SSブログ

少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作 [御代替わり]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯
──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作
(2019年12月30日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


一昨日、時事通信が、昭和天皇の大喪の礼に関する、興味深い記事を配信しました。昭和57年に外務省が宮内庁と極秘に協議していた。外務省外交資料室が秘密指定を解除した記録から明らかになった、というのです。〈https://sp.m.jiji.com/article/show/2320998

記事によると、その経緯は以下のようなものでした。

昭和57年6月 宮内庁は外務省に対して、在英、西ドイツ、フランス、ユーゴの各公館長宛てに、当該国元首の葬儀の内容について調査することを依頼した。他方、外務省儀典官室では、英国のジョージ6世、スウェーデン国王、現職大統領で死去したケネディ、チトーの国葬を調査するとともに、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳といった歴代首相の葬儀も参考にすることを決めた
同年秋ごろ 西田誠哉儀典長の指示で、ごく少数の間で作業が開始された
同年12月はじめ 外務省出身の安倍勲式部官長らとともに、勝山亮宮内庁審議官と協議した。このとき勝山氏は、皇室典範の規定に基づき「大喪の礼」を行う、国葬になるとの見通しを示し、「大正天皇の時の例にならう」とも述べた


▽1 なぜ伝統が否定されるのか

記事から浮かび上がってくるのは、(1)外務省、宮内庁は皇室典範に記された「大喪の礼」を、皇室の歴史と伝統に基づく儀礼とは必ずしも理解していないこと。(2)基準とすべき先例を、国内より海外の元首や現代の首相の公葬に求めたこと、(3)宮内庁内には大正天皇大喪儀を先例として踏襲する考えがあったこと、です。

126代続いてきた皇室には膨大な儀式の体系がありますが、官僚たちは皇室の伝統を軽視して、むしろ海外に学ぶ新例を開こうとしたのでしょうか。昭和天皇崩御のあと、斂葬の儀で装束を着るという伝統派の職員が提出した計画書に、「時代錯誤」「日本の恥」と怒り狂った宮内庁幹部がいたという話を思い出します。

ともかく、戦後何十年もの間、皇位継承の重要事について具体的なあり方を検討してこなかった政府が、昭和天皇の最晩年になってようやく重い腰を上げたのです。昭和天皇は昭和62年4月、お誕生日の宴会の儀で御体調を崩され、9月には開腹手術を受けられました。翌年6月に宮内庁次長ほかによる幹部会が設けられ、7月には藤森昭一長官が準備指令を出しました。泥縄です。

以前、「文藝春秋」に書いたように、戦前は憲法と同格の皇室典範を頂点とする宮務法の体系があり、天皇の大喪儀については皇室喪儀令およびその附式(大正15年)に具体的かつ詳細な規定がありました。

ところが、戦後、皇室典範は改正され、新憲法の公布に伴って皇室令は全廃されました。依拠すべき具体的な定めを失ったのです。〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1〉〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-22-1

だから、外務省も宮内庁も振り出しにもどって、大喪儀のあり方を模索するほかはない、と考えたのでしょうか。しかしそれは誤った判断ではなかったでしょうか。

第一に、戦後の皇室典範の立法者たちは「大喪の礼」を新例とは考えていないと推定されます。むしろ皇室伝統の形式による大喪儀の諸儀礼を意味していると考えるのが妥当です。というのも、皇室典範改正案として帝国議会に提出された確定案は、「大喪の礼」が一つの儀式(the Rite)ではなく、複数形の諸儀礼(the Rites)として表現されているからです。皇室儀礼の体系に変更はないという趣旨の議会での答弁がされているからです。

また、「文藝春秋」のインタビューで永田さんが述べているように、皇室の儀礼の伝統は皇室令の廃止後、宮内府長官官房文書課長による依命通牒第三項によって、「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること」とされ、かろうじてながら存続しています。祭祀令は廃止されたけれども、祭祀令の附式は生き残ったのです。

この依命通牒はその後も廃止されていません。だからこそ、貞明皇后の御大喪は26年6月、占領中で神道指令が効力を有しているにもかかわらず、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。昭和34年の皇太子御成婚の結婚の儀は賢所大前で、天皇の国事行為として行われています。


▽2 参加を強制しなければ済む

依命通牒は生きている、と平成になって宮内庁幹部が国会答弁しています。とすれば、皇室喪儀令の附式に準じて、昭和天皇の大葬儀は行われるべきでした。しかしそうはならず、「大喪の礼」なる新例が開かれ、皇室行事の斂葬の儀と分離・ドッキングして行われました。そして静謐なる祭儀の途中に、鳥居や大真榊を取り外す無様なドタバタ劇が演じられました。

原因は政教分離であり、宮中祭祀や神道にだけは厳しい政策の二重基準です。昭和50年8月15日に宮内庁が長官室会議で、政教分離の厳格主義を採用することに改め、皇室儀礼の非宗教的改変を密室で断行したのがそもそもの始まりです。宮内庁や外務省が国内ではなく海外の例を参考に「大喪の礼」の挙行を模索したのは、当然の成り行きだったでしょう。

神道指令下の占領中でも、社会党政権下でも、側近の侍従による御代拝が粛々と行われたのに、公務員が祭祀に関わることはまかりならんとにわかに解釈運用を一変させた法的根拠が明らかにされるべきです。

最後に蛇足ながら申し上げると、かつては大喪儀に際して「大喪使」という特別の官制が臨時に設けられました。明治30年の英照皇太后の場合は、宮内省達で宮中に設置され、長官には皇族が親任されました。同45年の明治天皇崩御に際しては、勅令で大喪使官制が裁可公布され、大喪使が宮中に設置され、総裁には皇族が勅命されることとされました。

そして大正15年10月の皇室喪儀令です。崩御の公告、追号の勅定広告、廃朝、大喪使設置などが定められました。大正天皇崩御の日に勅令で公布された大喪使官制は、大喪使は内閣総理大臣の管理に属し、総裁は皇族から勅定されるとされました。皇室喪儀令の附式は第一編大喪儀、第二編皇族喪儀からなり、第一編第一の天皇大喪儀には殯宮移御の儀、追号奉告の儀、陵所地鎮祭の儀などが細かく定められています。

現代の官僚たちはなぜ大喪使という特別組織を立てようとしないのでしょう。そうすれば、宮内庁職員が日常業務をこなしながら皇位継承儀礼に携わる業務の過酷さを回避できるはずです。政府が直接関わるという形式も避けられたはずです。皇室典範は「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めているだけなのです。

東日本大震災の追悼式は毎年、政府主催で行われます。兵庫県の阪神大震災追悼式典は県などの主催です。前者は行政が直接関わり、後者は実行委員会方式で、民間組織も加わっています。犠牲者の追悼は明らかに宗教行為ですが、いずれも政教分離違反とはされません。兵庫では毎回、キリスト教の宗教音楽が演奏されますが、違憲との批判はありません。

それなのになぜ皇室の宗教伝統は重視されないのですか。参列を強制しなければ済むことでしょうに。時事通信の記事にある昭和50年代の宮内庁にはまだ大正天皇の先例に学ぼうとする幹部がいたようですが、外務省OBが中枢を占めるいまの宮内庁に伝統重視を期待するのは無理なのでしょうか。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。