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全体性に欠ける御代替わりの議論 ──メディアの見識と責任が問われる [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月28日)からの転載です

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全体性に欠ける御代替わりの議論
──メディアの見識と責任が問われる
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 政府は来年5月1日の践祚(即位)の1か月前に新元号を公表することをすでに決めていますが、保守派のなかから、これに反対し、践祚当日の公表を要求する意見が浮上しています。

 御代替わりのあり方について真摯な議論が生まれるのは喜ばしいことですが、議論のタイミングが遅すぎるし、取り上げるべきテーマも全体的であるべきだと思います。


▽1 全体性なき「元号の本質」

 前々回、取り上げたように、ある大学教授は、全国紙に掲載されたエッセイで、「元号の本質がゆがめられてはならない」と締めくくっています。元号を改め、新元号を制定する改元(代始改元)の権限は新帝の領域であるから、その本質上、新元号の公表は践祚(即位)後に行われるべきだという主張です。

 この議論それ自体は間違いではありませんが、「本質」論としては不十分です。なぜなら、践祚(即位)当日改元が「元号の本質」なのか否か、吟味されていないからです。

「歴史的・伝統的には、天皇に元号の制定権があり」と断言しながら、大正と昭和しか前例のない践祚当日改元について、「本質」的に検討しないのはかえって「元号の本質をゆがめる」ことにならないのでしょうか。

 教授は元号法を引用していますが、同法に基づいて元号を「平成」に改めた政令(昭和64年1月7日公布)の附則には、「公布の翌日から施行」とあります。

 なぜ今回は、「翌日改元」の前例が踏襲されず、廃止されたはずの明治42年の登極令第2条「践祚の後は直ちに元号を改む」が準用されなければならないのですか。

 教授は、政府の事前公表案を「便宜主義」と批判していますが、「元号の本質」のつまみ食いこそ、「便宜主義」ではないのですか。

 そもそも改元のあり方ばかり議論することは「本質」的でしょうか。いまさらの感なきにしもあらずですが、践祚、即位大嘗祭、改元からなる御代替わりについて、「本質」的に検討すべき課題はほかにもあるはずです。

 全体的視点のない教授のエッセイを掲載した産経新聞の見識も問われます。日本人にとって天皇は総合的、多面的な存在ですから、全体的、多角的な検討が必要です。なぜ元号ばかりが取り上げられなければならないのでしょう。


▽2 小林侍従日記をめぐる共同のスクープ

 総合的、全体的といえば、先週、総合的、全体的な視点の欠けていそうなスクープがありました。

 1つは、昭和天皇に仕えた小林忍侍従日記の発見です。共同通信のスクープでした。日記には「晩年まで戦争の影を引きずる苦悩が克明につづられている」と伝えられています。

 メディアは昭和天皇の「戦争責任」について報道し、社説のテーマとした新聞もありますが、ジャーナリズムやアカデミズムが問う「戦争責任」と天皇にとっての「戦争責任」は異なるのではないでしょうか。

 天皇は次元の高い「責任」を仰せなのであって、それは歴代天皇と共通しています。古来、天変地異、飢饉、戦乱、悪疫流行をわが罪とみずから責めたのが天皇です。古代の天皇が重んじた「金光明最勝王経」は、悪業を黙視するなかれ、悪を放置すれば国が乱れ、国土は破壊される。国を治めるに正法をもってすべしと教えています。

 日記は、1977年(昭和52年)8月23日の宮内記者会との会見で、いわゆる人間宣言について言及されたことをも記録しているようです。天皇が現人神から人間になったという通俗的な理解とは異なるということですが、この点のついて掘り下げている記事は見当たりません。

 小林侍従日記にはさらに、今上天皇の即位の礼について、「ちぐはぐな舞台装置」「今後の先例になることを恐れる」などと既述されているようです。

 儀式の一貫性のなさに宮内庁内で不満があったとする報道もありますが、それどころか国の一大事である御代替わりについて、何ら準備がなされていなかったというのがむしろ真相でしょう。戦後の皇室制度のあり方全般が問われるべきなのです。


▽3 毎日がスクープした文仁親王の「懸念」

 もうひとつのスクープこそは、全体性に欠ける典型例というべきものでしょう。

 秋篠宮文仁親王殿下が、大嘗祭に公費を支出することは避けるべきではないかという「懸念」を宮内庁幹部に伝えていると毎日新聞が伝えています。関係者への取材で明らかになったというのです。

 記事は、大嘗祭の宗教性、憲法の政教分離原則、多額な費用の支出方法などについて説明していますが、それらの事実と殿下のご懸念とがどう関係するのかは不明です。それどころか、同紙の取材に対して、宮内庁幹部は、殿下のご懸念について「承知していない」と答えたと記事にあります。

 記事にはむろん、殿下がいつ、どこで、誰に、どのように、ご懸念を示されたのか、具体的な情報は見当たりません。大嘗祭について、どのような意味で懸念されるのか、ましてや、御代替わり全体についてどのようにお考えなのか、まったくうかがえません。

 皇族ご本人への直接取材ではない、宮内庁幹部からの二次情報に基づく伝聞が記事にされていることも特徴的です。直接取材が困難な皇室報道の常とはいえ、全体像はますます見えにくくなります。

 毎日は、昨年5月にも、退位(譲位)をめぐる有識者ヒアリングの発言に関して、「陛下公務否定に衝撃」などと、同様に二次情報として陛下の「ご不満」を報道し、このため宮内庁職員による「秘密の漏洩」と批判され、刑事告発されています。

 局部的な事象を具体的に取り上げるのが報道の使命ですから、個々の記事における全体性の欠如の指摘は批判になりませんが、全体的な視点を持っているかどうかは記事を書く記者の見識に関わります。

 メディアは御代替わりに関する全体的な国民的議論を喚起すべきではないでしょうか。
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