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江戸中期の国学者が解説する大嘗祭 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 1 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月4日)からの転載です。

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江戸中期の国学者が解説する大嘗祭
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 1
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 10月2日、宮内庁の大礼委員会が開かれ、即位の礼や大嘗祭の日程・式次第の詳細が決められました。もっとも重要な事柄が土壇場まで遅れました。

 宮内庁HPに載る資料によると、秘事に属するはずの大嘗宮内の神座がイラストで説明され、御告文の先例が情報公開されている半面、新嘗の祭りが常陸国風土記に描かれているとしつつ、それが米ではなくの新嘗であることには触れていません。大嘗宮の柱が皮付きの丸太を用いることは説明されながら、屋根の葺き方には言及がありません。板葺き屋根に対する昨今の保守派からの批判をかわしたい思惑でもあるのでしょうか。

 ということで、歴史上の過去の大嘗祭とはどのようなものだったのか、古典をひもとき、考えてみることにします。ここでは江戸期の資料を取り上げます。

 戦前戦後を通じて、もっとも偉大な神道思想家として知られる今泉定助という人がいます。歴代首相のほとんどが教えを受けたといわれるほどの人物ですが、その今泉が大正の御代替わりのときに、国文学者の池辺義象とともに著した『大嘗祭図譜』(大正4年)という本に、一条兼良の『代始和抄』とともに、江戸中期の国学者・荷田在満の『大嘗会便蒙』(上下二巻、元文4年)が全文引用されています。

 大嘗祭は周知のように、応仁の乱後、途絶えてしまいました。江戸時代になり、東山天皇のときにいったん復活したものの、次の中御門天皇のときには行われず、その次の桜町天皇のときにふたたび行われるようになりました。

 この中御門天皇から桜町天皇への御代替わりに立ち会った荷田在満は、前記の大嘗祭の解説書を出版したのですが、皇室の秘儀を公開したというので公家衆から非難を浴び、ついには江戸幕府から100日間の閉門を命じられることとなりました。このときの経緯は在満が「大嘗会便蒙御咎顛末」に記録しています。

 そんなスキャンダルめいた謂れがあるものの、その内容が確かなものであることは、180年後、今泉らの著書にそっくり掲載されたことから明らかでしょう。

 そこで今号からしばらく、『大嘗会便蒙』を多少私流に現代訳したうえで、ご紹介することにします。初回は大嘗祭の歴史です。


『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽1 大嘗祭の歴史

 大嘗会というのは、その年の新穀を天子みずから天下の諸神に供したもう儀式である。諸神ことごとくに嘗めたもうために、大嘗というのだ。また、新穀を供するため、新嘗ともいうのである。

 そもそも新嘗というのは、日本紀神代上に、天照大神の新嘗と見えるのが初めである。しかしこれはみずから召し上がるばかりで、祭りではない。同下に、天稚彦(アメノワカヒコ)の新嘗とあるのもまた同じである。

 人の代になると、仁徳天皇40年に、「新嘗の月にあたり、宴会日をもって酒を賜る」とあるのが最初である。けれどもどのように行われたのか、知ることができない。

 その後、清寧天皇2年11月、「大嘗供奉の料より、播磨国司山部連先祖、伊予来目郡小循に遣わす」と見えるのが、大嘗の字が出てくる初めで、播磨国はすなわち斎国だと見えるから、大嘗の儀はまさにこのときから始まったといえる。

 また、顕宗天皇2年11月に、「播磨国司伊予来目部小楯、赤石郡において、みずから新嘗供物を弁ず」と見え、天武天皇5年9月に、「新嘗のため、国郡を卜すなり。斎忌(ユキ)すなわち尾張国山田郡、次(スキ)丹波国珂沙郡」などとも見えるので、昔は大嘗ともいい、また新嘗ともいい、さして差別も見えなかった。

 その後、大宝元年のにいたり、すべて大嘗といい、そのなかで毎年行うのは事小にして、御一世に一度ずつ行われるのは事大なるを、ともに新嘗とはいわなくなった。令より後の国史で、貞観延喜などの書に至っては、御一世に一度ずつの事大なるばかりを大嘗といい、毎年のは新嘗といい分けることになり、今の世まで続いている。

 さて、新帝の御即位は、7月以前ならその年に大嘗会を行い、8月以後なら翌年に行うのが定めで、後花園院の永享2年庚戌までは行われてきたが、後土御門院の御代の始め、兵乱の最中であったので行われず、それ以降、中絶し、256年を経て、東山院の貞享4年丁卯になって再興された。

 ところが先帝中御門院の御代始めに、また理由があって行われず、当今(桜町天皇)も享保20年乙卯11月に御即位されたので、翌元文元年丙辰に行われるべき例だが、行われ難い事情があって、延期された。同2年丁巳は諒闇だったので、今年戊午、貞享より51年でふたたび再興された。

 そもそも貞観延喜の頃に行われた大嘗会は、その儀式は広大にして、今の世に学び出づるべくもない。江次第などに載せてあるのと、貞享に行われたのと、今年の儀式とは大方は同じである。ただし、今年の儀は、江次第よりは略されていて、貞享よりは少し厳格である。(続く)

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