SSブログ

意味論がすっぽりと欠けている ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 14 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月19日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
意味論がすっぽりと欠けている
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 14
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽14 意味論がすっぽりと欠けている

お、次に帛の御衣を著御し、本殿に還御す。伴、佐伯、南門を閉ず
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png

 回立殿で帛の御衣に召し改めなさり、紫宸殿をさして還御なさるのである。その渡御のあいだの儀は最前の戌の刻の渡御のときに同じである。今年(斎藤吉久註=元文3年)はこの還御が卯の刻(斎藤吉久註=午前6時)におよんだ。

(斎藤吉久註=『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会編、昭和6年)によると、昭和天皇の場合、回立殿から頓宮に還御されたのは午前3時10分と記録されています。
 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』では、平成の大嘗祭で、天皇が主基殿を御退出になったのは午前3時25分でした。
 元文3年の桜町天皇の大嘗宮の儀はずいぶんと時間がかかったもののようです)

 翌辰の日に悠紀の節会ということがある。すべて大嘗会はその年の新穀をまず天神地祇に供しなさり、つぎに天子も嘗なさる儀である。昨卯の日に神祇への供進は畢(おわ)ったので、今明両日は、天子が新穀を召し上がり、そのついでに諸臣へもたまうのである。

 今辰の日は悠紀の節会で、悠紀の国司から物を賜り、明辰の日は主基の節会で、主基の国司から物を賜る。

 ただ、今日の悠紀の節会のあとで、まず主基の節会の略儀なるをも行い、明日の主基節会の前に、また悠紀の節会の略儀なるをも行われるがゆえに、両日それぞれ両節会があるのである。

 まず今日の悠紀の節会には、天子が紫宸殿の悠紀の帳に出御なさる。昔は悠紀の帳、主基の帳といって、帳を別に設けられたのだが、いまは帳は1つで、その帳のまわりに悠紀の御屏風を立てめぐらせるので悠紀の帳と呼び、主基の御屏風を立てめぐらせるので主基の帳と呼び替えるのである。

 そして、中臣が賢木(さかき)を捧げ、紫宸殿前の版位について、天神の寿詞を奏し、群臣もともに奏することがある。

 また常の供膳のほかに、白黒の御酒を供する。白酒(しろき)というのはつねのすめる酒である。黒酒(くろき)というのは常山(くさぎ)の灰を入れた酒である。黒酒をこのようにするのは、延喜のころから見られ、いまも同じである。しかし、なかごろ(遠くない昔)は、黒酒には黒胡麻の粉を振ったことが見られる。

 そんなこともあったのだろうか、また一献のあとに、悠紀方の鮮味といって、雉子を梅の枝に付けたのと、蜜柑と搗ち栗とを髭籠(ひげこ)に入れて、松の枝につけて奉るのである。これは行事の弁といって、葉室権右弁頼要、悠紀の国司並びに膳部に持たせて、庭中に立てるのである。

 また三献のあとには、御挿頭(かざし)を奉り、臣下にも挿頭をたまう儀がある。その挿頭は、天子は桜で、銀で作る。大臣は藤、大納言は山吹、参議は梅で、いずれも真鍮で作り、滅金(めっき)をかける。ただ、この定めは昔と同じではない。

 このほかは内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等、常の節会に異なるところがないので、これを略する。

 また主基の節会には主基の帳に出御があるばかりで、常の節会と同じである。

 翌辰の日にも、まず、悠紀の節会がある。天子が悠紀の帳に出御があるばかりで、常の節会と同様である。

 つぎに主基の節会がある。主基の帳に出御があり、おおかたは昨日の悠紀の節会に同じである。ただ、寿詞の奏はなく、白黒の御酒を供しない。主基方の鮮味は、梟を楓の枝につけたのと、鶉を萩の枝に付けたのとを奉る。

 主基の行事の弁は、烏丸左少弁清胤、主基の国司ならびに膳部に持たせて、庭中に立てるのである。

 御挿頭を奉り、臣下にも挿頭をたまうのは昨日の悠紀の節会と同様である。

 このほかは常の節会と同じである。節会が畢(おわ)って、清暑堂代で御神楽がある。

 翌午の日に豊明節会ということがある。これは大嘗の礼が畢ったので、群臣と遊宴なさる儀である。

 今日は紫宸殿に高御座を飾り、天子がここに出御なさる。内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等以下、常の節会に異なることはない。

 ただ三献のあとに、吉志舞(きしまい)を奏する。昔は大嘗一会のあいだにあまたの歌舞があった。いまは辰巳両日、4度の節会に各風俗を奏し、豊明節会に国栖(くず)の奏とこの吉志舞とだけである。

 ただし、この舞も伝わらないということで、ただ伶人数輩が巡回するだけである。

 大嘗一会の儀式はこの豊明節会でことが畢わる。ただし、11月晦日まではなお散斎である。これを後斎という。

以在麿自筆本之写本比校完

文政12年7月26日 信友

(斎藤吉久註=以上、荷田在満『大嘗会便蒙』を簡単に現代訳した上で、全編をご紹介しました。大嘗祭の全容が手に取るように分かります。
 ただ、在満は5W1Hのうち、誰が、いつ、どこで、何を、どのように、までは説明してくれるのですが、なぜ、までは解説していません。
 なぜ大嘗宮は皮付きの柱を用いるのか、なぜ屋根は萱葺きなのか、なぜ皇祖神のみならず天神地祇を祀るのか、なぜ米と粟の新穀を捧げるのか、なぜ新穀を捧げる祭りが皇位継承の儀礼となるのか、在満は答えてくれません。
 在満だけではありません。天皇の祭祀について解説する、国学者、国文学者、祭祀学者、神道学者らが、天皇の祭祀の実態だけでなく、その持つ意味にまで踏み込んで、あるいは古来、天皇が祭祀をなさってきたことの本質的意味をも説明しているのを、少なくとも私は知りません。意味論がすっぽりと欠けているのです。
 今日、さまざまな混乱が生じているのは、当然の結果であろうと私は考えています。皇位継承論もまたしかりです。天皇学の深まりが急務なのです)


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。