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影をひそめた「国家神道」批判──「終戦記念日」カトリック大司教談話を読んで [日本カトリック]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月29日)からの転載です


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影をひそめた「国家神道」批判
──「終戦記念日」カトリック大司教談話を読んで
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 日本のカトリック教会(司教団)は、過去30年間にわたり、広島の原爆記念日から終戦記念日までを、平和のための祈りと行動の期間と位置づける「平和旬間」と定め、平和アピールを続けてきました。

 今年は司教協議会会長の池長潤大司教名で談話が発表されました。その内容は、これまでと同様、カトリック2000年の歴史を偽るかのような観念的で危険な平和主義ですが、「国家神道」批判が影をひそめたのは目新しい傾向です。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/100707.htm


◇1 教皇メッセージのつまみ食い

 大司教談話は、冒頭、「過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです」という、30年前に来日した教皇ヨハネ・パウロ二世のメッセージを引用し、今年は世界では核廃絶を求める声、国内では沖縄の基地不要の声がわき起こったと続き、オバマ大統領のプラハ宣言を「過去の過ちに目を向けた」と評価しています。

 さらに、今年が韓国併合百年であることに言及し、「過去の植民地支配や武力による侵略という歴史的事実」に対する反省、歴史認識の共有、和解を訴えています。

 日本の司教様方は過去の植民地支配や戦争批判にはきわめて熱心です。しかしヨハネ・パウロ二世がアピールしたのは核兵器廃絶であって、日本の「侵略」やアメリカの原爆投下を告発し、批判したのではありません。

 本来、カトリックの教義は戦争を絶対的に否定しているわけではありません。教皇は信仰の完成を呼びかけたのであって、悔い改めに名を借りて「戦争責任」を追及したわけではないのです。絶対平和主義に立つ日本の司教様方の平和アピールは、バチカンの教えに背く、教皇メッセージのつまみ食いといえます。

 他方で、現実に目の前で進行している平和への脅威、すなわち中国共産党政府によるチベットや新疆ウイグルの植民地的支配や軍拡、北朝鮮の核開発については、司教様方は完全に口をつぐんでいます。観念的であるだけでなく、平和を現実に阻害するのが、池長司教協議会長の談話です。

 目の前の軍事的脅威が見えないのだとすれば、世間知らずそのものだし、意図的に見ようとしないのなら、これまたバチカンが禁ずる聖職者の政治的言動そのものです。要するに異端行為です。

 ただ、今回の談話でとくに注目されるのは、「国家神道」批判が消えたことです。表面上、みずからの反省だけになりました。


◇2 表面的な誤魔化しか

 振り返れば、20年前、昭和天皇が亡くなり、国民が悲しみに暮れた当日、司教協議会は、「明治以降の天皇制と結びついた国家神道」をあげつらい、「過去の忌まわしい時代に逆戻りする危険を絶えずはらんでいる」と主張したうえで、「追悼ミサをあげたり、政府行事に教会の名を連ねたりしないことが望ましい」と、国と国民統合の象徴である天皇の崩御に際して、冷酷非情な文書を、聖職者におくりました。

 5年前の戦後60年には「非暴力による平和への道」なる「平和メッセージ」を発表し、中国や韓国で高まっていた反日運動を取り上げ、その背景に日本の歴史認識や首相の靖国参拝、憲法改正論議などの問題があると指摘し、さらに政教分離原則を緩和する憲法改正の動きは戦前の復活になりかねない、と牽制しました。

 つまり、司教様方の「反省」はこれまで、みずからの「反省」ではなく、「国家神道」批判でした。ところが、今回の談話は、少なくとも表面上は、「国家神道」が消え、「私たちカトリック教会の責任を含め、日本の植民地政策がどのようなものであったか、それが人々をどう傷つけてしまったのかを真摯に振り返ることが大切です」と、「被害者」の目線に立った、自己批判の立場をとっています。

 それなら具体的に何を「反省する」というのでしょうか。

 司教様方による日本批判のスタートは、戦後50年の節目に発表された「平和への決意」と題する司教団教書で、公式に過去の歴史を反省し、平和への決意を宣言しました。

 絶対的平和主義の立場に立ち、日本人と教会の戦争責任をそれぞれ指摘し、「日本軍は朝鮮半島や中国、フィリピンなどで、人々の生活を踏みにじった」「残虐な破壊行為で無数の民間人を殺した」「強制的に連行されてきた朝鮮人や元従軍慰安婦は、日本が加害者だったことを示す生き証人だ」などと激しく追及したのです。

 いまや「朝鮮人の強制連行」説は史実ではないと否定されています。司教様方の「国家神道」悪玉説もどこまで実証的なのか、危ういところです。歴史を謙虚に学びなおした結果として、「国家神道」が司教団の談話から消えたのか、それとも表面的な誤魔化しなのか。

 前者なら、これまで教会が発した公的文書を書き換える必要がありますが、司教様方にそのような動きはないようです。とすれば、表向きの取り繕いなのでしょう。


◇3 北朝鮮で殉教したバーン神父

 司教様方がほんとうに反省すべきなのは、一面的な事実を振り回し、歴史を偽証してきたことではないでしょうか。戦前および戦時中に教会が迫害を受けたかのような主張はその最たるものです。

 むしろ戦時中のカトリックには輝かしい信仰の歴史があります。しかし戦後、司教様方は黙して語ろうとしません。

 たとえば、アメリカ人のパトリック・バーン神父(メリノール会。のちに司教)です。

 バーン神父は戦時中、日本にとどまった唯一のアメリカ人でした。日米開戦後は当然、軟禁状態におかれたのですが、担当の特高の刑事は「えらい方ですわ」とすっかり心酔し、祈りをともにするほどだったといいます。

 そればかりではありません。戦闘が終わったあと、要請を受けて、ラジオのマイクロフォンに向かい、勝利者として日本に進駐してくるアメリカ兵たちに対して、暴行の恐怖におびえる日本女性たちへの節度をくり返し求めたのがバーン神父でした。「大和撫子の恩人」といわれるゆえんです。

 さらに、福音を述べ伝えるために朝鮮半島に渡った神父は、不運にも北朝鮮軍にとらえられ、8日間におよぶ「死の行軍」のさなか、わずかな食料を人々に分け与え、最後はみずからの命を神に捧げました。

 バーン神父の最後の言葉は感謝でした。「司祭になったという恩寵(おんちょう)以外に、キリストのために苦しむ恩寵を与えられたことは、私の生涯における大きな恵みである」

 韓国ではバーン司教の列福運動が盛んに行われているようです。イエズス会が中心の日本の教会指導者は逆に、北朝鮮支援者と強い関わりがあると指摘されていますが、日本批判に固まる司教様方は、誇るべきカトリックの歴史を忘れています。じつに偽善的であり、不信仰的といわねばなりません。

 最後にひと言、付け加えます。池長司教協議会会長の談話は、今年、日本では、「沖縄の基地は不要」という声がうねりとなった、と一方的に決めつけています。基地で働く信徒もたくさんいるでしょうに、眼中にないようです。配慮を欠いた断定は聖職者としての資格を疑わせます。

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宗教性を否定することが憲法の精神か──「白山比め神社訴訟」最高裁判決を批判する [政教分離]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年8月20日)からの転載です


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宗教性を否定することが憲法の精神か
──「白山比め神社訴訟」最高裁判決を批判する
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 先月下旬、最高裁は政教関係に関する、きわめて注目すべき、重要な判決を示しました。市長が神社の式年大祭の奉賛会に出席し、祝辞を述べたことが憲法の政教分離原則に反するかどうか、が争われた白山比め(口偏に羊、しらやまひめ)神社訴訟についての逆転合憲判決でした。

 合憲とした判断は当然だと思いますが、あたかも宗教性を否定するかのようなその論理にはかえって問題があるように思います。憲法はけっして宗教を否定してはいないからです。日本の宗教伝統に対する十分な理解を欠き、非宗教を推進するかのような判事たちの判断は弊害を生みかねないと私は考えます。


◇1 完全分離主義に立つ高裁判決

 問題とされた白山比め神社は、石川県の南部、白山市(旧鶴来町)に鎮座(ちんざ)します。加賀一ノ宮で、同時に、全国に3000社あまりあるといわれる白山神社の総本社ですから、知らない人はいません。霊峰白山を神体山とし、「石川県に世界遺産を」という世界遺産登録運動の中心の1つです。

 一昨年は御鎮座2100年というお祝いの年で、秋には50年に一度という大祭が予定されていました。そのため奉賛会が組織され、役員となった市長は5年前、市内ホールで開かれた奉賛会発会式に出席し、祝辞を述べたのです。

 これが政治と宗教(教会)の分離を定めた憲法の政教分離原則に反するとして住民が訴え、支出された1万6000円弱の公費の返還を求めたのが、そもそもの発端です。

 一審は原告の請求を棄却。しかし、これを不服とする住民が控訴、二審の名古屋高裁金沢支部は「市長の行為は、神社の大祭を奉賛・賛助する意義・目的を有し、特定の宗教団体に対して援助・助長・促進する効果を有するものといえる」と一審判決をくつがえす違憲判決を示しました。

