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男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか [皇位継承]

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男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか
《斎藤吉久のブログ 令和2年4月5日》
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秋篠宮文仁親王殿下の「立皇嗣の礼」が19日に行われます。むろん殿下は昨年4月末日の皇室典範特例法施行に伴い、すでに「皇嗣」の地位にあります。令和の次の天皇は殿下に決定済みなのであり、皇統は弟宮に移ることが法的に決しています。これを公式に「宣明」されるのがこの儀式です。

ところがこの期に及んでもなお、「陛下の次は愛子さまに」という期待の声があとを断ちません。皇室伝統の男系継承主義に反し、秋篠宮親王、悠仁親王を差し置いて、皇室のルールではなく民意を根拠として、愛子内親王の皇位継承を敢行しようとする気運の背景には何があるのでしょうか。20年前はたかだか5割弱の女帝容認でしたが、いまや8割にも及んでいます。男系派は押される一方です。

男系固守と女帝容認とは正反対のはずです。しかしじつのところ両者は親を同じくするカインとアベルではないのかと私は疑っています。それは論理構造が演繹法的で、共通しているからです。

演繹法は現代人には分かりやすいですが、古来の演繹法的かつ帰納法的な天皇意識とは論理的に異なることになります。女系派ならいざ知らず、男系派が演繹法のみに固執するかぎり、神が異なる一神教同士のように対立が先鋭化するだけでなく、皮肉なことに、対立する女帝派の演繹法的論理を後押しするオウンゴールを蹴り続ける矛盾を犯すことになります。女系派の圧勝はその結果でしょうか。

うまく説明できるかどうか不安ですが、今日はそのことを書きます。


▽1 男系派と女系派それぞれの論理

男系継承固守派は皇室の「歴史と伝統」を根拠としています。皇祖神の存在がまずあり、『古事記』『日本書紀』などの古典があり、天壌無窮の神勅ほか三大神勅による国体論が導かれ、初代神武天皇以来、男系で継承されてきた万世一系の皇統史が強調されます。

櫻井よしこさんや竹田恒泰さんのように天皇の祭祀に注目される方々もおられます。明治以前は御所に内侍所があり、東京奠都後は宮中三殿が置かれることとなりました。宇多天皇以後、歴代天皇は雨の日も風の日も、国と民のために祈る石灰壇御拝を欠かされず、近代以後は側近による毎朝御代拝に変わったものの、いまもその祈りは続いています。
(画像は京都御所・清涼殿の石灰壇)
京都御所・清涼殿の石灰壇

承久の変の前夜、順徳天皇が書かれた『禁秘抄』の冒頭には「およそ禁中の作法は神事を先にす」とあり、古来、天皇の公正かつ無私なる祈りが天皇第一のお務めとして、126代続く、男系によって切れ目なく継続してきた価値を男系派は重視しています。

つまり、皇祖神→天孫降臨神話→宮中祭祀→男系固守という論理の流れになります。江戸時代に興ったという国学の論理もおおむね同様で、国学、神道学を学んだ人たちの多くはこの論理で男系継承を強く支持することになります。

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一方、女系容認派が依拠する第一の論拠は日本国憲法です。天皇の地位は主権者である国民の総意に基づいています。天皇は憲法に基づいて、国事行為のみを行う「象徴」という位置づけになっています。

象徴天皇はまた行動する天皇であり、被災者に寄り添い、非命の犠牲者に祈りを捧げるなどの御公務によって国民の絶大な信頼と支持を得ています。国事行為や御公務をなさるのに男女の区別はあり得ません。新しい2.5代天皇論の考え方です。渡邉允元侍従長や河西秀哉准教授などはこの立場になります。

論理構造とすれば、憲法→象徴天皇論→国事行為・御公務→女帝容認という流れです。

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▽2 いずれも古来の天皇観とは異なる

論理はそれぞれ成り立ちます。いずれも大前提となる神の存在があり、神の言葉があり、経典と教えがありますが、出発点となる神は異なります。片や皇祖神、片や憲法典、これでは議論は噛み合いません。いずれも一神教のドグマに陥っているからです。「あなたには私のほかに神があってはならない」(モーセの十戒)という一神教の原理からすれば、他者の存在を肯定することは許されません。

