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[空知太神社参拝記]法治主義に名を借りた革命工作が進行中!? ──義務教育で郷土の歴史や文化を教えるべきだ [政教分離]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年2月25日)からの転載です

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[空知太神社参拝記]
法治主義に名を借りた革命工作が進行中!?
──義務教育で郷土の歴史や文化を教えるべきだ
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 先般、北海道砂川市の空知太神社をお詣りした。地域の関係者のご協力と案内を得て、お宮を守る世話役の方々からの説明も受けることができ、たいへんありがたかった。
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 空知太神社については、私のメルマガの読者ならよくご存じのことだと思う。市有地内に神社が立地していることから、憲法の政教分離原則に抵触するかどうかが裁判で問われることとなり、マスメディアにも大きく取り上げられた。

 最高裁は「違憲」(多数意見)と判断した。市有地を無償で神社に提供しているのは、外形的にみれば、たしかに「公金は宗教上の組織に支出してはならない」に反している。しかし歴史的にみるとどうなのかという疑問が湧いてくる。

 前にも書いたように、裁判はやり直すべきだと思う。参拝してあらためてそう思った。〈 http://saitoyoshihisa.blog.so-net.ne.jp/2010-03-16-1


▽1 上川地方最古の神社

 空知太神社は砂川市発祥の地に鎮まる上川地方最古の神社らしい。

 明治25年ごろに住民らが五穀豊穣を願って祠を置いたのが始まりとされ、開拓者たちは必ずこの神社に参拝し、成功を祈願し、各地に散っていったという。

 明治維新後、本州以南の神社仏閣は上知令で境内地が国有化されたが、同社の場合は最初から公有地の神社であり、3千坪を超える広大な土地の貸下を受けていた。

 公的な存在であるとともに、上川地方開拓の歴史的原点がこの神社なのであった。

 にもかかわらず、戦後、宗教法人になれず、神職もいない、町内の神社であり続けた。全国の多くの神社は国有境内地の払い下げを受け、国家管理を離れたが、空知太神社は制度改革から漏れてしまった。

 それどころか、隣接する小学校の校地拡張に伴い、境内地を移転させられることになった。ある住民が私有地を提供してくれたのはありがたかったが、その後、固定資産税の負担の重さから町(当時)に境内地の寄付が願い出され、町議会の決定を経て、公有地内神社という状況が生まれたのだった。

 昭和45年に周辺に町内会館が新築されたとき、神社は改修されて会館内に遷され、奥の間に出窓のような形で鎮座することとなり、同時に鳥居が建てられたという。


▽2 追い出された神社

 神社のお世話をしている土地の方々によると、年2回、春と秋のお祭りのときは、会館内で余興などが行われ、近郷から集まってくる老若男女で大いに賑わった。寄付も集まり、神社を維持するための収入が確保できたという。

 けれども判決後、神社は会館からの移出を余儀なくされ、鳥居のそばに建てられた小さな建物に納まることとなった。

 神社も会館も市有地に立地していることはいまも変わらないが、会館の方は地代を免除され、一方、地方の歴史を背負っているはずの神社は賃料を支払わされている。

 裁判のあと、会館での行事もなくなり、社入が激減したため、神社の維持はごく少数の関係者個人に重くのしかかることにもなった、と故老たちは暗い表情で話された。

 しかし、そもそも地代を払えば済むのなら、大騒ぎするほどのことではない。不敬にも神様を町内会館から追い出す必要はなかったのではないか。

 というより、いまからでも遅くはない、3千坪あったという神社の境内地を、砂川市は無償で払い下げ、原状を回復させるべきではないだろうか。

 そのためにも裁判はやり直すべきではないか。会館の外壁に剥ぎ取られた「神社」の文字がうっすらと読み取れるのをみて、つくづく思った。

 神社がタダで市有地を利用していたのではない。市が広大な境内地を奪ったのである。裁判の争点はそこにある。じつに恥ずべき裁判だと思う。


▽3 宗教伝統の干渉・圧迫・変更が目的

 裁判の原告は地域に住むキリスト者だった。聞くところによると、神社の世話人たちとは古い友人でもあるという。それが革新政党の関係者から教唆され、素朴な正義感から原告に仕立て上げられた。ほんとうの原告はカゲに隠れて、姿を見せないらしい。