 市長側は、「全国的に有名な神社の大祭は市の観光イベントでもあり、市長の参加は儀礼的行為」と主張しましたが、認められなかったと伝えられます。

 これまで指摘してきたように、二審判決はじつに怪しげです。それは次のような点からです。

(1)市長の祝辞の中身には触れず、市長の外形的行為についてのみ法的判断を下したこと。

(2)表向きはいわゆる目的・効果論に立ち、ゆるやかな分離主義を採用しているはずなのに、実際には宗教との関わりをいっさい認めない絶対分離主義の立場をとっていること。これでは市長は神社であれ、お寺であれ、およそ宗教団体と名のつくところとは交際ができなくなり、無宗教を掲げつつ、非宗教を援助・助長・促進することになること。

(3)神社の年祭は宗教活動で、これに伴う奉賛会活動に行政機関が参加することが憲法違反だとするならば、神社以外の記念行事などに行政が関わっていることも違憲となるが、そのような議論は聞いたことがなく、神社については厳格主義が採られ、他の宗教には限定主義が採られるというダブルスタンダードが促進されること。

 それなら、最高裁判決はどうだったのか。


◇2 市長の言い分を大きく認めた最高裁

 最高裁判決が注目されるのは、二審判決が認めなかった市長側の言い分を大きく認め、その結果、政治の宗教の分離による信教の自由の確保ではなく、かえって政治による非宗教の援助、助長、促進に走っていることです。

 つまり、二審では、事実関係として、宗教法人である神社の所在する白山周辺地域については、観光資源の保護開発、観光施設の整備を目的とする財団法人が設けられていることまでは認めたものの、市長が奉賛会発会式に出席し、祝辞を述べたことは、社会的儀礼化しているとは考えられないし、神社の大祭が観光イベントだとする市長側の主張は当たらないと退け、違憲判決を下しました。

 けれども最高裁は逆に、市長の行為が宗教との関わりがあることは否定しがたい、としながらも、同神社は観光資源としての側面があり、神社の大祭は観光上重要な行事であったというべきだとして、市長側の言い分を認めたのです。

 言い換えると、最高裁判決は、神社にとっては宗教的行事であっても、行政にとっては観光行事だと認められる。そのことにおいて、政治と宗教の分離が達成されている、という論理を展開したのです。市長は観光業者のトップセールスマンであり、神社のイベントは市長には観光業促進の商材に過ぎないから違憲ではない、というわけです。

 実際、最高裁が注目したのは、問題の奉賛会発会式が、(1)神社以外の一般施設で開かれた、(2)式次第に宗教的要素は認められない、(3)市長あいさつの内容は儀礼的で、宗教性はなかった、という事実でした。

 そのうえで、最高裁判決は、地元の観光振興に尽力すべき立場の市長が、宗教性のない儀礼的目的で出席し、祝辞を述べたのであって、特定の宗教を援助、助長、促進するような効果を持たない。だから憲法に違反しない、と結論づけたのです。

 市長あいさつの中身すら検討しなかった二審判決の怪しげさを克服した点では評価されます。実際、この判決を社会的常識にかなった妥当な判決だと評価する人もいるのですが、私は違うと考えています。

 その理由は、くり返しになりますが、(1)行政にとっての神社を観光資源だときわめて限定的に考えていること、(2)宗教性を否定することによって、政教分離原則を実現しようとすることは逆に、宗教の価値を認め、信教の自由を保障するという憲法の大原則に反すること、です。


◇3 観光資源と割り切れない

 第1に、白山比め神社が「宗教法人」であると認めている点では二審判決も最高裁判決も変わりません。

 当たり前のことで、たしかに宗教法人法上の宗教法人であることは間違いないのですが、同神社が2000年を超えて、この地にあるということは、「宗教法人」であることより、もっと広い意味があります。

 それがまさに日本の宗教伝統であるはずなのに、判決は、あるいは市長たちは、行政にとっての同社をもっぱら観光資源と割り切っている。そのことは祖先が築いてきた日本の宗教伝統の歴史に反することになると思います。

 白山比め神社は日本三大名山の一つとされる白山を女性神と仰いでいます。4県にまたがる火山はこの一帯の最高峰で、自然の宝庫です。2000年どころか、縄文時代以前にまでさかのぼるような地域の素朴な自然信仰が、やがて神社として発展していったことを十分にうかがわせます。

 戦後は一帯が国立公園になりましたが、同社の奥宮はむかしもいまも白山の頂上に鎮座しています。美しい景観、豊かな自然資源、人々の命の源であり、心の豊かさと尊い命を育んでくれる白山であればこそ、さまざまな信仰として発展を遂げたことは明らかです。現在の宗教法人としての神社はその結果です。

 そのような地域の歴史と文化に敬意を表して、地域住民の代表として、奉賛会設立に参加するというのなら理解できますが、観光業のセールスのため、端的にいえば、お金になるから参画するというのは、地域の歴史と文化をあまりに軽視している姿勢だといえませんか? 行政は白山の世界遺産登録運動を推進していますが、これまた地元観光業促進のためだというなら、了見が狭すぎて、見識を疑わざるを得ません。


◇4 法の番人が行う違憲行為

 第2に、最高裁は、奉賛会発会式の開催場所や式次第、市長あいさつの中身が非宗教的であり、儀礼の範囲にとどまることをもって、合憲だと認めていますが、逆にいえば、会場が境内の神社会館で、神社の祭祀にのっとっていたなら、違憲だと判断したのでしょうか?

 もしそうだとしたら、二審判決と同レベルになります。東京都慰霊堂での戦没者等の慰霊法要や旧水沢市のキリシタン領主祈願祭など、とくに仏教やキリスト教の宗教形式で行われている記念行事に公共団体の首長が参加しているケースは多々ありますから、影響は少なくありません。

 逆に、それらを不問に付して、神社の行事についてのみ問題視すれば、法の下の平等に反することになります。たとえば、全国の神社にはしばしば会館があり、主要な行事が行われますが、市長などの参加を求めるような行事は、会館を使用できない。神社の祭りの形式はとれない、というようなことになると、混乱は免れません。

 いずれにせよ、憲法は宗教の価値を認めているはずなのに、法の番人は宗教性というものを、とりわけ日本の宗教伝統である神道の宗教性について、まるで腫れ物に触るかのように避けている。私にはそのように見えて仕方がありません。

 そもそも日本の宗教伝統とはなにか、を歴史学的に深く解明し直さないかぎり、以上のような無用の混乱は続くのでしょう。そして、憲法が認めているはずもない行政による非宗教政策を、司法当局が援助、助長、促進することになります。つまり、司法自身が憲法に反する行為を行うことになります。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴──第3回 もはや教育勅語を悪者に仕立て上げているときではない [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月15日)からの転載です


 当メルマガはこの春から数回にわたり、畏友・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」を連載しました。

 その後、現代を代表する宗教学者、島薗進・東大大学院教授による批判を8月7日付のvol.146に掲載しました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4931746/

 今号は、これに対する佐藤さんの反論の3回目、最終回です。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴
──第3回 もはや教育勅語を悪者に仕立て上げているときではない
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 当メルマガで連載した拙論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」について、著名な宗教学者である島薗進・東大大学院教授から3点にわたるご指摘を頂戴しました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4931746/

 今回は、ご指摘の第3点、教育勅語が批判されなければならないのは、国内の思想・良心の自由を制限する方向に機能したという点について、反論を試みたいと思います。

 島薗教授は近著『国家神道と日本人』の本文において、教育勅語をめぐる様々な論議や事件があったことを述べておられます(P41)。

 そして、拙論に対しては、くり返しになりますが、こう述べておられます。

「国家神道や教育勅語が今日、批判されなければならないのは、対外的な攻撃的政策に関わったからだけではない。国内の思想・良心の自由を制限する方向に機能したことにもよっている。佐藤さんの議論は、こちらの側面についても意識されてはいるが、あまり踏み込んでいないように思える」

 ここは大変重要なご指摘です。

 帝国憲法のもっとも権威ある解説書は伊藤博文『憲法義解』ですが、井上毅の筆になったことは明らかにされています。したがって、帝国憲法・『憲法義解』・教育勅語は順接で結ばれています。つまり、近代史を理解するには三者を総合的に検討する必要があります。


◇1 精査されていない戦前の重要文書

 しかし島薗教授の研究には、戦後の諸研究が踏襲されることはあっても、戦前の重要文書が十分に精査されていないように見えます。

 たとえば、昭和戦前期を象徴する天皇機関説排撃を考えてみます。渦中の人である美濃部達吉『憲法撮要』『逐条憲法精義』を読むと、じつのところ『憲法義解』に副ったものであることが分かります。

 明治憲法に精通している中川八洋筑波大学名誉教授も「“明治憲法のコメンタリー”として、学問的に一流で、おかしなところなどどこにもない天皇機関説」(『山本五十六の大罪』P325)と記しています。

 ゆえに美濃部達吉のいわゆる天皇機関説は帝国憲法・『憲法義解』、そして教育勅語と順接で結ばれているといってよいと思います。

 その天皇機関説排撃から国体明徴運動となり、文部省『国体の本義』『臣民の道』が出版されました。したがって、『国体の本義』『臣民の道』は帝国憲法・『憲法義解』・教育勅語と逆接の関係です。

 島薗教授は『現代日本の思想』から久野収の「顕教・密教」論を第4章に引用(P177)されていますが、帝国憲法に「顕教=天皇絶対君主説」は存在しません。帝国憲法第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、此の憲法の条規に依り之を行ふ」がそれを示しています。

 さらに島薗教授は、福田義也『教育勅語の社会史』から、帝国憲法・教育勅語では天皇は神ではなく、『国体の本義』では天皇は現人神(あらひとがみ)であった、ということを引用されています。

 帝国憲法・教育勅語と『国体の本義』は逆接ですから、その通りです。天皇現御神(あきつみかみ)論と天皇御親政論は前者になく、後者に特徴的です。

 統帥権干犯論から五・一五事件となり、天皇機関説排撃から二・二六事件が起きました。テロに襲われた要人は帝国憲法遵守派でした。

 そして本当の意味で思想・良心の自由が制限されたのは、統帥権干犯論や天皇機関説排撃で憲法蹂躙(じゅうりん)時代となった昭和戦前ではないでしょうか?

