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「国家神道」とは何だったのか by 佐藤雉鳴 ──阪本是丸教授の講演資料を読む 後編 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月30日)からの転載です

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「国家神道」とは何だったのか by 佐藤雉鳴
──阪本是丸教授の講演資料を読む 後編
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▽11 井上毅や元田永孚と異なる「教育勅語」解釈

 教育勅語の草案を作成したのは、主に法制局長官・井上毅と天皇の側近・元田永孚でした。文部省訳や国民道徳協会のそれは本当に正しいでしょうか。井上毅らの教育勅語と比較して検討してみます。

 まず「之を古今に通じて謬らず」の解釈です。稲田正次の著作には教育勅語に関する各種の草稿が掲載されています。

「之を古今に通じて謬らず」(原文はカタカナ表記)の部分を、稲田正次『教育勅語成立過程の研究』から、原文を整理して引用します。

井上毅・六月初稿「以テ古今ニ伝ヘテ謬ラズ」
井上毅・七月次稿「以テ上下ニ伝ヘテ謬ラス」
文部省・八月上奏案「以テ上下ニ推シテ謬ラス」
元田永孚・九月修正案「以テ上下ニ通ジテ謬ラズ」
教育勅語・十月完成稿「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス」

 つまり「通じて」の「通」は「伝えて」の意味だと解釈して妥当です。また教育勅語は外国語にも翻訳されました。『漢英仏独 教育勅語訳纂』にはそれぞれの翻訳が記載されています。

 ところが漢訳では「之を古今に通じて謬らず」の「之」は目的語ですが、英訳の「之」は主語となっています。これで同じ意味になるはずがありません。

 漢訳は稲田正次本にある元田永孚のものと、ほぼ同じです。したがって「之」は目的語です。しかし金子堅太郎が主導した英訳の「之」は主語となっています。教育勅語の原文も「之」は目的語ですから、英訳が間違っていることは明らかです。

 おそらく昭和15年当時、井上毅らの草稿は未整理だったのかもしれません。文部省の協議会では初稿も次稿も検討されていませんでした。そして井上哲次郎をはじめとする各種の教育勅語解釈本を参考に、解釈がなされた可能性があると思います。ちなみに井上哲次郎『勅語衍義』も井上毅の草稿とは異なる解釈をしています。

 さて、文部省や国民道徳協会の現代語訳は、この英訳とほぼ同じです。少なくとも井上毅や元田永孚の教育勅語ではありません。井上毅らにしたがえば、「之を古今に通じて謬らず」の正しい現代語訳は、「(歴代天皇が)之(斯の道)を昔から今に伝えて誤りがなく」となって自然です。


▽12 「之を中外に施して悖らず」の誤解

 明治11年、天皇は北陸東海両道を巡幸されました。各地の実態をご覧になられた天皇は岩倉右大臣に民政教育について叡慮あらせられました。これを聞いた侍補たちは大いに喜び、「勤倹の詔」を「速に中外に公布」せられんことを岩倉右大臣に懇請しました(『元田永孚文書』)。

 民政教育ですから、この「中外」は「宮廷の内外」「中央と地方」です。外国は関係ありません。教育勅語「之を中外に施して悖らず」の「中外」もこれと同じです。外国は関係がなく、この場合は「宮廷の内外」が妥当です。

『伊藤博文関係文書』には井上毅との書簡のやりとりが掲載されています。その中で井上毅が用いた「中外」はほぼ「宮廷の内外」「朝廷と民間」「中央と地方」です。

 また、教育勅語に関する井上毅の資料には、「中外」を「国の内外」と解釈できるものは見当たりません。

「我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」(文部省訳『続・現代史資料9』)

 したがってこの訳は間違いだと分かります。「之を中外に施して悖らず」は、「之(斯の道)を全国(民)に及ぼして間違いがない(なかった)」と解釈して文脈に無理がありません。

 結局のところ、「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」は以下のような訳になると思います。

「(歴代天皇が)之(斯の道)を昔から今に伝えて誤りがなく、之(斯の道)を全国(民)に及ぼして間違いがない(なかった)」

「この道は古今を貫いて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」とした文部省訳は、前段後段ともに、とんでもない誤訳だと判明します。


▽13 鵜呑みにされた国家神道の「聖典」

 およそ歴代天皇によって昔から今まで伝えられてきたとされる皇祖皇宗の遺訓、それが「我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」とは飛躍が過ぎます。井上毅のいわゆる起草七原則にも違背します。

 漢文読解風に云えば、古今と中外は時間と空間の表現ですが、文部省訳ではX軸とW軸に整合性がありません。教育勅語の古今と中外はあくまで国内の話です。

 ところで明治23年に渙発された教育勅語が曲解されたのは、昭和戦前だけではありません。明治24年井上哲次郎『勅語衍義』など、すでに曲解の産物でした。

 そしてこの日本人の曲解をGHQが鵜呑みにし、神道指令を発したことは明白です。GHQは「皇道を四海に宣布」などのスローガンの基礎は、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」にあると考えました。これはCIEのダイク局長らのコメントに明らかです。


▽14 納得できない阪本教授の「国家神道」論

「国家神道」の聖典とされた教育勅語の解釈は、曲解に満ちたものでした。むろん聖典は教育勅語だけではありません。GHQは記紀も聖典の一部だと把握していました。

 しかし「世界征服」の思想は教育勅語にあると考えました。これまで引用したとおりです。いま、私たちが検証すべきは「国家神道」の正体です。GHQが鵜呑みにした日本人による教育勅語の解釈が、曲解だったと判明すれば、「国家神道」は瞬時に雲散霧消するはずです。

 GHQのいう「国家神道」とは、教育勅語の「中外」を誤解して語られた「世界征服」の超国家主義であって、神道そのものとは関係がない。これが「国家神道」の正体だと思います。

 我が国の「国家神道」論は、「国家神道」を独自に定義して神道指令を無視しています。なぜ歴史的用語としての「国家神道」を、神道指令を無視して定義しようとするのか、納得できません。そしてあくまで「世界征服」の思想がなければ「国家神道」が成立しないことは、これまで引用したGHQ文書に明らかです。

 加えてGHQが「国家神道」の聖典とした教育勅語解釈の検証も不十分だと云わざるを得ないと思います。およそ「聖典」の解釈を検証しない「国家神道」研究とは如何なるものか。

 阪本教授の講演資料には、たしかに「国家神道」への詳しい言及はありません。ただ島薗教授の「戦前の国体論が国家神道と不可分の関係」を引用して何の批判もありません。戦前の国体論と教育勅語を聖典とする「国家神道」との関係とはどのようなものか。

 ところで阪本教授には『近代の神社神道』という優れた研究書があります。ことにこれまでの政教関係裁判の判決を批判した点では、高い評価がなされて当然だと思います。

 そしてその第四章は「国家神道とは何だったのか」です。ここで明治の小田貫一衆議院議員の発言「十五年ニ於テ、早ヤ既ニ宗教ノ神道、国家神道ト云フモノハ明カニ分ッテ居ッタケレドモ」を引用しています。

 教授は「この小田の発言にある国家神道が、神道指令のいう国家神道の定義とほぼ一致することは自明であろう」と述べています。もしそうなら、小田国家神道に「世界征服」の思想があったことを立証する必要があると思いますが、どこにも見当たりません。もし立証できなければ、GHQ神道指令とは合致しないこと、明白です。

(1)「国家神道」はあくまでGHQが神道指令に用いた用語である
(2)GHQのいう「国家神道」の聖典は教育勅語である
(3)GHQが問題にしたのは「之を中外に施して悖らず」である
(4)その意味は「世界征服」だと断定された
(5)「国家神道」の正体解明は聖典である教育勅語解釈の検証にある

 これが「国家神道」究明の鍵だと思いますが、これまでの研究者にその成果はありません。


▽15 ウッダードは「国体のカルト」と神道を区別した

 ウッダードは昭和21年5月からCIEのスタッフとして宗教政策に関与しました。彼の『天皇と神道』には多くの示唆に富む文章が記されています。

「日本の政治学者や思想家は、日本の『国体』にさまざまな解釈を与えた。しかしわれわれの関心は、(1)一九三〇年代および一九四〇年代初期に極端な超国家主義者と軍国主義者が『国体』について行った解釈、(2)警察国家の権力によって日本国民にカルトとして強制された『国体』の教義および実践活動、に限られる」

「学者や評論家は、しばしば『国体』概念の過激な解釈をなんらかの神道の形態と同一視し、神道が日本の軍国主義ないし超国家主義の本質的な中核をなしていると説いた。民間情報教育局やその日本人助言者も、このような解釈をとったのであり、その結果、『国体のカルト』の廃絶を命じた指令が『神道指令』の名で知られるようになった。
 そのことが、一方では神道の性格について、他方では神道と日本の超国家主義および軍国主義との関係について、根本的な誤解を存続させることになった。残念なことであったというべきであろう」

「『国体のカルト』は、神道の一形式ではなかった。それははっきりと区分される独立の現象であった。それは、神道の神話と思想の諸要素をふくみ、神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない」

 ウッダードはその鋭い洞察力で、「国家神道」神社の鳥居の前までは至りましたが、これに教育勅語『中外』の曲解が加われば、間違いなく本殿に到達したと思います。

 くどいようですが、「国家神道」はGHQ神道指令の用語です。我が国の「国家神道」論はなぜか、GHQ関係者のコメントとリンクしていません。「国家神道」論の謎といってよいと思います。またなぜ教育勅語解釈の研究がタブーに見えるのか。不思議でなりません。(了)


[筆者プロフィール]
佐藤雉鳴(さとう・ちめい) 昭和25年生まれ。国体論探求者。著書に『本居宣長の古道論』『繙読「教育勅語」─曲解された二文字「中外」』『国家神道は生きている』『日米の錯誤・神道指令』
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「神道指令」とは何だったのか by 佐藤雉鳴 ──阪本是丸教授の講演資料を読む 中編 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月29日)からの転載です

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「神道指令」とは何だったのか by 佐藤雉鳴
──阪本是丸教授の講演資料を読む 中編
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▽6 宣命解釈の誤りを正した「人間宣言」

 結局のところ、「人間宣言」は「宣命解釈の誤りを正した詔書」と解釈して無理がありません。現実に昭和戦前には天皇を「現人神」とし、文部省『国体の本義』では「天皇=現御神」とされた事実があることは歴史のとおりです。

 国典に「現御神」天皇はない、それでも自分は天皇を神と崇める、これは問題ないと思います。しかし歴史の検証と信仰は区別されねばなりません。名だたる学者のみなさんが、これらを混同している様子は、「現御神と」の詳しい解説がないことで確認できます。