しかも先帝は「大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし……日本国憲法を守り」(「即位後朝見の儀」のおことば。平成元年1月9日)と明言され、今上も「上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し……憲法にのっとり」(同。令和元年5月1日)などと、皇室の伝統と憲法の原理の両方を尊重することを宣言しておられますから、話は複雑です。男系派も女系派もそれぞれが錦の御旗を手にしたつもりになり、議論はますます対立的になります。

けれども、私はどちらも間違っていると考えています。スメラギ、スメラミコトと称された古来の伝統的天皇観はもっと違うと思うからです。現行憲法を神とする女帝容認論が126代天皇の存在を前提としていないのは明らかですが、皇祖神を原点とする男系派の論理もまた、国と民をひとつに統合する機能を天皇第一の務めと考える古来の天皇観とは必ずしも一致しないと思うからです。

女帝どころか、歴史にない女系継承まで容認した平成17年の皇室典範有識者会議は、「伝統」の尊重を基本的視点の1つに置きましたが、それはあくまで日本国憲法を第一の神とする戦後60年の象徴天皇制度の「伝統」でした。「さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討した」(「はじめに」)といいつつ、神代にまで連なる皇室の天皇観は顧みられず、皇族方の意見に耳を傾けることもしませんでした。その結果が「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」(「結び」)という結論でした。

 【関連記事】削減どころか増えている陛下のご公務──皇室典範有識者会議報告書を読み直す その2https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-04-07

もう一方の男系派はどうでしょう。皇祖神の存在を前提とし、皇室の古い伝承に基づいた論理からすれば、一見すると皇室の天皇観とぴったり合致しているように見えます。しかし違うのです。古来、民衆の側にさまざまな帰納法的天皇観があり、その多様性を容認しつつ、全体的に国と民をひとつに統合する天皇の機能が見落とされているからです。天皇統治は一神教ではなく、多神教原理に支えられてきたことが忘れられているのです。


▽2 土着的民衆の側の多様な天皇観との共存

皇室の伝統的天皇観とはいかなるものなのか、あらためて考えてみます。

古来、皇祖神の神勅に基づく演繹法的な天皇観が記録され、伝えられてきたことは誰でも知っています。同時にその一方で、土着的民衆の側の多様なる、帰納法的天皇観の存在が認められます。

この両者のダイナミックな併存こそ、皇室の、そして日本人のごく普通の精神的伝統なのだと思いますが、いまは見失われかけています。神棚に神宮大麻と氏神様の神札を納めて祈る信仰形式どころか、神棚自体を失っているのが現代の日本人です。代わりに近代主義を神と祀り、男系派も女系派も、キリスト教神学並みの演繹法的論理に走り、その結果、日本人の精神的伝統から逸脱していくのです。

たとえば私の郷里では古来、養蚕と機織が暮らしの中心でしたが、その技術は崇峻天皇の妃から直接、教えられたと伝えられ、妃を大神として祀る神社が地域に点在しています。滋賀県湖東地域の山中には木地師たちの根源地があり、横挽きの轆轤を発明したと伝えられる惟喬親王を租神として祀る壮麗な神社が集落ごとに建てられています。

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皇祖天照大神の存在を原点とし、神勅を根拠とする天皇論あるいは国体論は江戸期の国学者たちが始めたもので、明治維新の精神ともなりましたが、その一方で皇祖神を出発点としない多様な天皇意識、信仰が各地の地縁共同体や職能集団に伝えられています。しかし、いまは忘れられています。

面白いことに、新たな神も生まれています。「関東最古の大社」といわれる埼玉・久喜市の鷲宮神社は「アニメの聖地」とされ、アニメファンが多数、参拝するようになりました。お宮の祭神論、由緒からは「アニメ」はあり得ず、キリスト教的な発想なら「異端」のはずですが、日本人はそうは考えません。逆に積極的に受け入れられています。

東京・乃木坂の乃木神社も同様です。明治天皇に殉じた乃木希典将軍夫妻の御霊(みたま)が祀られるお宮ですが、いまやアイドルを目指すギャルたちの聖地です。拝殿横には「乃木坂46のオーディションに受かりますように」と書かれた祈願の絵馬を何枚も見ることができます。祭神とアイドルグループには直接のつながりはありませんが、素朴な祈りを拒むものはありません。