 教育勅語がそのように機能したのではなく、教育勅語の曲解が、そして教育勅語に違背した『国体の本義』『臣民の道』が人々の自由を制限したのではないでしょうか?


◇2 国家神道の発生原因は詔勅解釈の誤りにある

 『国体の本義』は、詔勅解釈の誤りが反映されています。現御神は宣命(せんみょう)において、「現御神止(と)」と「止」がついて、「現御神と天下(あめのした)しろしめす」と用いられています。「現御神止」は「しろしめす」の副詞であり、天皇=現御神という意味に解釈すべきではありません。

 以上のことは、本居宣長『続紀歴朝詔詞解』『直毘霊』、池辺義象『皇室』、木下道雄『宮中見聞録』に明らかです。木下道雄の「自称」は思い違いですが、天皇が自らを現御神と宣言されたものは一つも存在しません。詳細は私のホーム・ページの「人間宣言異聞」に書きました。
http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/ningensengen.html

 また、島薗教授の『国家神道と日本人』の第五章には戦後の天皇不親政論が紹介されていますが、帝国憲法下においても、前述のとおり憲法第4条から天皇御親政論は誤りです。

 つまり『国体の本義』は帝国憲法を蹂躙(じゅうりん)し、教育勅語に違背したものだとの分析が説得力をもつと思います。明治中期以降の誤った詔勅解釈を踏襲した著述者たちが、『国体の本義』をまとめたことが原因です。

 「教育に関する勅語」と「新日本建設に関する詔書」(いわゆる「人間宣言」)の誤った解釈が戦後の我が国を支配しています。

 国家神道や天皇現御神(現人神)論の発生原因は詔勅解釈の誤りにあった、と言っても過言ではないと思います。今こそ詔勅学の構築がなされるべきではないでしょうか?

 『国家神道と日本人』の第一章に記されている、勅語渙発(かんぱつ)後におきた「不敬事件」等は、やはり残念なことだったと思います。しかし柏木義円や新渡戸稲造の教育勅語観からすると、問題の本質が勅語の内容にあったとは思えず、やはり極端な神格化に原因があったと思います。


◇3 神道指令の「国家神道」解明こそが最優先課題

 さてそれでは、いま学問的に何が求められているのでしょうか?

 GHQ職員のウッダードはのちに次のように述べています。

「日本の政治学者や思想家は、日本の「国体」にさまざまな解釈を与えた。しかしわれわれの関心は、(1)一九三〇年代および一九四〇年代初期に極端な超国家主義者と軍国主義者が「国体」について行った解釈、(2)警察国家の権力によって日本国民にカルトとして強制された「国体」の教義および実践活動、に限られる」(『天皇と神道』P9)。

 GHQが考える「国家神道」は時代がきわめて限られています。

 他方、島薗教授の『国家神道と日本人』第二章(P80)で語られている1908年の帝国議会で用いられた「国家神道」は小田貫一の発言ですが、「国家的神道」とも言っており、内容は同じです。しかしそこに「世界征服」思想はありません。神道指令の国家神道とは明確に区別するべきかと思います。

 『国家神道と日本人』の対象とする広い意味の国家神道(私が思うに国家的神道)と私が追求した神道指令の国家神道とは、そもそもターゲットが異なります。

 神社行政史から国家神道を追及すると、島薗教授のいわれるように、「制度史に力をおいて考えていくと、イデオロギーをも含んだ国家神道の歴史はわずか数年ということになってしまう」というのはよく理解できます。上のウッダードらの発言を重要視すれば、必然的にそうなるでしょう。

 神道指令の国家神道こそ、いま解明すべき最優先のテーマであると思います。


◇4 杜撰(ずさん)な政教関係裁判に拍車をかける

 島薗教授の『国家神道と日本人』では全体として、きわめて批判的な国家神道研究の先駆者である宗教学者の村上重良『国家神道』を評価されていますが、それは日本の宗教学研究の停滞を示すだけでなく、政教分離裁判の混迷に拍車をかけるものといえます。

 たとえば、次のA・Bいずれが村上重良の文章かわかるでしょうか?

A「そしてかようないわゆる国家神道は単なる宗教ではないとして、キリスト教や仏教と区別され、国民はめいめいの信仰のいかんに拘らず神社には崇敬の誠をつくすべきものとされたのである。この状態は明治維新からこの度の終戦まで約八十年間続いた」

B「国家神道は、二十数年前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした」

 Aは昭和24年、岸本英夫東大名誉教授が「神道とは何か」のタイトルで書いたものです。そしてBが昭和45年、村上重良『国家神道』にあるものです。

 岸本英夫は渋川謙一元神社本庁事務局長から「どちらかというとGHQの側から活動した人」といわれたGHQの日本人助言者でした。Aは昭和24年の段階で、さしたる根拠もなく、漠然と書かれたものだと推測できます。

 おそらくは、先に引用したダイクGHQ民間情報教育局長の次の談話が根拠だろうと推測できます。

「誤った他民族に対する優越感を與へてゐた『神の子』として侵略その他の蛮行がすべて合理化されたのは明治以来の官製神道の教義によるものである」ダイク(「朝日新聞」1945年12月17日)。

 しかし明治維新から「世界征服思想の教義」をもつ国家神道などあるはずがありません。

 以下は昭和四十六年五月に下された「津地鎮祭訴訟」の名古屋高裁判決(違憲判決)にあるものです。

「昭和20年(一九四五年)の敗戦に至るまで約八〇年間、神社は国教的地位を保持し、旧憲法の信教の自由に関する規定は空文化された」(神社本庁『津地鎮祭裁判資料集』)

 しかし法令上に国教が存在しなかったことは同裁判の最高裁判決(合憲判決)に明記されました(同)。

 この名古屋高裁判決の文章の根拠がダイクや岸本英夫を受け売りした村上重良『国家神道』にあるといわれて否定できるでしょうか?(名古屋高裁は『国家神道』を証拠として採用しました)。

 バンスGHQ宗教課長は、のちにインタビューに答えて「ケン・ダイクの在任中に行った政策では、神道指令が最高だったと、彼自身、後になって言っていました」と語りました(竹前栄治『日本占領』)。

 神道指令は今日に至るまで多大な影響を及ぼしています。GHQは国家神道の主な聖典は教育勅語だと断定しました。その教育勅語と国家神道との関係がなぜ研究されなかったのか、私には知る由もありません。

 我が国の政教関係は混迷の度を増しています。やはり神道指令の国家神道を解明しない限り、実のある政教論争とはならないのではないでしょうか?


◇5 史実の整理では「教育勅語後遺症」を克服できない

 教育学者の貝塚茂樹武蔵野大学教授は『現代教育科学』平成22年6月号において、「急がれる「教育勅語後遺症」の克服」を書かれました。

「道徳教育には目標となる道徳的価値(徳目)が必要である。たしかに、学習指導要領にも道徳的価値は列挙されているが、教育勅語が十分に清算されず、戦後教育がこれに正面から向き合うことがなかったために、戦後教育は総じて道徳的価値(徳目)を明確にすることに否定的であり、これを「教える」ことには極めて消極的である」(P115)

 まさしく「教育勅語が十分に清算されず」に今日まで至ったことは、我が国知識人全員の怠慢であると思います。

 島薗教授の『国家神道と日本人』をはじめ、これまでの国家神道論では、歴史上に起きた事柄が正確に整理され、かつリアルに著述されています。しかし今やその事柄の原因を正しく解明する時期にきていると思います。

 おそらくは「教育勅語の十分な清算」が、徳育問題や政教問題を混迷から救う唯一の道になるのではないかと考えています。

 以上、島薗教授から頂戴したご指摘3点について、深い感謝の意を込めつつ、私なりにコメントさせていただきました。最後になりましたが、ご研究の今後の発展を心から願ってやみません。(おわり)


タグ:教育勅語
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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴──第2回 「国家神道」は教育勅語の曲解から生まれた [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月13日)からの転載です


 前々回、畏友・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」に対する島薗進・東大大学院教授の批判を掲載しました。

 今号は、前回に引き続き、佐藤さんの反論の2回目です。

 戦後唯一の神道思想家といわれた葦津珍彦は、「学問は1人でするものではない」と考えて、思想の科学の会員と勉強会を重ねました。

 この研究所はその意思を引き継ぎ、学問的な交流の場を目指しています。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴
──第2回 「国家神道」は教育勅語の曲解から生まれた
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◇1 日本人の精神的武装解除を目的とした「神道指令」

 島薗進・東大大学院教授から拙論に対して頂戴した3つのご指摘について、前回にひき続いて、感謝を込めて反論させていただきます。今回はご指摘の第2点、いわゆる神道指令および「国家神道」についてです。

 島薗教授から以下のようなご指摘がありました。

 「神道指令にいう国家神道とは、教育勅語の「中外」の曲解がもとで出来た日本の超国家主義思想である」という佐藤さん(私)の理解は、「神道指令は、(1)神社神道を国家から切り離し「国家神道」ではなくし、民間宗教団体とすることと、(2)教育勅語の「中外」の語を拡張主義的に捉えるような超国家主義イデオロギーと神社神道を切り離し、前者を排除するという二つのことを目指した」というふうに改める必要があるのではないか?