 いったい何時になったら、「現御神止」を含む宣命や「人間宣言」は正しく読まれるのでしょうか。


▽7 ポツダム宣言第6項の「世界征服」とは何か

 ポツダム宣言、神道指令、「人間宣言」そして公職追放令は、日本人にとって衝撃的なことでした。

 ポツダム宣言第6項のポイントは次の文章です。

「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず」

 当時の外務省がこの条項を検討した資料が国会図書館にあります。この「権力及勢力」に天皇が含まれるか否かの検討です。そうして狭義に解釈すれば、ドイツでいえばナチス、イタリアならファシスト、我が国では軍閥が相当すると考えました。ただしそれらを明確にしないのは、将来を拘束しないための漠然とした表現だろうと解釈しました。

 しかし問題は「世界征服」です。当時は国体護持が課題だったせいか、この「世界征服」が何を意味するか、検証する余裕はなかったと思います。そして12月の神道指令です。


▽8 神道指令「国家神道」の根拠は何か

 バーンズ米国務長官は、日本占領に当たって次のように述べました。

「日本国民に戦争でなく平和を希望させようとする第二段階の日本国民の『精神的武装解除』はある点で物的武装解除より一層困難である」(朝日新聞)

 GHQの「降伏後における米国の初期対日方針」の目標は、この「物的武装解除」と「精神的武装解除」となりました。前者は軍隊の解除、後者は極端な国家主義の排除です。

 昭和20年12月15日、GHQは神道指令を発し、国家と宗教を分離せしめました。具体的には国家と神道の分離です。

 ここで初めて「国家神道」が定義されました。

 要約すると、天皇・国民そして国土が特殊なる起源を持ち、それらが他国に優るという理由から日本の支配を他国他民族に及ぼす、という軍国主義的ないし過激なる国家主義のイデオロギーを含むものということでした。これには宗教学者D・C・ホルトムの『日本と天皇と神道』の影響が濃く表れています。

「世界征服」と「日本の支配を他国他民族に及ぼす」は同じです。それにしても、一体これらは何を根拠として語られたのでしょうか。


▽9 「世界征服」の思想と解釈された教育勅語

 GHQでは民間情報教育局(CIE)が宗教を担当しましたが、神道指令についてダイク局長は「これで総司令部の出すべき重要指令は、大体終わった」(岸本英夫「嵐の中の神社神道」)と述べました。

 これほどの神道指令に対し、我が国ではその分析が十分であるとはいえません。CIEのバンスやオアらは「近代国家神道の聖典」として教育勅語をあげました。昭和23年には民政局のケーディスらの強い示唆で、教育勅語は国会において排除・失効の決議がなされました。

 では教育勅語のどこに「世界征服」があるのでしょうか。

 ダイク局長は「(軍国主義者たちは)たとえば『之を中外に施してもとらず』という句のように、日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝するというふうに、誤り伝えた」(神谷美恵子「文部省日記」)と語っています。

 教育勅語は「朕惟ふに、我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」にはじまって、実践すべき徳目が述べられ、後段につながります。

その後段の冒頭部分は以下の通りです。

「斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の遵守すべき所、之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」

 そしてこの教育勅語後段の解釈を、同じCIEのドノヴァンが「教育勅語のクライマックス」として書きました。

「この文章は当初、世界征服の思想はなかったと思われるが、何にも増して、彼らを救世主願望で奮起させ熱烈な愛国者とし、皇道精神の世界拡張をかきたてたのである」(『続・現代史資料10』原文は英語・訳は筆者)

 要するに、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」が「世界征服」の思想とされたのです。

 ポツダム宣言の「世界征服」、神道指令の「日本の支配を他国他民族に及ぼす」の根拠は、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」でした。これでGHQが教育勅語を「近代国家神道の聖典」とし、排除・失効決議を迫った理由が分かります。


▽10 GHQと変わらない日本人の教育勅語解釈

 いま私たちが目にする教育勅語の現代語訳は、ほとんどが国民道徳協会のものだと思います。そしてその基礎は、昭和15年文部省の「聖訓の述義に関する協議会」の解釈にあります。

「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」についての解釈です。

「この道は古今を貫いて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」(『続・現代史資料9』)

 この意味からすると、日本人の解釈とGHQのそれとは大差ありません。少なくとも昭和戦前の我が国では「建国の精神」「皇道を四海に宣布」といったスローガンがありました。「之を中外に施して」の「中外」を「国の内外」としたことは、日本人もGHQも同じでした。(つづく)


[筆者プロフィール]
佐藤雉鳴(さとう・ちめい) 昭和25年生まれ。国体論探求者。著書に『本居宣長の古道論』『繙読「教育勅語」─曲解された二文字「中外」』『国家神道は生きている』『日米の錯誤・神道指令』
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「人間宣言」とは何だったのか by 佐藤雉鳴 ──阪本是丸教授の講演資料を読む 前編 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月28日)からの転載です

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「人間宣言」とは何だったのか by 佐藤雉鳴
──阪本是丸教授の講演資料を読む 前編
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 今月上旬、阪本是丸國學院大學教授(近代神道史、国学)の講演資料を当メルマガに載せました。島薗進東大名誉教授(宗教学)の天皇論、国家神道論への批判を含むものでした。

 そこで島薗先生に反論をお勧めしたのですが、よんどころない事情がおありとのことで、残念ながら、すぐには実現できないことになりました。

 次善の策として、以前、当メルマガで、教育勅語、国家神道をテーマに、島薗先生と対論していただいた佐藤雉鳴さんに寄稿を依頼することにしました。

 阪本教授の資料を読んで、いまさらながら気づいたことですが、阪本・島薗両先生の天皇論、国家神道論は、一見すると両極にあるように見えて、じつは似た者同士ではないのかとの疑いを持ちました。

 天皇を「現人神」とする考え方、もっぱら近代史を探究する「国家神道」論は両者に共通しています。発想も手法も同じなら、議論は深まるでしょうか。

 御代替わりを来年に控えて、混乱した議論を整理し、あるべき姿を取り戻すには、天皇論の学問的な深まりが急務であり、最大のテーマは「国家神道」です。無理を言って、佐藤さんに執筆をお願いしたゆえんです。

 あらかじめお断りしておきますが、目的は批判のための批判ではありません。あくまで学問的真理の探究です。

 以下、本文です。(斎藤吉久)



▽1 昭和史資料との整合性がない

 当メルマガに、阪本是丸・国学院大学教授の、氷川神社における講演資料が掲載されました。歴代天皇の「敬神」のこと、御代替わりのこと、近世から現代までの神社と神道の歴史等々、さまざま学ぶところがありました。

 ただどうも、資料の文中にある「現神」や引用された「国家神道」には、違和感が否めません。私が読んできた昭和史、特に終戦前からGHQによる占領初期の史料とは乖離があるように思えてなりません。なぜでしょうか。

 我が国は昭和20年8月、ポツダム宣言を受諾し、その後はGHQの占領するところとなりました。そして同年12月、GHQから神道指令が発せられ、翌21年元旦には、いわゆる「人間宣言」が渙発されました。続いて1月4日には、ポツダム宣言第6項を実現するための公職追放令が出たことは歴史の示すところです。

 これらの史実に関し、さまざまな文献が遺されています。しかしそれらの史料と阪本教授の「現神」や文中に引用されている「国家神道」には、どうしても整合性が確認できません。歴史を辿ってこの乖離を検証してみようと思います。


▽2 「現御神」を否定した「人間宣言」

 終戦の翌年、昭和21年元旦に「新日本建設に関する詔書」が発せられました。

「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず、天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにも非ず」

 この部分をもって、この詔書は「人間宣言」とも称されています。しかし、それまで天皇は本当に現御神(あきつみかみ)だったのでしょうか。


▽3 木下道雄侍従次長の「現御神(と)」論

 木下道雄は戦後すぐに侍従次長となった人です。そしてこの「人間宣言」の草稿に深く関与しました。それらは『側近日誌』や『宮中見聞録』(昭和43年版)で知ることができます。

「『現御神と』は「天皇」を形容する形容詞ではなく、『しろしめす』に冠する副詞であったのである」(『宮中見聞録』)

 阪本教授の講演資料にあるとおり、「現御神」は孝徳天皇紀や文武天皇紀をはじめとして、「みことのり」には頻繁に登場します。そこで阪本教授の次の文章です。

「天皇を『明神。現神。現御神』(あきつみかみ)と形容することは孝徳天皇大化元年七月の高麗使への詔に見える」

 これからすると、阪本教授は天皇=現御神です。しかし木下道雄は、天皇=現御神ではありません。「現御神(と)」は「しろしめす」の副詞です。

「現御神止大八嶋国所知天皇大命良麻止詔大命乎(あきつみかみとおほやしまくにしろしめすすめらがおほみことらまとのりたまふおほみことを)」

 これは文武天皇・即位の宣命の冒頭部分です。現御神云々等は律令の「公式令」という文書規定に定めがありました。木下道雄はこれらの文章について、以下のように記しています。

「いずれも、現御神、現神、明神の字の下に必ず「と」をつけて読むことになっている。これは『として』の意味で、『神の、み心を心として』天(あめ)の下しろしめす天皇という、至って慎み深い、祈りをこめた天皇御自身の自称であった」(『宮中見聞録』)


▽4 本居宣長の「現御神と」と池辺義象の「明神御宇」

 池辺義象(いけべ・よしたか)の『皇室』(大正2年)によれば、これらの宣命は宣命太夫が定められていて、式場で拝読したといいます。ほかに宣命使というのもいたようです。したがって木下道雄の「天皇御自身の自称」は違っているかもしれません。

「現御神と大八嶋国所知(おほやしまくにしろしめす)天皇大命良麻止(すめらがおほみことらまと)詔大命乎(のりたまふおほみことを)、集侍皇子等(うごなはれるみこたち)・王(おほきみたち)・臣(おみたち)・百官人等(もものつかさのひとたち)天下公民(あめのしたおほみたから)・諸食(もろもろきこしめ)さへと詔(の)る」

 これを現代語訳すると、次のようになると思います。

「現御神として大八嶋国をご統治なさっている、(その)天皇の大事なお言葉を、ご参集の皇子たち、王たち、臣たち、百官たち、そしてすべての民よ、皆お聞きなさいとのお告げである」

 そして、これに続けて天皇のお言葉が直接話法で語られる構成になっています。また本居宣長『直毘霊』には以下のように記されています。

「現御神と大八洲国しろしめすと申すも、其ノ御世々々の天皇の御政(みおさめ)、やがて神の御政なる意なり、万葉集の歌などに、神随云々とあるも同じこころぞ」

「現御神と大八洲国しろしめすと申すも、」と読点があって、「現御神と」が「しろしめす」の副詞であることを明確に表現しています。

 池辺義象(小中村義象)は、大日本帝国憲法や教育勅語の草案を書いた明治の碩学、井上毅の助手役でした。その著書『皇室』から引用します。

「『明神御宇』とはあきつみかみと、あめのしたしろしめすと訓ず、あきは現にて天皇は現在の神として天下を統治したまふといふ義、これは蓋し我が上古以来、詔旨には必ず唱へ来った詞とおもふ。この古来よりの詞をここに漢文に訳して「明神御宇」とせられたことであらう」

