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御代替わり諸行事を「国の行事」とするための「10の提案」 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月10日)からの転載です

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御代替わり諸行事を「国の行事」とするための「10の提案」
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関係者各位

拝啓 皆々様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

さて、次の御代替わりまで、早くも一年足らずとなりました。

政府は「前例踏襲」を基本としており、古来の儀礼が非伝統的、非宗教主義的に変更された前回同様の不都合が繰り返されます。次がそうなら、次のまた次も同様であり、いまのままでは「伝統尊重」とは懸け離れた御代替わりのあり方が確定されます。

きわめて憂慮すべき事態であり、国民的な議論が大いに喚起されるべきですが、残念なことに問題意識さえ十分に共有されていないのが現実です。

他方で、来年度予算の概算要求の時期が迫ってきました。予算が確定すれば、もはや後戻りはできません。今が最後の正念場です。皆々様のお力添えがどうしても必要です。

昨春の問題提起から1年あまりが過ぎました。一縷の望みをかけて、ここにあらためて、関係各位に謹んで、以下、「10の提案」を呼びかけさせていただきます。

斎藤吉久拝


             


1、御代替わりの諸行事すべてを「国の行事」と位置づけてほしい

「御国譲りは天下の重事」(一条兼良「代始和抄」)であり、御代替わりは全体として国家の大事、国事です。関連する儀式を「国の行事」と「皇室行事」とに二分する前回の方式は改められるべきです。

 前回は、皇位継承に関する践祚の式のうち、政教分離の趣旨に照らして、「国の行事」とすることが困難とされた賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀については「皇室行事」とされ、剣璽渡御の儀は剣璽等承継の儀と非宗教的に改称されました。

 しかし昭和34年、賢所大前で行われた皇太子明仁親王殿下(今上天皇)の結婚の儀は「国の儀式」(天皇の国事行為たる儀式)と閣議決定されています。平成5年の皇太子徳仁親王殿下の結婚の儀も同様です。

 皇太子の結婚の儀が「国の儀式」なのに、天皇の御代替わり儀礼の中心たる大嘗祭などが「国の行事」とされないのは矛盾です。

 関連する儀式をバラバラに分解し、法的位置づけを区別すること自体、皇室行事への不当な介入であり、「皇室の伝統尊重」に悖るのではありませんか。


2、「国の行事」であることの意味を深く探究してほしい

 御代替わりは国事であると同時に、皇室の重儀です。世俗権力の介入が許されない皇室の聖域であり、本来なら、そのあり方は政府が決めることではありません。

 明治の近代化以後、かつては皇位の継承について、皇室典範以下、宮務法に細かく規定されていましたが、戦後は宮務法の体系がすべて失われました。しかも憲法を「最高法規」とする現行の法体系には抽象的規定しかありません。70年間、具体的な法規定を未整備のまま放置してきた戦後の法体制のあり方にこそ、問題があります。

 政府は前回、御代替わりの中心行事である大嘗祭について、宗教行事だから「国事行為」としては行えないが、きわめて重要な皇位継承行事であり、公的性格があるから、その費用は宮廷費から支出することが相当であるとし、今回もこの考え方を踏襲しています。

 国事と「国事行為」とは別のはずですが、政府のいう「国の行事」とは、憲法に規定される、「内閣の助言と承認を必要」とする「国事行為」の意味で、その中身は国費が直接に投じられ、国家機関が参与する程度のことなのでしょうか。


3、歴史的概念、歴史用語を尊重し、使用してほしい

 政府が御代替わり儀礼について、「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」を基本的考え方としていることは、十分、理解できるし、同意しますが、「伝統尊重」ならば、皇室伝統の考え方や用語が採用されるべきではないでしょうか。

 前回の御代替わりでは、「践祚」の概念が消え、平安時代の桓武天皇以来といわれる、皇位継承を意味する「践祚」と、それから日を隔てて、皇位継承を内外に表明される「即位」との区別が失われました。旧皇室典範と異なり、敗戦後の混乱期に制定された現行皇室典範には「践祚」の用語がありません。

 しかし、帝国議会で皇室典範改正が議論されたとき、政府は、改正案には「践祚」の文字は消えたが中身に変更はないという趣旨で答弁しています。

「践祚後朝見の儀」と表現することに何か不都合でもあるのでしょうか。


4、祭祀最優先の皇室の伝統を尊重し、関連する祭祀に配慮してほしい

 古来、皇室は「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)という祭祀優先主義を固持してこられました。祭祀こそ天皇第一のお務めです。

 たとえば200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位では、作法に従い、譲位の日から3日間、内侍所で祭祀が斎行されたことが記録に残されています。