 しかし私のテーマはあくまでGHQ神道指令にある国家神道です。

 GHQの占領目的は日本人の「物的武装解除」と「精神的武装解除」でした。「物的武装解除」は日本軍の解体で達成しました。したがって軍人勅諭は教育勅語のように国会で排除・失効決議はなされませんでした。ウッダードは「日本の軍隊の廃止によって、明治天皇の「軍人勅諭」(一八三三年)を考慮する必要はなくなった」(『天皇と神道』)と述べています。

 残るは「精神的武装解除」でした。GHQは昭和20年10月22日から翌21年1月9日までに具体的な5つの教育指令を発しました。

 1番目から4番目までがいわゆる四大教育指令と呼ばれるもので、日本の超国家主義的、軍国主義的な教育の一掃を求めたものでした。神道指令はその3番目の指令です。

 これに先立って、バーンズ国務長官は日本の降伏文書調印式の終了にあたり、次のような声明を発していました。

「日本国民に戦争でなく平和を希望させようとする第二段階の日本国民の「精神的武装解除」はある点で物的武装解除より一層困難である(中略)われわれは日本の学校における極端な国家主義および全体主義的教育をいっそうすると共に戦争指導者の軍事哲学を受け入れるに至った極端な日本国民の国家主権および全体主義的教育を完全に掃蕩するだろう」(「朝日新聞」1945年9月4日)

 軍国主義の除去は先に述べたとおりですが、GHQは、超国家主義は教育勅語を聖典とする国家神道にあると考えました。そのため神道指令で国家と神道を分離させました。


◇2 国家と神社神道の分離という発想はどこから来たのか

 島薗教授の言われる「神道指令は、(1)神社神道を国家から切り離し「国家神道」ではなくし、民間宗教団体とすること」、これはむしろ結果としてそうなった、という方がより正確かもしれません。

「(2)教育勅語の「中外」の語を拡張主義的に捉えるような超国家主義イデオロギーと神社神道を切り離し、前者を排除するという二つのことを目指した」

 このご指摘の(2)がまさに神道指令の目的だったと思います。神社神道から「世界征服」思想、つまり教育勅語を除去すれば目的は達成します。しかし、なぜ(1)にあるように神社神道と国家を切り離すことを考える必要があったのでしょうか。

 神道指令を発したのち、バンスを伴ったダイク民間情報教育局長は次のような談話を発表しました。

「日本古来の神道は決して軍国主義的なものではなかったが、明治以来これが侵略主義を合理化するために歪曲されたものであり、誤った他民族に対する優越感を與(あた)へてゐた『神の子』として侵略その他の蛮行がすべて合理化されたのは明治以来の官製神道の教義によるものである」(「朝日新聞」1945年12月17日)。

 本来は日本の世界征服思想・超国家主義の除去が目的でした。

 神道指令を起草したバンスが宗教学者D・C・ホルトムの著書を熟読玩味(がんみ)していたことは明らかです(『岸本英夫集第五巻』「嵐の中の神社神道」P14)。井上哲次郎が加藤玄智に影響を与え、さらに加藤玄智はホルトムに影響を及ぼしました。

 ホルトムはその著『日本と天皇と神道』において、加藤玄智や『国体の本義』から引用して話を展開しています。「日本が救世主たるの使命を持っている」(P32)とか「教育勅語は国家神道の主な聖典である」(P107)との言説にその影響が表れています。

 ことに加藤玄智は「宗教学者の立場からすれば、教育勅語は日本人の道徳書たると同時にその宗教書である」(『加藤玄智著作集』第9巻P309)と述べていました。

 教育勅語と神道が結び付き、国家神道が形成されたとバンスが考えても無理のない文言が日本の指導層にありました。チェンバレン「武士道──新宗教の発明」などと重ね合わせると、国家神道が実在する宗教だとイメージされたのかもしれません。


◇3 神道指令の目的は「国体のカルト」の廃絶だった

 ウッダードはのちに、「国体のカルト」の廃絶を命じた指令が「神道指令」の名で知られるようになった、と述べました(『天皇と神道』P9)。

「「国体のカルト」は、神道の一形式ではなかった。それははっきりと区分される独立の現象であった。それは神道の神話と思想の諸要素をふくみ、神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない。そうだったら、連合国軍最高司令官は、神道を全面的に廃絶しなければならなかったはずである」(同)。

 ウッダードによれば、「国体のカルト」とは、「政府によって強制された教説(教義)、儀礼および行事のシステム」です(同)。

 私はウッダードその他GHQスタッフの文言から、彼らが除去したかった超国家主義を追求しました。GHQのいう国家神道の教義に含まれる過激なる国家主義とは何か?

 島薗教授の近著『国家神道と日本人』第二章1「国家神道の構成要素」には「国家神道という用語は、明治維新以降、国家と強い結びつきをもって発展した神道の一形式を指す」(P57)と記されています。

 そしてさらに「私(島薗教授)の考え方は、狭い学界の用法にとらわれない論者の用法に近く、近代において国家と結びついた神道の様態が、確かにひとまとまりをなしていることを根拠に、これを国家神道とよぶものだ」(P58)とも述べられています。

 私(佐藤)の場合はあくまで神道指令にいう国家神道を追及していますが、島薗教授の国家神道は──誤解を恐れずに言えば──加藤玄智の「国家的神道」に近いのではないでしょうか?

 島薗教授の『国家神道と日本人』の内容は、明治維新期から今日に至るまでの総合的な「日本と天皇と国民と神道」を論じられた「国家的神道の近現代史」のように思います。


◇4 GHQスタッフが着目したのは「徳目」ではない

 島薗教授はこうも述べています。

 「教育勅語が国家神道の「教典」であり、そこに国家神道の教義が述べられているというのは誤解を招く言い方だろう」(P64)。

 しかし教育勅語が国家神道の「聖典」であるとしたのはGHQの関係者(バンス、ドノヴァン、スピンクスそしてホルトムら)であり、そう明言した文書が残されています(『続・現代史資料10』など)。

「教育勅語の中ほどに説かれている教えの道徳的側面は、国家神道に特有のものではない。むしろ儒教など東アジア的な伝統に基づきつつ、ある種の普遍性をもつ人倫の教えである。その限りでは「古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ」と勅語にあるのは奇異なことではない」(P64)。

 GHQが問題にしたのは、ダイク、バンスともに「之を中外に施して悖らず」であり、「之」とは「肇国の理想」でした。日露戦争以降の「斯の道」の変遷は私の主張するところですが、GHQは第2段落の「徳目」はほとんど問題にしませんでした。

 「之を中外に施して悖らず」は文部省編『臣民の道』(昭和16年)において、「まこと支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布(し)き、進んでこれを四海に普(あまね)くせんとする聖業」となりました。

 島薗教授が言われるとおり、「徳目」に問題があるとは思えません。GHQも「徳目」は問題にしていません。戦前と戦後で五倫五常の「徳目」への評価が変わったとの文書は見つけられません。

 GHQのスタッフが第3段落を訳して、「日本人の救世主願望」は世界征服の思想だ、と考えたことが文書に残されています(『続・現代史資料10』)。


◇5 「中外」を「国の内外」と解釈するのが国家神道信者

 島薗教授の『国家神道と日本人』、第二章3「神道指令が国家神道と捉えたもの」を慎重に読むと、やはり過激なる国家主義、いわゆる超国家主義の教義を外して、神道指令の国家神道は把握できません。

 バンスが「神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない」と述べたことは先に引用したとおりです。

 国家神道から超国家主義(世界征服思想)を除去すると、国家の神社神道への関与の有無に関係なく「国体のカルト」は雲散霧消します。「降伏後における米国の初期対日方針」のうち、日本人の「精神的武装解除」は達成します。

 『国家神道と日本人』の第五章「国家神道は解体したのか?」において、島薗教授は「神道指令は皇室祭祀にはまったくふれなかった」(P185)から「実は解体していない」と断定されています。

 GHQが問題にしたのは超国家主義であり、「国体のカルト」ですから、国家神道の教義が除去されたのは1948年6月19日、国会において教育勅語の排除・失効決議がなされた時であると思います。

 国家神道は解体されていない、これは島薗教授によれば皇室祭祀が手つかずである、そのことが根拠です。しかし私は、歴史文献となった教育勅語の「中外」の解釈が未だに訂正されていないことをもって、国家神道は生きている、と述べました。「中外」を「国の内外」とすることこそ、超国家主義者=国家神道信者そのものの解釈だからです。


◇6 島薗教授はGHQスタッフの文書を検討していない

 島薗教授の『国家神道と日本人』はGHQ関係者の重要文書がほとんど検討されていません。それはなぜでしょうか?

