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即位礼と大嘗祭を同じ月に行う理由 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位礼と大嘗祭を同じ月に行う理由
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 4
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 大嘗祭は即位の礼のあとに、「続いてこれを行う」と、旧・登極令(明治42年)の第4条に定められていました。

 実際、大正の御代替わりでは、即位の礼は大正4年11月10日、大嘗祭は同月14日に行われ、昭和の御代替わりでは、即位の礼は昭和3年11月10日、大嘗祭は14日でした。

 そのため、御大典が行われた京都では、即位の礼のあと、市内はどんちゃん騒ぎとなり、静謐さとは無縁の喧噪のなかで、大嘗祭が挙行されることとなったと批判されています。

 日本国憲法の施行とともに登極令は廃止され、期日に関する定めは失われましたが、平成の御代替わりでは、即位礼正殿の儀は平成2年11月12日に、大嘗祭は10日後の22日に行われました。

 つまり、同月内に引き続いて行うと規定する旧・登極令に準じたことになりますが、なぜ同月に行われなければならないのでしょうか。


▽1 「京都においてこれを行う」

 以前、当メルマガに書いたように、赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)はこれを「新例」と説明しています(「即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない──平成の御代替わり『2つの不都合』 6」2017年7月18日号)。

 関根正直によれば、赤堀も解説していたように、即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行われ、即位の礼が8月以後の場合は翌年冬に大嘗祭を行うというのが、中古以来のならいでした。

 ところが、明治になって天皇が住まわれる宮城が東京におかれることとなり、しかも皇室典範(明治22年)には「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」(第11条)と定められました。

 なぜそのようになったのか、関根は、先帝・明治天皇の聖慮によるものだと、次のように説明しています。

 ──明治13年、明治天皇は伊勢路御巡幸の折、京都に滞在された。当時の世相は、古風=旧弊とされ、破壊の対象とされており、殺風景没趣味に陥っていたのは京都も例外ではなかった。そのさまを御覧になった明治天皇はお嘆きになった。
 その後、ロシア皇帝(アレクサンドル3世)の戴冠式(1883年)が新都ペテルスベルグではなくて、旧都モスクワの旧殿で行われることを知り、一国の大礼は古風を存し、旧儀のままに行い、衆庶をしてその本を崇尚し、その始を忘れないようにするのがいいのだとお思いになり、皇室の大典も京都で行われるべきだとお考えになった。
 のちに岩倉具視贈太政大臣が京都御所の保存を政府に建言し、帝国憲法起草の準備として皇室の儀制調査を建議したのも、明治天皇の聖旨を奉じてのことだった。
 こうして明文規定ができた。


▽2 古例を復活させてはどうか

 しかし、御大典を京都で行うとして、旧例のように即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行い、即位の礼が8月以降なら大嘗祭は翌年冬に行うとした場合、どうなるのか、関根はまたこう説明しています。

 ──1年も経たないうちに2度も、車駕を移動することになり、儀鑾張行の繁に堪えない。供奉用度の費用も多額になるだろうから、古式に反しないかぎり、繁を避け簡に就くべきだと、明治天皇はお考えになり、即位の礼と大嘗祭はひきつづき行われる旨、登極令に定められることとなった。
 これらは憲法義解に註釈として書かれている。

 このように説明したうえで、関根は

「このたびの慶事は邦家の大典、国民の盛儀であり、国民みな感激狂喜するところであるが、熱情のあまり喧噪狼藉におよぶことが往々にしてあり、忌み慎むべきである」

 と警鐘を鳴らすのですが、現実は冒頭に述べたごとくでした。

 ところで、関根が指摘していないもうひとつの「理由」がありそうです。

 それは以前にも指摘した、今日とは異なる、交通機関の未発達です。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。これでは「儀鑾張行の繁」もむべなるかな、です。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情がたしかにあったわけです。

 しかし今日では、東京から京都まで新幹線でわずか2時間余りです。しかも御大典を京都で挙行する法規定はもはやありません。即位の礼と大嘗祭を引き続いて執り行うべき理由はありません。

 だとすれば、むしろ古例を復活させてはいかがでしょうか。明治天皇ならば、どのようにお考えになったでしょうか。



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即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3
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 明治になって神仏分離が行われたことは誰でも知っています。神仏習合の清算から激しい廃仏毀釈へと転化した地域もあります。宮中行事も激変し、仏事は全廃され、歴代天皇の御霊牌などを祀るお黒戸は撤去されました。