 などという話を聞くと、やっぱりなと思う。政教分離訴訟とは、日本国憲法をむしろ旗に掲げ、法治主義に名を借りた革命運動なのではないか。長崎の26聖人記念碑や記念館は戦後、修道会が市有地に建てたものらしいが、こちらは不問にされている。

 大航海時代、キリスト教徒たちは世界各地で、キリストの教えと教皇勅書に基づき、異教文化を根絶やしにし、あまつさえ異教徒たちを虐殺した。日本でもキリシタン領地では神社仏閣が放火・破壊され、領民は強制的に改宗させられた。挙げ句の果てには、日本は潜在的にポルトガル領とされたのだった。

 第2バチカン公会議以降、カトリックは異教世界の価値を明確に認めるようになったが、キリスト教世界の鬼っ子たちはそうではない。チベットやウイグルでの宗教弾圧の現実をみれば明らかであろう。

 日本ではさすがに公然たる社寺破壊は起きないが、憲法の政教分離原則を武器にして、伝統的宗教文化への干渉・圧迫・変更を目的とする革命工作が一貫しているのではないか。いま目前で進行する御代替わりのあり方をめぐる議論も例外ではないと思う。

 最後にもう1点、明治維新から150年、北海道でも地域の独自の歴史が忘れられつつあることが実感され、悲しく思った。空知太神社が上川地方において、もっとも由緒ある神社であり、その存在なくして地域の歴史は語れないということを、人々はどれほど理解しているだろうか。

 学校教育では日本史すらまともに教えなくなっている。受験科目にない教科は軽視されるのが現実だ。まして地域の歴史や文化などに目を向けられることはない。空知太神社訴訟が起きたのはその結果ではないか。次世代の子供たちに、先人たちの血と汗と涙の結晶である郷土史を、義務教育で教えるべきだと私は強く思う。

 【関連記事】市有地内神社訴訟で最高裁が憲法判断か?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-09-17-1?1583044220

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御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に ──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判する [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年2月19日)からの転載です


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御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に
──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判する
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 朝日新聞は今月16日、「天皇即位儀式、憲法の理念に忠実に」と題する社説を掲げ、「危うい空気が漂うなかで進む代替わりに対し、憲法の原則や理念からの逸脱がないよう、目をこらし続ける必要がある」と訴えました。

 しかし、じつのところ、危ういのは、古来、125代続いてきた天皇の価値を理解できない、もしくは理解しようとしないジャーナリズムの方ではないのでしょうか。ジャーナリズムが歩むべき道を踏み外さないよう、私たちは監視し続ける必要がありそうです。


▽1 なぜ憲法重視なのか

 朝日新聞の社説が問題にしているのは、政府が検討を進めている御代替わりの儀式と憲法との関係です。「最も重視すべきは憲法との関係である。改めて言うまでもない」と述べ、政教分離問題に言及しています。

 しかし、なぜ憲法重視なのでしょうか。なぜ皇室の伝統ではなくて、憲法の理念なのか。なぜ皇室の伝統と憲法の理念を対立化させ、一方を選択するのではなく、同時に追求することを求めようとしないのでしょうか。

 少なくとも今上陛下は、皇位継承後の朝見の儀で仰せになったように、「大行天皇の御威徳に深く思いを致し」「憲法を守り」と両方の価値を求めておられます。皇室の伝統と憲法の規定の重視は、その後もことあるごとに明言されています。当然のことです。

 社説を書いた論説委員は、歴史的天皇の存在にもともと関心がないのか、もしくは価値を認めないのか、考えようという意思がさらさらないのでしょうか。千数百年以上続いてきた天皇の伝統的価値とはそれほどに低いものなのでしょうか。

