SSブログ

新嘗祭=収穫儀礼説をふりまく驚きの発信源 [宮中祭祀]


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
新嘗祭=収穫儀礼説をふりまく驚きの発信源
(令和4年11月30日、皇太弟殿下のお誕生日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今日は皇太弟殿下のお誕生日です。心からお慶びを申し上げます。
koukyo01.gif
さて、このところ宮中新嘗祭について繰り返し書いてきました。粟の御飯(おんいい)を再現する実験を通して、神嘉殿の米と粟の新嘗祭が収穫儀礼ではなく、国民統合の儀礼であることがいよいよ強く確信されることとなりました。

しかし一般には、天皇の祭りは収穫儀礼であり続けています。先週の水曜日は新嘗祭当日でしたから、SNSでも少なからず取り上げられていましたが、残念なことに、ズブの素人とは思えない人たちもまた「稲の祭り」「収穫儀礼」で終始しています。

なぜそう考えるのか、根拠は何かと調べてみたら、これまた驚くべき事実を発見してしまいました。なんと正確な情報を発信すべき立場にある神社本庁周辺が発信源だったのです。

私など足元にも及ばないほど日本史に造詣の深い、あるライターのブログを読んだとき、私はまさかと思いました。日本古来の新嘗祭は、その年の収穫を感謝する日である、11月23日は戦前は「新嘗祭」だったが、敗戦後、「神道色を払拭せよ」とのGHQの意向によって改称を余儀なくされた、と説明されています。

いくつか指摘すると、まず新嘗祭といっても、民間のそれと宮中のそれとは異なります。11月23日が「新嘗祭」という祭日で、国民の休暇日とされたのは、明治6年10月の太政官布告によってです。宮中祭祀にリンクしているのが「祭日」ですから、民間の新嘗祭ではなく、宮中新嘗祭の祭日が暦上の「祭日」とされていたのです。

この記事では、そこが曖昧です。しかも、収穫物は「稲」とは書かれていませんが、挿し絵は紛れもなく「稲」のようです。筆者は収穫物=稲が疑いのない事実として書き進めているように見えます。「粟」はそもそも眼中にないということでしょうか?

問題はそのように考える根拠ですが、最後に参考文献として、神社検定のテキストや皇學館大学名誉教授の著書が挙げられているのを見て、私はまさかと思いました。

著名神社の宮司を歴任した皇大名誉教授の著書が、新嘗祭・大嘗祭=「稲の祭り」説に固まっていることは以前から知っていました。御代替わりのころ、ブログに採り上げようと思いつつ、生来の遅筆で、実現されませんでした。ここでは、神社検定テキストについて書きます。名誉教授の著書は研究不足で済みますが、神社本庁関連の公式テキストに新嘗祭=「稲の祭り」と書いてあるのなら、悪い冗談では済まないと思うからです。

参考文献になっているのは、テキスト・シリーズの第1巻です。奥付によると、監修は神社本庁、企画は本庁関連の財団、執筆は皇室関係専門誌の編集長です。平成24年が初版です。目次を一瞥すると、神社関係の情報が万遍なく散りばめられていて、脱帽します。私にはとても真似できません。

しかしです。「新嘗祭」については、どのように書かれているのか? 公式テキストの誤りは看過できません。

神社の祭りの説明では、「新穀を供える」「稲作を中心として発展してきた日本」などと説明がつづいています。「稲の祭り」説にこり固まっています。

宮中祭祀の新嘗祭については、「恒例祭祀のなかで最も重要」「陛下が神嘉殿で新穀をお供えになり、神恩を感謝される」とあります。「稲」とも「米と粟」とも記述はありません。

神社についていえば、『風土記』の時代には民間に粟の新嘗があったし、いまも神社の祭りがすべて稲の祭りとは限りません。日本の歴史が稲作中心といえないことは、柳田國男が「日本列島は米作適地とは言いがたい」と繰り返し書いていることから明らかです。各地の神社に非稲作文化が伝えられているのを、見過ごすべきではありません。

神嘉殿の新嘗祭は、昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元掌典によれば、「新米・新粟をもって炊いた米の御飯および御粥、粟の御飯および御粥」などが主要な神饌とされています。神社検定テキストが「新穀」と書いているのは必ずしも間違いではありませんが、祭りの意義を矮小化させ、誤解を招く原因を作っていませんか?

粟の民である台湾先住民が稲作を禁忌したように、米の民と粟の民は本来、別の文化圏に属するのでしょう。天皇が異文化の作物をあらゆる神に同時に捧げて祈る新嘗祭の意義は、単に「新穀を供える」という説明からは生まれません。

逆に、農業社会の遺物であり、現代社会には相応しくない、廃止を検討すべきだという宮中祭祀廃止論を後押しする論拠ともなり得ます。収穫儀礼ではなく、国民統合の儀礼だとの意義づけは、「新穀を供える」ではなくて、「新米と新粟を供える」という事実を、ありのままに理解することが出発点です。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。