祀られた神の側の論理とは別に、祈る側の心理が、より高いレベルで統合され、総合的により大きな日本人の精神世界が形成されています。天皇という存在もまた同様ではなかったでしょうか。国と民の統合者という意味で、スメラギ、スメラミコトと呼ばれてきたのはそのためでしょう。


▽3 女帝容認派が8割を占める理由

皇室には皇室の物語があり、それらは記紀をはじめとする古典に記録されていますが、民の側には民の側の多様な天皇意識や信仰があり、それらを一段と高いレベルで、多神教的に、価値多元主義的に、多様なるままに統合する機能が天皇にはあります。

それが皇祖神のみならず天神地祇を祀り、米のみならず粟をも捧げて祈る天皇の祭祀なのだと思います。「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされてきたこと、「稲の祭り」ではないということが重要なのだと思いますが、なかなか理解されません。

 【関連記事】天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか? ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-07-21

男系継承固守派は大雑把にいうと国学や神道学の流れを汲んでいますが、神道学者は天皇の祭祀の詳細に通じているとは限らないし、庶民の信仰を明らかにしてきたのは神道学ではなくて、民俗学です。男系派は天皇の祭祀を「稲の祭り」と信じ込み、「米と粟」に注目する知識人もその意味を追究し切れずにいます。一神教的理解に留まっているのです。

まして女帝容認派には古来の歴史、祖先の存在、地域の文化への眼差しが最初から欠けています。宮中祭祀廃止論を唱えた原武史教授が、故郷意識を喪失した親の代からの転勤族だったのは典型的です。彼らだけではありません。いまやほとんどの日本人が遊牧民化しています。「祖先」「伝統」「故郷」はもはや死語です。天皇を身近に感ずる、暮らしに密着した、土着の天皇意識が失われているのです。

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世論調査で女帝容認が8割を占めるに至ったのはその結果でしょう。祖先を失い、故郷を失い、信仰を失い、歴史を失い、バラバラの個人に分裂し、世界を彷徨う現代人にとっての天皇とは、憲法に書かれた天皇であり、メディアに映る行動する天皇でしかありません。男系継承の歴史的意味などを理解できる前提を失っているのです。日本人は変わってしまったということでしょうか。

皇室にとっては天皇は126代の存在ですが、現代日本人には2.5代の天皇にしか見えません。そのなかで皇位を継承していく天皇の苦悩はいかばかりかと拝察されます。せめて男系派の奮闘を祈ります。


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加藤

斎藤先生

いつも、非常に興味深く拝見させて頂いております。

女性宮家創設論・女系継承容認を強く訴えている小林よしのり氏は
立皇嗣の礼について『 皇太子は天皇の子で、将来の天皇であることが確定した地位だが、皇嗣は単にその時点で皇位継承順位1位という 過ぎない』と主張しています。

つまり今後とも、愛子皇太子も有り得るという立場です。

私は秋篠宮様が、将来の天皇であることが確定したので、その旨を国の内外に『宣明』するのだと思っていました。

確定していないのなら、わざわざ国を挙げて『宣明』などする必要はないと思うのですが、いかがでしょうか?

先生は女系容認は皇室にとって、許容し難いのではないかと思っていますす。

先生にお尋ねしたいのですが、祖先祭祀というのは、他の家系の人間でも可能なのでしょうか?

先日、愛子さまが宮中三殿に参拝し、皇祖に対し大学進学をご報告されたと報道されました。

思い返してみれば、内親王や女王が参拝されたと報道されても、各宮家の妃殿下が宮中三殿に上がられたとは報道されません。

妃殿下は御身分は皇族であり家族であっても、厳密にいえば神武天皇の子孫ではないので参拝されないのでしょうか?

そういえば光明皇后も皇后になった後でも文書に「藤三娘」と署名していたと記憶しています。

「日本書記」の大田田根子の逸話にもある通り、父系の子孫でなければ祖先祭祀を継承できないとされているのであれば、女系の子孫では祭祀を行うことはできないのではないでしょうか?