 そのため、皇室行事は仏式から神式に変わったとか、宮中祭祀は明治の創作だなどと断定する研究者もなかにはいるようです。けれども、正確には、幕末の宮中では仏教のほか、陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたというのが、真相のようです(『明治維新神仏分離史料』など)。

 陰陽道が排除され、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わり、端午、七夕などの五節句が廃されたという歴史は、仏教から神道への変換という単純な図式では捉えきれないでしょう。


▽1 「神武創業の始めに原き」

 関根正直は、天皇の即位式には歴史上、3度の変遷がある、太古以来の国風が、古代に唐制風に改められ、そして明治になって神武天皇ご創業の古(いにしえ)に復したのだ、と説明しています。

 関根によれば、即位式は神武天皇の時代から行われており、その内容は『古語拾遺』(斎部広成。807年)によってうかがい知ることができるといいます。

 これによると、神籬(ひもろぎ)を立て、神々をまつり、宮門を守り、矛盾(ほこたて)を造り備えて、天璽鏡剣を正殿に奉安し、瓊玉(けいぎょく)を懸け、幣物をつらねて、祝詞(のりと)を申し、云々とあります。

 関根は、こうした即位の神事は奈良時代までひきつづき行われたであろうと推測しています。持統天皇の即位礼の場合も、同様に神璽鏡剣を奉り、寿詞(よごと)を奏する国風儀式が行われたと記録されています。

 ところが、その後、いまでいう国際化に伴う唐風化が起こりました。

 関根の説明では、古代朝鮮や支那政府との交流が始まり、時勢の影響や政治上、国交上の必要から、御即位の盛儀をもっぱら内外に示す方向に進み、服飾旌旗(せいき)などもすべて唐制に改まり、大極殿という唐風の宮殿で挙行されるようこととなりました。

 他方、古来の国風儀式は廃止されたというのではなくて、神璽鏡剣を奉上し、天神(あまつかみ)の寿詞を奏する儀式などは、ほとんどが大嘗祭の方に移され、行われ、伝えられることとなったのでした。

 そしてようやく明治になり、唐風が廃せられ、神武天皇の祭典式に復された、と関根は説明しています。王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原き」とありました。


▽2 平成の御代替わりは何だったのか

 関根によれば、御代替わり諸儀礼は、明治維新期に仏式から神式に変わったのではなくて、唐風から国風に復されたということになります。

 とすれば、「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」からなる、新「即位の礼」を「国の行事」(国事行為)として行い、他方、神武天皇即位にまで遡れる大嘗祭は憲法上の国事行為として行うことは困難とされ、「皇室行事」として挙行した先の御代替わりは、いったい何だったのでしょうか。

 関根の表現を借りれば、「4度目の変遷」となった、日本国憲法風の平成の御代替わりの功罪を、あらためて検証しなければならないと私は考えますが、いかがでしょうか。いまのままでは悪しき先例が繰り返されるだけでしょう。



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平安期以来の践祚と即位の区別 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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平安期以来の践祚と即位の区別
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 2
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 関根は「第1章 総論」の冒頭で、即位礼・大嘗祭の国家的、公的性格について明言し、「皇室の御私事」ではないと断言しています。

「謹んでおもんみるに、御即位礼・大嘗祭の御大典は、天皇御一代にただ一度執り行はせらるる御儀式にして、じつにこれわが邦家の大典、国民の盛儀なり。単に皇室の御私事・宮中の御嘉例なるがごとく思ひ奉るべきにあらず」(漢字を開くなど、読みやすいように、原文を適宜編修しています)

 とすれば、平成の御代替わりで政府が行ったように、諸儀礼を「国の行事」と「皇室行事」に二分するとか、大嘗祭を「国の行事」としては行えないとか、まったくあり得ないことです。

 さらにあり得ないのが、皇室の歴史と伝統の喪失です。


▽1 用語と概念の喪失

 明治42年に定められた登極令の附式は、最初に「践祚の式」をあげ、「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」の4儀式について、細かい祭式を規定していました。けれども、日本国憲法下で最初の事例となった平成の御代替わりでは、歴史的な一大変革が行われました。

 宮中三殿の聖域で行われる「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」については、憲法の政教分離原則に照らして、「国の儀式」として挙行することが困難とされ、内廷の皇室行事となりました。

 一方、宮中三殿を舞台としない「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」については、前者は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称され、後者は「践祚」という平安期以来の用語が消え、「即位後朝見の儀」と改められたほか、新帝の出御に際して伴われるべき剣璽御動座がありませんでした。

 なぜそんなことが起きたのか、それは、戦後40年あまり、政府は御代替わりに関して、具体的な準備を怠ってきたからです。日本国憲法施行に伴って全廃された、登極令など関連する皇室令に代わる法体系を整備できずに来たからです。