 おそらくや政治部出身であろう論説委員には、思いもおよばぬことなのかも知れません。縦割りジャーナリズムの限界でしょうか。

 社説は、大嘗祭訴訟の合憲判断に言及しつつも、「安易に踏襲することなく、一つ一つ点検する姿勢が肝要だ」と訴えるのですが、憲法は宗教の価値を否定しているわけではまったくありません。むしろその逆です。

 論説委員は大嘗祭を単なる宗教儀礼だとお考えなのでしょうか。「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法に抵触する特定の宗教であるとお思いなのでしょうか。そのような儀礼が千年を超えて引き継がれると信じておられるのでしょうか。


▽2 30年間、進歩がみられない

 聞くところによると、カトリックの信仰篤き女性が何十年も前から天皇の祭祀に携わっていると聞きます。「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」という絶対神の戒律を固く守るカトリック信徒が宮中祭祀を奉仕している事実があるとすれば、天皇の祭祀は信教の自由を侵さないことの何よりの証明ではないでしょうか。

 それどころか、バチカンは300年以上も前から、たとえ異教的儀礼であっても、信仰心や道徳に反しないかぎり、変更を求めてはならないという指針を示しています。

 むろん、宗教性が否定されない儀式などに国はいっさい関われないとするほど、日本国憲法は完全中立主義、非宗教主義を採用してはいません。

 朝日の社説は御代替わり諸儀礼を、無慈悲にもバラバラに分解して点検せよと要求していますが、むしろ逆に、全体として国の行事とされるべきでしょう。ごく当たり前のことです。

 そして本来なら、皇室の歴史と伝統、同時に憲法の理念に照らし合わせて、どのような儀礼が相応しいのか、英知を集め、時間をかけて、整備し直すべきなのではありませんか。日本国憲法施行以来、政府が宮務法の整備を怠ってきたことこそ、批判されるべきでしょう。

 朝日新聞は昭和天皇崩御の3日後、やがて国の儀式として行われる大喪の礼が政教分離原則に反しないないようにするよう政府に要求する社説を載せましたが、あれから30年、ジャーナリズムとしての進歩がまったく見られません。


▽3 なぜ宗教性否定なのか

 今回の社説は、践祚後の剣璽渡御(剣璽等承継の儀)についても噛みついています。

 三種の神器に含まれる剣璽の継承儀式は、神話に由来し、宗教的色彩が濃いのだから、国事行為には相応しくないという主張ですが、なぜ宗教性を否定しなければならないのでしょうか。

 宮中の祭祀は、教義もなく、宣教師も信者もいません。憲法の政教分離原則に抵触する特定宗教ではありません。

 憲法が定める国事行為は天皇の政治的権能を否定しているのであり、他方、政教分離規定は国民の信教の自由確保が最大の目的でしょう。

 今上陛下の御成婚のとき、賢所大前での結婚の儀は「国の行事」(天皇の国事行為)と閣議決定されましたが、朝日新聞は反対運動を展開したのでしょうか。

 社説はまた、剣璽等承継の儀に女性皇族が立ち会わなかったことを「排除」と表現し、問題視していますが、皇位継承資格者が参列すれば足りるのではないのでしょうか。

 それとも論説委員は、皇位継承権を男系男子に限定する現行憲法を改めよと主張されるのでしょうか。もしそうなら、この社説のタイトルに「憲法の理念に忠実に」は相応しくありません。

 社説は、時代に相応しい御代替わりのあり方を再検討し、国民に説明すべきだと政府に求めていますが、ジャーナリズムこそ天皇の歴史と伝統の価値を学び直すべきではありませんか。


▽4 皇室の歴史と伝統の意味

 社説はまた、自民党内に旧憲法を懐かしみ、天皇を神格化する空気が根強いことに懸念を示していますが、思想・良心の自由は現行憲法で認められています。

 もっとも後者についていえば、戦後唯一の神道思想家と言われた葦津珍彦が書いているように、天皇は古来、祀られる神ではなくて、みずから神々を祀るお立場なのです。古代の律令には「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」と明記されています。昭和天皇は現人神とされることに否定的でした。

 懸念されるのは、天皇の神格化ではなくて、天皇が多神教的祭祀を行われることの歴史的意義が十分に理解されず、価値多元主義的意味が見失われていることではないでしょうか。朝日新聞の社説はまさにその典型です。

