SSブログ

所先生、葦津「大嘗祭」論の前提を見落としてませんか ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 4 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月22日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
所先生、葦津「大嘗祭」論の前提を見落としてませんか
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 4
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 即位礼正殿の儀を目前にして、18日の日経(電子版)に、「儀式は持続と変化の象徴」と題する所功・京都産業大名誉教授のインタビュー記事(聞き手は井上亮編集委員)が載った。

「古代(の儀式)はもっと豪華盛大で、平城宮や平安京における即位儀式の規模は近代を凌いでいます」「明治以降、それまでの中国式を改め、日本式のものを工夫して作り上げた知恵は大切にしてほしい」「(戦前の意匠が削除されたことについて)古事記、日本書記の伝承だから排除するというのは疑問です」などの指摘は、さすがに傾聴に値すると思う。

 しかし、FBでも指摘したことだが、政教分離問題に関連して、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦先生の名前を出してのコメントには同意しかねる。葦津先生のいわゆる大嘗祭「公事」論には暗黙の前提があるということが、無視されていると思うからだ。

 政府は、大嘗祭には宗教性があるとの認識で、前回同様、今回も、大嘗祭は「国の行事」ではなく「皇室行事」として挙行されることになっている。ただし、公的性があるとして、内廷費ではなく、宮廷費から経費が支出されることとされている。

 このことについて、所先生のインタビューでは、前回、葦津先生は「国の儀式と皇室の行事に優劣があると考えるのは大間違いだという指摘」をしたことになっている。そのうえで、所先生は、次のように述べ、インタビューは締めくくられている。

「国の儀式は政府が関与するものですが、皇室の儀式、とりわけ宮中祭祀は独自の聖域の行事なのだから、その独自性を守ることに意味があります。つまり、すみ分けをして、即位礼は国の儀式として政府主催でやるが、大嘗祭は皇室の伝統行事として宮内庁中心にやればよい。両者にそういう性格分けをして、堂々と行えるようにしていくことが賢明だと思われます」

 たしかに天皇の聖域である祭祀に公権力が干渉、介入するのを許さないため、「国の行事」と法的に位置づけないことは1つの知恵であり、実際、当初は現行憲法下での挙行さえ危ぶまれた大嘗祭が無事に執り行われたことは大きな成果といえる。

 しかし、全体として国事であるべき御代替わりの諸儀礼が「国の行事」と「皇室行事」に分断され、予算執行も区別されることは、「賢明」(所先生)なことであろうか。前回、昭和天皇の大喪の礼で、「国の儀式」としての大喪の礼と「皇室行事」としての斂葬の儀が分断して行われたことを、所先生は「賢明」なことと評価するのだろうか。

 所先生がいう「葦津珍彦さんの言われてきたこと」というのは、当メルマガでも何度か言及した、昭和59年2月に宗教専門紙「中外日報」に掲載された「皇室の祭儀礼典論──国事、私事両説解釈論の間で」での主張を指しているものと思われる。

 葦津先生の論考は、大嘗祭=非「国の行事」=「皇室行事」論の論拠とされ、所先生もそのように信じ込んでいるようだが、私はそういう理解は完全な誤りだと考える。

 すでに指摘したように、戦後の神社界をリードしたはずの葦津先生が神社界の専門紙ではなく「中外日報」に所論を発表した意味を考えるべきだろう。レトリックを多用した葦津先生の文章は字面だけを読むべきではない。そして当時の自民党政権はきわめて弱体だったことを忘れるべきではない。

 つまり、今日とは政治状況がまったく異なり、憲法改正など夢のまた夢であり、なおかつ、内閣法制局が政教分離の厳格主義に凝り固まっていた時期である。その厳しい状況下で、御代替わりが刻一刻と目の前に迫りつつあったとき、便法として編み出されたのが、いうところの大嘗祭「公事」論なのだと私は思う。

 その目的は、良識ある神道人に信頼して、まっとうな議論を喚起し、問題点を浮き彫りにすることだったのだと思う。それにアウンの呼吸で反応したのが、上田賢治・国学院大学教授(のちの学長)だったのだろう。

 葦津先生の議論は正確にいえば、皇室の祭儀礼典に関するものなのに、ひとり大嘗祭に関する主張に曲げられて解釈され、驚いたことに、宮中祭祀一般は「私事」だが、大嘗祭は「公事」などという理解しがたい議論にまで発展している。「天皇に私なし」という皇室の原理の否定を葦津先生が容認するわけはないのに。

 古来、国の中心である天皇の御位の継承が国事でないはずはない。ところが、いまの憲法では「国事」といえば、「国事に関する行為」しかない。憲法は「国事行為」を列挙しているが、「国事」自体の定義はない。

 皇位継承に関する問題の核心は畢竟、憲法それ自体にある。しかし憲法を改正できないなら、次善の策を見出すしかない。その苦悩のなかで葦津先生がもがいていたであろうことを、所先生はまったく理解していないのではないか。

「国の儀式と皇室の行事に優劣があると考えるのは大間違いだ」などというのは、言い訳に過ぎない。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。