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壺切御剣が殿下のおそばにない──ふたたび考える「立皇嗣の礼」の延期 [御代替わり]

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壺切御剣が殿下のおそばにない──ふたたび考える「立皇嗣の礼」の延期
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今日予定されていた秋篠宮文仁親王の「立皇嗣の礼」の諸儀礼が、新型コロナウイルス対策に伴い、秋以降に延期されました。前回、取り上げた通りです。

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殿下はすでに皇室典範特例法の施行によって、昨年5月1日午前0時をもって「皇嗣」となられています。「国権の最高機関」とされる国会の定める法律によって、「皇嗣」としての法的地位が得られたのですが、今回の「延期」は、皇室の原理である「祭祀優先」主義との矛盾をさらに拡大させているのではないか、というのが私の指摘です。

分かりづらいところがあったように思われますので、もう一度、考えてみます。


▽1 「およそ禁中の作法は神事を先にす」

かつては天皇の御意向が法とされ、勅旨による儀式が最重要視されました。皇位の継承では、紫宸殿で天皇の宣命が宣せられた瞬間に皇太子は新帝となり、そののち剣璽は動座されました。そして皇嗣は、天皇が詔を宣することで皇太子が立てられ、壺切御剣が伝進されたのです。

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明治になり、アジア諸国のなかで、近代法をいち早く導入したのがわが国ですが、大正の御代替わりは微妙でした。

明治の皇室典範は「天皇崩ずるときは皇嗣すなわち踐祚し、祖宗の神器を承く」(第10条)と規定し、登極令は「天皇践祚のときはすなわち掌典長をして賢所に祭典を行わしめ」(第1条)と定めていましたが、明治天皇崩御の正確な日時は7月29日午後10時43分で(『昭和天皇実録』)、これでは賢所大前の儀式が間に合いません。

結局、崩御の公式時刻が2時間後の翌日午前0時43分に延期され、深夜1時に賢所の儀と剣璽渡御の儀が同時に執行されたのでした(官報号外)。「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇『禁秘抄』)の精神を優先するため、現実主義的対応策が講じられたということでしょう。

戦後の神道指令発令以後、宮中祭祀は「皇室の私事」に貶められましたが、宮内庁関係者によれば、それでも皇室では「神事優先」の原則が守られてきたと聞きます。たとえば行幸の日程が旬祭などの祭祀と重なる場合、行幸の日取りが変更されたのでした。

昭和天皇が行幸先で賢所の方角をたいへん気にされたという逸話が残されていますが、それは「白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡(みあと)となしたまはず」(ゆめゆめ伊勢神宮や賢所に足を向けてはならない)が禁秘抄の教えだからです。

古来、歴代天皇は祭祀を第一のお務めとされましたが、昭和40年代に祭祀嫌いの入江相政が侍従長となり、さらに無神論者の富田朝彦次長が登場して、宮内庁それ時代が一変し、「祭祀優先」は崩れていったのです。(詳しくは拙著をお読みください)

 【参考文献】拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%B0%A1%E7%95%A5%E5%8C%96%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B-%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%90%89%E4%B9%85/dp/4890632395
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▽2 皇室の伝統を蔑ろにする保守長期政権の皮肉

平成の御代替わりではさまざまな不都合が起き、令和の御代替わりでも同様のことが繰り返されました。無神論的な政教分離の厳格主義が背景にあることはもちろんです。皇室の伝統重視を基本方針のひとつとしたはずなのに、実際は皇室の宗教的儀礼に不当に介入したのです。それが「一強」とされる保守長期政権の皮肉な実態です。

 【関連記事】宮中祭祀を「法匪」から救え──Xデーに向けて何が危惧されるのか。昭和の失敗を繰り返すなhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01

たとえば賢所の儀です。

皇室の「神事優先」の大原則からいえば、昨年5月1日午前0時をもって皇位が継承されるということなら、前日の夕刻、もしくは当日未明に賢所大前の儀式が行われるべきです。しかし、実際はあろうことか、「退位」と「即位」が分離され、即位(践祚)を奉告する「賢所の儀」は最後まで時刻の決定が遅れたうえに、践祚から10時間半遅れ、宮殿での剣璽等承継の儀と同じ、当日午前10時30分挙行となりました。むろん御代拝でした。

 【関連記事】賢所の儀は何時に行われるのか? ──いつまでも決まらない最重要儀礼https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-01-20

今回の「立皇嗣の礼」では、宮殿での「宣明の儀」(国の行事)は「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを公に宣明されるとともに、これを内外の代表がことほぐ儀式」(官邸の式典委員会資料)〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_iinkai/dai9/gijisidai.html〉とされ、4月19日午前11時開始とされました。

他方、「天皇が立皇嗣の礼を行うことを奉告される」儀式である「賢所皇霊殿神殿に親告の儀」(皇室行事)は2時間前の同日午前9時挙行とされました。〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/pdf/shiryo020324-2.pdf

宮中三殿で「親告」があり、そののち宮殿で「宣明」が行われるという順序は「祭祀優先」の原則にかなっているようにも見えますが、法的な冊立からはすでに1年近くも経過しているのです。そして新型コロナウイルス感染拡大防止のため、さらに少なくとも半年遅れることとなったのです。この間、壺切御剣は殿下のおそばにないことになります。

むろんウイルス感染拡大防止は現実問題として重要ですが、「神事を先にす」という皇室の原理が蔑ろにされていることはほとんど間違いありません。問題は歴史と伝統ある宮中の儀礼と近代法制との関係であり、もはや弥縫策ではなく、総合的に再検討すべき時期に来ているのではないかと私は思います。

皇祖のみならず天神地祇を祀る公正かつ無私なる天皇の祭祀への偏見があるとすればなおのことです。そうでなければ、国の行事と皇室行事を分離する必要はないからです。皇室を大切に思う保守派こそ声を上げるべきではないでしょうか。


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