 神道指令から要約すると、GHQによる国家神道の定義とは以下の通りです。

 「天皇・国民、そして国土が特殊なる起源を持ち、それらが他国に優るという理由から日本の支配を他国他民族に及ぼす」という過激なる国家主義、つまり超国家主義思想の要素を含む国家指定の宗教ないし祭祀。

 結局のところ、「日本の支配を他国他民族に及ぼす」という超国家主義が、彼らのいう国家神道の核心部分だったのではないでしょうか? そして教育勅語が「聖典」だというのですから、「之を中外に施して悖らず」を徹底解明する必要があると思います。

 私が神道指令を読んで「国家神道というものの特定もなく」と考えたのは、「世界征服」の思想を神道に見出せないからでした。そこにあったのは「之を中外に施して悖らず」を曲解した「肇国の理想を四海に宣布」でした。神道とは直接関係のないものでした。

 私は『国家神道と日本人』の第二章から読みはじめました。論じられる対象を確認するためでした。国家神道論は複雑ですが、明治維新以降の国家的神道とGHQ神道指令の国家神道を区別して整理することが必要なのかもしれません。

 神道の施設と行事を利用して国家がある種の考え方を普及するには、やはり基盤が必要です。総合的な意味での国家的神道という基盤の上に、GHQのいう国家神道が実現された、と考えることも可能かもしれません。

 『国家神道と日本人』にはこの国家神道における「世界征服」思想がほとんど語られていません。国家としてのその表現は文部省『国体の本義』以降ですから、島薗教授の国家神道(国家的神道)論からすると、あまりにも狭義に過ぎて、取るに足らないものなのかもしれません。

 『国家神道と日本人』を読み進めてゆくうちに、つねに第二章「国家神道はどのように捉えられてきたか?―用語法―」に戻っていることに気がつきました。今日までの国家神道研究の複雑さを思わないではいられません。(つづく)


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴──第1回 教育勅語の「中外」を「国の内外」と解釈するのは無理がある [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月12日)からの転載です


 前回は、畏友・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」に対する島薗進・東大大学院教授の批判を掲載しました。

 今号からは、3回にわたり、佐藤さんの反論を載せます。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴
──第1回 教育勅語の「中外」を「国の内外」と解釈するのは無理がある
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◇1 起草者の意図を示す確実な文献があれば

 島薗進・東大大学院教授から教育勅語と国家神道に関する拙論に関し、丁寧な3つのご指摘をいただきました。島薗教授ならびに当メール・マガジン発行者で天皇学研究所の斎藤吉久所長に対し、深く感謝申し上げます。

 そのうえで、ご指摘の3点についてコメントしたいと思います。それがご多忙のなか、拙論に目を通し、ご批判くださったことへの礼儀だと考えるからです。

 今回はご指摘の第一点、教育勅語の冒頭にある「中外」の語が、「宮廷の内外」という意味だけなのか、という指摘に対して、反論します。

 島薗教授の近著『国家神道と日本人』(岩波新書)は、第一章4「宗教史から見た帝国憲法と教育勅語」に教育勅語の解説が述べられています。

「国家神道とは何かを知る上で教育勅語がもつ意義は、いくら強調しても強調しすぎることはない」(P38)

 GHQのスタッフは教育勅語を国家神道の「聖典」と断定しましたから、おっしゃるとおりだと思います。そのうえで教授は「中外」を含む文章を次のように解説されています。

(之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ)
「しかし、他方、それは日本という限定された範囲を超え、普遍性をもつものだ、とも主張されている」(P38)

 教育勅語は公開文書ですから、解釈は読み手に委(ゆだ)ねられます。解釈は原則として自由です。しかし私のテーマは、起草者の意図と解説書の解釈との違い、そしてそれがもたらした甚大な影響の追求です。

 私は文献資料から「中外」を解釈しました。したがってこれを否定する起草者の確実な文献資料等が示されれば、再検討しなければなりません。


◇2 明治以前の詔勅では「宮廷の内外」の意味がほとんど

 島薗教授から、明治天皇の詔勅では「中外」が大部分「国の内外」の意で用いられており、教育勅語の「中外」を「宮廷の内外」とするのは無理があるのではないか、とのご指摘がありました。そのことについて、補足させていただきたいと思います。

 拙著『国家神道は生きている』において、「中外」には主要な2つの用例があることを述べました(P124)。「宮廷の内外」と「国の内外」です。

 「中外」に「宮廷の内外」の意があることは、現在ではあまり知られていないので、拙著では少なくとも「国の内外」だけではないことを示しておきました。

 そこで、この機会に明治天皇以前の詔勅から「中外」を「宮廷の内外」「朝廷と民間」として用いた例をあげてみます。

 『みことのり』(平成7年錦正社版)から以下に引用します。

第857詔
仁明天皇承和2年『皇子を臣籍に降下せしめ給ふの勅』
「宜しく中外に告げて、咸(ことごと)く聞知せしむべし」

第870詔
同承和5年『皇太子恒貞親王の御元服に際して下されし詔』
「承和四年以往言上の租税の未納なるものは、咸(みな)免除に従へ。普(あまね)く中外に告げて、此の意を知らしめよ」

第1210詔
仁孝天皇天保15年『皇太子統仁親王御元服の詔』
「高年八十以上及び鰥寡(かんか=妻のない男と夫のない女)孤独にして自存すること能はざる者には、数を量りて物を給へ。普く中外に告げて、此の意を知らしめよ」

 これらの「中外」は数々の詔勅にある、「普く遐邇(かじ)に告げて」の「遐邇(遠い所と近い所)」と同じ意味であり、文脈から「宮廷の内外」「中央と地方」、転じて「全国(民)」です。内政に関することであり、外国は関係がありません。

第1247詔
孝明天皇安政3年『藤原尚忠に万機を関白せしめ給ふの詔』
「良相朝に升(のぼ)れば、則ち陰陽自ら其の燮理(しょうり)に適ひ、元臣事を立つれば、則ち中外遍(あまね)く其の調和を被る」
(良き宰相が朝廷に昇れば、即ち対立するものはやわらいで整い、優れた臣下が事をなせば、即ち朝廷と民間はあまねく調和する)

 この「中外」は文脈から「朝廷と民間」と解釈して妥当です。「国の内外」では意味が通じません。

 じつは、明治天皇以前の詔勅では「中外」は「宮廷の内外」の意で用いられているものがほとんどです。「中外」が「国の内外」の意味で用いられはじめたのは、明治になって諸外国との関係が深くなってから、と考えてもよいほどです。


◇3 明治前半期における要人たちの「中外」

 教育勅語渙発(かんぱつ)までの間に書かれたもので、宮中近くにいた要人たちの文章から「中外」を読んでみます。

「十二月二十九日同僚相議して、曰(いわく)勤倹の旨、真の叡慮に発せり。是(これ)誠に天下の幸、速(すみやか)に中外に公布せられ施教の方鍼(ほうしん)を定めらるべしと」(『元田永孚文書』第一巻P176)

 明治11年8月30日から同年11月9日までの北陸東海両道巡幸から戻られた天皇は、各地の実態をご覧になったことから、岩倉右大臣へ民政教育について叡慮(えいりょ)あらせられました。侍補たちは明年政始の時に「勤倹の詔」が渙発されることを岩倉右大臣に懇請しました。上はその時の文章です。

 あくまで国内の民政教育についてです。「速に中外に公布」は「すみやかに全国(民)に公表して知らせる」です。これは教育勅語の「中外」と同じ用法であり、どう読んでも外国は関係がありません。

「大臣の奉勅対署は大臣担当の権と責任の義を中外に表示する者なり」(稲田正次『明治憲法成立史 下』P55)

 井上毅(いのうえこわし)による、いわゆる憲法の初稿説明にある文章です。法律と勅令に関する大臣の副署についての説明であり、大臣の副署のないものは詔命としての効力はないというものです。その副署は大臣の権と責任を「宮廷の内外」「全国」に表示するもの、と解釈して妥当です。文脈からこの「中外」を「国の内外」と解釈する根拠がありません。

「而(しか)して其一策たる、聖上還御の前に当て間を請ふて天皇に謁見し、憲法制定の今日に止むべからざる所以を具状し、更に内閣外に就て憲法制定論の賛成者を求め、中外の声援に依て其制定の議を断行する、是れ也。(中略)即ち在廷官吏の鏘々(金へんに将。そうそう)たるもの及び在野負望の士にして其影嚮(えいきょう)を内閣の議に及ぼすに足るべきものを求むるを謂ふ也。(中略)是を以て今我党に於て朝野の賛成者を求むるの策最も之が巧妙を尽し、厳に後患を予備せざるを得ず」(『小野梓全集』第三巻P144)