 今日、天皇・皇室のあり方をめぐって議論が混乱する理由のひとつは、そうした皇室の歴史と伝統が理解されず、その一方で、憲法の国民主権主義との衝突が過度に強調されるからです。この社説はその一例に過ぎません。

 社説は明治憲法にノスタルジアを感じる保守派を牽制しますが、日本国憲法とてけっして「不磨の大典」ではあり得ません。

 明治人は国務法と宮務法を別体系としましたが、現行憲法では両者が一元化され、皇室典範は下位法と位置づけられています。それでいて、日本国憲法施行とともに全廃された皇室令に代わる明文法は、70年経ったいまなお整備されていません。これでは混乱した議論が収束するはずはありません。

 国のあるべき姿を、先入観ぬきで、歴史的に、多角的に、謙虚に検討し直していただくことはできないでしょうか。
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保守政権にして平成の悪しき前例が踏襲される!? ──式典準備委員会の配付資料・議事概要を読む [御代替わり]

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保守政権にして平成の悪しき前例が踏襲される!?
──式典準備委員会の配付資料・議事概要を読む
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 1月9日、天皇陛下の御退位および皇太子殿下の御即位に伴う式典準備委員会を内閣に設置することが閣議決定され、その初会合が同日、開催されました。
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 公表された資料を読むと、案の定、さまざまな不都合が指摘された、平成の悪しき前例が繰り返されるのではないかと強く懸念されます。


▽1 前回指摘の不都合に目をつぶる?

 メディアの報道によると、菅内閣官房長官を委員長とする同委員会は、月1回程度、非公開で開催され、陛下の譲位(退位)に伴う皇位継承の儀式のあり方、日程、規模などを検討し、3月中旬には基本方針をとりまとめると伝えられます。

 テーマは御代替わりに関する重要事項ですが、たった3回程度の会合で、何を根拠に検討するのでしょうか。本格的検討には遠くおよばず、125代続く皇室の伝統はほとんど顧みられず、もっぱら平成の先例ばかりが根拠とされるのではないかと憂慮されます。

 そのように予測されるのは、初会合で配付された資料を読めば十分です。

 官邸のサイトに公表された配付資料「陛下の御即位に伴う式典等の実例」をみると、「御在位20年記念式典」「平成の御代替わり時の式典一覧」「御即位関係」「立太子の礼関係」がそれぞれカラー画像付きで説明されています。

 一目瞭然、初回に配付された資料は、今上陛下の御即位に関するものばかりで、皇室の長い歴史を感じさせるものはありません。即位大嘗祭を説明した貞観儀式も一条兼良の「代始和抄」も、光格天皇のご譲位に関する歴史資料もありません。

 となれば、政府は平成の前例を踏襲することしか念頭にないということではありませんか。安倍長期保守政権にして、皇室の歴史の軽視、厳格すぎる政教分離原則への執着という不都合が繰り返され、悪しき先例が日本国憲法様式として確定されることは目に見えています。

 日本の保守主義とは何かが問われます。同時に、今日、天皇・皇室問題の正常化がいかに困難かがあらためて理解されます。

 実際、初会合の1週間後に公開された議事概要には、「平成の式典は、現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたのだから、今回も基本的な考えや内容は踏襲されるべきだ」という発言が記録されています。

 前回、指摘されたさまざまな不都合には目をつぶるということでしょうか。それとも事なかれ主義なのか。


▽2 今回も「国の行事」と「皇室行事」の二分方式で?