 この解説はあくまで「明神御宇」であり、明神天皇ではありません。つまり「あきつみかみと、あめのしたしろしめす」は、「現御神と」が「しろしめす」の副詞であることの説明と解釈して妥当だろうと思います。

 文法的に言えば、「現御神と」の「と」は、上接の語と一体となって副詞を構成し、次にくる動詞を修飾しています。「山と積まれた薪」の「山と」が薪ではなく、「積まれた」状態を表している(修飾している)のと同じ用法です。


▽5 津田左右吉は「現御神天皇」論に納得しなかった

 津田左右吉も多くの学者と同様に、上代においては「政治的君主としての天皇の地位の呼称」と考えていました(「神代と人代」)。しかしどう読んでも、自身は納得できませんでした。

「けれども、記紀はもとよりのこと、その他の文献に於いても、現つ神または現人神の呼称を有せられ神性をもたれるやうに考へられていた天皇も、宗教的崇拝の対象となっていられたやうなことは、少しも記されていない。我が国には、上代に於いても、天皇崇拝の風習があったやうな形迹は、全く見えないのである」(同)

 当然だろうと思います。天皇=現御神ではありませんから、国典に記述のあるはずがありません。六国史などにおいても、天皇が自らを神と宣言された文書は一つも存在しません。

 ちなみに、木下道雄は「尤も、万葉の歌の中には、天皇を神とした歌が、二つ三つあるが、これは宣命というが如き公式のものではなく、個人の感情を云い表したものと見るのが妥当であろう」と文芸作品と宣命を明確に区別しています。(つづく)


[筆者プロフィール]
佐藤雉鳴(さとう・ちめい) 昭和25年生まれ。国体論探求者。著書に『本居宣長の古道論』『繙読「教育勅語」─曲解された二文字「中外」』『国家神道は生きている』『日米の錯誤・神道指令』
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かつて御代替わりは国民の間近で行われた ──第2回式典準備委員会資料を読む 14 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月23日)からの転載です

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かつて御代替わりは国民の間近で行われた
──第2回式典準備委員会資料を読む 14
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 前々回、上山春平先生の御代替わり論についてご紹介しましたが、うっかりして書き漏らしたことがありました。それは「大嘗会の標(ひょう)」です。

 ちょうどいま京都では猛暑の中、祇園祭が行われていますが、上山先生によると、山鉾巡行に登場する山と鉾のうち、山の飾り付けが「大嘗会の標」にそっくりだというのです。


▽1 大嘗会の標山

 祇園祭の起源は平安期の御霊(ごりょう)信仰に根ざし、長刀鉾や函谷鉾などの鉾は悪霊退散のシンボルということですが、岩戸山や山伏山などの曳山は鉾柱の代わりに屋上に真松を立てています。

 上山先生によると、平安末期、無骨(むこつ)という名の雑芸人(エンタテーナー)が注目を浴びようとして、「大嘗会の標」そっくりの飾り付けをした柱を車に乗せて、祇園の社頭に乗り込んだ、これが曳山の起源らしいのです。

 それなら「大嘗会の標」はといえば、悠紀国、主基国それぞれから京の都に運ばれた食物を、御所の北方、北野の斎場で祭礼用に、「標」と呼ばれる高さ数メートルの造形に調整されたのでした。

 まず、めでたい山を作り、青桐を植え、二羽の鳳凰をとまらせ、五色の雲を立ち上らせ、太陽と月を表すという具合です。

 そして卯の日の午前、二基の標山(ひょうのやま)はそれぞれ20人の曳夫に引かれ、北野の斎場から御所内の大嘗宮へ、しずしずと進み、当然、あまたの都人たちがこれを、ちょうど今日の山鉾巡行のように見送ったのでしょう。

 けれども残念ながら、応仁の乱がおこり、大嘗会が長らく中断を余儀なくされることになり、大嘗会の標山は消滅してしまいました。

 問題は、こうした歴史が、政府の説明にはまったく表れないことです。


▽2 君民一体による御代替わり

 標山だけではありません。上山先生が指摘するように、大嘗祭の前月、10月の末に、新帝は加茂川で御禊(ごけい)とよばれる神事を行い、大勢の人が詰めかけ、見物したといわれます。

 最近では即位式を民衆が拝観していたことさえ分かってきました(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』)。宮内庁が所蔵する、明正天皇の「御即位行幸図屏風」には、胸をはだけ、赤子に授乳しながら即位式を拝観する2人の女性が描き込まれています。民衆は切手札(チケット)を手に、自然体で参加していたのです。

 まさに上山先生が指摘しているように、即位式、大嘗祭など御代替わりの行事は、「朝廷の一部の官僚たちだけでやっている祭りじゃない」ということです。民衆の手が届くところで、天皇の御代替わりは行われていたのです。

 明治の近代化により、国体論的天皇論が幅を効かせるようになり、民衆とともにある御代替わりの伝統的儀礼は忘れ去られていったということでしょうか。国民の身近にあった天皇の祭儀の復活を、私は心から願っています。それこそが君民一体による、「国の行事」としての御代替わりでしょうから。
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新元号発表は践祚に、改元は即位礼に合わせては? ──近世後期以降、践祚即改元は大正と昭和のみ [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月22日)からの転載です

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新元号発表は践祚に、改元は即位礼に合わせては?
──近世後期以降、践祚即改元は大正と昭和のみ
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 次の御代替わりをめぐって、混乱した議論が続いているようです。こんどは改元です。

 政府は来年5月1日、皇太子殿下の即位(践祚)にあわせて改元することとし、国民生活への影響を考慮して、1か月前に新元号を公表する予定ですが、これだと御代替わりに伴う代始改元の主体性に疑問が生じてきます。

 それで新元号の発表も即位(践祚)に合わせるべきだという議論が浮上しています。

 歴史的に見ると、明治の皇室典範には「践祚の後、元号を建て」(第12条)という条文がありましたが、戦後、一般法と位置づけられた皇室典範には元号に関する定めがありません。元号法(昭和54年)には「元号は政令で定める」とあるばかりで、改元の主体が天皇なのか、政府なのか、不明確です。

 議論が混乱するさらなる要因は、コンピュータ社会の到来です。今回、御代替わりをめぐる政府の情報はネット上に公開されています。

 改元を公的に伝える官報も、いまやネット上に掲載されます。「天皇践祚の後は直ちに元号を改む」(登極令第2条)とするのは、システム変更上、無理があります。

 政府が1か月前の公表を予定しているのは、1か月の準備期間があれば十分対応できるという判断があるからでしょう。知人のSEたちも同様でした。

 とするならば、現実的に考えて、践祚即改元という大正以後のあり方へのこだわりを放棄せざるを得ないのではないでしょうか。元号法に基づく平成の改元も践祚即改元ではなく、翌日改元でした。元号法は「直ちに」とは定めていないのです。

 もっといえば、歴史的に考えれば、代始改元が践祚後、直ちに行われたことはないのではありませんか。参考までに、以下、江戸後期の御代替わりについてまとめてみることにします。

 結論をいうなら、践祚後、直ちに改元されたのは大正と昭和のみです。近世においては即位から1年以上もたってのちに代始改元がしばしば行われています。

 近代以後の一世一元の制にならうとしても、践祚即改元の形式に固執する必要はありません。践祚の日に新元号を公表し、即位の礼に合わせて施行すれば、平安期に確立されて以後、踏襲され、30年前に失われてしまった践祚と即位の区別を明確化し、回復させることもできるのではありませんか。


○第115代桜町天皇(中御門天皇第一皇子)
(1)先帝崩御or譲位 享保20(1735)年2月1日に中御門天皇が33歳で譲位。来月21日と御治定
(2)践祚 享保20年3月21日(1735/4/13)、土御門内裏にて。15歳
(3)代始改元 享保21年4月28日(1736/6/7)、享保21年を元文元年に改む=践祚の翌年

○第116代桃園天皇(桜町天皇第一皇子遐仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 延享4年5月2日(1747/6/9)、土御門内裏にて受禅
(2)践祚 譲位即践祚、6歳
(3)代始改元 延享5(1748)年7月12日、寛延に改元=践祚の翌年

○第117代後桜町天皇(桜町天皇第二皇女智子内親王)
(1)先帝崩御or譲位 宝暦12年7月12日(1762/8/31)に崩御。発表なし。遺詔により践祚の儀治定す
(2)践祚 宝暦12(1762)年7月27日=先帝崩御の5日後、異母弟桃園天皇の遺詔を受け。小御所にて。22歳
(3)代始改元 宝暦14(1764)年6月2日、明和に改元=践祚の翌々年

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○第118代後桃園天皇(桃園天皇第一皇子英仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 明和7年5月2日(1770/5/23)譲位。来年4月即位の旨御治定あり
(2)践祚 譲位即践祚(11歳)
(3)代始改元 明和9(1772)年11月16日、明和9年を安永元年に改む=践祚の2年後

○第119代光格天皇(閑院宮典仁親王第六皇子師仁親王→践祚後に兼仁)
(1)先帝崩御or譲位 安永8年10月29日(1779/12/6)崩御=その後同11月9日(12/16)まで先帝在位が続いた
(2)践祚 安永8年11月25日(1780/1/1。9歳)。御諱を兼仁と改む。関白九條尚實を摂政となす
(3)代始改元 安永10年4月2日(1781/4/25)、天明に改元=即位礼の4か月後

○第120代仁孝天皇(光格天皇第四皇子=恵仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 文化14(1817)年3月22日に譲位。清涼殿にて
(2)践祚 譲位即践祚。17歳
(3)代始改元 文化15(1818)年4月22日、文政に改元=践祚の13か月後。即位礼の翌年

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○第121代孝明天皇(仁孝天皇第四皇子統仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 弘化3年1月26日(1846/2/21)崩御。関白太政大臣鷹司政通を摂政に準ず
(2)践祚 弘化3年2月13日=先帝崩御の20日後、15歳
(3)代始改元 弘化5年2月28日(1848/4/1)に嘉永と改元=即位礼の翌年

○第122代明治天皇(孝明天皇第二皇子睦仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 慶応2年12月25日(1867/1/30)に崩御
(2)践祚 慶応3年1月9日(1867/2/13)に践祚の儀(14歳)=先帝崩御の半月後、14歳
(3)代始改元 慶応4年9月8日(1868/10/23)。元日に遡って適用=践祚の1年8か月後。即位礼の翌月

○第123代大正天皇(明治天皇第三皇子嘉仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 明治45(1912)年7月30日に崩御
(2)践祚 崩御即践祚、32歳
(3)代始改元 践祚当日、大正と改元

○第124代昭和天皇(大正天皇第一皇子裕仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 大正15(1926)年12月25日に崩御。葉山御用邸にて
(2)践祚 崩御即践祚、葉山御用邸、25歳
(3)代始改元 践祚当日、昭和に改元