 大隈重信とともに立憲改進党を組織し、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創設した小野梓の「若我自当(もしわれみずからあたらば)」(明治14年)にある文章です。文脈から「中外の声援」と「朝野の賛成者」は整合しますから、「中外」は「朝廷と民間」です。

 小野梓には「勤王論」もあって、幕府について語っているところでは「中外皆な関東の人士を以て之を制し」(同P186)と記しています。「中外」は「中央と地方」つまり「全国」です。外国はイメージされていません。

 また「今政十宜」では藤原氏や平氏その他の特定少数者による政治の専有を批判し、「聖上登祚(とうそ)ましませし以来屢々(しばしば)明詔を垂させ給ひ中外の衆庶に詔示し給ひ、衆庶も夫の明詔に薫陶せられ深く其切なるを感銘したるものなれば、……」(同P160)と記しています。「中外の衆庶」は「全国の人々」と解釈して妥当です。

 明治20年8月12日付の板垣退助による上書にも「中外」が用いられています。

「また伊藤に対しては、総理大臣宮内の長官を兼ね陛下の威福を藉(かり)りて中外に号令し専恣(せんし)の欲を遂げ一人の利をなさんとす」(稲田正次『明治憲法成立史 下』P484)

 伊藤博文はどちらも初代の総理大臣でありかつ宮内大臣でした。府中と宮中の長だから、「中外に号令し」は「宮廷の内外」に「号令し」です。もし「中外」が「日本と外国」とすると、少なくとも「外国に号令」はあり得ませんから、この解釈は成立しません。


◇4 「国の内外」と解釈する明確な根拠はあるか

 私の調査では、起草者の井上毅と元田永孚(もとだながさね)の教育勅語に関する資料に「中外」を「国の内外」とするものは見つけられませんでした。また「樹徳(徳を樹[た]つる)」が五倫五常の「徳目の樹立」であるとすることの根拠も見つけられませんでした。

 これまで教育勅語の解釈に言及した研究者たちは、以下の2つの文章を読み誤ったと断定しても過言ではないと思います。

「五倫と生理との関係」(『井上毅伝』史料篇第三)
「勅語衍義-井上毅修正本」(『國學院大學日本文化研究所紀要99』は解説付)

 これらは非常に誤解されやすい文章ですが、平成20年3月、國學院大學日本文化研究所から『井上毅伝』史料篇補遺第二が出版されました。詳細は省きますが、この中に「倫理ト生理学トノ関係」(「梧陰文庫B―三〇二五」)及び「梧陰文庫!)―四五九」が公開されて、誤解は解消されることとなりました。

 教育勅語に関心のある方々に、教育勅語の「中外」を「国の内外」とする明確な根拠があればぜひ教えていただきたいと思います。なお起草者の意図ですから、井上毅と元田永孚らの資料に限ることはいうまでもありません。


◇5 「中外」の解釈に批判がなかった理由

 島薗教授からは、「井上哲次郎を初めとして、多くの人々が「国中と国外」と「解釈し、それが正面から批判されてこなかったという歴史的事実がある」とのご指摘もありました。

 ご指摘のとおり、批判がなかったことは確かに歴史的事実です。大正初め、市村光恵法学博士は上杉慎吉を批判してこう語りました。

「唯勅語なるが故に完全無欠なりと唱えて、勅語の神聖を主張せむとするものあるに似たり(中略)勅語の導きは独り夫れが勅語たるの点にのみ止まらず、又実に其の内容が、之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖(もと)らざるに因る」(大正ニュース事典)

 当時、勅語だから(=天皇のお言葉だから)正しい、との言説のあったことが分かります。

 またその後の教育勅語の解説者たちは、唯一天覧に供し、官定解釈とも公定註釈書ともいわれた井上哲次郎著・芳川顕正叙・中村正直閲『勅語衍義(えんぎ)』を妄信したに過ぎないと思います。

 のちの研究者たちが奉戴(ほうたい)したのは、明治大帝の教育勅語よりも、この『勅語衍義』だといっても過言ではないと思います。現在の人々が国民道徳協会の口語訳文を無批判に奉戴していることと同じです。

 加えて勅語渙発記念講演等において、金子堅太郎や杉浦重剛らが「中外」を「国の内外」と広めましたから、批判の生ずる余地はなかったのかもしれません。

 昭和14年に一度だけ訂正の機会がありました。しかし議論は権威におもねる和辻哲郎によって封殺されたことが記録に残っています(『続・現代史資料9』P399)。

 実際のところは終戦まで、誤った解釈でも問題は生じませんでした。そして戦後は日本国憲法において、詔勅は効力を有さないとされました。以後今日まで、「成立史」の研究はあるものの、教育勅語の「解釈」については先行研究をなぞるのみで、新たな知見は発表されませんでした。

 元田永孚は明治24年、井上毅は同28年に他界しましたから、教育勅語のその後については知る由もありません。明治天皇は「勅語衍義稿本」にご不満であり(『明治天皇紀』巻七P807)、井上毅は否定的でした。


◇6 日本人の誤った解釈を鵜呑みにしたGHQ

 GHQは「之を中外に施して悖らず」が世界征服の表現だと見なしました(神谷美恵子著作集9『遍歴』P233、『続・現代史資料10』P276ドノヴァンの覚書)。日本人の解釈を鵜呑みにして、「国の内外」としたのです。

 教育勅語の「之」=「斯の道」が「徳目」から「肇国(ちょうこく)の理想」へと変遷し、それを「四海に宣布」=「中外に施して悖らず」だったのですから、GHQがいうのも無理はありません。

 井上毅は帝国憲法第28条(信教の自由)に抵触しないよう慎重でした。そこで元田永孚への書簡に、「斯道也の下、実に、の一字不可欠」と記しました。

 「斯の道」が哲理や信念ではなく、歴史事実であることから「実に」に固執し、「中外に施して悖らず」(全国(民)に示して道理に反しない)という草案にした、と考えて妥当ではないでしょうか。

 井上毅は教育勅語の草案を金子堅太郎に見せ、「君だけは憲法制定の頃から一緒にやってきたのだから」(『教育勅語の由来と海外における感化』P13)と相談しました。

 教育勅語が政事命令と受け取られないか、憲法に抵触しないかどうかと訊(き)いたのです。しかし金子堅太郎は教育勅語の徳目がキリスト教の教義に悖らないかどうか、の相談だと誤解しました。

 それが証拠に、井上毅や元田永孚に教育勅語の徳目とキリスト教の教義を比較検討した資料はありません。

 島薗教授は拙論に対して、「中外」は「朝廷の内外」の意味だけか、と指摘されました。「中外」には「国の内外」と「宮廷の内外」の2つの意味があり、もちろん前者と解釈すべき用例もあります。けれども、教育勅語に関しては、教授がおっしゃるように「宮廷の内外」と解釈することに無理があるのではなく、「国の内外」と解釈することこそ無理なのです。


 ☆斎藤吉久注 筆者の了解を得て、ネット読者の便宜を考慮し、見出しを付け、改行を増やすなど適宜、編集を加えています。


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佐藤雉鳴「教育勅語」「国家神道」論への3つの疑問 by 島薗進/「教育勅語」異聞の要旨 by 佐藤雉鳴 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月7日)からの転載です

 当メルマガはこの春から、在野の研究者・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」を連載しました。

 この連載は、教育勅語が発表当初から知識人たちによる誤った解釈が行われ、いまもなお正されていないというショッキングな内容でした。

 日本の近現代史を考えるうえできわめて重要な内容で、黙過すべきではないと考えた私は、日本宗教史の研究者としてきわめて著名で、なおかつ教育論をふくめた国家神道論を展開されてきた島薗進・東大大学院教授にご感想を求めました。

 ご多忙のなか、ぶしつけなお願いを快く引き受けてくださった先生から、このたびエッセイが寄せられましたので、さっそく配信させていただきます。

 なお、佐藤さんの連載の要旨をあわせて掲載しました。


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1 佐藤雉鳴「教育勅語」「国家神道」論への3つの疑問 by 島薗進
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 旧知の斎藤吉久さんから佐藤雉鳴さんの「「教育勅語」異聞――放置されてきた解釈の誤り」について、私なりの受け止め方について書いてみるよう、依頼があったのは2010年6月7日のことである。これは佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」から、斎藤さんのメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」に3月26日から6月3日にかけて転載されたものだ。

 その後、拙著、『国家神道と日本人』(岩波新書)が7月21日の日付けで刊行された。私はこの間に、佐藤さんの著書、『国家神道は生きている』(ブイツーソリューション、2008年3月刊)にも目を通すことができた。

 私は佐藤さんと多くの問題意識を共有していることを知り、驚いた。「国家神道は今も生きている」というのは私の主張の一つでもあるし、教育勅語の第一段落が重要であるということ、神道指令の国家神道定義が混乱のもとだということなどは、佐藤さんと私の考えが重なるところだ。

