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《再掲》「米と粟の祭り」──多様なる国民を統合する新嘗祭 [宮中祭祀]


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《再掲》「米と粟の祭り」──多様なる国民を統合する新嘗祭
(令和3年11月23日、勤労感謝の日)
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本日夕刻から、陛下は宮中の奥深い神域・神嘉殿で、皇祖神ほか天神地祇を祀り、新穀を供し、みずから食される新嘗祭を親祭されます。陛下がなさる新嘗祭とはいかなる祭りなのか、以下、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2007年11月20日号)号から転載・再掲します。


▽1 見落とされている粟の存在

毎年11月23日の夜に宮中で行なわれる新嘗祭、あるいは天皇が天皇となって初めて行なう大嘗祭という神事で、天皇がみずから神々にささげ、そのあとご自身で召し上がるのは、一般には米の新穀といわれています。しかし、じつはそうではなく、米と粟の二種類の穀物の新穀であり、米だけではありません。

にもかかわらず、大嘗祭も新嘗祭も一般には「稲の祭り」といわれ、大嘗祭に用いる米を納めるために選ばれる農家は「大田主」と呼ばれ、重んじられるのに、粟を納める農家は「大田主」とは呼ばれません。実際の神事において、どちらが重要というわけではないようですが、粟の存在はしばしば見落とされています。

研究者も稲にばかり注目し、なぜ米といっしょに粟が捧げられるのか、ほとんど研究らしいものが見当たりませんが、奈良・平安のころ、民間には粟の新穀を神々に捧げる祭りが行なわれていたのは事実のようです。古い書物にそのような記録があるからです。


▽2 かつては粟の新嘗があった?

各地方の情報を集めた書物を地誌といい、日本最初の地誌として奈良時代に元明天皇の命でまとめられた風土記が知られています。その中で現在の茨城県について伝えている「常陸国風土記」に、母神が子供の神々を訪ね歩く筑波郡の物語が載っていて、「新粟の新嘗」「新粟嘗」という言葉が登場します。

日が暮れたので富士山の神さまに宿を請うと、「新嘗のため、家中が物忌みをしているので、ご勘弁ください」と断られたのに対し、筑波山の神さまは「今宵は新嘗だが、お断りもできまい」と大神を招き入れた、というのです。

ここから、このころの新嘗祭は村をあげて心身をきよめ、女性や子供は屋内にこもって、神々との交流を待ち、ふだんならもてなす客人を家中に入れることさえはばかったことが分かります。

それなら文中に出てくる「新粟の新嘗」「新粟嘗」とは何でしょう。たとえば「日本古典文学大系」では、この「粟」に「脱穀しない稲実」と注釈が加えられていますが、どう見ても疑問です。

「粟」はあくまで「粟」であって、ある民間の研究者が解説するように「宮中祭祀としての新嘗祭は、民間の素朴な新嘗が母体になっていると考え、宮中新嘗祭における粟は、その残影として理解することは無理であろうか」という問いかけの方が素直な理解ではないでしょうか。


▽3 祭りの霊力で国民をまとめてきた天皇

それでは、なぜ米と粟をささげるのでしょう。

民俗学の第一人者、近畿大学の野本寛一教授は、筆者の取材にこう答えています。

「天神地祇に米と粟をささげる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は、米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」

野本教授は『焼畑民俗文化論』で、水田稲作以前の民が粟や芋を栽培していたこと、この畑作文化は民俗学の先駆者である柳田国男が提唱した、東南アジア島嶼地域に連なる「海上の道」をたどって伝来したこと、を説明しています。

天皇にとってもっとも重要な神事である新嘗祭、大嘗祭は、「稲の祭り」だけではなく、稲作儀礼と畑作儀礼という淵源の異なるふたつの儀礼の複合と理解されます。

天皇は政治力でも、軍事力でもなくて、祭りを通じて、祭りの持つ霊的な力によって、文化的に多様な国と民をひとつにまとめることを務めとされてきた、ということが浮かび上がってきませんか。


参考文献=『風土記』(日本古典文学大系2、岩波書店、昭和33年)、落合偉洲「新嘗祭と粟」(「神道及び神道史」国学院大学神道史会、昭和50年7月所収)、野本寛一『焼畑民俗文化論』(雄山閣出版、1984年)など


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松原 徳文

たまたま、常陸風土記の高橋虫麿の 筑波山の歌垣についてパソコンを開いていた所でした。

筑波峯(つくはね)の會(つどひ)に娉(つまどひ)の財(たから)
       を得ざれば、兒女(むすめ)とせずといへり

 『合コンで声を掛けられなかった(プレゼントもらえなかった)お姉さんは・・・』今も昔と変わらないな~、なんて思ったり(笑)

 定年後しばらくタイで仕事をしておりました、従業員はイサーン(タイの東北地方)からの出稼ぎで 昼の主食はカオニョ・蒸したもち米でした。 彼らに聞くと収穫祭(新嘗祭)はどうやら2種あるみたいで北の方チェンマイ周辺は、水神・田の神に数種類のお米を備える、米どころの中部タイ・スコータイ周辺は稲の女神(メーコーソップ)に捧げる。との事。 タイは仏教国と思いがちだが、バラモン教、日本と似ている固有の宗教もあるから稲の女神が居たりするようです。ウケモチの神や豊受の神を彷彿とさせます。そう云えば四川省雲南のシーサンパンナーは タイ語(シップソンパンナー)で1200の棚田の意味だと。タイ族が南に下りランナー王朝 (ランは百万、 ナーは田んぼ)で チェンマイは(新しい城郭・首都)だと。

 数年前にベトナムに行ったとき、ダナンのホテルの入口に竹細工の様な船が(一寸法師の乗るようなお椀みたいな) 海幸・山幸の乗った ”目無カタマ”が本当に有ったとビックリしました。


by 松原 徳文 (2022-03-12 10:24) 

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