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○第125代今上天皇(昭和天皇第一皇子明仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 昭和64(1989)年1月7日に崩御
(2)践祚 崩御即践祚、55歳
(3)代始改元 践祚の翌日、平成に改元

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 以上、宮内庁所蔵『天皇皇族実録』をもとにまとめました。「斎藤吉久のブログ」には、ほかのデータを加えたうえ、一覧表にして掲載します。
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「大嘗祭は第一級の無形文化財」と訴えた上山春平 ──第2回式典準備委員会資料を読む 13 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月16日)からの転載です

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「大嘗祭は第一級の無形文化財」と訴えた上山春平
──第2回式典準備委員会資料を読む 13
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 政府は、大嘗祭について、「稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」であり、「皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式」だと理解しています。

 この解釈には、何度も申し上げたように、2つの問題点があります。(1)大嘗祭を「稲作の儀礼」と解釈すること、(2)稲作儀礼と皇位継承儀礼とを直結して理解すること、の2点です。

 誤った理解の原因はいうまでもなく、稲と粟の新穀を捧げる儀礼を稲の祭りと見るところにあります。

 なぜそう理解するのか、30年前の議論を、これからしばらく振り返ってみることにします。

 ヒントになるのは、岩井利夫元毎日新聞記者の『大嘗祭の今日的意義』(昭和62年)です。「近来における大嘗祭論議」と題する一章に、何人かの大嘗祭論を紹介しています。

 最初に取り上げられているのは、30年前、政府のヒアリングにも招かれた上山春平元京大教授(同名誉教授。哲学)です。


▽1 なぜ収穫儀礼が皇位継承儀礼となるのか

 岩井氏の本では、上山氏が昭和59年11月に朝日新聞に「皇位継承儀礼は京都で出来るか」を書き、これを受けて週刊新潮が翌月に「Xデー」特集を組んだことを取り上げ、以下のような主張を紹介しています。

(1)大嘗祭は収穫儀礼から皇位継承儀礼となった世界にも例のない貴重なものである
(2)今日、旧典範や登極令の法的根拠がなく、現憲法下では「内廷の祭祀」として行うのがよい
(3)費用は国民の募金で補ってもよい
(4)もしやれるなら京都御所の旧地が相応しい

 上山氏といえば、西洋哲学から日本文化論へと関心を広め、『神々の体系』(正続)、『天皇制の深層』などの著書を残しています。大嘗祭をテーマとした何本かのエッセイは著作集の第5巻に収められています。ここではそのエッセイを読んでみることにします。

「大嘗祭のこと」はまさに昭和59年11月、朝日新聞に掲載されたエッセイです。中身はすでに触れましたが、問題は論拠です。

 上山氏が大嘗祭を収穫儀礼と考えるのは、「この祭祀が、もともと稲の収穫にかかわりがあり、収穫された新穀を、自らも召し上がることを中心とする」ものだからです。

 案の定、粟の存在が忘れられています。宮中三殿の祭祀は稲の収穫儀礼だとして、神嘉殿での宮中新嘗祭、大嘗宮での大嘗祭は米と粟の祭儀であることについて、上山氏は正確な情報を持っていなかったのでしょうか。

『常陸国風土記』には粟の新嘗のことが書いてあり、古代において、少なくとも民間において、粟の新嘗祭があったことが分かります。記紀神話を読み込んだ上山氏がそのことに気づかなかったはずはないと思います。

 もし宮中新嘗祭・大嘗祭が稲の収穫儀礼ではなく、米と粟の複合儀礼であることに気づいたならば、天皇が天神地祇を祀り、米と粟の複合儀礼を年ごとに、そして御代替わりには大規模に、厳修することの意味、つまりなぜ収穫儀礼が皇位継承儀礼となり得たのか、をお考えになったはずです。

 なぜそうはなさらなかったのでしょうか。


▽2 見落とされた戦後史

 上山氏の天皇論で重要なのは、国家機関の二重構造のデザインです。古代中国から律令制を導入したけれども、古代日本ではご本家とは異なり、太政官と神祇官が並立する国家制度が創られたと上山氏は鋭く指摘しています。

 上山氏のこのエッセイによると、二重構造は明治の時代にも採用され、国務法の憲法と宮務法の皇室典範による二本立てとされたのでした。

 だとすれば、近代立憲君主の儀礼たる即位式は国務に属し、伝統的な皇位継承儀礼たる大嘗祭は宮務に属すると解釈してもいいはずなのに、なぜか即位式と大嘗祭は一括して皇室典範に定められることとなったのです。

 ところが、登極令が定められる段階になると、即位式と大嘗祭は不可分の形で完全に国務的な観点から規定された、と上山氏は指摘するのでした。

 なぜそうなったのか、という点についてはさておき、じゃあ、今度はどうするのか、と上山氏は話題を転じ、戦後の皇室典範には即位式の規定も大嘗祭の規定もないと解説し、もし大嘗祭を存続させるなら、即位式と大嘗祭を分離するほかはないと主張されるのでした。

 たとえば、即位式は内閣の関与のもとに行われる「天皇の国事」、大嘗祭は内閣が関与しない「内廷の祭祀」と解するという方法です。

 しかしここでも、上山氏は重要な戦後の歴史を見落としていることが分かります。

 それは当メルマガですでに指摘しているように、(1)皇室典範の改正過程で、占領中ながら、当時の政府は御代替わりの儀礼にいささかも変更はないと答弁していること、(2)昭和22年5月の依命通牒で、登極令や皇室祭祀令の附式が存続してきたこと、(3)昭和50年8月に依命通牒の解釈・運用の変更が密室で行われたこと、です。

 依命通牒は廃止の手続きが行われていないと、のちに宮内庁高官が国会で答弁しているのですから、即位式・大嘗祭は依命通牒に従い、京都で斎行されるべきだ、と上山氏は主張してもよかったのです。


▽3 依命通牒3項を知っていれば

 大嘗祭がどのような形で行われるべきか、上山氏はけっして教条的な立場ではなかったようです。平成の大嘗祭を秋に控えた平成2年1月、京都新聞に掲載されたエッセイでは、以下のように述べています。

「現行憲法が皇位の世襲を認めているかぎり、世襲に伴う儀礼は伝統的な形で継承されるべきだろう。大嘗祭を国事で行うか、それとも宮廷の公的行事もしくは内廷の祭祀として行うかは、さしあたり問う所ではない」

 この前年の11月に「即位の礼準備委員会」の求めに応じて行われた報告でも、上山氏は同じような趣旨で、現実的方法論を訴えたようです。

「皇位継承儀礼は、たとえ成文の規定がなくても、千年以上の伝統を有する不文の慣習として、当然、踏襲されるべきであろう」

「大嘗祭は、伝統的皇位継承儀礼の一環として、現行憲法の第7条第10項に該当する国事として挙行されるべき儀式である、と考えられる」

「今回の大嘗祭は、第2次大戦以来、最初の大嘗祭である。……大嘗祭中断のおそれもないわけではない。今回は国事として行うことに固執せず、宮廷の公の行事であれ、内廷の行事であれ、可能な限り世論の支持を得やすい形で行う道を選ぶほかはあるまい」
(以上、「弘道」平成3年2月)

 上山氏は「皇室の伝統の尊重」を訴えているのですが、依命通牒3項の存在を知っていれば、迂遠な議論は必要なかったのではありませんか。


▽4 目からウロコの史実

 上山氏のエッセイには目からウロコが落ちるような史実と見方が散りばめられていますので、最後に紹介します。

「『養老律令』の『神祇令』とそれに対応する『唐令拾遺』の『祠令』を比較してみると、ほんとうにびっくりします。律令や都城をはじめ、あれだけ唐文明を忠実に受け入れたようにみえるのに、国の祭祀についてはほとんど何も受け入れていないのです」

「(大嘗宮は)本来はクジ(亀卜)で当たった国の中のクジで当たった郡、その郡の住民が造ったんです。その人たちが作ったお米を『抜穂儀』で集めて、それを都まで運ぶ。運ぶ途中も大変な賑わいだったと思います」

「大嘗宮も、同じ人びとが、同じようにして作るのです。祭りの7日前に作り始めて、数日で仕上げることになっています」

「朝廷の一部の官僚たちだけでやっている祭りじゃない」

「祭りのひと月前、10月の末に御禊(ごけい)というのが京都の加茂川あたりであったようですが、それも大勢の人が見物したようです。……京都中の人が、葵祭のときのようにおしかける」(以上、「大嘗祭について」=「神道宗教」神道宗教学会、平成3年3月)

「奈良朝から平安朝初期にかけては、即位礼も大嘗祭も大極殿とその前庭で行われていた。ところが、16世紀あたりから、即位礼と大嘗祭は内裏の紫宸殿とその前庭で行われるようになり、そのしきたりは幕末までつづいた」

「明治の『皇室典範』とその施行規則『登極令』の制定に伴って、……即位礼は旧例通紫宸殿で行われたが、大嘗祭の方は全く前例のない仙洞御所で行われた。……幕末以前は紫宸殿の南庭に大嘗宮を建てていたのである。……大嘗祭の7日前から着工され、祭式がすめば焼却されることになっている」

「幕末以前には、即位礼と大嘗祭のあいだには少なくとも3か月以上の間隔があったので、紫宸殿の南庭で即位礼をすませた後、ゆっくりと間をおいて同じ場所に大嘗宮をつくることができた」(以上、「天皇の即位儀礼」=「学士会会報」平成元年1月)

「私は、かねがね、大嘗祭こそは国の第一級の無形文化財ではないか、と考えている。……これほど重要度の高い文化財の保存について、文化財保存一般に格別の熱意を示す人びとさえも、異議をとなえるのは、なぜだろうか。それは、大嘗祭の解釈をめぐるイデオロギー的な側面に目を奪われて、文化財としての側面への認識がくもらされた結果ではあるまいか」(以上、「2つの無形文化財について」=「文化時報」平成3年5月)
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近代の神祇行政 (略年表) by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 5 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月15日)からの転載です

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近代の神祇行政 (略年表) by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 5
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▽1 仁孝天皇の仏式追祭と神式例祭

・弘化三年一月二十六日崩御、四年二月六日一周聖忌を般舟三味院・泉涌寺で営む。
・文久二年二月二日から六日に十七回聖忌、清涼殿で懺法会、常御殿前庭に下御、泉涌寺山陵を遥拝。
・明治三年一月二十六日 仁孝天皇二十五年祭を神祇官で執行、明治天皇は賢所南庭で山陵遥拝、山陵に勅使差遣、祭典執行、また泉涌寺・般舟三昧院に中山慶子を差遣・代香、以後両寺の勅会法事を廃す。
・明治四年一月二十六日 神祇官神殿で例祭
・同年十月 「四時祭典定則」制定※により、仁孝天皇祭を式年の大祭とする。
 因みに、同時に後桃薗天皇祭と光格天皇祭も大祭とされたことにより、後の皇室祭祀令に規定された「先帝以前三代の式年祭」(大祭)、「先帝以前三代の例祭」(小祭)へと繋がることになり、また神武天皇祭と孝明天皇祭は元始祭・皇大神宮遥拝・新嘗祭とともに天皇親祭の祭祀とされ、これまた皇室祭祀令に採り入れられていることはいうまでもない。