 また、佐藤さんが独自の視点で見出した資料や、文献の読み取り方に豊かな内容があり、いくつも創見を含んでいることにも感銘を受けた。井上哲次郎の教育勅語理解の浅さ、教育勅語の中の「中外」という語の解釈の重要性、戦後の教育勅語の廃止に至る論議の経緯などについての指摘からは多くを学んだ。国学的な伝統を尊びながら、近代日本の精神史を見直そうという志を貫き、在野の立場から学術的に大きな意義のある果実をみのらせて来られたことに深く敬意を表したい。

 その上で、「「教育勅語」異聞――放置されてきた解釈の誤り」(「教育勅語・国家神道・人間宣言」)や『国家神道は生きている』において、佐藤さんが提示した独自の論点に対して、私の立場から論じたいことがとりあえず3つほどある。


▽1 「中外」は「朝廷と民間」という意味だけか

 まず、第1は、教育勅語の「中外」の語を「国中と国外」と解するのは誤りとはいえないのではないかということである。

 「中外」は古典の意味にそって、「宮廷の内と外」「朝廷と民間」と解することができるということは大いに教えられた。しかし、必ずそう解さなければならないと主張されるとすれば、それは根拠が薄いように思える。

 事実、井上哲次郎を初めとして、多くの人々が「国中と国外」と解釈し、それが正面から批判されてこなかったという歴史的事実がある。昭和の戦時期になって歪められたということではなく、早くからそのような解釈が通用してきた。

 また、佐藤さんは『国家神道は生きている』で、「明治天皇の下された詔勅のなかでも「中外」の意味は国の内外のみではない」としているが、やはり多くは「国の内外」の意味であることも示唆されている。

 そこでは、明治天皇の詔勅に見られる19の「中外」の語の語義が検討されているが、そのうち「国の内外」や「世界」と解するのが適当とされているものが16である。また、「国の内外」とも「朝廷と民間」のどちらにも解することができるとされているものが2つである。

 ただひとつ、「朝廷と民間」の意味にとるべきとされるのは、明治38年5月奉天占領に際して、海軍に下された勅語の用例である。――「我海軍は、籌畫(ちゅうかく=作戦)攻戦共に宜しきを得、中外相待て、敵の艦隊を殲滅(せんめつ)し」とある、「籌畫」は大本営、「攻戦」は現地部隊なので、「大本営と現地軍」という意味に受け取るのがよいという。だが、これも「中外を国の内外としても全く意味の通じないものではない」とされる。

 このように、明治天皇の詔勅において、「中外」の語は「国中と国外」という意味で用いられるのが大部分ということになる。そうだとすれば、教育勅語の「中外」の語を「国中と国外」と解するのは誤りだというのは、少々無理な議論ではないだろうか。


▽2 教育勅語の「曲解」から国家神道が生まれたのか

 私の対抗論点の第2は、神道指令をどう読むかに関わるものだ。佐藤さんは、『国家神道は生きている』において、「神道指令にいう国家神道とは、教育勅語の「中外」の曲解がもとで出来た日本の超国家主義思想である」(168ページ)と述べている。しかし、これはどこに根拠があるのだろうか。

 佐藤さんは神道指令には「国家神道というものの特定もなく」(同前、34ページ)と述べているが、ふつうはそうではないと解されている。「本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」と明瞭に述べられているからだ。

 では、このように特定された国家神道と超国家主義の関係はどのように理解されているか。神道指令の冒頭では、この文書の目的が、以下のように4つの項目にまとめられている。

国家指定ノ宗教乃至祭式ニ対スル信仰或ハ信仰告白ノ(直接的或ハ間接的)強制ヨリ日本国民ヲ解放スル為ニ 

戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及ビ現在ノ悲惨ナル状態ヲ招来セル「イデオロギー」ニ対スル強制的財政援助ヨリ生ズル日本国民ノ経済的負担ヲ取リ除ク為ニ 

神道ノ教理並ニ信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ誘導スルタメニ意図サレタ軍国主義的並ニ過激ナル国家主義的宣伝ニ利用スルガ如キコトノ再ビ起ルコトヲ防止スル為ニ 

再教育ニ依ツテ国民生活ヲ更新シ永久ノ平和及民主主義ノ理想ニ基礎ヲ置ク新日本建設ヲ実現セシムル計画ニ対シテ日本国民ヲ援助スル為ニ 

茲ニ左ノ指令ヲ発ス

 ここで、最初の項目は「国家神道」に関するものである。そして、3番目の項目に「超国家主義」が出てくるが、これは神道を歪曲した「イデオロギー」に関するものである。ここでいう神道は「神社神道」、すなわち「国家神道」であるから、国家神道そのものが「超国家主義」と関わったのは「イデオロギー」による「歪曲」なのであり、その本来的性格ではないという前提に立っているのだ。

 ここには、宗教は元来人間(個々人)に自由をもたすものであり、それに対してイデオロギーは人間を集団統制に導くものだというアメリカ的(20世紀アメリカ合衆国的)な見方が現れている。こうした考え方に立てば、「国家神道」が「超国家主義」に発展したのは、イデオロギーの影響によるもので、そもそも「国家神道」がそういうものだということにはならないのだ。したがって、神道指令は(1)国家と神社神道を分離するということと、(2)軍国主義や超国家主義のイデオロギーを排除することとを分けて、両者を平行して進めるという論理構成をとっている。

 「神道指令にいう国家神道とは、教育勅語の「中外」の曲解がもとで出来た日本の超国家主義思想である」という佐藤さんの理解は、「神道指令は、(1)神社神道を国家から切り離し「国家神道」ではなくし、民間宗教団体とすることと、(2)教育勅語の「中外」の語を拡張主義的に捉えるような超国家主義イデオロギーと神社神道を切り離し、前者を排除するという二つのことを目指した」というふうに改める必要があるのではないか。


▽3 思想・良心の自由の制限へと機能した教育勅語

 私の最後の(第3の)論点だが、では、教育勅語の第一段落の主張は、信教の自由とどう関わるかということに関わる。佐藤さんは「しらす」という語の解釈に示された、井上毅の穏健な国体論に基づく教育勅語解釈がその後に理解されなかったことを嘆いている。だが、それは「中外」の解釈にとどまらない。「井上毅は皇祖を神武天皇、皇宗を第二代から明治天皇の先帝であられる孝明天皇までとしたことが「小橋某に答える書」にある」(『国家神道は生きている』、135ページ)と述べている。

 これは皇祖皇宗といえば天照大神から先帝までとするふつうの解釈に対して、教育勅語に神道色を持ちこまず皇室祭祀・神宮祭祀との結びつきを弱めることを目指したものだろう。井上毅はフランス流の政教分離を強く意識しており、教育勅語が政教分離を大幅に超えていき、信教の自由を脅かすものになることを恐れたと思われる。

 だが、この後の展開は井上の考え方に反する方向に進んでいった。修身教育においても歴史教育においても、そして教育勅語崇敬の儀礼秩序においても、神武天皇以前の神話的な皇祖皇宗への崇敬が鼓吹(こすい)され、それに反する信仰や思想を許さない体制が確立していくことになる。

 教育勅語の煥発(かんぱつ)にすぐ続いて起こった内村鑑三の不敬事件と久米邦武の「神道は祭天の古俗」論による筆禍事件はそれを明瞭に示すものだ(拙著、『国家神道と日本人』第1章)。

 国家神道や教育勅語が今日、批判されなければならないのは、対外的な攻撃的政策に関わったからだけではない。国内の思想・良心の自由を制限する方向に機能したことにもよっている。佐藤さんの議論は、こちらの側面についても意識されてはいるが、あまり踏み込んでいなように思える。今後の展開を期待したい。

 以上、佐藤雉鳴さんの「教育勅語」論と「国家神道」論に触発され、私なりの見方を対置してみた。佐藤さんの議論を正確に読み取れておらず、その主旨を取り違えていないか恐れている。そのようなことがあったらどうかご寛恕(かんじょ)いただきたい。初めにも述べたように、佐藤さんの論考から多くを学ばせていただいたことに大いに感謝している。ご研究がますます充実し、さらに啓発していただけることを願っている。


 ☆斎藤吉久注 筆者の了解を得て、ネット読者の便宜を考慮し、見出しを付け、改行を増やすなど適宜、編集を加えています。


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2 「教育勅語」異聞の要旨 by 佐藤雉鳴
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 一八五八年、我が国は米国との間で日米修好通商条約に調印した。条約の第八条には、外国人居留地における教会堂の設立を容認することが記されていた。米国総領事タウンゼント・ハリスはその条文が認められた喜びを『日本滞在記』(原題は“The complete journal of Townsend Harris”)に書き残している。その後、一八七三年にはキリスト教を禁止する全国の掲示板が撤去され、日本におけるキリスト教信仰は自由となった。

 信教の自由は、一八八九年に発布された憲法の第二十八条においても宣言された。国民は社会の秩序を乱さない限りにおいて信教の自由を有する、というものであった。最も権威のある憲法の解説書には、心の自由は国法の干渉の区域外にあると説明されていた。

 しかし、明治維新後の急激な欧米化とキリスト教の容認は、同時に日本人の伝統的な価値観に動揺をもたらすこととなった。そのため天皇は青少年の道徳紊乱を大変危惧されていた。そして各地の指導者層からの要請もあって、一八九〇年一〇月、天皇は「教育に関する勅語」を渙発した。