 戦後の新しい皇室典範は

「第4条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 などと定めていますが、具体的な法規定はありません。

 そして、政府は、神代にまで連なるとされる皇室の、したがって宗教性を否定できるはずもない伝統儀礼を、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則を基準に、「国の行事」と「皇室行事」とに二分し、あまつさえ、皇室典範に「践祚」の用語がないことから、「践祚」を「即位」に改め、平安期以来の「践祚」と「即位」の概念の区別を失わせたのです。


▽2 正確でない宮内庁の説明

 関根が解説するように、皇位の継承とは皇位の徴表(しるし)である三種の神器の継承にほかなりません。上代においては践祚すなわち即位であり、両者の区別はありませんでしたが、時代がくだり、制度が整うと、先帝の受禅による場合と崩御による場合とにかかわらず、神器が新帝に渡御することをもって践祚と称することとなりました。

 神器のうち神鏡は神殿に安置されて、移動のことはなく、剣璽のみが先帝から新帝に渡御になる践祚の例が定まりました。政治の空白は許されませんから、諒闇中であっても、まずは剣璽の渡御が行われ、その後、皇位の継承を皇祖皇宗に告げ、百官万民に宣布する即位の大礼が定められました。

 桓武天皇の時代に践祚から日を隔てて即位式が挙行され、貞観儀式の制定で践祚と即位の区別が定まったといわれます。

 明治の皇室典範は

「第10条 天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚し、祖宗の神器を承く」

「第11条 即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行ふ」

 と定め、この歴史的な両者の区別を踏襲していました。

 ところが、戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこれを反映できず、その後、政府は正常化の努力を怠ったのみならず、平成の御代替わりで「践祚」の用語と概念を完全に喪失させたのです。

 宮内庁の記録は

「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯があるので」(『平成大礼記録』平成6年)

 と説明していますが、まったく正しくありません。それどころではありません、平成の御代替わりでは、践祚の式の一部はあろうことか、皇室典範第24条に定められる「即位の礼」の一環として執り行われたのです。

 政府は憲法を第一に優先するあまり、皇室の歴史と伝統を踏みにじり続けているのです。

 私たち国民が抗議の声を上げなければ、悪しき先例は次の御代替わりでも、その次の御代替わりでも踏襲されることでしょう。



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御代替わりを前に考える皇室の歴史と伝統 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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御代替わりを前に考える皇室の歴史と伝統
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 1
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 御代替わりが刻々と迫りつつあります。いまのままでは前回の悪しき先例が繰り返され、国の行事と皇室行事の二分化、諸儀礼の非宗教化で押し切られることでしょう。

 そのことは、昭和40年代以降の宮中祭祀簡略化、さまざまな不都合が重なった前回の御代替わり、ここ20年におよぶ女性天皇・女系継承容認=「女性宮家」創設への一連の経緯を振り返れば、火を見るよりも明らかです。

 いまの政府は、125代続いてきた皇室の歴史と伝統、すなわち祭り主天皇論ではなくて、憲法の規定を第一と考え、ご公務をなさる、天皇=名目的国家機関論の立場で、現行憲法下で2度目となる御代替わりを迎えようとしています。

「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とは相反し、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことは憲法の規定に抵触するというのが、政府の考え方です。

「国および国民統合の象徴」である天皇の御代替わりが、それゆえ国家的、公的性格が明々白々なのにもかかわらず、全体的に「国の行事」として、当たり前に挙行できないのはそのためです。

 御代替わりの正常化のためには、誤った天皇観、憲法論を克服しなければなりません。私たち日本人にとって、天皇とは歴史的にいかなる存在だったのか、何をなさるのが天皇のお立場なのか、が本質的に問われています。

 何をどうすればいいのか、具体的に考えるヒントを得るために、しばらくのあいだ、明治の国文学者で、学習院の教壇にも立ち、のちに宮内省御用掛ともなった関根正直(1860-1932)の『即位礼大嘗祭大典講話』を読んで見ようと思います。


▽1 順徳天皇『禁秘抄』の解説

 関根正直といえば、忘れもしません、30年ほど前、渋谷にある神道系大学の図書館に毎日のように通いつめ、夕方から閉館となる夜遅くまで、薄暗く、カビ臭い書庫に入り浸り、手当たり次第に古今の書物を読みあさっていたことがありました。

 空調がないため、夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする最悪の環境で、おそらくここにしかないだろう古書をじかに手にする興奮に、私は身も心も震えました。