※「四時祭典定則」(及び「地方祭典」)については、改めてここで詳論するつもりはないが、これが皇室祭祀・神宮祭祀・神社祭祀の原型となる近代初の体系的国家祭祀の嚆矢であることはいうまでもない。


▽2 明治初年の神祇行政

(1)神祇官再興と神仏分離に向けての立案と実施
→津和野派国学者と平田派・守旧派公家層との軋礫・構想 (拙著『明治維新と国学者』大明堂、平成 5年、参照)。
・慶応三年十二月九日 王政復古の大号令 幕府・摂関制の廃止、諸事「神武創業」、三職(総裁・議定・参与)による新政府の樹立。
・慶応四年一月七日 神祇事務科 総督有栖川宮、中山忠能、白川資訓 掛 六人部是愛、樹下茂国、谷森善臣→津和野派(亀井茲監、福羽美静、大国隆正)は未だ登場せず。
・同二月三日 三職八局制 神祇事務局の設置(督白川、輔亀井、吉田良義、判事平田鉄胤、権判事植松雅言、谷森、樹下、六人部)→津和野藩主亀井の登場により、津和野派と平田派(矢野玄道等)との軋轢・主導権争い激化。
・同三月十四日 天神地祇誓祭→木戸孝允、福羽美静等の連携により天皇親祭体制を創出。
・同三月十五日 キリシタン邪宗門禁制の高札→浦上キリシタン問題による国民教化政策、信教自由問題が出現する端緒となる。
・同三月十七日 別当・社僧の還俗令。
・同三月二十八日 仏号による神号廃止、仏像の神体廃止。
・同四月十日 神仏分離による社人の粗暴を戒め、廃仏毀釈の趣旨ではないことを告知。
・同四月二十二日 浦上キリシタン処分を説諭で行うことを告知。
・同四月二十四日 菩薩号廃止。
・同閏四月四日 キリシタン宗門と邪宗門を改めて区別して禁制を掲示。
・同閏四月四日 還俗の別当・社僧は神主・社人と称し、還俗しない者は神社退去
・閏四月十七日 キリシタンの諸藩お預け
・閏四月二十一日 政体書神祇官の成立(律令二官制ではなく、太政官を議政・行政・神祇・会計・軍務・刑法の七官に分ける)→古代の神祇官・太政官再興を目指す守旧派勢力と志士官僚・津和野派等との駆け引き・抗争がこれ以降激化する。
・同六月二十二日 真宗各派に神仏分離は「廃仏」ではないことを改めて告知。

※戊辰戦争、大阪行幸、即位式、改号(一世一元の制・「明治」)、東京行幸、氷川神社御親祭など明治元年には多くの出来事があり、かつ未だ国内は不安定な時期であったのであり、各府藩県の地方官が中央政府の意向を無視した政策・行政を執行した
→各地の「廃仏毀釈」も地方官の行政を無視しては語れないことに注意。東京行幸、東京の「帝都化」(武蔵一宮氷川神社御親祭の有する意義)、東京・京都の主導争いを巡る神道家・国学者同士の角逐が神祇・宗教行政にも影響を与える。
 これは、明治二年まで持ち越され、再度の東京行幸 (途中、史上最初の神官親拝)と戊辰戦争の終結により、ようやく新政府は少しく安定した体制となる。

(2)神祇官・宣教使による神道政策
・明治二年七月八日 神祇官・太政官再興
→神祗官は祭典・諸陵・宣教・祝部・神部を管掌することになり、古代の神祇官と異なり、山陵祭祀と神道(惟神の大道)を国民(キリシタンは無論)に教導する宣教という新たな使命を有して発足(伯・中山、大副・白川、少副・福羽、大祐・北小路隋光、権大祐・植松、少祐・小野述信、平田延胤)。
 ただし、この時点では守旧派と津和野派等の痛み分けであり、これ以降、祭政一致体制を巡って激烈な主導権争いが展開する。
・同年九月十七日 諸陵寮設置→後の宮中三殿の皇霊殿と共に山陵祭祀による皇室の「敬神崇祖」の基盤となる。
・同年九月二十九日 宣教使官員設置→次官・福羽美静が主導権を握り、宣教使教官として多数の国学者を動員するが、教義・思想・学問的系統の相違等で内部統一が不能となり、国民教化を実施するまでに至らなかった。これが、仏教勢力を動員した国民教化政策への転換の要因となる。
・明治三年一月三日 神祇官神殿(東座・天神地祇、中央・八神、西座・歴代神霊)で祭典を執行し、「宣布大教詔」が出される。※明治五年からの元始祭の原型となる。
・同年八月九日 民部・大蔵を分省し、民部省に社寺掛を設置→同年閏10月 20日 に寺院寮と改制。
・明治四年一月五日 社寺領上知令。
・同年五月十四日 神社は国家の宗祀であり、社家の世襲禁止。社格制定。
・同年七月四日 郷社定則、氏子取調規則(六年二月二十九日施行停止)。
・同年七月十二日 神宮改革(内外両宮の差等、御師大麻廃止等)。
・同年八月八日 神祇官廃止、神祇省設置。宮中祭祀要員として大中少掌典等を置く。
・同年九月十四日 神器・皇霊の宮中遷座(近代皇室祭祀の原点)。
・同年十月二十九日「四時祭典定則」制定。
・同年十一月 大嘗祭、東京で斎行。
・同年十二月二十二日 神宮大宮司による神宮大麻の頒布。同日、左院は伊勢神宮の神器奉遷や教部省設置などを建議。宗教は教部省、祭祀は式部寮に分掌することが狙い。なお、左院が主張する神宮遷座論はその左院が廃止されるまで執拗に唱えられた。

※明治元年(慶応四年)三月の神仏分離以来、各地で廃仏毀釈が勃発し、それに危機感を抱いた各宗の僧侶たち(福田行誡・鵜飼徹定など)が明治元年12月に「諸宗同徳会盟」を結成したことは辻善之助以来著名であるが、その辻は「神仏分離・廃仏毀釈」に触れて、以下のように述べている。

「神仏分離に伴ふ廃仏は、その弊害ばかりでなく、一面に於て多少の利益をも齎したといはねばならぬ。即ち僧侶の不健全なる分子を篩ひ落し、之を淘汰した。之により、教界における一種の浄化作用が行はれた。僧侶は惰眠より覚めたのであつた。
 若しかの処分がなかつたとするならば、その結果は如何であつたであらうか。生温い保護を明治政府が仏教界に与へて居たとしたらば、如何であらうか。仏教界は全くその活動力を失ひ、中風患者の如くなつたであらう。江戸時代における僧侶は、最早世間より全く厭き果てられ、棄て去られ、心ある者よりは指弾せられ、軽賤侮蔑の的となつて居たのであるから、明治時代になつては、尚甚だしく、全く世に歯せられざるに至り、仏教の衰微の極に達したであらう。」(『明治仏教史の間題』、立文書院、昭和24年)

 これに対し、柏原祐泉はこう述べている。

「また翌年(三年)八月、浄土宗浄国寺徹定の公挙議案中に、「朝命」で各宗学徳端潔な者二、三名を選び、「暁諭師」として巡廻、策励させることなどの文献をみると、朝権による教団再建の意図が明らかにうかがえる。
 したがって、会盟の議題の多くに再出発の理想的な項目が並んでいても、その主体的・自主的な実体化への努力は期待しがたく、特に旧態からの脱皮による自覚的仏教の確立などはのぞむべくもなかった。
 したがって所詮は護法・護国・防邪の一体観に集約されることになるが、しかし近代の出発点に当って、まず諸宗が連帯した会合で、右のようないくつかの自省的議題を懸げえたことは、近代仏教の刺戟となったことを認めてよいであろう。」(『日本仏教史 近代』、吉川弘文館、平成2年)

 このように、「諸宗同徳会盟」の意義についてはそれなりの評価がなされているのであるが、いわゆる狂信的な神道家・国学者による「神仏分離」=「廃仏毀釈」=「法難」という図式的理解で、明治初年の宗教政策が割り切られるものではないことだけは明らかであろう。


▽3 教部省・式部寮による国民教化運動と国家祭祀再編成

 左院建議などを受けて、明治五年三月十四日に設立された教部省が、我が国におけるはじめての近代的かつ本格的な宗教行政専門官衙であったことはいうまでもないが、その最大の歴史的意義は、教導職制・大教院体制による神仏宗派(教団・宗教団体)の近代的再編及び創設であろう。

 また教部省設置とともに旧神祇省の祭祀関係事務を継承した式部寮が明治八年制定の「神社祭式」制定に尽力したことは、周知の通りである。

(1)国民教化運動関係
・明治五年三月 神祇省廃止・教部省設置、祭祀関係事務は式部寮管轄
・同年四月二十五日 教導職設置。
・同年四月二十九日 神官教導職東西に区分。
・同年四月三十日 神仏各教宗派に教導職管長設置。
・同年六月十日 神宮大麻頒布の地方官関与を督励。
・同年八月八日 すべての神官、教導職兼補。
・同年十一月二十四日 大教院建設、全ての神社・寺院を小教院として氏子・檀家を教導。
・明治六年一月七日 法談・説法を「説教」に改称。
・同年一月十五日 梓巫市子憑祈祷狐下げの禁止。
・同年一月三十日 神道東西部廃止、一般に「神道」と呼称。
・同年二月十日 神官・僧侶以外も教導職に薦挙。
・同年二月二十二日 切支丹宗禁制等の高札撤去。
・同年三月十四日 大教院事務章程・教導職職制制定。
・同年十月二十日 大教院規則を制定し、「敬神」の実を挙げるため、教院に造化三神・天照大御神を奉祀。

※以後、教部省は大教院での神仏教導職による三条教則の合同布教を推し進めようとしたが、島地黙雷らの強力な反対運動などにより、明治8年5月3日には4月30日付け教部省宛太政大臣三条実美の発書を受けて大教院での神仏合同布教が差し止められ、同年11月27日には神仏各管長宛に「信教自由の口達」が発出された。

 この大教院解散により神仏教導職は各派独自の布教体制を布くことになり、神道教導職は神道事務局を創建、明治9年1月には三部(第一部大教正千家尊福、第二部久我建通、第三部稲葉正邦)、同年10月23日には第四部を設け、大教正田中頼庸を引受(管長)とした。

 また同日付けで黒住講社を神道黒住派、修成講社を神道修成派として別派特立を許可した。これらの一連の措置によって、教部省はその役割を終え、信教自由・政教分離論が台頭する中、十年一月にはその事務を内務省社寺局が継承することになるのである。