 昭和の御代替わりでは、登極令附式に基づき、践祚後3日間、賢所の儀が行われ、践祚後朝見の儀はその翌日に行われました。平成の御代替わりもほぼ同様でした。

 しかし今回は、即位(践祚)の当日に、剣璽等承継の儀に引き続いて、即位後朝見の儀が予定されています。それどころか、政府は御代替わりに関連する祭祀についてまったく検討していません。皇室最大の伝統である祭祀の斎行が完全に無視され、結果として践祚の式の次第が変更を余儀なくされています。

 占領中でさえ、日本国憲法施行後、占領後期ともなれば、いわゆる神道指令の解釈・運用は限定主義に変更され、松平恆雄参議院議長の神道形式による参議院葬、貞明皇后の旧皇室喪儀令に準じた大喪儀が認められています。

 今回はなにゆえの占領前期への先祖返りでしょうか。少なくとも朝見の儀は3日間つづく賢所の儀のあとに行われるべきでしょう。皇室の儀式に干渉し、圧迫することは、政教分離の厳格主義の立場なら、なおのこと許されません。


5、退位(譲位)と即位(践祚)の儀式を分離しないでほしい

 政府は今回の御代替わりを「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位」と、2つに区分していますが、本来、譲位即践祚であって、皇位継承の儀式は連続して行われるべきであり、譲位の儀式と践祚の儀式が分離して行われることなど、あり得ません。

 今回、宮内庁がまとめたリポートに、光格天皇の譲位の儀式が、仙洞御所(桜町殿)で行われたかのように説明されており、分離方式の論拠とされているもようですが、資料の誤読かと思われます。

 最古の儀式書「貞観儀式」(平安前期)には一連の儀式とされており、ほかならぬ宮内庁がまとめた「仁孝天皇実録」にははっきりと「清涼殿に於いて(光格天皇から)受禅あらせらる」と記録されています。光格天皇の遷御ののち、桜町殿で行われたのは宣命草案の作成でしょう。

 まさに「貞観儀式」に示されているように、古来、天皇の譲位の宣命によって、その瞬間に皇太子は新帝となり、そののち剣璽は渡御したのです。宣命の宣読と剣璽渡御の儀の分離挙行は、歴史に禍根を残すでしょう。

 来年5月1日に、退位(譲位)と即位(践祚)の式は一体的に挙行されるべきではないでしょうか。


6、高輪皇族邸の改修を急ぎ、遷御を復活させてほしい

 最古の儀式書である『貞観儀式』に記載された「譲国儀」は冒頭、「天皇、予め本宮(内裏)を去りたまふ。百官、従ひて、御在所に遷る」に始まり、(1)天皇遷御、(2)宣命草案の奉見、(3)天皇出御、(4)宣命再覧、(5)宣制、(6)群臣拝舞、(7)新帝拝舞、(8)剣璽・伝国璽等渡御、(9)新帝上表の9段階からなる次第が記されています(土井郁麿「『譲国儀』の成立」)。

 光格天皇の譲位では、まず仙洞御所(桜町殿)への遷御が行われました。総勢700人以上からなる華麗な行列を、上下巻合わせて40メートル以上に及ぶ絵巻物に描いた「桜町殿行幸図」が伝えられ、国立公文書館のサイトで公開されています。

 今回、政府は「御退位の儀式の場所については、光格天皇の譲位時には、新たな上皇の御在所で行われた。今回は、上皇の御在所は未整備で、考え方案のとおり、宮殿松の間で行われることが望ましい」(山本宮内庁長官)と説明しています。

 光格天皇の譲位の儀が仙洞御所で行われたという歴史理解は間違いですが、譲位の意思を示される遷御は重要です。仙洞御所となる今の東宮御所の整備はともかく、仮住まいとされる高輪皇族邸の改修に1年もかかるでしょうか。


7、即位の礼は大嘗祭と一体的に挙行してほしい

 前回の即位の礼は皇室伝統の即位礼とは似て非なるものでした。

 明治の皇室典範、登極令では即位の礼と大嘗祭は不可分でした。登極令附式第2編は「即位礼及び大嘗祭の式」について、具体的かつ詳細な次第を定めていました。

 しかし現行の皇室典範は第24条に「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」というごく簡単な規定があるだけです。このため前回は内閣に委員会が段階的に設置され、その中身が検討されたのですが、注目すべきことに、反対派と目される識者が皇室典範改正時の議論に言及し、誤った情報に基づく意見を述べたことが記録されています。

「皇室典範制定に際して、金森徳次郎国務大臣が『即位の礼』の予定しているところは信仰に関係のない部分であり、大嘗祭は含まれない旨、答弁している」というのですが、議事録には逆に皇室行事の体系はいささかも変わらないとの政府の認識が示されています。