 20代の編集記者時代には予想だにしなかった奥深い世界が、そこには広がっていました。足下のぐらつく踏み台に上って、手に取った1冊が、ほかならぬ関根正直の『禁秘抄釈義』(明治34年)でした。

 関根の『禁秘抄釈義』は順徳天皇が著した『禁秘抄』(1221年)の解説です。『禁秘抄』の冒頭には、

「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)敬神の叡慮、懈怠なし、白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡となしたまはず」(原文は漢文)

 とあり、関根はこれに

「万機の中に神事を重くせらるること、わが国の規模にして」

 などと説明を加えていました。

 天皇は古来、祭り主であるという天皇観は、今日、まともに教えてくれる人などいるはずもなく、じつに新鮮ですが、戦後の教育を受けて育ってきたものには、簡単に受け入れられるわけもありませんでした。

 ともあれ、こうして私の天皇研究はゆっくりと始まったのでした。


▽2 いまはデジタルコレクションで

 ところで、即位大嘗祭をテーマとする関根正直の著書には、『即位礼大嘗祭大典講話』(大正4年)と『御即位大嘗祭大礼要話』(昭和3年)の2冊があります。

 いずれもいまは国会図書館のデジタルコレクションに収められています。30年前ならマイクロフィッシュを覗き込むしか術がありませんでしたが、いつでもどこでも誰でもネット上で読むことが可能になりました。便利な世の中です。

 これから拾い読みする『即位礼大嘗祭大典講話』は、奥付によると、大正4年4月に発行され、何度か版を重ねています。「緒言」によると、関根が、大礼の起源、沿革などをテーマに各地で講演したものを「倉卒」にとりまとめたということです。

 発行を急いだのは、いうまでもなく同年秋に御大典が予定されていたからでしょう。

 蛇足ながら、大正天皇の即位の礼および大嘗祭は当初、前年の3年11月に京都で行われるはずでした(3年1月17日官報号外)。けれども、昭憲皇太后が同年4月に薨去されたことから、皇室服喪令(明治42年)に従い、1年の喪が明けるのを待って、翌4年秋に執り行われることとなりました(4年4月19日官報号外)。

 明治45年7月の践祚から3年後に御大典が行われたのはそのためです。


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陛下を救出する方法はあるのか? ──政府の「皇室制度」改革に幕を引いた天皇誕生日会見 4 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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陛下を救出する方法はあるのか?
──政府の「皇室制度」改革に幕を引いた天皇誕生日会見 4
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


あとがきにかえて 政府の「皇室制度」改革に幕を引いた天皇誕生日会見


▽4 陛下を救出する方法はあるのか?

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 70年前、昭和天皇のご聖断によってポツダム宣言受諾が決まり、日本は戦後への道を歩み始めました。いままた、天皇統治の根本に関わる「女性宮家」創設のかまびすしい論議が、陛下のご意思によって幕が引かれました。

 国家の最重要課題について、最後の切り札であるはずの天皇に頼らざるを得ないという現実は、皇室制度の不備ではなく、行政機関・官僚機構が十分に機能していないことを示しています。

 30余年前、場当たり的な昭和の祭祀簡略化が表面化したとき、20世紀を代表する保守派論客だった福田恆存(つねあり)は、こう語りました。

「このことが、もし本当だとしたら、大問題ですね。私には冗談としか思えません。現行憲法の中では、自衛隊問題と皇室問題はパラレルな関係にあると思っていましたが、皇室の方は自衛隊における『専守防衛』程度の原則にあたるものさえできていないようです。
…(中略)…お祭りというのは国家にとって大事なことであり、天皇の祭祀は個人のことを祈るわけではなく、国家のことを祈るわけですからね。もしこんなことを宮内庁が続けるとしたら、陛下を宮内庁から救出する落下傘部隊が要りますねえ」(「週刊文春」昭和58年1月20日号)

 その後、事態はますます悪化しています。

「1.5代」天皇論に取り憑かれ、125代の歴史的天皇像を否認し、暴走し続ける側近たちから、陛下を救出するには、何が必要なのでしょうか。福田恆存がいう、「冗談」ではもはや済みそうにありません。

(そして、案の定というべきか、陛下のご譲位問題に関連して、女性天皇・女系継承容認=「女性宮家」創設論議がまたぞろ復活したのです)

 さて、最後にひと言申し上げます。

 この本をまとめるに当たって、畏友・佐藤雉鳴氏から貴重なご助言と励ましを賜りました。佐藤氏は私の仕事を深く理解する、数少ない1人です。佐藤氏の存在がなければ、この本が日の目を見ることはなかったでしょう。心から感謝の意を表します。