 なお、教部省時代の宗教政策については、かつて「日本型政教関係の形成過程」(井上順孝・阪本是丸共編著『日本型政教関係の誕生』、第一書房、昭和62年)で、やや詳細に触れたことがある。

 私の結論としては、明治初期における政府の宗教政策の基本は、仏教を排斥するものではなく、あくまでも啓蒙的専制主義とでもいうべきものであったと理解すべきである。

 無論、政府といっても、一枚岩ではなく、政府内部の力関係によって、当の宗教政策や行政が揺れ動いたことは事実である。

 実際、その「事実」を検証することなく、あたかも政府(国家)が明治維新以来、「直線的な神道国教化」政策を推進し、神祇官時代には「廃仏毀釈」、教部省時代には「信教自由・政教分離無視」の政策と行政を進めてきたかのような論が存在したのであるが、政府部内には「神道一辺倒」だけではない分子やグループも存在したのであり、それを考慮した考察が必要であろう。

 さらにいうならば、教部省時代の政策が仏教の「伝統的しきたり」を打破するものが多 かったことは事実であるが、それを「神道寄りの政策・行政」と一概に決め付けることはできない。

 例えば、明治五年三月二十七日の「女人結界廃止・登山参詣自由」や同年四月二十五日の「肉食妻帯蓄髪自由」、六月十二日の「神宮・神社、僧尼参詣自由」などの布告は、当時の「開化政策」を抜きにしては語れない。「宗教史」の観点だけでは限界があろう。

(2)国家祭祀制度関係
・明治五年三月十八日 元神祇省鎮座の天神地祇・八神を宮中に遷座 (当分の間、賢所御拝所に鎮座)。
・同年六月十二日 神宮・神社祭典への僧尼参詣許可。
・同年六月十八日 大祓再興、祓式制定(大正三年時とは相異あり)。
・同年十一月九日 太陰暦を太陽暦に変更、以後祭日等に影響す。
・同年十一月十五日 神武天皇即位日を祝日とし、祭典執行を布告(六年一月消滅)。
・同年十一月二十七日 宮中八神殿の天神地祗・八神両座を合併、神殿と称す。
・明治六年一月四日 祝日改定、五節供を廃し、神武天皇即位日・天長節を祝日とす。
・同年二月十五日 神宮を除き、官幣諸社祭典には式部寮官員参向せず地方官参向とす。
・同年三月七日 神武天皇即位日を紀元節と称す。
・同年三月 式部寮、官幣諸社官祭式制定。
・同年七月二十日 改暦により歴代皇霊・神宮以下諸社祭日及び祝日改定。
・明治八年三月 式部寮神社祭式制定、近代国家祭祀の雛型となったことは周知の通りである。


以下、おまけ。明治後期・大正期・昭和前期の神社関係法令等(抄出)

・明治三十九年 官国幣社経費に関する法律、府県社以下神社の神饌幣帛料供進に関する勅令
・明治四十年 神社祭式行事作法
・明治末年から大正初年にかけての神社合祀
・明治四十一年 皇室祭祀令
・明治四十二年 登極令
・明治四十五年 神宮神部署官制(三十三年の神部署官制を改正)
・大正元年 神官神職服制
・大正二年 神社の祭神・神社名・社格等に関する総合的法令、神職奉務規則、宗教局を文部省に移管
・大正三年 神宮祭祀令、官国幣社以下神社祭祀令、官国幣社以下神社祭式
・昭和三年 神宮大麻及暦頒布規程
・昭和七年 学生生徒児童の神社参拝
・昭和十四年 招魂社を護国神社と改称、掌典職官制
・昭和十五年 宗教団体法施行(制定は前年)、神祇院官制
・昭和二十年 神道指令、宗教法人令(二十一年二月「神社」追加)
・昭和二十一年 神社本庁設立、神社新報創刊(現在に至る)。(完)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月14日)からの転載です

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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4
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▽1 信長・秀吉・家康と神社

 織田信長、そして豊臣秀吉の出現によって、ようやく長い戦乱の時代にも「天下統一」による平和な社会への兆しが見え、日本の歴史は確実に新しい時代へと動きつつあった。いわゆる織豊時代は短期間ではあったが、それまでの中世的社会を大きく変換させ、約二百年にも亘る「封建時代」の幕開けを準備した時代であった。

 神道と神社の歴史も、織豊時代の到来によって一大画期を迎えた。

 このことについて、近代における「神道史学」を樹立したと評価される近代切っての神道史学者宮地直一は、「戦国の末期に出でて覇業を樹てし織田氏と、その後を承けて之を完成せし豊臣氏との二代は、その間三十年の短日月に過ぎざりしも、後に徳川氏の巧妙なる政策を産むに至らしめし準備の期に属し、その史上に於ける価値や甚だ軽からざるなり。」と述べている。

 次いで、信長、秀吉の伊勢神宮など神社に対する「敬神」の念があったことを指摘しつつも、秀吉が旧来の有力神社・社家の勢力を削ぐ政策を採ったことを、筑前・宗像社、肥後・阿蘇社を例に挙げて論じ、これを一種の「政教分離策」としている。

 そして、この「政教分離策」は土地制度の変革に明瞭に示され、「由来久しき庄園の制も亦事実上その終を告げて、近代の知行制度に地位を譲」ったことにより、旧来の社寺の政治的社会的勢力は大幅に低下することになったと宮地は述べている。(『神祇史綱要』明治書院、大正八年)

 信長、秀吉の出現によって、神社の制度は大きく変容を余儀なくされ、その実力は昔日の比ではなくなったのであるが、他方では神道・神社の新しい在り方を齎した。その象徴が「英雄」を祀る神社 (霊廟)の出現であり、豊国廟や東照宮※の創建・建立がそれである。

※幕末の慶応元年二月、孝明天皇は徳川家康三百五十回遠忌に際して奉幣され、宣命を認めておられる。その宣命には家康の功績を称え、「天皇朝廷が宝位動き無きこと・文教倍盛・武運長久」をお祈りになる文言が認められている。
 家康の式年の遠忌 (「祭礼乎修行」である!)ですら孝明天皇は大切にされたのであり、神武天皇以来の歴代に対する「追孝の叡慮」が皇霊祭祀として神式で執行されたとしても何ら不自然ではないだろう。

(1)豊国廟の建立と退転
慶長三年(1598) 豊臣秀吉死去。
同四年 方広寺東方阿弥陀雅峰西麓に廟所仮殿完成、遺骸を山頂に埋葬。廟所を方広寺の鎮守とし、後陽成天皇から「豊国大明神」と神位正一位を贈られる。
同九年 秀吉七回忌に際し、盛大な臨時大祭を執行。
※豊国社社務には吉田兼見、神主にはその孫萩原兼従が就任し、その弟梵舜は神宮寺の社僧となった。社領は一万石、社域は二十万坪と盛大・栄華を極めたが、元和元年(1615)に豊臣氏が滅亡してからは社殿の方広寺移転、社殿大破、修理不許などにより、明治維新に際して再興されるまで退転したままであった。

(2)東照宮の建立
元和二年(1616) 徳川家康死去。遺言により久能山に神葬、翌年「東照大権現」の神号が贈らる。次いで翌年日光山に社殿を造営、遺骸を日光山に移して正遷官を執行。
寛永十二年(1635) 家光により大造営が行われる。
正保二年(1645) 後光明天皇の宣旨により東照社を東照宮と改称。
同三年 臨時奉幣使が差遣され、以後「日光例幣使」として幕末に至る。
明暦元年(1655) 輪王寺宮門跡創設、後水尾天皇皇子尊敬(守澄)親王が上野と日光の門主として下向。以後、慶応三年の最後の宮門跡能久親王まで続いた。
※宮地直一は日光東照宮建立と家光の大造営の意義について、以下のように特筆大書している(前掲『神祇史綱要』)。
「そもそも本社の創立は平々坦々たる三百年の治下に於て、最も目醒ましき唯一の事件なり。山水の景勝と相俟ちて建築の秀麗華美を極めたる、朝幕の待遇の鄭重にして上下の畏敬したる、将たその経済上他に冠絶せる位置に居る等、之を何れの点よりするも他に比儔(人偏に壽)あるを見ざるなり。
 蓋しこの事たる豊國廟の故事に倣つて起り、秀吉の遺策をして果を結ばしめし感なきに非ずと雖も、かく全力を尽くして経営せられたる未曾有の壮観に対しては、自から人心も吸引せられ、諸侯も威圧せられしなるべく、以て三代将軍の敬虔なる真情に伴ふ政策の一端をも窺知するに足るものあるべし」


▽2 朝儀復興・神社政策をめぐる朝廷と幕府

 後陽成天皇から後水尾天皇 (上皇)の時代は、徳川幕府もようやく安定期に入り、天皇・朝廷との安定的関係を模索した時期であったが、それはあくまでも幕府主導による朝廷統制を主眼とする関係の構築であった。禁中並公家諸法度の制定はその具体的政策であった。

 幕府は二代将軍秀忠の女(むすめ)和子を後水尾天皇に入内させ女御・皇后としたが、後水尾天皇は未だ三十半ばの在位二十年足らずでその所生の興子内親王(明正天皇)に譲位し(寛永六年)、幕府(武家)の朝廷統制に対する抗議の意思を表明したことは良く知られている。

 しかし、 天皇の真意・意図はともかくとして、中世以来衰微していた天皇・朝廷が幕府の存在によつて安定したことは朝廷自身も認めざるを得ない事実であり、元和三年に徳川家康に「東照大権現」の神号を贈り、「天下昇平・海内静謐」を祈願した。

 以降、朝廷と幕府は持ちつ持たれつの関係で推移したが、結果的には天皇・朝廷の権威が幕府の権力を凌駕して明治維新に至ったことはいうまでもなかろう。

 いずれにせよ、以後の朝幕関係の推移を考える上で、八十五歳という当時としては稀な長寿を保った後水尾天皇(上皇)の存在意義は大きかったと言えよう。

 因みに、稀と言えば、後水尾天皇の皇子女のうち明正(第二皇女)・後光明(第四皇子)・後西(第人皇子)・霊元(第十九皇子)の四人の各天皇が即位しているというのも稀有であるが (通算在位約六十年)、いずれの天皇も文化・学芸に長じ、朝儀復興にも尽力していることは周知の事実であるが、ここでは省略に従う。

(1)禁中並公家諸法度の制定(元和元年。1615)
1条 天皇の務めは第一に学問をすること、
2条 親王の座位は太政大臣・左右大臣の下とすること、
3条 清華家の大臣辞任後の座位、
4条・5条 三公・摂関の任免、
6条 女縁養子の禁止、
7条 武家官位を公家当官の外とすること、
8条 改元のこと、
9条 天皇以下公家の礼服のこと、
10条 公家諸家の昇進のこと、
11条 公家の罪刑のこと、
12条 名例律による罪の軽重のこと、
13条 摂家・宮門跡の座位、
14条・15条 僧正・門跡等の叙任、
16条 紫衣勅許の制限、
17条 上人号の制限
一 天子御藝能之事。第一御學問也。不學則不明古道。而能致太平者未有之也。貞観政要明文也。寛平遺誡雖不究経史。可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶。雖為綺語。我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄。御修學専要侯事。

