうところの「私的」性、「公的」性とは何でしょうか。そもそも御代替わりは全体として国事なのであって、公も私もないと私は思います。

 世界には王制を採用するプロテスタントの国が少なからずあり、皇室と王室との交流には浅からぬものがありますが、そのような国々では、キリスト教会で、プロテスタントの形式で戴冠式が行われ、これが王位継承の中心的行事となっているはずです。

 それらに対しても、「戴冠式は王室の私的行事」との論理から、教会指導者たちは抗議と反対の意思を示されているのでしょうか。

 議長声明は、御代替わりの諸儀礼が国家的に行われることについて、「国民に対して天皇が特別な存在であること、さらには“神格化”のイメージを植え付けるものです」と批判していますが、まったく意味不明です。

 天皇が、キリスト教世界の国王と同様、古来、歴史的に「特別の存在」と考えられてきたことは、いうまでもありません。であればこそ、「神格化」する人たちが過去にいなかったわけではありませんが、天皇の第一のお務めである祭祀は天皇がみずから皇祖神ほか神々を祭るのであって、その逆ではありません。

 キリスト教の絶対神と日本の神は概念が別であって、天皇の「神格化」に反対することはなんの意味もありません。


▽3 天皇の祭祀は信教の自由を保障する

 第二項は憲法論です。大嘗祭に国が関与することは、国民の信教の自由や政教分離原則に反するのでしょうか。

 ヨーロッパの王制国家では、王位継承に伴う戴冠式が、国を代表する教会で行われ、国の代表者たちが参加していますが、これに対して、日本のプロテスタント指導者たちは、信教の自由や政教分離原則をもとに、反対を表明してきたのでしょうか。

 ちなみに日本政府は、大嘗祭の宗教性を認め、それゆえに大嘗祭については「皇室行事」とすることとしていますが、だとすれば教団は「反対」ではなくて、「賛成」を表明すべきではないでしょうか。

 皇室は特定の宗教団体ではありません。古代においては仏教の受容に中心的役割を果たしたのが皇室であり、明治以降は、皇室はキリスト教の社会事業を物心両面で支えてきました。かつてのキリスト者たちはそのことを熟知し、いまもハンセン病施設や医療施設との交流は続いていますが、今日の教会指導者たちは忘れたのでしょうか。

 天皇の祭祀は古来、多神教的、多宗教的文明の要であり、国民の信教の自由を保障する機能を果たしてきました。

 天皇の祭祀に直接、携わるキリスト者さえいるようです。国民の信教の自由を侵さないことの何よりの証明でしょう。

 アメリカでは大統領就任式がきわめてキリスト教的に行われています。「全国民の教会」と呼ばれるワシントン・ナショナル・カテドラルでは就任のミサが行われ、歴代大統領や政府高官、国民の代表が参加し、国費が投じられるようですが、信教の自由違反との批判は聞きません。

 なぜ大嘗祭がキリスト者たちの標的にされなければならないのでしょうか。


▽4 大嘗祭は国民統合の儀礼

 第三項は、大嘗祭への国費の支出問題ですが、そもそも大嘗祭とはいかなるものと考えるのでしょうか。教会指導者たちは何を根拠に、大嘗祭=「宗教」と考えるのでしょうか。

 宮中の祭祀は、もともとキリスト教のような教義も教団もなく、教祖も宣教師も信徒もいないのです。国費の支出が特定の宗教を援助、助長、促進することになるのですか。

 もしそうだというのなら、キリスト教団体が経営する学校への補助金は返還されるべきではありませんか。憲法89条は、宗教組織のみならず、教育事業への公金の支出を禁止しています。

 古来、天皇に私なし、とされます。古代律令には「天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」と定められています。天皇は国民が信じるあらゆる神々を祀ることをお務めとされ、であればこそ、近代以降、皇室はキリスト教を支援してきたのでしょう。

 地方に行幸され、被災地を見舞われる天皇が、特定の宗教関係者とのみ交流されることなどあり得ません。一視同仁が古来の原理です。

 天皇の祭儀は民の信仰を保障するものであり、大嘗祭はそれを御代替わりごとに確認する意味があるのではないのでしょうか。大嘗祭は特定の宗教ではなくて、国民統合の儀礼なのです。キリスト教指導者は天皇の歴史をもっと学ぶべきでしょう。

 結局のところ、天皇の歴史的なお務めについて、キリスト教指導者たちは正確に理解していないのではないか、けれどもそれは彼らに限ったことではないのでしょう。政府関係者もまた同様です。だから、混乱は続くのでしょう。
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忍(しのび)

一般国民の参加が強制されるわけではない宮中の祭祀が憲法20条が禁止する『宗教的活動』にあたるとまでは言えませんし、
第89条の問題に関しましても、89条自体が文化財保護法や私学助成金などによって既に形骸化・死文化しています。

政教分離とはいえ、国家と宗教を完全に分離することは不可能であり、
『信教の自由』を第一に考えるならば、そもそも厳格な政教分離の実現に拘る必要はありません。

大嘗祭をはじめとする皇室の祭祀に対する公費支出と、個人の信教の自由の両立は不可能ではありませんし、
ごく一部の、無知で不寛容なファンダメンタリストの『我が儘』にまで いちいち配慮する必要があるのか、そちらの方が甚だ疑問であります。
by 忍(しのび) (2018-12-12 01:50) 

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