 もうひと言、つけ加えます。父が逝って、6年になります。親孝行らしいことができなかったせめてもの罪滅ぼしに、この本を亡き両親と、晩年、体調を崩し、いっしょに酒を楽しむ機会が減り、後を追うように他界した義父の御霊(みたま)に、この本を捧げます。


  平成27年4月 父の7回忌を前に。あの日と同じ満開の桜のもとで



以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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「皇室制度改革ありき」の誤り ──政府の「皇室制度」改革に幕を引いた天皇誕生日会見 3 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「皇室制度改革ありき」の誤り
──政府の「皇室制度」改革に幕を引いた天皇誕生日会見 3
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


あとがきにかえて 政府の「皇室制度」改革に幕を引いた天皇誕生日会見


▽3 「皇室制度改革ありき」の誤り

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 ところが、宮内官僚たちはこれに反して、ご負担軽減どころか、その目的をはるかに超えて、大胆不敵にも「皇室制度」改革に踏み出したのでした。現行の皇室典範では女性皇族が婚姻後、皇籍離脱(臣籍降嫁)する制度になっているから、「皇室の御活動」が安定的に維持できない、御公務が軽減されない、と強引に理屈づけて、です。

 これは謀叛というべきものではないでしょうか。武器を用いない宮廷革命です。

 天皇制否定論者が少なくないらしい民主党政権は有識者ヒアリングを実施し、

「象徴天皇制度の下で、皇族数の減少にも一定の歯止めをかけ、皇室の御活動の維持を確かなものとするためには、女性皇族が一般男性と婚姻後も皇族の身分を保持しうることとする制度改正について検討を進めるべきであると考える」

 とする「論点整理」をまとめ上げ、皇室典範改正案を翌年の通常国会に提出する勢いでした。

 政権交代で、歴史にない「女性宮家」を創設する皇室制度改革は遠のきました。けれども、本当の意味でのご負担軽減も実現されずに終わりそうです。

 つまり、政府・宮内庁は、御負担軽減策の実施にもかかわらず、「陛下の御公務」の何がどう増えたのか、何がご負担増の原因なのか、なぜ減らないのか、問題点を明らかにすることもなく、なぜ宮内庁のご負担軽減策が失敗したのか、について、原因を分析しようともしません。

 一方、歴代天皇が第一のお務めと信じ、実践されてきた祭祀の簡略化はそのまま放置されています。

 外国の賓客などとの「ご会見・ご引見」や国内各分野の功労者との「拝謁・お茶・ご会釈」が増えたのなら、皇太子殿下をご名代に立てるなど、工夫のしようがあるだろうし、陛下のご希望による「都内・近郊のお出まし」が激増しているというのなら、

「陛下、お控えください」

 のひと言があってしかるべきでしょう。

 しかもそれら今上陛下の御公務すべてが次代に引き継がれるとも限らないでしょうに、政府は、「象徴天皇制度」の下での天皇陛下の「御活動」の意義を考えると大上段に振りかぶり、「御活動」を調整・見直し、削減するのではなくて、ご結婚後の女性皇族にまで「御分担」いただくことが、緊急に求められている、として、皇室典範改正、皇室制度改革という大袈裟な挑戦を始めたのでした。

 要するに、「制度改革ありき」の発想と論理がそもそもおかしいのです。

 陛下は24年のお誕生日会見で、

「しばらくはこのままで」

 と語られましたが、実際、23年11月のご入院の際、国事行為は皇太子殿下が臨時代行され、秋篠宮殿下が御公務を代行されました。御不例時に、皇太子殿下と弟宮殿下とで、御公務を「御分担」できるなら、もっと以前からご負担削減は可能であり、皇位継承問題に波及する「皇室制度」改革など不要でした。

 すでに書いたように、かねて宮内庁がご負担軽減で注目していたのは、「ご引見」「拝謁」の多いことでしたが、宮内庁の公表データによると、ご負担軽減策の実施後も、外国大使との「お茶」「午餐」は減っていません。一カ国ごとに行われる離任大使の「ご引見」は驚くほど日程がたて込んでいます。叙勲に伴う「拝謁」もほとんど変わりません。

 皇室の基本法に手をつけるまえに、陛下のご負担軽減のためにできることが現実にあるのです。側近たちが信じ込んでいるらしい、「御活動」なさる天皇・皇室論に立脚する「皇室制度改革ありき」の姿勢に誤りがあるのです。

 ご負担軽減の標的とされた宮中祭祀についても、原則なき簡略化以外に方法はあったはずです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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