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現代にふさわしい大嘗祭のあり方とは? ──秋篠宮文仁親王殿下の「大嘗祭」発言に思う [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月2日)からの転載です

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現代にふさわしい大嘗祭のあり方とは?
──秋篠宮文仁親王殿下の「大嘗祭」発言に思う
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 秋篠宮文仁親王殿下がお誕生日会見で、大嘗祭のあり方について、率直に疑義を示されたというので話題になっている。

 殿下は、大嘗祭は「ある意味の宗教色が強いもの」で、したがって「国費で賄うことが適当かどうか」と仰せになった。「宗教行事と憲法との関係はどうなのか」「やはり内廷会計で行うべきだ」「身の丈に合った儀式にすれば」というのが「私の考え」とのことである。

 関連質問に対してのお答えだが、殿下は以前からこのお考えを披瀝してこられたものらしい。

 ポイントは、大嘗祭の性格と政教分離原則との関係、大嘗祭の本来的あり方、皇族の意見と政治との関係、の3点かと思う。


▽1 大嘗祭は宗教的儀礼なのか

 まず指摘しなければならないのは、たいへん失礼ながら、殿下はどこまで祭祀をご存じなのかということである。

 たとえば、皇室第一の重儀とされる新嘗祭は、天皇陛下が神嘉殿の内陣でご親祭になるあいだ、皇太子殿下は隔殿で控えられる。けれども、ほかの男子皇族方は殿外でご参列されるのみである。

 秘儀とされる祭式は、天皇から皇太子へ一子相伝で伝えられるという。

 皇族方は大祭ならご参列だが、小祭ならご参列もない。もしや新嘗祭、そして大嘗祭の祭儀について、詳細をご存じないのではあるまいか。

 宮中祭祀の宗教性は外見的に見れば、誰でも感じるところであり、だとすれば、憲法の政教分離原則からすれば、とくに厳格主義に立つならば、殿下の仰せの通り、公金の支出には疑問を抱かざるを得ないかも知れない。

 けれども、とくに新嘗祭、大嘗祭は、そのルーツは遠く古代の宗教儀礼だとしても、むしろ国家儀礼としての意義を理解し、価値を積極的に見出すべきではなかろうか。

 政府は前回も、今回も、大嘗祭を「稲の祭り」と理解している。稲作の儀礼なら宗教行事といえる。だが、実際は「米と粟の祭り」である。稲作民の米と畑作民の粟による国民統合の儀礼と考えられる。けっして特定の宗教儀礼ではない。

 天皇の祭祀は特定の宗教ではないし、国民に信仰を強制する性格のものでもない。教義もないし、布教の概念もない。したがって国民の信教の自由を侵すわけではない。政教分離原則に反することはない。長く伝えられてきた貴重な文化財でもある。だとすれば、公金の支出は率先して認められるべきではないか。

 政教分離原則を厳格に考えることも理解できないわけではないが、どうしても原則をきびしく貫くのなら、ミッション系スクールへの助成金は違憲だろうし、長崎県が県をあげて推進した教会群の世界遺産登録運動は振り出しに戻さなければならない。

 御代替わりは国事そのものである。内廷のみで行われる国事などあり得ないと思う。


▽2 大嘗宮を宮殿の庭に建てられないか

 とはいえ、明治以後、巨大化した大嘗宮の規模などを考えると、殿下が仰せのように「身の丈にあった」「本来の姿」を再検討すべきではなかろうか。

 京都に都があったころ、哲学者の上山春平先生が指摘したように、大嘗宮は紫宸殿南庭に、大嘗宮の儀の7日前に着工され、祭りのあと、焼却された。

 明治末に登極令が定まり、そのあと行われた大正の大嘗祭では、大嘗宮の規模がかつてないほどに壮大になった。当然、大嘗宮は紫宸殿前庭では納まらず、仙洞御所の北側を拓き、設営された。

 江戸時代、115代桜町天皇の大嘗宮は東西16間、南北10間の柴垣をめぐらして設けられたというが、大正の大嘗宮は東西60間、南北60間を板垣で囲い、建てられた。

 岩井利夫・もと毎日新聞記者が『大嘗祭の今日的意義』で指摘しているように、近代の国家主義華やかなりしころの産物といえる。

 昭和の大嘗宮も平成の大嘗宮も、この大正の大嘗宮を前例として踏襲している。そして今回もである。当然、殿下が仰せの通り、「相当な費用がかかる」。工事も1週間で済むはずはない。

 いまどき世界に国威を誇示する必要はない。殿下が仰せのように、神嘉殿で、とはいわないが、宮殿の中庭もしくは前庭に大嘗宮を建てることは無理だろうか。聞くところによると、昭和宮殿は即位儀礼が宮殿で行われることを想定して、庭を広く設計された。

 しかし今回についていえば、すでに時期を逸している。陛下が「譲位」を仰せ出されたときに、御代替わりのあり方について、議論を始められなかったことが返す返すも悔やまれる。

 それと関連して、殿下のような皇族のご発言で、基本的な議論をしなければならないのはじつに不幸である。皇室は権力政治とは一線を画されるべき存在だからである。役所の都合に合わせて皇室を利用しておきながら、「聞く耳を持たない」官僚たちはきびしく批判されるべきではないか。今回のことはその結果である。

 次の御代替わりは陛下の御意思によって始まった。陛下はビデオ・メッセージで象徴天皇制度のあり方を問いかけられたが、主権者たる国民が十分に応えているとはいえまい。2000年の歴史を踏まえて、現代にふさわしい御代替わりのあり方を、私たちは真剣に追い求めるべきだろう。
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