 金森大臣は、改正案に大嘗祭の記述がないのは、信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたからだと述べています。つまり大嘗祭の挙行が不適当だと考えられたわけではありません。当時はいわゆる神道指令が絶対的効力を持つ占領前期でした。

 結局、政府は皇室典範24条を法的根拠に、「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」の3つを「即位の礼」とし、大嘗祭を含めず、逆にあろうことか、践祚の式の一部を含める前代未聞の決定を行いました。そして今回も「前例踏襲」により、即位の礼と大嘗祭は概念的に分離され、法的位置づけも区別されることになりました。

 太古以来の国風を伝える大嘗祭は「国の行事」とはされず、古代中国や朝鮮との交流の結果、即位の盛儀を内外に示すため導入されたといわれる「唐制風」(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』)の即位礼が「国の行事」とされているのは、望ましいことでしょうか。


8、大嘗祭は稲作儀礼ではなく、国民統合の儀礼と解釈を変更してほしい

 御代替わりでもっとも重要な大嘗祭について、政府は平成元年12月の閣議口頭了解を踏襲し、稲作社会の収穫儀礼と解釈しています。とすれば、稲作信仰=宗教儀礼=政教分離に抵触=国の行事に相応しくない、という論理が成り立ち得ます。

 けれども大嘗祭は稲の祭りではありません。宮中新嘗祭と同様、稲だけでなく、米と粟が捧げられ、御直会なさるのが大嘗祭の中心儀礼だからです。粟が抜けています。

 台湾の先住民は粟を神聖視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げました。台湾では粟の酒がふつうに売られています。日本では新嘗祭の文献上の初出は『常陸国風土記』で、そこに描かれているのは、米の新嘗ではなく、粟の新嘗です。天皇による粟の供饌は、稲作以前の畑作農耕民の儀礼を今に伝える残照でしょうか。

 宮中新嘗祭・大嘗祭は、異なる宗教的ルーツを持つ、稲作民の米と畑作民の粟を同時に捧げる、天皇だけが行う国民統合の儀礼と解されるべきではないでしょうか。

 多様なる民の存在を前提とし、多様なる暮らしや価値観を同等に認め、「国中平らかに、安らけく」(「後鳥羽院宸記」)と祈る国民統合の儀礼を、天皇が御代替わりごとに斎行することは、むしろ「国の行事」に相応しいのではありませんか。

 教義もなく、布教の概念もなく、特定の教団があるわけでもない天皇の祭祀が、国民の信教の自由を侵しかねないと曲解し、「国の行事」とされないのは愚かです。

 ただ、近代以後、巨大化した大嘗宮の規模は再考されるべきでしょう。本来、「秘事」(卜部兼豊)とされる大嘗祭の参列者の数も制限されるべきではないでしょうか。


9、改元は来秋の即位の礼当日か、思い切って再来年元日にしてはどうか

 明治人は宮中の祭儀を近代法的に整備するに当たって、旧例墨守を批判し、「ひとえに実際に就くを旨」(『明治天皇紀』)としました。以前は各忌日に斎行された皇霊祭祀が春秋の皇霊祭にまとめられたのは、現実主義的対応の典型です。

 30年前とは比較にならないほど、ICT(情報通信技術)の利活用が広範囲に展開され、コンピュータが必須アイテムとなった今日、政府が予定するように、即位(践祚)1か月前の新元号公表で、システム切り替えに伴うトラブルの発生は回避できるでしょうか。

 旧登極令(明治42年)は「天皇践祚ののちは直ちに元号を改む」(第2条)と定めており、昭和の改元は践祚の当日でしたが、前回は翌日改元でした。元号法(昭和54年)には「直ちに」とはありません。

 登極令を準用したいのなら、すでに書いたように、ほかにもっと望まれる場があるでしょう。市民生活を重視したいなら、より現実的、合理的な対応が望まれます。ちなみに200年前の仁孝天皇の践祚による改元は1年以上ものちのことでした。


10、参加、参列を強制しないでほしい

 天皇の祭祀は仏教伝来以前から、価値多元主義的社会の中心であり、宗教的共存の要として機能してきました。

 しかしそれでも、とくに唯一神の信仰者にとっては、熱心な信仰者であればあるほど、御代替わりの異教的儀礼に公務員として参加し、国民の代表として参列することを耐えがたいと感じるかも知れません。

 バチカンは、たとえ異教儀礼に由来するとしても、時代の経過によって社会的儀礼へと性格を変えた行事に参加することは、信徒の務めだと教えています(1936年の指針、51年の指針)が、教会指導者のなかにさえ強い抵抗を感じる人がいます。

 少数者の内心の自由を十二分に確保するため、強制の排除が確認されるべきでしょう。


 以上が私からの提案です。皆々様のご意見をお聞かせください。
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