 2つ目は、「国の行事」と「皇室行事」の二分方式の踏襲です。

 配付資料の中の、前回の御代替わり時に行われた式典の一覧表をみると、興味深い点がいくつか指摘されます。

 1つは、「賢所に期日奉告の儀」など、宮中三殿で行われた祭儀にいたるまで細かく言及されていること、しかもそれらが「国事行為」「総理主催行事」「皇室の行事」とに区分され、見やすいように色分けされていることです。

 しかしその一方で、旧登極令の附式に定められていた「践祚の式」のうち、前回、今上天皇が皇位を継承された当日にも行われたはずの「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」は取り上げられていません。大嘗祭の諸儀については詳細が列挙されているのに、です。

 つまり、政府は最初から「国の行事」と「皇室行事」とを分けて考えており、宮中三殿で行われる祭祀などは「国の行事」ではなくて「皇室行事」として挙行されることが当然視され、そのため準備委員会の検討事項には想定されていないということでしょうか。

 天皇の祭祀について、その本質を深く探求せずに「皇室の私事」と決め付け、宗教性があるから憲法が定める政教分離の原則から国は関与できないとする、占領後期にはGHQでさえうち捨てた古くさい厳格主義から、政府は一歩も脱せずにいるようです。

 けれども他方では、大嘗祭は公的性格があるから公金を支出することは憲法上、許されるとする、一連の大嘗祭訴訟を踏まえた、私にいわせれば誤った憲法判断に基づき、国の一定の関与を認めて、今回の御代替わりが進められているということでしょう。

 大嘗祭は古来、宗教儀式というより国民統合の儀礼であって、国民の信教の自由を侵すものではありません。信仰篤きキリスト者が祭祀に携わっているとされるのは何よりの証明です。祭祀を「皇室の私事」と断定する法解釈を前提とする大嘗祭訴訟はやり直すべきだと私は考えます。

 それはともかく、準備委員会の議事概要をみると、ある出席者は「諸儀式の検討に当たっては、日本国憲法に整合的であること、皇室の伝統に即したものであること、の2つの観点を踏まえてほしい」と発言しています。

 じつのところ前回は、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、皇室の伝統行事が伝統のままに行うことは憲法の趣旨に反するとされ、「国の行事」と「皇室行事」との二分方式が採られたのです。

「2つの観点」を両立させるのは容易ではありません。大嘗祭のみならず天皇の祭祀とは何かが問われています。それなくして、二分方式の正常化はあり得ないでしょう。


▽3 日程調整だけでは済まされない

 もう1点は、昭和の御代替わりのような特別の機関の設置はまったく想定されていないらしいということです。

 議事概要には次のような発言が記録されています。

「即位の礼については、平成度の考え方を踏襲していくことが基本である。日程については、即位礼正殿の儀と大嘗祭の間は、連日儀式や行事が行われ、参加する方々にはかなりの負担がかかったと聞く。大嘗祭は11月中頃となっているので、即位礼正殿の儀をもう少し早めに行い、日程に余裕を持つようにしていただきたい」

 けれどもこれは日程の問題なのでしょうか。

 大正、昭和の御代替わりでは登極令第4条に基づき、即位の礼と大嘗祭は引き続き行われ、前回の平成の御代替わりでは10日の間をおいて行われました。それでも関係者はひたすら眠い目をこすって、長時間勤務に耐えました。

 さらに日程に余裕を持たせれば参加者の負担が軽減できるのか、といえば、そうではないでしょう。抜本的解決は特別の機関を置くこと以外にはないのではありませんか。

 以前、書いたように、大正の御代替わりについて解説した赤堀又次郎によれば、古代の即位の礼は臨時のことながら儀式は元日恒例の朝賀と同じで、とくに職員の任命はなく、事務は式部省などが掌りました。近世には摂政関白が総裁し、伝奏が事務を統括しました。ただ大嘗祭についてはより繁雑なことから職員が任命されたとされます。

 大正、昭和の御代替わりでは大礼使という機関が臨時に置かれましたが、前回の平成の御代替わりでは特別機関は設置されず、日常業務と併行して作業することとなり、その結果、関係者の負担はいや増しに増したのです。

 前回の反省に基づき、臨時機関、あるいは第三者機関の設置を提言する有識者はいないのでしょうか。長時間労働が社会的に許されないご時世に、平成の悪しき先例踏襲はまったくあり得ません。

 御代替わりを全体的に国事とし、国を挙げて、あるいは国と民がこぞってお祝いできる方法を本格的に模索するわけにはいかないのでしょうか。保守政権の真価が問われます。
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