(2)後水尾天皇(上皇)と「敬神」
一、敬紳は第一にあそはし候事候條、努々をろそかなるましく候、禁秘抄発端の御詞にも、凡禁中作法、先神事、後に他事、旦暮敬神之叡慮無解怠と被遊候歟、佛法又用明天皇信しそめさせ給候やうに、日本紀にも見え候へは、すておかれたく候 (「後水尾上皇宸筆教訓書」)
一、禁中は敬神第一の御事侯へは、毎朝の御拝、御私の御懈怠、且以不可有之事 (同上)
※後水尾天皇は、慶長元年(1596)に後陽成天皇の第三皇子として誕生。同十六年(1611)即位、寛永六年(1629)紫衣事件を契機に譲位し、明正天皇(女帝・第二皇女)が即位。同二十年、後光明天皇即位 (第三皇子)、明暦二年(1656)後西天皇即位(第七皇子)、寛文三年 (1663)霊元天皇即位 (第十八皇子)、延宝八年(1680)崩御。

『後水尾院当時年中行事』
「順徳院の禁秘抄、後醍醐院の仮名年中行事などいひて、禁中のことどもかかせ給へるものあり。 寔(まこと)に末の亀鑑也。
 されど此頃のありさまに符合せず。其ゆゑいかなれば、世くだり時うつり、且は應仁の乱より諸國の武士おのれおのれ力をあらそひて、社領、寺領、公私の所領を押領する事、かぞふるにいとまあらず。
 これより此方、宮中日々に零落して、ことごとく保元建武のむかしに似るべくもあらず。……御禊大嘗會其外の諸公事も次第に絶えて、今はあともなきが如くになれば、再興するにたよりなし。
 何事も見るがうちにかはり行く末の世なれば、せめて衰微の世のたたずまひをだに、うしなはでこそあらまほしきに、それだに亦おぼつかなくなりもてゆかん事のなげかしければ、見て知り、聞きて知る人の、たどたどしき事にはあらねど、思ひ出づるにしたがひて、書きつけ侍りぬ。うとき人には、ゆめゆめ見せしむまじきものにこそ。」(序)
「四月朔日……此月諸社の祭多けれど、今は然せる神事も無し。後奈良院御記天文の頃等迄は、日吉の祭の神事なり等見えたれど、此頃は紳事の沙汰も無し。賀茂の祭の日は社司共葵を献ず。葵七葉を連ねて、桂の枝に付けて簾の壺に挿す也。一?に二處づつ懸くるなり。
 五月八日 今宮の祭なれば、安家物忌の符を進上す。
 六月七日 祇園會なれば安家の物忌の符を進上す。」(上)
「一 禁秘抄賢所云、白地以神宮並内侍所方不為御跡云々。今以堅守らるる一ヶ條也。
 一 佛神に供したる物参らず。」(下)

(3)中絶祭祀の再興
正保四年(1647) 伊勢例幣使再興(前年に日光例幣使)
延宝七年(1679) 石清水社放生会再興
貞享四年(1687) 東山天皇大嘗祭再興(次の中御門天皇は不執行)
元禄七年(1694) 賀茂祭再興
元文三年(1738) 桜町天皇大嘗祭、以後、今上天皇に至る。
同五年(1740) 天皇親祭新嘗祭
延享元年(1744) 上七社(伊勢・石清水・賀茂下上。松尾・平野・稲荷・春日)奉幣再興、宇佐・香椎奉幣再興

(4)諸社蒲宜神主法度の制定(寛文五年。1665)
一 諸社之禰宜神主等、専学神祇道、所其敬之神体、弥可存知之、有来神事祭礼弥可勤之、向後於令怠慢者、可取放神職事
一 社家位階従前々以伝奏遂昇進輩者、弥可為其通事
一 無位之社人、可着白張、其外之装東者、以吉田之許状可着事
一 神領一切不可売買事 附、不可于質物事
一 神社小破之時、其相応常々可加修理事、附、神社無懈怠掃除可申付事
 右条々可堅守之、若違犯之輩於有之者、随科之軽重可沙汰者也


▽3 吉田家の神社・神職支配

 室町時代末期の吉田兼倶以来、吉田家は神祇伯家白川家と共に「神祇道の家元・神祇管領長上」として明治維新まで全国の神社の上に君臨した。殊に、上記「諸社禰宜神主法度」の発布以降、その勢力を増大させ、しばしば白川家と争った。

 吉田家はその神道思想や活動をめぐって近世には毀誉褒貶の著しい家であるが、全国各地の神社・神主を天皇・朝廷と結び、天皇尊崇の念を普及させた功績は大いに評価されて然るべきであろう。

(1)神道裁許状・宗源宣旨
・武州入間郡川越村氷川明神之禰宜山田丹後掾久次 恒例之神事参勤之時 可着風折烏帽子狩衣者 神道裁許之状如件
  寛文元辛丑年間八月十九日
神道管領長上卜部朝臣兼連
・宗源 宣旨
 正一位氷川明神
     武州入間郡川越町
右奉授極位者 神宣之啓状如件
  享保元年八月十六日 神部伊岐宿禰宜
神祇道管領勾当長上従二位卜部朝臣兼敬
・武蔵国一宮氷川大明神之巫女墨田 恒例之神事神楽等勤仕之時 可着舞衣者 神道裁許之状如件
  延宝四年五月廿二日
神祗長上

(2)吉国家執奏による天皇宣旨
・延宝四年、氷川女体社神主武笠豊良に風折烏帽子・狩衣の裁許状
・宝永三年、嘉隆が東山天皇より従五位下、丹波守の宣旨を受けている。
・武州足立郡氷川神社之神主佐伯嘉隆 今度丹波守従五位下 勅許 冥加之至也 弥国家安泰之御祈祷不可有怠慢者 神道啓状如件
  宝永三年四月三日
    神祗道管領長上従二位卜部朝臣
・宝永三年四月九日付けで、嘉隆は吉田家家老に宛てて「今度以御執 奏 丹波守従五位下首尾能 勅許 冥加之至奉存候」と御礼言上している。

(3)吉国家以外の公家による執奏
・全国の神社の多くは吉田家や白川家の支配下にあったが、これ以外の有力大社など少数の神社は諸公家が執奏していた。例えば、宇佐八幡宮は鳥丸家、石清水八幡宮は廣橋家、出雲大社は柳原家、香取神宮は一条家など (『雲上便覧大全』、慶応四年)。
 しかし、明治維新に際して新政府の神祇事務局は慶応四年(明治元年)三月十八日「神社執奏支配之儀自今於神祇事務局取扱被 仰出候間執奏之儀被止候事 但神宮賀茂伝奏此迄通之事」と達し、同十九日には諸公家に対し「是迄諸神社執奏被成来之御家来より其社名御書記し来る二十二日限り弁事局へ御申達被下度事 但別当之神社も不洩様御申達被申候事」と達した。これによって、吉田家等による全国の社寺支配は終止符を打ち、神仏分離政策とともに近世の神社制度は崩壊したのであった。

(4)幕末期神社における「神仏併存」状態
・石清水八幡宮、北野天満宮等の宮寺は勿論の事、近世の多くの神社は所謂「神仏習合」の形態・状況にあり、多くの神社に神宮寺等があって別当・社僧なども奉仕していた。
 明治元年十月に明治天皇が行幸・親祭された武蔵一宮氷川神社も同様で、元禄頃には岩井、東角井・西角井の社家の他に、一寺四院(観音寺・大聖院・愛染院・宝積院・常楽院)があり、社領は300石であった。
 その内訳は、125石が修理料、40石が本地堂灯明料、75石が社家(25石づつ)、60石が供僧(観音寺20石、他は10石づつ)であった。
 因みに、石清水社の「神号」は「八幡大菩薩」が一般的であったが、社名に関しては「石清水八幡宮」と記される場合もあった。
※京都廬山寺蔵の後伏見天皇の元亨元年十月四日の石清水社への「宸筆御願文案」には、「かけまくもかしこきいはし水のくわう(皇)」大神のひろまへに、おそれみおそれみも申したまはくと申、胤仁わが神ながれをうけて、あまつ日つぎいまにたへず、そ(祖)王のしやうちやく(正嫡)として」云々とある。
「神が主、仏が従」であることは歴代天皇の「大御心」としての大原則であり、まず七社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日)が先であり、七寺(仁和寺・東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺・東寺・広隆寺)が後なのである。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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「現神」としての歴代天皇の敬神 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月11日)からの転載です

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「現神」としての歴代天皇の敬神 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 3
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▽1 もしも神仏判然令がなかったら

 約百五十年前の明治維新によって日本の政治・経済・社会・文化・宗教などあらゆる分野・側面で大きな変革がなされたことは疑間の余地がない。それは我が神社や神道にとっても例外ではないことは今更いうまでもない。

 だが、だからといって近世と近代は切断されて非連続の日本の国家・社会が出来上がったというわけでは勿論ない。

 確かに、神社から仏教的要素が消滅し、別当や社僧などの僧形奉仕者もいなくなるなど、一見するところ、明治維新以前と以後では神社の形態ひとつ取っても大きな断絶があるようにと思える。

 歴史にもしもは禁物とされるが、もしも明治初年の神仏判然令が新政府から出されていなければ、今のような神社の姿でなかったと考えることは可能であろう。だが、問題とすべきは、神仏判然・神仏分離は何も神社から仏教的要素さえ排除すれば足りるといった単純な理由から行われただけのものなのか、ということである。

 もしそうであるならば、明治維新以降昭和二十年までの神社の国家管理時代は消滅したのだから、一私法人たる宗教法人として明治維新以前の姿に戻ることは可能であるし、そうしたいのならすれば良いだけの話である。

 かく言えば、身も蓋もないような話に聞こえるかもしれないが、それで良いのだという人には、恐れ多くも天皇・皇室もそうなさるべきだと言うべきだろう。


▽2 「百二十代」と記された光格天皇の宸翰

 前近代の天皇・皇室が神仏ともに大事にされたことは常識に属するが、だからといって、それを神仏習合であり、まして神仏混清の状態が当たり前とされていたわけではなかろう。

 今の皇室に直接繋がり、しかも「譲位」をなされた最後の天皇である光格天皇も「何分自身を後にし、天下萬民を先とし、仁慈・誠仁の心、朝夕昼夜に不忘却時は、神も佛も、御加護を垂給事」、あるいは「神も佛も大慈悲の御事」云々と認められており、あたかも神仏同等に敬する叡慮であるように見える (寛政十一年七月二十八日「後櫻町天皇の御教訓に奉答の宸翰御消息」)。

