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稲作儀礼なら国民統合儀礼とはならない ──両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」論 5 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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稲作儀礼なら国民統合儀礼とはならない
──両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」論 5
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第4章 百地章日大教授の拙文批判に答える

第5節 両論併記にとどまる百地先生の「大嘗祭」論


▽5 稲作儀礼なら国民統合儀礼とはならない

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 内閣官房の『平成即位の礼記録』によると、即位の礼準備委員会は大嘗祭について、次のように説明しています。

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、はじめて、大嘗祭において、新穀を皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、かならず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である」

 このため、

「趣旨・形式などからして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がその内容に立ち入ることは馴染まない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難である」

 として、皇室の行事として位置づけられることになったのでした。

 まさに、百地理論そのままのように見えます。

 しかし、「稲作儀礼である」とともに「国家・国民のための儀式である」とする、「ともに」の部分が理解しづらいところです。

 御代替わりに国民統合の儀礼が行われるということはよく理解できます。統治者の最大の使命は国と民をまとめ上げ、社会の平和を保つことだからです。

 けれども、稲作儀礼がどうして国民統合の儀礼となり得るのでしょうか?

 ご承知のように、稲は帰化植物です。日本列島は必ずしも米作適地ではありません。日本人は昔から米を主食としてきた稲作民族だと考えるのは、科学的ではありません。コメ余り現象が起きるようになったのはつい最近のことであり、いまでも十分に米が穫れない地域は少なくありません。主たる神饌が米でないという神社はたくさんあります。

 たとえば、天孫降臨の聖地、すなわち皇祖発祥の地であり、日本の稲作発祥の地と伝えられる宮崎県高千穂は、古代の神話がそのまま息づいているところですが、広い水田などどこにも見当たらない緑深い山里であり、高千穂神社の「猪々掛(ししかけ)祭」では猪が神前に捧げられます。

 逆に、米が神饌であることをもって稲作信仰だというのなら、全国約8万社の神社はすべて稲作信仰の神社となってしまいます。縄文人の信仰は廃れて、今日には伝えられていないことになってしまいます。

 つまり、水田稲作民ではない畑作の民が古来、日本列島にはたくさんいるのです。畑作民には畑作民の暮らしがあり、神があります。それらを含めて、国と民をひとつにまとめ上げるには、稲作儀礼では不可能です。

 国中の民が信じるあらゆる神々に、それぞれの命の糧である田のもの、畑のものを捧げ、祈るからこそ、収穫儀礼は国と民を統合する儀礼となり、統治者の即位儀礼となり得るではないでしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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 このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を求めます。
 おかげさまで賛同者が300人を超えました。
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