もしそうならば、女系になれば伊勢神宮はおろか、宮中三殿も、三種の神器も不要になるのではないかと思います。

まるで他人の家のお墓参りをしているように思いますし、皇婿がキリスト教を信奉していたら、十字架を掛けるのでしょうか。

女系容認の人からすれば「宮中祭祀や止めてしまえ、憲法の定める国事行為と、御公務さえ行っておればよい。」の言うのかもしれませんが、そんな皇室を皇族が望むのでしょうか?

先生の記事を拝読し、天皇が天皇たる所以を国民が理解するとともに、男系派が正しく理解し、説明できるようにならなければ、ならないと思いました。

by 加藤 (2020-04-05 22:53) 

さいちゃん

基本的なことですが、
宮中祭祀は祖先崇拝ではないと思います
祖先崇拝というのは
一家の祖先を神として祀るということでしょうが、
皇室は一家ではないからです
家なき家が皇室なのです
家を超えているところに天皇の存在と価値があるということではありませんか?
by さいちゃん (2020-04-06 12:37) 

加藤

私の拙い質問に御返信下さり恐縮しております。ありがとうございます。

「宮中祭祀は祖先崇拝ではないか?」とお尋ねしたのは、

天照大神を祀る「賢所」、天神地祇・八百万神を祀る「神殿」での祭祀だけではなく、歴代の天皇・皇族の霊を祀る「皇霊殿」でも祭祀が行われているので、宮中祭祀には皇室の祖先崇拝も含まれるのではないかと考えました。

「皇霊殿」に祀られている歴代天皇や皇族は、天照大神の子孫ですが、女系の天皇は、天壌無窮の神勅のいう「子孫」には入らないと思うのです。

歴代の天皇に女系の天皇の例は皆無なので、「女系は天照大神の子孫では無い」と歴史が証明しているのではないでしょうか。

ですから天照大神の子孫でもない女系天皇が、宮中祭祀を行う姿を想像すると、私は違和感を抱きます。

やはり天皇の皇位継承は「家族」ではなく、皇族という父系で繋がる「氏族」の中でのみ継承可能と考えるべきなのではないでしょうか?


しかし、現代の感覚では、両親から生まれた実の子供が継ぐのが自然で、男が継いでも女がついでも血筋はつながっている。だから女系でもいい感じる人が大半のようです。

一般社会の感覚と、神勅に起源をもつ皇室の継承ルールを同一視しても良いのでしょうか?

by 加藤 (2020-04-06 17:57) 

さいちゃん

加藤さま

葦津珍彦先生が書いておられるように、「天皇に私なし」というのが大原則だとすると、ファミリーの私的祭祀が行われるはずはないことになりませんか
「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」とされたのはその意味でしょう
大嘗祭の御告文を見れば、祖先神を称え、家族の安寧、子孫繁栄を祈る祖先崇拝とはまったく異質であることは明らかではありませんか
by さいちゃん (2020-04-11 11:46) 

加藤

ありがとうございます。非常に勉強になります。

なるほど。
「天皇に私なし」が大原則ということであれば、私的祭祀は有りえませんし、祖先崇拝とは言えないという事なのですね。

ただそうなると 昭和天皇祭などの先帝三代の祭祀はなぜ行われるのでしょうか?神武天皇祭は別格としても、どうしても先祖崇拝のように受け止めてしまうのです。


皇学館大の新田均教授は、古代人は男系(or父系)を『祭り主の血筋』と捉えられてきたと主張されています。 それゆえに、天皇の祖先祭祀も男系以外は務まらないと考えられてきた指摘されています。

皇室の外から嫁がれた妃殿下方が宮中三殿に上がられないのは、そのためかと思っていました。

この新田先生の指摘は、どのように受け止めたらよいでしょうか?

しつこくお尋ねして、申し訳ありません。
by 加藤 (2020-04-11 22:22) 

さいちゃん

私たちが祖先に祈るのと天皇・皇族が皇祖神に祈るのは中身は同じですか?
新嘗祭は男子皇族だけの祭祀ですが、ほかは必ずしもそうではないのではありませんか?
だからこそ西尾幹二先生は妃殿下のお参りがないことを批判し続けられました
by さいちゃん (2020-05-04 21:47) 

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