 しかしその全文を読むならば、「か様に大めで度事有之候も、ひとへに神々の御加護」、「敬神・正直・仁慈を第一にいたし候へば、何事も安穏の道理に候」とある。

 また別の「後櫻町天皇の御教訓に奉答の宸翰御消息」には、「扨賀茂臨時祭の事に付、……此議私十六七歳の時より、臨時の祭、再興いたし度物と、兼々申居候事にて候、賀茂再興候へば、石清水も同事に候、……所司代も上り候うへ、ゆるゆると談じ候はば、外之事とちがいちがい、宗廟敬紳の事候へば、いかやふとも、申方有之べき義と存じまいらせ候」などとある。

 このように、既に賀茂社、石清水社の恒例祭祀再興がされてはいても、平安時代以来の 伝統ある両社の臨時祭再興をも念じておられる (詳細は「賀茂石清水雨社臨時祭御再興の宸翰御趣意書」に認められており、それには自分が即位出来たのも「誠に神明・社稷の擁護蔭福なり。然らば則ち偏に神事を再興するを以て先務と為す」とある。またその最後には「百二十代 (御花押)」とある。)。


▽3 皇祖皇宗の末裔としての自覚

 以上ざっと記したように、前近代の天皇・朝廷が神仏共に敬されたことは事実であるが、それは決して同等でもなければ、況や神仏習合・神仏混清と呼べるようなものではない。

 神武天皇以来百二十代であるという光格天皇の自覚が必然的に「敬神」の念の具現である祭祀の最重要性を齎したのであり、それは歴代天皇による日本の国柄 (国体)の再確認の産物でもあった。

 その近世の端緒ともいうべきが後陽成天皇であり、近世における文芸復興の先駆けとなった天皇であったことは良く知られている事実であり、『日本書紀』など所謂慶長勅版の刊行もその証左である。

 前にも触れたように、その後陽成天皇もさまざまな震翰に「従神武百數代末孫和仁」、 「従神武天皇百數代末孫太上天皇」と宸翰等に認めておられるように、自分は皇祖皇宗の末裔としての天皇であるとの意識が強烈に存したのである。

 この意識があればこそ、前記したように後代の光格天皇が「百二十代」と記されたのである (因みに、現在では光格天皇は第百十九代の天皇であるが、当時は『本朝皇胤紹胤録』などで神武天皇以来第百二十代の天皇とされていた)。

 こうした神武天皇以来の「現神」として日本の国をしろしめすのが「祭」であり「政」であるとの信念は脈々と継承されて、幕末維新期の孝明天皇、明治天皇へと至るのである。

 故に、近代の国家祭祀の形成・構築もこの歴史を抜きにしては語れないのであるが、その詳細な過程についてはここでは省略する。


▽4 近世における神道研究の成果

 やや唐突かつ端的に言うならば、古代の神道 (だけではないが)の基本的史料・丈献が存在し、またそれを巧究する人物がいなければ現代の神道に関する研究も有り得なかった、とまでは言わないが、その進展ははるかに時間がかかっていただろう。

 この意味を余りにも無視している、というより考えもしない研究者が少なからず存在する。要するに、現代の神道研究も、そして現代の「神社」や「祭祀」があるのも近世があってこそ、という簡単な歴史的事実が蔑ろにされているのではないのか。

 例えば、以下のように自問したとき、どのような自答が出来るだろうか。

[思想面]本居宣長がいなかったら、『古事記』は今のように親しみある古典として存在していたであろうか。

[制度面]現代でも神社本庁が神社祭祀で最も重要な恒例の大祭と規定している例祭・祈年祭・新嘗祭の原型が古代にあるとしても(神祇官の職掌・神祇令の規定・延喜式等の細則)、 それが大事であることを認識し、後世の人々にも認識させた史料・資料は何時の時代の誰によって「共通の史料・資料」として今日に残されていたのだろうか。

 以上の仕事を成し遂げ、我々にその成果を残してくれた時代は「近世」であり、その時代に生きた様々な人々の「御蔭」なのである。

 無論、それらも中世以前の人々の努力の結晶があればこそであるが、中世から近世への転換には一朝にしてそれを破壊することも可能であった時代があったことは忘れるべきではない。

 その忘れてはならないことを自覚し、それを「当時」に活かすことに努力した人々がいた時代、それが「近世」なのである。

 明治維新以来の神道もこれを抜きにしては語れない。以下は、「近世」における神道に係るほんのスケッチであるが、少しは参考に供するものと思慮して敢えて備忘として記したものである。


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。

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民のために祈られた歴代天皇の「大御心」 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月10日)からの転載です

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民のために祈られた歴代天皇の「大御心」 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 2
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▽1 今上陛下「国民の安寧と幸せを祈る」

 今上陛下は、「祈り」について次のように語られている。以下は平成28年8月 8日の「おことば」よリー部抜粋したものである。

「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、 人々とともに過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては時として人の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。
 こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。
 皇太子時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、 その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」


▽2 皇太子殿下「国民を思い、国民のために祈る」

 次に、皇太子殿下が平成29年2月21日の「お誕生日に際し」て記者会見で語られたお言葉から一部抜粋する。

「象徴天皇については、陛下が繰り返し述べられていますように、また私自身もこれまで何度かお話ししたように、過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして日本国民統合の象徴であるという憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。
 陛下は、おことばのなかで、「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。
 私も、阪神淡路大震災や東日本大震災が発生した折には、雅子と共に数度にわたり被災地を訪れ、被災された方々から直接、大切な人を失った悲しみや生活面での御苦労などについて伺いました。
 とても心の痛むことでしたが、少しでも被災された方々の痛みに思いを寄せることができたのであればと願っています。
 また、ふだんの公務などでも国民の皆さんとお話をする機会が折々にありますが、そうした機会を通じ、直接国民と接することの大切さを実感しております。
 このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。
 昨年(平成28年)の8月、私は、愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に、戦国時代の16世紀中頃のことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。……
 私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下が、まさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむということを続けていきたいと思います。
 私がこの後奈良天皇の宸翰を拝見したのは、8月 8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが、図らずも、2日続けて、天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。」

 上記引用文からも理解されるように、天皇陛下・皇太子殿下ともども、天皇の第一の務めは、「国民の安寧と幸せを祈る」ことにあることを強調されている。そして、そのお気持ち──国民の安寧と幸せを祈ること──は歴代天皇もみな同じであったと認識されているのである。


▽3 祈りは祭祀として執行される

 このお気持ちが歴代を通じての「大御心」であることは言うまでもない。ただ、ここで考うべきは、その祈りの発露・具現化する形態如何、ではないのか。

「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」は、単に被災地や地方への実情視察を通してのことだけを意味しているのではなく、その祈りはまず第一に皇祖皇宗をはじめとする天神地祇の神々に対する祈願・報謝の祭祀として執行されている、と解すべきではないだろうか。

 かく言えば、それは神道人・神社人だからそう手前勝手に解釈しているだけのこと、との批判 (非難)も当然あろう。だが、それが的外れであることは現実的にも歴史的にも明らかである。

 齢八十を超えられた天皇が今なお明治四十一年に制定された皇室祭祀令に則った祭祀・祭儀において親祭あるいは出御・拝礼されていることは周知の通りであろう。この祭祀の執行こそが天皇の祈りの具現化の主柱であり(「祭」)、その祈りの社会的具現化が広義の「政」(しろしめす。しらす。きこしめす) なのである。

 今どき、「祭政一致」などといえば時代錯誤との謗りもあろうが、「国政」のみが「政事 (まつりごと)」ではなく、まさしく「時として人の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なこと」という「おことば」こそが「しらすこと」であり、「きこしめすこと」なのである。これを「祭政一致」と称したからといって、何ら不都合はない。


▽4 國の力の衰微を思ふ故なり

 皇太子殿下も引いておられる後奈良天皇にしても、単に「都をはなれることがかなわなかった」から飢饉等で苦しむ人民のために般若心経を書写されて諸国の一宮などの神社・寺院に奉納されたわけではない。

 そもそも大永六年(1526)の践詐以来、即位式、大嘗祭の執行もままならぬ政治・社会情勢である時代を憂えられてのことからであった。そのことは、天文十四年八月の後奈良天皇宸筆宣命案を一読すれば了解されることであ る。

 宣命案の冒頭部分に「掛けまくも畏き伊勢太神宮に、恐み恐みも申さく」とあり、そ の内容は「天皇は大永六年践詐の後、十年を経て、天文五年に即位の式は挙げさせ給うたが、その後更に十年を経て、同十四年に至るも、未だ大嘗會を行はせ給ふこと能はざるを遺憾とし給ひ、これを大神宮に謝せられた宣命案である。

 御文中に敢て怠れるに非ず、國の力の衰微を思ふ故なりと仰せられて、民の疲弊を珍念あらせられ、また下剋上の心盛にして、暴悪の凶族所を得、國の守護たる武士の恣に御料所を押領し、為に諸社の神事も退転し、諸王諸臣も衰微せるを慨かせられ、偏に神明の加護に依つて、祈願成就、宝祚長久、併せて大嘗會の遂行を祈らせ給うたのである。」というものである (帝国学士院編『宸翰英華』第一冊、昭和十九年)。

 なお、宣命案の末尾には、「上下和睦し、民戸豊饒に、弥宝祚長久に、所願速に成就することを得しめて神冥納受を垂給へと恐み恐みも申」とある。


▽5 天皇の祈りを具現化する制度

 周知のように、二代前の後上御門天皇の大嘗祭執行以後、先代の後柏原天皇及びこの御奈良天皇と大嘗祭執行が叶わぬ政治的社会的情勢が到来し、大嘗祭の再興ははるか後世の貞享の東山天皇の時代を俟たなければならなかった。後奈良天皇から数えても正親町、後陽成、後水尾、明正、後光明、後西、霊元の各天皇は、大嘗祭は執行するを得なかったのである。

 しかし、この後奈良天皇の宣命案に示される「祈り」の具現化としての祭儀再興への歴代のお気持ちは変ることなく継承され、結果的には現代の皇室祭祀へと繋がるのである。

 歴代天皇の祈りとその具現化への長い道程を、今こそ今上陛下及び皇太子殿下の「おことば」などから我々は思い、考えるべきだろう。

 ここで、やや早急に結論的なことを述べておく。

 それは、幕末維新期から明治・大正期に至る近代日本の国家的祭祀制度は、前記後奈良天皇に象徴される歴代天皇の国家・国民の安寧を祈られるお気持ちと行動を徐々に、しかし着実に君民が継承し、構築されていったものであり、ひとり古来の神宮や特定の皇室ゆかりの神社だけでなく、全国に鎮座するあらゆる神社をも対象とする天皇の祈りの具現化としての神社祭祀の制度化によって「天皇の祈りと天皇への祈りの場」が実現されたのでては、ということである。

 そして、その制度を形成した基盤・背景には、さまざまな思想・イデオロギーが鬩ぎ合ひながらあるべき制度実現に向けてのさまざま運動(闘争も含む)があった(幕末維新期の国学者にしても多様な「祭政一致」観があった)。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。

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