 この勅語は三つの段落で構成されている。第一段落は歴代天皇による私心のない統治と、それに対する国民の自発的な忠誠心とがひとつになって光輝ある日本の歴史をつくってきたことが記されている。第二段落は国民の継承すべき伝統的な数々の具体的な徳目が語られている。そして最後の段落では、これらは特定の思想ではなく日本の歴史を基にしたものであり、君主である天皇が国民に示しても道理に反するものではないと宣言されている。

 一九四五年八月、米国をはじめとする連合国と戦火を交えていた日本は、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。降伏した日本はGHQの占領するところとなった。GHQの究極の占領目的は、二度と日本が米国および世界の脅威とならないことを確実にすることだった。具体的には日本の物的武装解除と精神的武装解除であった。

 GHQはポツダム宣言に基づいて多くの指令を発したが、なかでも神道指令は今日に至るまで日本人に大きな影響を及ぼしている。いわゆる国家と神道の分離に関する指令である。民間情報教育局のケン・R・ダイク局長は同指令を発したのち、これで司令部の出すべき重要指令は大体終わった、と語った。

 GHQの担当者たちによれば、神道指令にいう国家神道とは超国家主義的な教義を含むものだとされた。その教義とは、日本は特殊なる起源の天皇・国民・国土を
持ち、それらが他国に優るとの理由からその支配を他国他
民族に及ぼす、というものだった。

 GHQのスタッフたちが残した文書には、国家神道の主な「聖典」は教育勅語だと記されている。なかには教育勅語を日本のマグナ・カルタだと表現した著作もある。そしてダイクをはじめとする宗教政策の担当者たちは、教育勅語のなかに世界征服の思想があるのだと断定した。

 ダイクはその第三段落にある「これを中外に施してもとらず」という句は日本の影響を世界に及ぼす、というように曲解された、と述べた。神道指令を起草したウィリアム・バンスは、神道の宣伝は国を全世界に広げようとするもので、関連する文言の真の意味は日本を中心とする世界征服にあった、と日本人の質問者に回答した。

 しかしこれらの文言は解明されるべき謎を含んでいたといわざるを得ない。

 その謎は教育勅語の解釈にある。

 「中外」には主要な二つの意味がある。一つは「宮廷の内外」であり、もう一つは「国の内外」である。たしかに日本の教育勅語の解説者たちはこぞって「中外」を「国の内外」と説明していた。例外はひとつも存在しない。

 しかし教育勅語の起草者たちは「中外」を「宮廷の内外」の意味で用いていた、これが歴史の真実である。勅語の内容は、哲学的あるいは宗教的な論争を避けるために、日本の歴史と伝統という事実を基礎にしている。したがって徳目の遵守を全国民(宮廷の内外)に示しても道理に反しない、という草案を作成したのである。

 明治憲法の主な起草者と教育勅語のそれは同一であって、井上毅という碩学であった。彼は、憲法において信教の自由を保証しているにもかかわらず、天皇が国民に対して徳目を示すことに関し、かなり慎重だったと考えられる文章をいくつか残している。徳目の遵守が天皇の政事命令となっては憲法に反するからである。そのため教育勅語に担当大臣の副署がないことも彼の提案だった。

 解説書の著者たちは──偏差値の高い学者たちではあったが──宮中から遠い人たちだったので、「中外」に「宮廷の内外」の意味があることを知らなかったと推測できる。したがって勅語への素朴な敬意から、徳目を普遍的なものと解釈して「中外」を「国の内外」と説明したと考えられる。たしかに最も有名な明治憲法の成立に関する著作には、井上毅を含む四人が五箇所において「宮廷の内外」(全国)を「中外」と表現した文章が引用されているのである。

 彼らは宮中に近く、欽定憲法の審議に参加した人たちもいた。また教育勅語のもう一人の起草者である天皇の側近元田永孚にも、「中外」を「宮廷の内外」の意味で用いた重要な文書が残っている。そして何よりも、起草者たちの文献に、教育勅語の「中外」を「国の内外」とする確かな根拠は一つも存在しないのである。

 井上毅には、教育勅語を解釈する上で紛らわしい文章が二つある。しかし二〇〇八年三月、これらの文章の原文が公開されてその真意が明らかとなった。「之を中外に施してもとらず」は「肇国の理想を四海に宣布する」ではなく、「之を全国民に示して道理に反しない」がその正しい意味だったのである。

 GHQの神道指令にいう国家神道の「聖典」はこの誤った解釈の教育勅語である。日本人が教育勅語の解釈を誤り、それを鵜呑みにしてGHQは神道指令を発したのである。その影響は現憲法下においても大きなものがあり、今や靖国神社問題をはじめとする政教論争は泥沼と化している。

 もともと世界征服という超国家主義は神道に存在しない。もし教育勅語の解釈を、知的誠実さをもって文献資料を吟味し、起草者の意図に戻すことができるなら、神道指令にいう国家神道は一瞬にして雲散霧消するだろう。その時日本人はそれぞれの立場にこだわらず、国家のために戦死した人々に対し改めて敬意を払う権利と義務を堂々と行使できるだろう。その意味で、GHQの占領下において排除を決議された教育勅語ではあるが、まさに現代に生きる最も重要な歴史文献である。

 ☆斎藤吉久注 筆者の了解を得て、ネット読者の便宜を考慮し、改行を増やすなど適宜、編集を加えています。

 連載の原文は以下のメルマガに載っています。

第一回 明治天皇はご不満だった
http://www.melma.com/backnumber_170937_4802777/

第二回 「しらす」が理解できなかった 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4810359/

第三回 「中外に施す」の「中外」の意味 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4818000/

第四回 誤りの角質化
http://www.melma.com/backnumber_170937_4824888/

第五回 「斯の道」の評価の変遷 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4832552/

第六回 「徳目」論に終始し、本質論が欠けた戦後の論議 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4841010/

第七回 結び──明治大帝の御遺徳を穢してはならない 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4869664/

タグ:教育勅語
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女性週刊誌が取り上げた「御負担軽減」の現実──空々しい弁明を繰り返す宮内庁 [ご公務ご負担軽減]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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女性週刊誌が取り上げた「御負担軽減」の現実
──空々しい弁明を繰り返す宮内庁
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 数週間前、「週刊女性」(7月27日号)が、見開きの2ページで、両陛下の御公務ご負担軽減の現実についてリポートしていました。陛下の激務は「軽減」のかけ声もむなしく、いまなお続いているようです。

 記事は冒頭で、両陛下、とりわけ天皇陛下の激務が際立っていることを指摘しています。今年の上半期は181日間で135日の御公務があり、6月については8日から18日まで11日間連続して御公務をこなすというような日程さえあったというのです。


▽1 「減る」どころか「増えている」

 ご承知のとおり、宮内庁が具体的な御公務軽減策を打ち出してから1年半になります。当メルマガは昨年1年間、その後の推移を丹念にトレースしましたし、雑誌「正論」などにも、当局の意気込みとはまったく異なる現実について記事を発表しました。

 その後、一般紙なども取り上げてくれましたし、今回は女性週刊誌が記事にしたというところが注目すべき点だろうと思います。

 「週刊女性」の記事にあるように、陛下はご高齢であると同時にガンの療養中なのです。にもかかわらず、御公務はまったく減っていないのです。

 もっとも興味深いのは、同誌の取材に対する宮内庁の回答です。記事によれば、1年半前と同じことを繰り返すばかりです。つまり、「御公務を減らすのではなく、内容や方法の見直しを基本にしている」というわけです。

 しかしこれは明らかなごまかしといえるでしょう。というのは、当メルマガの読者ならすでにご存じのように、実態は、御公務が「減らない」のではなく、逆に「増えている」からです。軽減を大胆に実現できない無能ぶりを覆い隠す、空々しい弁明と映りませんか?

 たしかに御公務ご負担の軽減はむずかしい問題です。記事に掲載された私のコメントにあるように、「民の声を聞き、心を知る」ことをお務めと考える陛下にとって、御公務はどんどん増えてしまうという性質を持っているからです。


▽2 宮中祭祀の理解が歴代天皇とは異なる

 しかし、だからこそ、ご負担削減は急務なのです。にもかかわらず、宮内庁は「減らす」どころか「増やしている」。それでいて、あたかも陛下のために削減策を実現できているかのように強弁している、というところに問題があります。

 しかもです。いつも申し上げますように、歴代天皇がもっとも大切な務めと位置づけてきた宮中祭祀については、文字通り激減しています。まったく矛盾もはなはだしいご負担軽減の現実といわねばなりません。

 なぜそうなるのか、といえば、天皇とは何か、についての歴史的な基本的理解が曲がっている、少なくとも歴代天皇の理解とは隔たりがあるからです。

 陛下が御公務を通じて、1人でも多くの国民と接し、お声をかけようとなさるのは、すべての国民のために祈り、命をも共有しようとする祭祀の精神に発しているのに、側近の公務員たちはそのことを、憲法の政教分離原則を口実にして、蔑ろにしているからです。

「週刊女性」の取材記者はこれらの点を問いただすべきでした。

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