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都人が見物に押しかけた御禊も今は昔 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 3 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月7日)からの転載です

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都人が見物に押しかけた御禊も今は昔
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 3
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『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽3 御禊と忌火の御飯

 つぎに御禊(ごけい)ということがある。

 禊も「はらえ」と読み、祓と同じ儀だが、天子などには禊といい、つねの人には祓という。これも荒見河祓と同じ意味で、天子はこれより清浄になさるために、これまでの汚穢を祓い清めようと御禊をなさるのである。

 11月朔日から大嘗祭の散斎であるため、10月末に行われる。今年(元文3年)は29日である。昔は川辺に行幸があり、行われたのだが、後世は略せられ、清涼殿の昼御座(ひのおまし)に出御なさって行われる。

 その儀は庭上に御贖物御麻を案に載せておき、宮主(みやじ)がこれを奉る。御贖物は御巫が取り次ぎ、中臣女がこれを奉る。御麻は祭主が取り次いで、中臣女がこれを奉る。天子がこれを撫でられ、御息を吹きかけて、返される。その次に、関白にも贖物を手渡され、関白も祓いをなさる。昔は、このとき公卿以下も同じく祓をすることが江次第に見える。いまはそうではない。

(斎藤吉久注=菅原孝標女の『更級日記』に「初瀬詣で」のくだりがあります。
 永承元(1046)年10月25日は、ちょうど後冷泉天皇の御禊が行われる日で、世間は大騒ぎでした。近親の人たちも「御一代一度の見物で、地方の人も集まってくる。初瀬詣で(奈良の長谷寺参詣)なんていつでもできる」と猛反対し、夫の橘俊通だけが「いかにもいかにも、心にこそあらめ」と許してくれたのでした。
 この文章によって、加茂川で行われる御禊を京都周辺の人々が見物しに殺到したことが分かります。
 しかし応仁の乱で大嘗祭は途絶え、江戸期に復活してのちも、かつてのように川辺で行われることはなかったのでした。
 明治の登極令には、御禊の定めそれ自体がありません。
 前回の御代替わりでは、政府の求めに応じて皇位継承儀礼について意見を述べた上山春平元京大教授(哲学)が、御禊見物に京都中の人が葵祭のときのように押しかけたと繰り返し指摘していたことが思い出されます)

 次に、忌火の御飯(おんいい)を捧げることがある。(下図は『御大礼図譜』(大正4年)に全文引用された『大嘗会便蒙』の挿絵)
忌火御飯の図@大嘗会便蒙.png

 忌火は斎火であり、これは11月朔日、この日から大嘗会の散斎であるがゆえに、前日までの火を捨て、あらためて清き火で御飯を捧げるのである。その火が改められる初めて御膳であるがゆえに陪膳(はいぜん)の仕様以下、いつものように略儀ではなくして、本式にするのである。

 ただし、これは大嘗祭の前に限られたことではなく、中古までは毎年6月、11月、12月の朔日に、かならずこれを捧げた。

 これはみな、その月に格別の御神事があるために、その月の朔日に火を改めるからである。

 その儀は、清涼殿の大床子の前に台盤を立て、その上に御膳を供する。まず4種といって、酢塩酒醤を供え、つぎに御薬として、薄鰒、干鯛、鰯、鯵を供え、つぎに御汁物とて、ワカメの汁を供える。

 右のように、供え終わったうえに、出御があり、御膳にお着きになり、御箸を取られ、御飯に突き立てられるばかりにて、入御なさる。そのあと御膳を撤するのである。

(斎藤吉久注=明治の登極令には、忌火の御飯についての記述は見当たりません。
 荒見河の祓い、御禊と同様、失われたということでしょうか。在満が解説した重要儀礼のいくつかが歴史に埋もれてしまったのはなぜでしょう)

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コメント 1

桜子

> 祓と同じ儀だが、
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「儀」→「義」

> 11月朔日から大嘗祭の
> ただし、これは大嘗祭の
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「祭」→「會」

> つぎに御薬
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「御薬」→「御菜(おんさい)」

以上と思います。
by 桜子 (2019-10-23 16:08) 

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